第3話 隣の世界
今日は少し、俺の友達の話をしようと思う。
俺には子供の頃から仲の良い友達がいて、仮にこいつの名前をSとする。
Sはいつもはごく普通の気のいい奴なんだが、オカルト関係の話になると人が変わるくらいのめり込んでいた。
オカルトに関係する本とかグッズは何でも集めていたし、そういうテレビ番組や映画なんかも好んでよく見ている。
さらに俺にはよく分からないが、最近は特に異世界に興味を持っていたらしい。
ネットや本などから様々な情報を集めていたSは、それらについて俺にとても楽しそうに話をしてくれる。
だがどうせそんなものは他愛もない作り話だと思っていた俺は、いつも話半分に聞くだけに留めていた。
それでもついこの前に聞いた話、それだけはどこかこれまでとは何かが違う。
うまく言葉では言い表せないが、今まで感じた事もないような不思議な感覚がしたのも事実だった。
Sからその話を聞いたのは休み時間で、場所も教室の中という何の変哲もない場所に過ぎない。
それは傍から見れば単にクラスメイトと話をしているだけで、実際にそうでしかないはずだった。
でもSと真正面から向き合い、その顔を見ながら話を聞く俺からすれば逆に違和感しかない。
話をするSはそれくらい熱心で、あまりに血走った目などは怖いくらいだった。
もしもいつも通りのオカルト話なら時々茶々を入れたり、気軽に否定や反論もできる。
ただその時だけはあいつの雰囲気や態度に呑まれ、笑い飛ばす事さえ難しくなっていた。
Sはそんな俺に構わず、あくまで自分のペースで話を続けていく。
前置きをいくらか聞き逃してしまったようだが、それはどうやら隣の世界に行く方法らしい。
常日頃からSの話を聞いていた俺にはある程度の知識があったが、隣の世界といってもピンとこない人もいるだろう。
まぁ俺も完全に理解している訳でなく、全てを信じているという事でもない。
ただSが言うには俺達が暮らす世界は一つではなく、いくつも普遍的に存在しているという事だった。
それらは平行世界と呼ばれ、その数は人間では知覚できない程に多いらしい。
どうしてそんなにあるのかとSに聞いた事があったが、その時にはこんな答えが返ってきた。
「平行世界は、人の選択肢の数だけ増えていく」
Sからそれを聞いた時にはそんな馬鹿なと思い、特に真面目に取り合う気もなかった。
しかしSからはそれから幾度も似たような話を聞かされ、結局は大抵の事を自然に覚えてしまう。
Sの話を統合すると、どうやらこういう仕組みになっているようだった。
人間は生きていれば常に何らかの選択に迫られ、その度に最終的に一つの答えを導き出す。
だがその時に選ばれなかった選択肢もそこでなくなる訳ではなく、その先にあったはずの未来や世界が確かに存在している。
つまりこの瞬間にも世界は枝葉のように無数に分かれ、全てが今いる世界と同時に存在しているらしい。
そんな平行世界の中にはこの世界とよく似通ったものもあれば、世界を支配する法則からしてまるで違うものすら存在しているようだった。
Sの説明通りならそれが平行世界というものだが、自分で調べた訳ではないから本当の事は分からない。
まぁそもそも俺は信じているかどうかあやふやなのだが、Sの方はどうも完全に信じ切っているみたいだった。
身振り手振りを交えながら話す様は陶酔し切っているかのようで、見ているとこいつは大丈夫なのかという気にすらなってくる。
一方でSはそんな俺の視線などは気にする素振りもなく、身を乗り出すとさらに鼻息を荒くしてきた。
「実はこの間、隣の世界に行く方法を教えてもらったんだ」
「はぁ?」
あまりに頓珍漢な事を言われると、少しはSの話に慣れていた俺も思わず閉口してしまう。
それからも胡散臭そうに応じる俺に構わず、Sはそれが絶対の事実であるかのように話を進めていく。
片や俺は反論する気すら起きず、Sが話す様をただぼうっと眺め続けていた。
Sが言うには隣の世界とやらに行くには、まず夢を利用するらしい。
夢といっても将来の夢などではなく、寝ている時に見る夢を使ってこことは違う世界へ旅立つそうだ。
加えてSは何やら難しい単語や説明などをいくつも挟んでいたが、それらに関しては正直よく覚えていない。
何しろ話を聞くだけでぐったりとしていたせいで、肝心な部分は多くを聞き逃していたからだ。
どうせSの話をきちんと理解できた所で、俺の生活や将来に何の影響もない。
ただでさえ貴重な休み時間を浪費しているのに、これ以上の負担はご免だ。
特に言葉や態度には示さないがそう思っていた俺は、その時はただ適当に相槌を打つばかりだった。
しかし今から考えると、この時にもっとちゃんと話を聞いておけば良かったかもしれない。
そうすれば、少なくともあんな事には……。
いや、話を元に戻そう。
どうやらSによれば、夢には平行世界同士を繋ぐ力があるらしい。
「夢とは単なる幻想にあらず。この世であって、この世でない。そんな、摩訶不思議な空間なり」
Sはまるで映画かゲームに出てくる登場人物のように大仰に語り、その瞳を燃え盛る炎のように爛々と輝かせている。
ただその目の下には濃く大きなくまが刻まれ、よく見ると顔色も大分悪くなっていた。
それでもはしゃぐように語るSは非常に活発的で、ちぐはぐな様子を見ていると寒気さえ感じてしまう。
以降もSの口は止まる気配がなく、今度は具体的に夢の中でどうすればいいのかを話し始めていった。
Sが言うには夢を見る事ができたら、それがどんな内容であろうと人を探すとの事だった。
目的の人物は全身を黒い装束で覆い、年齢や性別などはまるで分からないらしい。
それでも必ず夢のどこかにおり、何かを常に監視しているとの事だった。
Sはそれを夢の管理者と呼び、そいつを見つけたら目の前で特別な言葉を告げると言う。
「隣の世界に行きたい。なので、管理者の扉を使わせてくれないか」
だがそう言うと、管理者は何故か突然怒り出すらしい。
そして日本語とも外国語とも違う聞き慣れぬ言語をまくし立て、凄まじい剣幕で追い返そうとしてくるようだ。
ただそこで怯んではならず、間髪入れずに追加で特別な言葉を告げる必要がある。
「扉を開く鍵は身の内に。ここに我おり、隣に我あり。定めの枠を超え、調和を乱すために。赤は紫、青は黒、緑は紺碧。続く者さえ現れない。これこそ偉大な道なのだろう」
それはやたら長ったらしい上に、Sの言い方も非常に芝居がかっていた。
しかしここまでうまくいけば、管理者は自然と大人しくなっていくらしい。
そしてそうなると、管理者は無言でどこかを指し示すそうだ。
夢は人によって内容がまるで違うものだが、どんな夢でもそこには現実同様に何かしらの物が必ず配置されている。
だが管理者が指差す先だけは何も存在しない虚無となっており、白い空間が広がるだけとなっているらしい。
その先はどこまで続いているのか分からず、終わりがないとさえ思える。
それでもそちらへ向けてひたすら、先へ先へと進み続ける必要があるそうだ。
やがてどれだけ進んだかも分からなくなってきた頃、眩く光る扉のようなものがいきなり現れる。
鍵もかかっておらず、開ける必要すらないそれを抜けると遂に隣の世界へ辿り着く事ができるそうだ。
Sはひとしきり語り終えると満足気に一息つき、何か飲み物を買ってくると席を立つ。
その間に俺は聞いた話について考え込んでいたが、やはり作り話だろうという感想しか思いつかない。
聞く限りではSはかなりのめり込んでいるのだろうし、真剣に語る姿にはどこか迫力もあった。
だが所詮は都市伝説のようなもので、何の確証もないのだから考えても時間の無駄でしかない。
そう思うとこれまで無為に過ごした時間が急に惜しく思えてきて、普段はする事のない次の授業の準備へと取り掛かっていったのだった。
そしてその後は何事もなく時は流れ、やがて放課後になる。
俺もSも部活には所属していないのですぐに帰途につき、途中の分かれ道でまた明日と言って別れていった。
その時のSはまだオカルト関係の話をいくつもして、変ではあるがあくまでいつも通りに見える。
特に悩みや問題を抱えているという風でもなく、むしろこれから様々な事に挑戦しようという気概すら感じられた。
その挑戦的な野心は見た目通りの若々しさに溢れ、これから先の未来へ力強く羽ばたこうとしている。
黄金色に輝く夕陽を浴びる姿からは、そんな熱気のようなものが感じ取れて仕方ない。
だから俺も特に心配や杞憂などせず、自宅に帰るとSの話もすぐに忘却の彼方へ追いやっていった。
しかしその次の日、Sは学校に来なかった。
その時はたまたま風邪でも引いたのかと思い、俺も特に気にしない。
するとその次の日も、Sは学校に来なかった。
担任にそれとなく聞くと、体調が悪いために家で休んでいるらしい。
もしかしたらインフルエンザか何かにかかったのかと思い、休み時間にメールでも送ってみる。
だが放課後になっても返信の一つもなく、さすがに少しおかしく思うようになった。
その後に駄目元で電話をかけてもまるで繋がらず、心中ではやたらと不安ばかりが募ってくる。
時刻もとうに夕方を過ぎており、身支度を整えた俺はすぐにSの家へと向かっていった。
Sの家は閑静な住宅街の中にある一戸建てで、外から眺めた分には特に異変は見当たらない。
それとなく敷地内へ目をやると車は停まっておらず、どうやら共働きの両親はまだどちらも帰宅していないようだった。
そうするとSは体調が悪いにも関わらず、一人で苦労しているのかもしれない。
初めはSの無事な様子を見られたらすぐに帰るつもりだったが、何か手伝える事があったら手を貸した方がいいとも思った。
そういえばこういう時は、見舞いの品でも持ってきた方が良かったのだろうか。
いざ家の前にやって来ると余計な考えばかり頭をよぎるが、まずはとにかくインターホンを押してみる。
そしてその場でしばらく待つが、いくら経ってもまるで応答がない。
しばし迷ったが、俺は仕方なくドアに顔を近づけて中の様子を探ろうとする。
ただそこでは誰かが動く気配はもちろん、テレビなどの家電が発する微かな音すら聞こえてこない。
窓からも家の中を覗き込んでみるが、カーテンが締め切られた内部は真っ暗で何も見通せなかった。
すでに空も段々と黒さを増しつつあるというのに、どの部屋にも明かりはつけられていない。
周りでは近所の家の明かりがぽつぽつとつき始めているが、Sの家だけが取り残されたように暗いままとなっている。
白い外壁や鮮やかな色のカーテンなど、その家の全ては次第に濃さを増す暗闇に同化しながら呑み込まれていくかのようだった。
「……」
もしかしたらSは寝ているだけで、明かりもそのせいでつけていないのかもしれない。
一時はそう思ったが何故かその瞬間、俺の背筋を薄ら寒い感覚が走っていった。
その後にもう何度かインターホンを押してみるが、相変わらず応答はない。
これ以上待っても迷惑をかけるだけかもしれないし、その場は諦めると踵を返す。
明日は丁度休みの日だし、明るくなってからまた出直せばいい。
Sもちょっと前まであんなに元気だったんだし、病気だってそんなに重いものじゃないはずだ。
むしろSの事だから病気を口実に学校を休んで、好きなオカルトや怪談に時間も忘れてのめり込んでいるのかもしれない。
いや、やはりというかほぼ確実にそうなのだろう。
だからこそSはメールや電話にも応じず、明かりをつけるのも忘れて俺の訪問にも気付かなかったに違いない。
半ば自分を強引に納得させると、俺は少し気が楽になって帰途へとつく。
普段はさして気にも留めていないが、何故かその時だけは辺りに人気がなかったのをやけに覚えている。
そしてこれも気のせいなのだろうが帰る途中に誰かの視線を感じ、その度に振り返る事が何度もあった。
しかしそうした所で周りには人っ子一人おらず、静まり返った無音の世界が広がるばかりとなっている。
そこは子供の頃から通り慣れた道だというのに、その時は見知らぬ世界に一人だけ取り残されたような気分に陥っていた。
その翌日、俺は再びSの家へと赴いてみる。
敷地内を見れば昨日はなかった車が停められており、今日は親がちゃんといるらしい。
次に玄関のインターホンを鳴らすと、少し待ってからドアが開く。
だが姿を現したSの母親は非常に疲れ切り、俺の顔を見た途端にいきなり泣き崩れていった。
俺は予期せぬ展開に動揺するしかなかったが、ひとまず母親に声をかけると落ち着かせようとする。
すると母親もまだ浮かない顔をしていたが、平静を取り戻すと俺を家へ上げてくれる。
客間に通された後はそれとなく話を聞いてみたが、どうやら母親が取り乱した理由はSにあるようだった。
俺は出された茶や菓子に手をつける事も忘れ、それからすぐにSの事を尋ねてみる。
ただ正面に座って顔を俯かせる母親は、不安そうに目や体を震わせるばかりでなかなか話そうとはしなかった。
もしかしたら世間体などを気にしているのかもしれないが、そんな事は俺には関係ない。
これもSのためだと説得を続けると、やがて母親も踏ん切りがついたのか少しずつ重い口を開いていった。
母親が言うにはSは親の目から見ても手がかからず、真面目で人を思いやる良い子だったらしい。
しかしそれがここ数日で明らかにおかしくなり、気が狂ったように暴れ出すようになったそうだ。
部屋にある物は片っ端から放り投げられ、すでに部屋の中はおもちゃ箱をひっくり返したかのように滅茶苦茶になっているらしい。
一方でSがそこまで変貌した原因については、自分も夫も思い当たる節がないと母親は呟く。
そのためにひとまずは様子を見ようという事になったのだが、そうすると今度はSが何の脈絡もなく笑い出す事が増えていったそうだ。
何がおかしいのか頻繁に続けられる笑いは尋常ではなく、何とか話し合おうとしても決して笑いを止める事はなかったらしい。
それから日を跨いでも、Sの情緒不安定な状態はまるで改善の兆しを見せなかった。
仕方なく病院に連れていこうとしても、頑として部屋の中から出ようとしない。
それどころか家族に対しても警戒するような態度で、一言も口を利いてくれないそうだ。
ただ不気味な笑いだけは健在なままで、朝から深夜まで不定期に続けられているらしい。
「こんな事は誰にも言えず、学校も体調不良で休ませてもらっているの……」
ハンカチで口の辺りを抑えた母親は、終いにはすすり泣くように涙を流し出す。
それを見ているともうこれ以上、嘆く母親から話を聞くのは酷ではないかと思えてくる。
加えてその時の俺には、何か心に強く引っかかるものを感じていた。
Sの様子がおかしくなったのは、確か数日前……。
まさかあの日、Sが話していた事が関係しているのだろうか。
聞いていた時にはまるで信じられなかった、あの都市伝説のような話が……。
俺は頭の中ではその思いつきを否定していたが、まさかという疑惑はいつまで経っても消える事はない。
どうせこのまま考えを巡らせていても不毛でしかないのは明らかで、そう思った次の瞬間には意識するより早く立ち上がる。
そしてまだ涙を流しているSの母親に一言告げると、客間を後にして階段の方へと向かっていった。
Sの家にはこれまでに何度か来た事があり、その間取りはすでに把握している。
二階にあるSの部屋の場所も分かっており、俺はそこへ向けて迷いもなく進んでいく。
「……」
そして静まり返ったSの部屋の前にまで辿り着くと、まずノックをしようと腕を上げる。
だがここまで順調だったにも関わらず、何故かそこでふと体の動きが止まってしまう。
そうなった原因は不明だが、同時に周囲の事がやけに気になった。
ここは今までに何度となく訪れた場所だというのに、どうしてだか辺りからは違和感しか伝わってこない。
いやに静まり返っているのもひどく不気味に思え、まるで体中に虫が這っているような気持ち悪い感覚が常に付き纏う。
それでもここで立ち止まっていても、何も分かりはしない。
俺は意を決すると腕に力を込め、無理にでもSの部屋の扉をノックしていく。
しかし中からは何の応答もなく、しばらく待ってみてもそれは変わらなかった。
大きめの声をかけてみても変化はなく、しばし逡巡はしたが続けて扉のノブに手を伸ばす。
すると鍵はかかっていないようで、思いの外あっさりとドアを開けられる。
そのまま一応は入るぞと短く断りつつ、重くなった足を引きずるようにしてSの部屋へと入っていった。
室内は雨戸が閉め切られているのか真っ暗で、まずは明かりを付けなければ中の様子を知る事はできそうにない。
俺は手探りでスイッチを探し当てると、直後の視界が白くなる程の光量に目が眩みそうになる。
ただそれが落ち着いてくると、俺は目に入ってきた光景に驚くしかなかった。
部屋中には物が無秩序に散乱しており、室内だというのに台風でも通り過ぎたのかと思える程の惨状となっている。
本やノートはどれも無残に引き千切られ、机やクローゼットなどはどれも中身を床に吐き出していた。
壁や天井には物を激しく投げつけた跡が残り、そこでしたであろうSの暴れっぷりが容易に窺える。
まるで、気が狂ったように暴れていた……。
母親から話を聞いた時にはにわかに信じられなかったが、どうやら事実だったらしい。
「……」
目の前の有様を見るとSがどれだけおかしくなったのか一目瞭然で、立ち尽くしたまま絶句するしかなかった。
Sは一体、本当にどうしてしまったのだろう……。
そう思った俺がSを探し始めると、その姿はすぐに見つける事ができた。
ベッドの方へ目をやれば、そこに敷いてある布団が人くらいの大きさに膨らんでいるのが分かる。
続けてそこに近づいて様子を探ると、微かに寝息も聞こえてきた。
Sはどうやら今は眠りについているようで、異様な部屋の中にあってそこだけごく平穏な場所となっている。
それに気付いた俺は随分と呑気だなと思いつつ、ようやく少しだけ気が楽になった。
確かにSは精神状態が不安定になっているようだが、それも一時の気の迷いのようなものだろう。
俺達も受験を控える時期だし、学業に関するストレスなどでそうなってしまったのかもしれない。
特にSはオカルト関係の勉強は大好きだが、学校でする勉強は大嫌いだったからな。
いつも一緒にいて気が付かなかったが、密かに心を病んでいたのかもしれない。
それでもこうして安らかに寝られているのだから、きっといつものSに戻る日もそう遠くないように思えた。
俺は自分を納得させるように幾度か頷くと、改めて部屋の中を見渡していく。
あれだけ大切にしていたオカルト関係のグッズなども大半が壊れて、部屋の中にはゴミの山ばかりが築かれていた。
それから足の踏み場もないような床の上を歩いていくと、やがてSの使っているであろう机の前に辿り着く。
そこには雑多に溢れる物に混じり、何の変哲もない一冊の大学ノートが置いてあった。
普段なら気にも留めない有触れた代物であるが、俺は何故かそれから目が離せなくなってしまう。
気が付けばノートを手に取ると、そのままじっと眺めるようにまでなっていた。
見ればノートの表紙には書き殴ったように、隣の世界とだけ書いてある。
「……!」
俺はその単語を見た途端、息が止まったかと思えるくらい動揺していた。
あまりにも乱れ切った室内を見ている内に忘れていたが、やはりSの激変はあの話と関係があったのか?
Sは一体、このノートに何を書いたんだ。
もしかして、ここに全ての答えがあるのか……?
俺は頭の中に湧いてくる疑問を抑えられず、自分でも驚くくらいあっさりとノートを開いていく。
そして他人の部屋で個人的な情報を覗いている事も忘れ、内容を読み解く事だけにひたすら集中していった。
それはどうやらSが直筆で書いた日記のようだが、日々の出来事を綴る普通の日記とは違っていた。
そこに書かれている内容はSが夢で見た内容を元にしているらしく、隣の世界に行くための実験記録のようなものであるらしい。
改めてそれを読み進めていくと、まず一日目には失敗と書かれている。
さらに夢の内容や実際に取った行動も書かれているが、文字の小ささや掠れ具合などから明らかな落胆ぶりが伝わってくる。
それは二日目も同様で、また失敗と書かれていた。
その後に続く内容も同様だったが、さらに下の方にはまた別の何かが書かれている。
ページの下部にあったのはどれも同じ文章で、強過ぎる筆圧で管理者が見つからないと何度も何度も書かれていた。
そこまで読んで分かったのは、やはりSは隣の世界へ行く方法を信じてそれを実践していたという事である。
「……」
俺は自然と体が強張ってきたのを自覚しつつ、逸る気持ちを抑えながらページを捲っていく。
すると三日目にやたら大きな文字が目に付き、成功!!!と本当にはっきりと書かれていた。
後に続く文章も今までになく滑らかで、踊るような文字からは素直な興奮や情熱が直に伝わってくる。
そしてそこから記されていたのは、夢の中でSが紛れもなく体験した出来事らしい。
手書き故に一部読み辛い箇所はあったものの、俺はそれをなるべくそれを正確に理解しようと努めていった。
やった、遂にやった。
夢に慣れない内は痕跡すら見つけられなかったが、ようやく見つける事ができた。
あの異様な風体、あいつが管理者に違いない。
事前の情報通りに黒ずくめの格好で、フードの内側にあるはずの顔はどれだけ目を凝らしても何も見えなかった。
見た目はもちろん雰囲気も怪しい事ずくめだが、あれが僕が探し求めていた人物に違いない。
それにしても、ここの雰囲気は本当に異常だ。
夢の中のはずなのにはっきりと体の感覚があり、現実世界と何ら変わりがない。
こうして今も地面を踏み締め、少しずつ管理者に近づいていくだけで心が震えていくのをはっきりと感じる。
やがて管理者もこちらの存在に気付いたらしく、黒色を浸したような顔を勢いよく向けてきた。
敵意を込めた威圧感はとても強烈で、思わずこちらは顔ごと目を逸らしそうになる。
それでも退く訳にはいかず、僕は前を向いたまま管理者の正面へと進んでいった。
だが管理者の眼前まで来ても拍子抜けするくらい何もなく、あちらから何か言われる訳でもない。
僕もどうしたらいいのか迷い、ひたすらその場に立ち尽くす。
ただ不意にあいつに隣の世界について話した時の事を思い出すと、ようやく何をすればいいのか思い出せた。
「と、隣の世界に行きたい。な……。なので、管理者の扉を使わせてくれないか」
僕はそれからおずおずと口を開くと、以前にあの人から聞いた通りの言葉を伝えていく。
すると管理者は突然激しく怒り出し、これまで耳にした事のない言語かどうかすら怪しいものを捲し立ててくる。
さらに僕の胸を強く叩くと、凄まじい剣幕でこの場から追い返そうとしてきた。
しかしここで負けてしまえば、僕の目的はいつまで経っても達せられない。
意を決すると間髪を入れないように、あの長ったらしい合言葉を発していった。
「扉を開く鍵は身の内に。ここに我おり、隣に我あり。定めの枠を超え、調和を乱すために。赤は紫、青は黒、緑は紺碧。続く者さえ現れない。これこそ偉大な道なのだろう」
芝居がかったような僕の言葉を聞くと管理者は妙に大人しくなり、前のめりになっていた体もゆっくりと後ろへ下がっていく。
それから無言でどこかを指し示すと、その後には掻き消えるようにあっという間にいなくなってしまった。
管理者が指差した先にはただ虚無だけが続き、どれだけ目を凝らしても何も見通す事はできない。
だとしてもその先に求めるものがあると分かっている以上、次に取る行動は決まっていた。
無限に続いているのかと思えるくらい広大な白い空間の中を、僕は一人でずっと歩き続ける。
どこまで彷徨えば終わりが来るのか、一体その先に僕の求めるものがあるのか。
ひたすら考えても答えなど出ず、それでもただ前へと足を動かす。
そうしてどの方角へどのくらい歩いたのかも分からなくなってきた頃、いきなり目の前に眩しく光るものが現れた。
それは扉のようなもので、僕が前に立つと触れてもいないのに勝手に開いていく。
ただし相変わらずその先はまるで見通せず、果たして扉を抜けた先に何が待ち受けているのかも分からない。
それでも僕は迷わず、その先へと進み出す。
これでようやく、ずっと追い求めていた隣の世界へ辿り着けるはずなんだ……。
あれから向こうの世界に少しだけ滞在し、何とか無事に帰ってくる事ができた。
今はこうしてこれまでの出来事を書き連ねているが、こうやって文章を書くという行為だけでもそれができるだけ幸せに思えてくる。
何せそれくらいあの世界はこちらと比べると異様で、ちゃんと帰ってこれただけで本当に嬉しさが込み上げてしまう。
これからあの世界の事を書こうと思うが、一体どう表現すればいいのか……。
まず世界を構成するもので言えば、今いる世界とほとんど変わらない。
もちろん全てを事細かに調べた訳ではないが、まぁ違わないと言い切ってもいいだろう。
地面や空、川などは当然のようにあるし……。
空気や重力のような、なければ生きてけないものも存在している。
もしあの世界を知らない人間がいきなり放り出されたとしても、ひとまず即死なんて事はないはずだ。
だが一つだけ、こちらとは決定的に違う事がある。
それは隣の世界に暮らし、あの世界を支配していると思われる種族……。
彼等はやはり、こちらの世界と同じ人間に違いない。
ただしその外見は一部が違って、誰もが異様に大きい黒目をしている。
痩せこけた頬は病気かと見紛う程で、単に不健康という話ではないくらいだ。
体の他の部位は僕等とほとんど変わらないようだが、やはりどうしても顔の目立つ部分にあるそれらが気になってしょうがない。
あちらの世界にいる人間を初めて目の当たりにした時などは、心臓が口から飛び出るかと思ったくらいだ。
滞在していた時間が短かったために出会ったのは数人でしかないが、それだけでも違和感や恐怖は今も心の内にこびり付いている。
さらに付け加えれば、彼等は僕達が使うような言語を用いない。
文字はあっても僕等が使うものとはかけ離れ、平仮名や漢字を反転させたようなものが縦横無尽に羅列されている。
話し言葉も到底理解できるようなものではなく、何故かは分からないが笑い声だけでコミュニケーションを取っているらしい。
表情をほとんど変えずに笑う事によって意思の疎通を図る様は、さながら野生に暮らす動物のようでもあった。
どうやら笑う時の間隔や声の大きさなどによって細かな表現を可能にしているらしいが、その全容は簡単には掴めそうにない。
おかしな事など何もないのに誰もが異様に笑い続ける中、僕は気が狂いそうになるのを必死に抑えるしかなかった。
というか、あの場にいたのはもしかして向こうの世界の僕の家族だったのだろうか。
気付いた時にいた場所も僕の部屋と瓜二つだったし、家の中にいた人間も先に記した特徴以外は僕の家族とほぼ似通っていた。
平行世界ならばこちらの世界とほとんど変わらぬ存在がいてもおかしくないが、だとするなら一つの疑問が生まれる。
あの世界には、僕はいないのか?
まぁいない可能性も確かにあるが、部屋の中の物などを見る限りはこちらの世界と何かが大きく変わっている様子はない。
だとすれば僕がいてもおかしくないはずだが、滞在中に出会う事は結局ないままだった。
向こうの世界の僕は、僕がいる間はどこにいっているのか。
まさか消えてしまったはずはないが、もう一人の自分がどうなっているのかはやはり気になって仕方がない。
前回は初めての訪問だったために、まともな活動はできなかったが今度はその事を調べてみようか。
それにしても、前回は本当に惜しい事をした。
何しろ初めての事尽くしで、僕は自分の正体がばれない事ばかり気にしていてほとんど何もできなかったのだから。
向こうの僕の家族は僕が一向に笑おうとせず、いや会話をしない事をひどく訝しんでいたようだった。
僕は不審がる彼等を躱すと、部屋の中を物色しながら夜まで閉じこもってやり過ごし……。
それから夢の中で管理者を再び探し出すと、ようやくこちらの世界に帰ってこられたんだ。
今からすれば自分の大胆さに驚くし、同時に助かって良かったという一念が何度も心の中で反響している。
もし何かが違えばあの世界に取り残されてもおかしくなかったし、それどころかあっさりと死んでいたかもしれない。
仮に体が無事だとしても、心が先に壊れて発狂する事になっていただろう。
それくらいあの世界は奇妙な物ばかりで、文化や風習が違うとかいうレベルではない。
文字通り、世界が根本的に違うのだとはっきりと思い知らされた。
それでもかなり興味を惹くのも事実であり、もう行きたくないという思いとまた行ってみたいという思いがせめぎ合っている。
本来ならばここで手を引き、何もかもを忘れてしまうのが賢明なのかもしれない。
しかし隣の世界に関する直接的な証拠などは何も入手していないし、このままでは単なる与太話や妄想にしかならないはずだ。
ここはあと一回だけでもあの世界に行き、何か有無を言わせぬ証拠でも持ち帰ってくるしかないだろう。
正直に言えばこの文章を書いているだけで気持ちは高ぶり、向こうの世界への憧憬に抑えが利かなくなっているのがはっきりと分かる。
こうなればいたずらに日を伸ばしてもしょうがないし、何より自分が我慢できない。
今夜にでも再び決行し、なるべく早く帰ってくるよう心掛けよう。
あいつに成果を教えるのもそう遠くない内に叶いそうだし、今からそれがとても楽しみだ。
Sが書いた文章はここで終わっており、そこからはしばらく何も書いていない。
それでもさらにページを捲っていくと、唐突に殴り書きのようなものを見つける。
それは他に何か考え事でもしながら書いたのか、かなり煩雑だったが何とか解読する事ができた。
これはあくまで推測だが、向こうの世界に僕に相当する人物がいるのは間違いないようだ。
アルバムを開けばそれらしい人物を見つけられたし、携帯や手帳には最近の行動の履歴がいくつも見て取れる。
だというのに向こうの世界の僕の姿は、いくら探しても結局見つけられない。
向こうの世界の家族の反応を見ても、僕ではない僕が突然いなくなったという訳でもなさそうだ。
だとすれば、彼は一体どこへ行ってしまったのか。
僕が向こうの世界にいる時だけ彼がいなくなるのだとすれば、ある仮説を思い付く。
もしかしたら何かしらの不協和や不具合を避けるため、一つの世界に同じ存在は重複できないようになっているのかもしれない。
そうなると僕が向こうの世界に行けば自動的に、あるいは弾かれるようにして彼は……。
僕と入れ替わりになって、こちらの世界にやって来ている……?
それからもページを捲り、目を皿のようにして探したが他にはSの記述は見つけられなかった。
ただ真っ白の紙が虚しく延々と続くだけで、最後にはノートを閉じて机の上に戻していく。
「……」
その後は一気に流れ込んできた情報に呆然とするばかりで、俺はしばらくその場に立ち尽くすしかなかった。
それでもある程度の時間が経つと、ある事に気が付いて背筋が寒くなってくる。
Sは隣の世界へまた行くとノートに記していたが、果たしてその結果はどうなったのだろう。
それまでと同じ方法を取り、また隣の世界に行けたのか?
そして無事に辿り着いたとして、ちゃんと無事に帰ってこられたのか?
ノートには疑問を解消するような記述はなく、Sがどのような結末を迎えたのかは分からない。
もしかしたら向こうの世界で何かあり、Sはそのせいでおかしくなってしまったのだろうか。
俺は今も背後で寝息を立てているであろうSの方へ振り向こうとするが、その刹那にふと頭の中に違和感が生じる。
すると直後には複数の考えが脳内を駆け巡り、勝手にある答えを導き出そうとしていった。
母親が言うにはSは突然、人が変わったように暴れ出すようになった。
家族とも口を利かず、ただ不気味に笑うだけである。
隣の世界の人間はこちらと違い、笑いによって意思疎通を図るらしい。
自分が隣の世界に行った場合、隣の世界の自分がこちらにやって来る。
それぞれの世界にいる自分が、別の世界で入れ替わってしまう……。
いや、そんなはずはない。
俺は頭に浮かんだ考えを振り払うように、何度も強く頭を振っていく。
そもそもSが書いていたように、はっきりとした証拠なんてない。
そうさ、こんなもの所詮はSの作り話だ。
そうに、決まっている……。
俺は目頭を指で抑えながらさらに強く頭を振ると、無理にでも自分を納得させようとしていく。
だがそうしていると、不意にそれまで気付く事のなかったものへと意識が向いていった。
「……」
それまで誰もいなかったはずの自分の背後には、何者かが立ってこちらをじっと見つめている。
その視線や気配は振り向かずとも分かるくらいで、そこにいる人物にもある程度想像はつく。
この部屋に自分の後から入ってきた者はおらず、いるとすれば最初からいた人物しかない。
そもそもここはSの部屋なのだから、いるのも当然Sに決まっている。
ただあいつは、いつの間に目を覚ましたのだろう。
俺が立てた物音か何かに気付き、それから俺がノートを勝手に読んでいるのを知ったのか?
だとしても、それなら何で普通に声をかけてこないんだ。
いつ起きたのか分からないが、俺の事を後ろから黙って眺めていたとでも言うのか?
そこにいるのは自分が見知った、馴染みの相手だというのに恐ろしいという感情しか湧いてこない。
寒くもないのに背筋はぞくりと震え、冗談交じりに事情を話そうとする事すらできなくなっていた。
「ははは」
するとその時、ふとSの笑い声が聞こえてくる。
それはこの場の空気に似つかわしくない程に明るく、本当に短いものでしかない。
一方でそれを聞いた俺はつい反射的に、思わず後ろへ振り返っていった。
「あは。あははっ……。ははっは、はは……」
今も目の前にいるのは、俺の知っているSではない。
この気持ちをうまく言葉にはできないが、絶対にSであるはずがなかった。
そいつは何が面白いのか、呆然とする俺を尻目になおも笑い続けている。
顔にあるのは異様に大きい黒目であり、頬は病気にでもかかっているように痩せこけていた。
確かに見た目はそっくりだが、その姿にかつての面影などわずかたりともない。
ここ最近のSはオカルトにのめり込むあまり、少し様子がおかしかったのも事実である。
だとしてもその外見が、身に纏う雰囲気がこうも人間と違うはずがなかった。
これまで友人として、少なくない時を共に過ごした俺ならはっきりと断言できる。
こいつは俺が今まで接してきた、あのSであるはずがない……。
「あはははっははっははは。はっはああはははは……」
Sではないそれは以降も、表情を変える事なく笑い続けている。
一体、何故そこまで笑う?
もしかして、俺に何かを伝えようとしているのか?
だとしても、そこにどういう意思が含まれているのかまるで分からない……。
こいつは一体、どこの誰なのか。
今は何を思って、これからどうしたいと思っているのだろうか……。
「はははははははははっはははは。あははっはっははははっはああ。ははっはははああああああああ。あああああああああああああああああ!」
やがて聞こえてくるのが笑い声から、よく分からない叫び声に変わり出した頃に俺は意識を失った。
これは後から聞いた話なのだが、叫び声を聞きつけたSの母親が床に倒れた俺を発見したらしい。
そうなってもSの姿をしたあいつは、発狂したかのようにずっと笑い続けていたそうだ。
俺はそれから病院に行ったが体に異常はなく、その日の内に帰る事ができた。
一方であれは結局、Sの家族の手には負えなくなったらしい。
噂によると見知らぬ男達に連れられ、どこか山奥にある専門の病院へ搬送されたそうだ。
その後にSの家族もひっそりと引っ越し、今はどこでどうしているのかも分からない。
それにしてもこうなると、本当のSがどうなったのかが非常に気にかかる。
外見だけでもSらしき存在がこちらの世界にいるという事は、あいつは未だに隣の世界に行ったままなのだろうか。
あちらで何が起きたのか知る由もないが、もしかしたら予期せぬ事態に陥って帰れなくなったのかもしれない。
いや、恐らくはそうなのだろう。
まさかいくらSでも、自分から隣の世界に居残る事などしないはずだ。
やはり俺はあいつから話を聞いた時、無理にでも止めていれば良かったのかもしれない。
そんな怪しい事に首を突っ込むなと忠告して、何だったら力ずくでも抑え付けていれば……。
今さら何を後悔しようと後の祭りだが、俺はあれからずっと悩み続けている。
そして最近はそれとは別に、隣の世界に行く方法についてよく考えるようになった。
こちらの世界からあちらの世界へ行く事ができるのなら、その逆もまた可能になるのではないだろうか。
いや、むしろそうでなければおかしい。
もしも隣の世界の俺が、勝手にこちらの世界に来るような事があったら……。
俺は否応なしに隣の世界へ飛ばされ、そこで過ごす事を余儀なくされる。
そこから戻る事ができればまだいいが、そうでなかったら俺は一生そこで過ごさねばならないのか。
Sの記述していたような異様な世界に行くなんて、少し考えただけで身の毛がよだって仕方なかった……。
そんな日々が続く内、最近は不思議な幻覚を見るようになった。
見慣れない黒ずくめの格好をした人物が、気付けばいつも視界の端にいる気がする。
あれは一体、どこの誰なんだろう。
確かどこかで聞いたような気がするし、いつか見たような気もする。
いや、もうそんな事はどうでもいいか。
何しろ、この恐怖から逃れる方法が見つかったのだ。
縄か、あるいは薬か。
それとも高い所を選ぶか、やり方はいくつでもある。
後はわずかに残った理性を振るいにかけ、迷わず実行に移すだけだ。
やがて行き着く先は分からないが、これでようやく解放される。
隣の世界から逃れるためには、それとは異なる隣の世界に行くしかないという訳だ。
あぁ、何だかやけに疲れてしまったな……。
しかし、それもあともう少し。
もう誰であろうと、俺を止める事はできない。
今はただ一刻も早く、死後の世界へと行ってみたいだけだ。
「うーん、これはどうだったかな? 直に幽霊や怪物が出てくる訳じゃないけど、こういうのも怖いよねぇ」
今も目を前へ向けると、そこではソファーに横になりながらくつろぐ少年の姿がある。
「うんうん、そうだろう。ところで話は変わるけど。日常の中にぽつりと出くわす、一度落ちたら這い上がれないような落とし穴……。そんなものがもしも自分の身近に存在するとしたら、君ならどうする?」
それから少年はゆったりと身を起こすと、こちらをじっと見つめてきた。
「え? そんなの、本当にあるのかって? さぁ、それはどうだろう。あるともないとも言えるし、そもそも言った所で実際に自分で見聞きしなければ心から信じられるはずもない」
対してこちらが答えを返すと、少年は首を振りながら軽く応じてくる。
「だからこの事について答えを知るためには、自分から入ってみるしかないんじゃないかな。どこに続いているかも分からない……。異界への入口にね。おっと、大分話が脱線したかな。じゃあそろそろ、次の話を始めようか?」
それでも最後にふと見せた微笑みには、見た目に似つかわしくない程の迫力や怪しさのようなものが感じられた。
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