第4話 紫雲

「ふぅ……。はぁぁ……」

 すでに日付が変わる程に夜が更けた頃、錆び付いた電灯が発する頼りない明かりの下を誰かが歩いていた。

「全く……。いくら、繁忙期って言ってもさ。毎日こんな調子じゃ、嫌になっちゃうよな……。家と会社の往復。それだけで、毎日の時間がただ浪費されていく……」

 くたびれたスーツを着込んだのは三十代くらいの男で、足取りはかなり重い。

「自分を癒すための時間や趣味。将来に対する備えや対策。そういうのに費やす暇なんて、全然ありやしないってんだから……」

 酔ってもいないのに時折ふらつく有様の男は、明らかに疲労困憊といった様子だった。

「まぁでも、そんな暮らしもあと少しの辛抱さ。今さえ乗り切れば、その先はどうとでもなる」

 男にはすでにまともに歩く力さえ残されていないのか、手近なコンクリートの壁に寄りかかるようにしている。

「ここからが、俺の本当の人生なんだ……」

 それでも何とか前へと進む先には、住宅街の中にぽつんと佇む古いアパートが見えてきた。


 築何十年経っているのかも分からない建物は各所がぼろぼろで、どう見ても快適な住まいとは言い難い。

 外壁に取り付けられた明かりも点滅が激しく、そこではあらゆるものが長い間ほったらかしにされているようだった。

 だが男はそんな事も気にする素振りすら見せず、慣れた様子で備え付けられた階段を登っていく。

 もしかしたら忙しい日々が続いたせいで、重要な事柄以外に気を向ける余裕すらなくなっていたのかもしれない。

「……」

 しかしさすがの男もその日ばかりは、そこで見つけたいつもとの違いに気付いたようだった。


 二階の一番奥にある自室の前、さらに言えば部屋に入るための扉を塞ぐように女が座り込んでいる。

「あ、お帰りなさい……。今日も遅かったのね。ずっと、ずうっと待っていたのよ」

 自分の膝を抱えるようにして俯いていた女は男に気付くと、振り向きざまに笑みを浮かべていく。

 ただし目の下に深いくまが刻まれ、傾げた顔も少しやつれているように見える。

 そのために顔立ちは整っているにも関わらず、どこか病的で不気味な感じさえ漂わせていた。

「君は……」

 男はそんな相手に会釈をしたり、手を上げながら挨拶する風でもない。

 呆けたように口を開いたまま、言葉もまともに発せずにいた。

「あら……。大分お疲れのようね。無理もないわ。こんなに遅くまで、一生懸命働いて……」

 対する女はゆっくりと立ち上がると、男の正面へ静かに歩み寄ってくる。

 そうなると黒々とした腰まで届きそうな長髪や、濃い紫に染められた衣服や装飾品が嫌でも目に付いた。

 一方で全身の肌は透けるような白さで、よく見開かれた大きな二つの眼は血のように鮮やかな赤一色で満たされている。

「……」

 男はその間も瞬きすらせず、決して目を離せぬ名画の前に立ち尽くしているかのようだった。

「さ、それじゃあもう部屋に入りましょう? 最近めっきりと寒くなってきたから、このままじゃ風邪を引いてしまうわ……」

 やがて女は時が止まったように静止した相手の元へ辿り着くと、その手を取りながら穏やかに微笑む。

「ね、そうしましょう。それで部屋の中でたくさんお話するの。お仕事の事とか、家族の事とか。色々と、ね……?」

 濁り切った沼のように淀んだ瞳には目の前の男はもちろん、周りにある何もかもを映していない。

 それはやけに親しげな態度や仕草と異なり、女から放たれる言いようのない違和感を象徴しているかのようだった。

「あぁ、うん。そうだな。そうしよう……」

 一方で男は何も疑わず、むしろ考える事自体を放棄してしまったように頷く。

 劇的に虚ろさを増した目付きや表情、それに全身に纏わりつくような鈍重さは単に疲労だけが原因とは思えない。

 男はそれからものろのろとした動作で部屋の鍵を取り出すと、揺れる手を女に支えられながら鍵を開けていく。

 そして先に室内に入っていった男に続き、女も部屋に入りながら一度後ろに振り返る。

「うふっ……」

 そのまま女は扉を閉めていくのだが、その口元にはこの上なく幸せそうな笑みが端々まで貼り付いていた。


 以降の男の記憶はかなり曖昧なものとなっており、何をどうしたのかまるで覚えがない。

 その日の出来事はすっぽりと頭から抜け落ち、まっさらな空白ばかりが頭の中に取り残されていた。

「しうん……」

 唯一こびりつくように残っていたのは、女の口から発せられた三文字の言葉だけでしかない。

「紫雲……。それが君の名前、か。うん、いいな……。紫雲か……」

 それを聞いた男は大層気に入ったのか、心に刻み付けるように何度もじっくりと口ずさんでいた。

「うふ……」

「はは……」

 そんな姿をじっと見つめながら微笑む紫雲に対し、気付いた男も気恥ずかしそうに笑い返す。

 男の家ではその日から同居人が一人増え、今までと違った暮らしが始まっていく。

 傍から見れば唐突だったり不審な所がない訳ではないが、肝心の男はわずかな不満や異論を発する事もなかった。


 それから幾らかの時が過ぎたある日、男は紫雲に料理を作ってもらう。

 間もなくして取引先の課長が酔った勢いで転倒し、顔や体を壁に強く打ち付けてしまったと聞いた。


 また幾ばくかの日を経たある時、男は共に歩いていた紫雲と初めて手を繋ぐ。

 ほぼ時を同じくして職場の同僚がいきなり倒れてきた棚の下敷きになり、手足を何か所も骨折したそうだ。


 次第に親密さを増していった男と紫雲は室内で穏やかな時間を過ごす中、自然と二人して肩を寄せ合っていく。

 それから少しして学生時代の友人が強盗に襲われ、鋭利な刃物で切り付けられたと耳にした。


 その後も男の周りでは不可解な事故が続くようになるが、当人は特に反応もしなかった。

 元から様々な事に無頓着な性格であり、あるいは細かい事に執着しない気質が関係していたのかもしれない。

 それからも頭の中の多くを占めたのは紫雲の事ばかりで、他の事は大部分が後回しにされていた。


「これ……」

 またある日、紫雲は部屋の掃除をしている途中に何かを見つける。

「あぁ、そのマフラーか。俺の子供の頃の持ち物だよ。そんな古いのは捨ててしまってもいいんだが、その頃の思い出はどれも印象深くてね。結局、捨てられないままずっと持ち続けているんだ」

 気付いた男はそれを覗き込みつつ、とても懐かしそうに目を細めていた。

「ふぅん……」

 対する紫雲はマフラーを手に取りつつ、何か特別な事を言う訳でもない。

「はい」

 それからただにっこりと笑うと、マフラーをそっと返してくる。

「紫雲……!」

 すると男は一気に顔を綻ばせ、嬉しそうにマフラーごと紫雲を抱き返していった。


 そんな日々の中で男がわずかでも違和感を覚えたとすれば、それは時間に関する感覚に他ならない。

 これまでも仕事に全精力を注ぐあまり、時間があっという間に過ぎ去ってしまったという経験はあった。

 だが今はふとした日常の中でもそれが頻繁に起こり、気付けばいつの間にか数時間が経っていたという状況も珍しくない。

 ひどくなると週の初めの朝に目覚めのコーヒーを飲んだと思えば、次の瞬間には週末の帰宅の電車の中だったという事すらあった。

 もちろん本当に時が消し飛んだなどという事が起きていないのは、周囲の反応や正確に時を刻む時計などから読み取れる。

「……」

 だとしてもいつからか心の片隅に生まれたその疑問は、わずかなしこりとして男の中に残り続けていった。


 一方で日に日に紫雲の事を愛おしく思うようになった男はある雪の日、紫雲を抱き締めるようにして自分の思いを告げる。

 その翌日には親戚の数人が交通事故に遭い、全員がひどい大怪我をしたと連絡があった。


 ここまで来るとさすがに男も少し不安に駆られるが、自身に実害はない上にできる事がある訳でもない。

 紫雲と共に過ごす今の暮らしの中では失うものより得るものの方が多く、心身共にこれまでになく充実した毎日を送れていた。

 どれだけ仕事が忙しかろうと、家に着けば帰宅をずっと待って喜んでくれる相手がいる。

 些細な違和感や不安などはすぐに意識の外へと追いやられ、それからも目の前の現実にだけ向き合ってさえいれば良かった。


 やがて男と紫雲は互いに相手を求め合い、絆を確かめるかのように深く厳かな口づけを交わしていく。

 そこから日を跨いだある日の深夜、二人いる兄弟のどちらの家もほぼ同時刻に火事になってしまう。

 原因は未だ分からず終いだが、どちらの家も多くの家財を失った上に家人はひどい火傷を負ったようだった。


 段々と重篤さを増しつつある異変に囲まれながらも、男の生活は変わらない。

 少しは気にしていた時間の感覚について考えるのも止め、ただただ平穏な日常を過ごしていく。

 そこにいるのは起きた結果を受け止めるだけの生き物でしかなく、微かな自我や矜持すら感じられない。

 元からあった顔立ちは見る影もなく、目立って不健康な部分もないのに重病人かのように痩せ衰えていた。


 それでも紫雲との関係は未だに良好さを保ち、ある時には遂に体を重ねるまでに至る。

 丁度その日の朝にこれまでずっと健康だった親がいきなり倒れ、急ぎ病院に運ばれたが意識不明の重体になったと電話があった。


 そこから果たしてどれだけの時が経ったのか、あるいはさほど時間は経っていないのかもしれない。

 何日も降り続く長雨の中、古びたアパートの一室では布団に寝かされた男の姿があった。

「君は、一体……」

 霞む目を懸命に開きながら、男は頭上に向けて声を振り絞っている。

 その肌には全く張りがなくなっており、窪んだ目や血の気のない体は命に関わる病を患っているかのようだった。

「私……。本当の私はね、人ではないの……」

 一方ですぐ側に座る紫雲は男の手を優しく握り返し、艶を増した肌や肉付きの良い体は本当に健康そうに見える。

 そして辺りを包み込むような激しい雨音の中、血のように赤く染まった唇をゆっくりと動かしていく。

「私は常世の理から外れし存在……。生者を縛り付ける、重く煩わしい楔を取り払う者……」

 ただしそこから放たれる言葉は雑音に掻き消され、今にも目を閉じかけた男にはほとんど聞こえていない。

「ぁ……。う……」

 男はそれから震える手を何とか持ち上げ、紫雲の方へと少しずつ伸ばそうとする。

「あなたにも……。死を運んであげる」

 紫雲はその様を柔らかな顔つきでじっと見つめたまま、それ以上何かする様子もない。

「れ、は……。きみと、もっ……」

 最後に男の指先が紫雲に届きそうになる直前、突如として男は意識を失っていった。


「な……。うっ、うわぁぁああ……」

 それまで繋がっていた五感の全てはその瞬間に一気に断たれ、辺りには何もない暗闇だけが広がっていく。

 そこでは床や地面すらなく、ただ奈落の底に向かうように下へ下へと落ち続ける。

「うぉっ、おぉぉおおぉ……!」

 体を動かそうにも自由になる箇所などなく、不安や恐怖に苛まれるしかできる事はない。

「かっ、はっ……」

 しかしどこまで行っても落下には終わりがなく、次第にあらゆる感情は少しずつ希薄になっていく。

「し……。う……」

 それはまるでゆっくりと眠りについていくような穏やかな心境であり、そこから先には何も待ってはいない。

 無限に解き放たれた暗黒の空間へ飲み込まれるようにして、男の姿はもう完全に見えなくなっていった。


「……」

 紫雲は糸が切れた人形のように崩れ落ちた男の体を見つめつつ、静かに立ち上がっていく。

 それから窓の方へ意識を向けると、あれだけ降り続いていた雨もすでに止み始めていた。

 相変わらず空は鉛のような暗さであるが、遠く向こうの空にはわずかな晴れ間も覗いている。

「綺麗……。世界って本当に、本当に美しいわ。今失われたものと同じか、あるいはそれ以上なくらい……」

 それを見上げながら紫雲は静かに呟き、ゆっくりと円を描くかのように振り返っていく。

「ね、そうは思わない? あなた……」

 長い髪はそれ自体が生き物のように滑らかに踊り、混沌を写し取ったような二つの眼はしっかりと見開かれている。

 その顔には無邪気なくらいの笑みすら浮かべ、目一杯広げられた口元は歓喜で満たされているかのようだった。


 翌朝になって開け放たれたままのドアを不審に思った隣人により、息を引き取った男の姿が発見された。

 男の体にはどこにも外傷がなく、行儀よく布団の中で横たわった様は寝ているかと見紛う程である。

 その顔もすぐに葬儀が取り計らえるくらい整っており、いずれの原因があったにせよ本当に不思議な遺体となっていた。


「病気、あるいは毒による変死でしょうか……。少なくとも外から見た限りでは、事件性は見当たりませんね」

 畳の上にしゃがみ込んで呟いているのは若い刑事で、顎に軽く手を当てながら男だったものをじっと眺めている。

「詳しくは解剖待ちだ。それで何かしらが出てくるかもしれんが……。俺の勘だと、恐らく何もないだろうな」

 そのすぐ側に立って辺りを見渡しているのは老いた刑事で、何物をも見逃さないように鋭い眼光を放っていた。

「そういう、ものなのですか?」

「奇妙な縁とでも言うのかね。この仕事をやってるとな、たまにこういうのに出くわすんだ。原因や理由なんてない。抗いようも、逆らいようもない……」

 次に老刑事はコートの中に手を突っ込むと、中を探って煙草を取り出す。

「ただ理不尽な運命に巻き込まれたような、とても数奇な最期……。これもこの世に無数に存在する、それらの内の一つでしかないんだろう」

 だがここで吸う訳にもいかないと思い直したのか、煙草を口にしても火をつける事はなかった。

「そういえば、聞きました? あの市立病院で死んだ若者の話。何でも初めは大した病状じゃなかったのに、急激に悪化して全身から血を噴き出していったらしいですよ」

「あぁ。部屋中が文字通り、血の海になるくらいだったそうだな。医者が言うにはどんな方法を用いようと、人をあんな状態にするのは極めて難しいって話だったが」

 それからも老刑事は話に相槌を打ちつつ、煙草を指の間に挟んだまま揺らしている。

「えぇ。それにあの後、室内をよく調べてみると……。壁に血文字があったそうです。どうやら死んだ若者が、最期の力を振り絞って書いたものらしくて……」

「ん、そうなのか? それは初耳だな」

「しかもそれは、こもりというたった三文字らしいんです。これは被害者の苗字でもあるんですが、何か特別な意味でもあるのでしょうか?」

「さぁな……。書いた本人があの世に行っちまったんじゃ、それも謎のままだろう。そう言えばこの近くでは、子供がひどく錯乱した家もあったそうだな。全く……。普通に生きていても、明日にはどうなるか分かったものじゃないな……」

 そして愚痴をこぼしながら首筋を掻くと、体を反転させた老刑事はどこかへと歩き出していく。

「あ、あの。どちらへ?」

「ちょっと休憩だ。まぁないとは思うが、一応怪しいものがないか現場検証はしっかりとな」

「あ、はい……」

 残された若い刑事はやや釈然としない様子だったが、すぐに自分の仕事へと戻っていった。


「ふぅ……。そういえば、こういった怪異を専門にする組織もどこかにあるって話だったが……。その伝手なんてあるはずもないし……。結局、関わり合いにならないのが一番って事なのかね。ん……?」

 部屋を後にした老刑事はようやく煙草に火をつけると、ふと視界に入った何かに気付く。

 そしてそちらを見た途端、それまでしていたあらゆる動きが停止していった。

「……」

 その顔つきもひどく驚いたように固定され、視線はただ前方に釘付けになっている。

 口元に運びかけていた煙草は指の間をすり抜け、足元に落ちたまま放置されていた。

「あら、こんにちは」

 一方でそこにいた女は穏和な顔つきをして、老刑事の横を通り過ぎながら軽く会釈をしてくる。

「……!」

 何故かその瞬間に老刑事は、体の芯から冷え込むようなぞっとする感覚に身震いをしてしまう。

 その正体を突き止めようと鬼気迫る表情をすると、間髪入れずに後ろへと振り返っていった。

「いつもお仕事、お疲れ様です。毎日、大変そうですね。ふふっ」

 すると女も同じようにこちらへと振り返り、微笑みを浮かべたまま語り掛けてくる。

 その全身はやけに色白で病的な佇まいをしているが、どこか具体的に不審な所がある訳ではない。

「あなたは、このアパートの住人ですか……? 少し……。お話を、伺ってもよろしいでしょうか……」

 しかし見ているだけで果てのない不安感を植え付けられるかのようで、老刑事の表情は自然と強張っていった。

「えぇ、構いません。その代わりと言ってはなんですが……。あなたのお話も聞かせてもらっていいですか?」

 対する女には欠片程の動揺も見られず、むしろ一歩前に出るとこちらとの距離を詰めてくる。

「これから、少しずつでも……。色々と、ね……?」

 じっと相手を見上げる瞳には何も映されていないが、それに捉えられてしまったら二度と目を離す事はできそうになかった。


「はーい、お疲れ様。さぁて、そろそろ君もこういう話に慣れてきたかな? え、そもそもアレは何なのかって?」

 話を終えた少年は両手を軽く合わせていたが、それから不思議そうに顔を傾げていった。

「さぁ、何なんだろうね。僕が知っているのなんて単に話だけで、真相や正体なんてのは二の次だからなぁ。うーん、でもまぁ……。このまま何も分かりませーんってのもある意味、薄情か」

 そのまま口元に指を当てると、いつになくじっくりと考え込んでいく。

「第一、僕の沽券にも関わりそうだし。そうだね……。うん。もしかしたら、どこかにほんのわずかでも繋がりがあるかもしれない。そんな話なら、これからしてあげられるよ……」

 そして大きく頷いたかと思うと、不意に微かな笑みをこぼしてから改めて口を開いていった。

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