第2話 こもりさん
「ふんふん、ふーん。ふふん、ふふんのふーん。あら?」
とある平穏な昼下がりのリビングでは、鼻歌交じりに掃除機をかける中年の女の姿がある。
だがその途中、すぐ近くで誰かが駆けていく音に気付いた様子だった。
「ねぇ、もしかしてどこかに行くの?」
女は掃除機のスイッチを切って廊下に顔を出すと、そこでは少年が玄関で靴を履いている。
「うん、ちょっと遊びに行ってくるね。お母さん」
対する少年はわずかに振り返ると、かかとを靴にしまい込みながら歩き始めていた。
「だったら車に気を付けてね。この前も、すぐ近くで交通事故があったらしいから。道路を渡る前はちゃんと二回ずつ、左右を見るのよ。あと、それから……」
「うん、分かってるよ。絶対に行っちゃいけない、あの場所の事でしょ? いちいち出かける度に言うんだから、もう……」
それからも母はとても心配そうにしているが、少年は逆に非常にうんざりとした様子でいる。
「分かっているのなら、いいんだけど……。あのね、隣町にある古い墓地の事だからね。そこだけは何があっても、行ったりしたら駄目なのよ?」
「大丈夫だって。そもそもそんな所、頼まれても行かないってば。あ、でも……。どうして僕は、そこに行っちゃいけないの? そこに一体、何があるって言うの?」
「え? うーん……。そ、それはね……」
それから玄関まで進み出てきた母だったが、言う事がいまいち要領を得ない。
「何か特別な理由でもあるのかな? この前にお父さんが話してくれた時は僕だけじゃなくて、家族皆が行っちゃいけないって言ってたけど」
「もう、あの人ったら……。そんな事まで話さなくてもいいのに……」
「ねぇ、どうして? 隠さないで教えてよ」
少年はそれからもドアに手をかけたまま、まだ出かけずに後ろへ振り返っていた。
「はぁ……。いいえ。子供はそんな事、気にしなくていいの。いいから外で遊んでらっしゃい。ただ本当に、何度も言うけど車には気を付けてね?」
一方で母は深く考え込むように頭に手をやると、そう言ってリビングの方へ戻っていく。
「はーい……。行ってきまーす」
それを見ていた少年はまだ怪訝そうにしていたが、すぐにドアを開きながら前に進み出す。
同時に外から差し込む日の光を受けつつ、少年は元気に小走りで駆け出していった。
それから年月がある程度過ぎると、まだ幼かった少年も大学生になっていた。
通う大学では仲の良い友人にも囲まれ、勉学に励みながら未来に向けて少しずつ歩みを進めている。
そんな青年はすでにかつてしつこく言われていた、行ってはいけない場所の事など完全に忘れ切っていた。
その日も青年は友人に誘われ、夜遅くまで居酒屋で楽しい時を過ごしていた。
友人達は酒を飲む内に気が大きくなったのか、やがて近くで肝試しでもしていこうかという流れになる。
普段はそう言う事はあまりないのだが、テンションの高くなった友人達に止まる様子はない。
その行先として選ばれたのは近所にある墓地であり、この地域では割と有名な心霊スポットらしかった。
「墓場……? それって……」
一方で青年はじっと考え込んでいたが、酒のせいで頭がうまく働かない。
その間にもさらに盛り上がる友人達は支払いを済ませ、居酒屋を後にしようとしている。
「おーい、行くぞ」
「あぁ、うん……」
少し遅れて青年も居酒屋の入口にふらつきながら手をかけると、その先にある漆黒で満たされた世界へゆっくりと歩き出していった。
墓地へと向かう道すがら、辺りは街灯もまばらでかなり薄暗い。
「それでさ……。これは人から聞いた話なんだけど。昔、この辺りにある家で子供が生まれたらしい」
静まり返ったそこで歩いていると、友人の一人がやや神妙な面持ちで語り出す。
少し前まではしゃいでいた面々も、段々と周りの雰囲気に呑まれるように話に聞き入っていった。
その家庭は比較的裕福であったが、両親はもちろん家族は皆が仕事で忙しかった。
だから仕事の間だけでも子供を預かってくれる子守りがいないか探した所、人手を伝ってまだ年若い少女を紹介される。
初めは子供の両親も経験の浅さを心配していたが、そこまで難しい事を要求している訳ではないので最後には承諾した。
そして翌日から子供を預ける事にして、初めの内は何もかもが順調に進んでいく。
早くも子供に懐かれた少女は家族とも打ち解け、家事の手伝いなども問題なくこなしていた。
しかしそれから何日か経った頃、少女の不注意によって大変な事が起こってしまう。
疲れの溜まっていた少女は不意の眠気に襲われ、目覚めた頃には子供の様子がおかしくなっていた。
何かを喉に詰まらせたらしい子供は、顔色が真っ青ですでに呼吸も止まっている。
もしもその時点で誰か人を呼べれば良かったのだが、少女は恐怖に負けるとその場から逃げ出してしまう。
後になって死亡した子供が発見された頃には、少女の行方はすでに誰にも知れないものとなっていた。
事の次第を知った子供の父は少女に対する怒りよりもまず、溺愛していた末っ子を失った悲しみに暮れる。
だがすぐに自分の感情を押し殺すと、前よりも仕事に打ち込んで何とか心を保とうとした。
一方で母は尋常でない悲しみに暮れるあまり、日が経つにつれて目に見えて心が壊れていった。
ぼろぼろの人形を子供に見立ててあやしたり、夜になると家の内外を徘徊するなどの奇行が目立つようになる。
口にする言葉が支離滅裂になってきた所で専門の病院に入院させるが、それもあまり意味はなかった。
心の病はわずかでも改善する兆しすらなく、むしろよりひどくなっているように見える。
母は未だに子供が生きていると思い込み、無理に子供と引き離されたと勘違いして暴れ回る日々が続く。
薬で大人しくさせたとしても今度はひどく鬱屈とした状態となり、まともに食事もせずに見る見る痩せ細ってしまう。
それでも母は子供の事を忘れる事だけは片時もなく、常にぶつぶつと子供の名を呟いていた。
さらに母が病院を勝手に抜け出すのも一度や二度ではなく、その度にもういない子供を探し続けているようだった。
あまりに何度も問題が続く事から、病院もさすがに預かり切れないと弱音を吐き出す。
しかしそんな折、ある転機が訪れた。
とある夜にいつものように病院を抜け出していた母は体調が急変したのか、野外で死亡しているのが発見される。
父や他の親族はいきなりの事に戸惑いや悲しみを覚えつつも、内心ではどこかほっとしているようだった。
実際に口にはしないが辛い日々も終わりを迎え、これからはようやく前に進む事ができるのだと誰もが密かに安堵していく。
それでも母だけはまだ深い情念を抱えたまま、肉体を失ってもなお現世を彷徨っていた。
自我が消失して箍の外れた危うい状態で、自分の子供を殺した子守りを探し続けている。
どこにいるのかも分からない相手を探すなど、本来なら狂気の沙汰でしかない。
それでも時間と共に膨らむ恨みに突き動かされる母には、一切の迷いすらないようだった。
「例えどれだけの時が経とうと母親は決して諦めず、今日も自分の子を見殺しにした少女を探し続けているらしいぜ……」
そう言って語り終えると、友人は満足気に目を閉じて何度も頷く。
辺りはどこまでも続く宵闇で満たされ、空気も心なしか湿度が高く粘ついて感じられる。
「……」
おかげで周りにいる誰もが息を飲んだまま、何とも言えない静寂だけが広がっていった。
「で、でもさ……。それって結構、昔の話なんだろ? もうその少女だって生きているか微妙だし、その幽霊もいい加減に成仏したんじゃないか?」
そんな時、気まずい空気を打ち破るように別の友人が口を開く。
「それがその幽霊はどうにも普通じゃなくてな。自分が何をしているのかも分からないくらい、錯乱している状態なんだそうだ」
「幽霊の普通って何なんだよ……」
「俺が知るか。とにかくその幽霊はもう何をどうすればいいのかも分からず、ただ自分の恨みや憎しみをぶつける相手を探しているんだってさ。そんなのこっちからすれば、たまったもんじゃないがな」
対する友人は腕を組みながら難しい顔をして、何度も首を捻るように唸っていた。
「は、はは……。ま、まぁ……。作り話の出来としてはそこそこなんじゃないか。お、俺は怖くも何ともないが……」
ずっと話を聞いていた他の友人などは平静を装いつつも、煙草を持つ手がガクガクと震えている。
「いやいや、これは本当の話なんだって。実際にこの辺りで幽霊を探して、ちゃんと見た奴だっているんだから」
「えー、どうだかな。いくらなんでも都合が良すぎないか? 特定の幽霊をそんな簡単に見つけられるなんて、どうすればそんな事ができるんだ」
「いや、それはさ……」
それからも友人達の会話は続き、一行は歩きながら談義を続けていく。
「……」
だが青年だけはそれに加わらず、集団の後方をとぼとぼと歩くようにしていた。
「あの話……。いつか、どこかで……」
その頭の中では今も何かを深く考え込んでいるのか、虚ろな瞳は夢でも見ているように思える。
「っと……。いかん、いかん」
それでもすぐに正気に戻ると、頭の中のもやを吹き飛ばすように頭を振ってから歩き出していった。
やがて夜も更けて深夜と呼べるような時間帯になった頃、一向は暗闇に包まれた墓地に到着する。
そこは一見するとごく平凡な墓地で、管理も問題なく行き届いているようだった。
付近は静謐な空気で満たされ、こちらもある程度の人数がいるために深夜の墓地でもそこまで怖くない。
「何だ、結局何もなかったな。拍子抜けだよ」
「そうだな。でも、まぁこんなもんだろ。むしろこんな近場にヤバい心霊スポットがあっても困るっての」
「あーあ。私、幽霊まだ見た見た事ないから楽しみにしてたのになぁ」
そこでは誰もが安堵した表情のまま、すでに墓地を通り抜けようとしていた。
「……」
一方で集団から離れた青年は、一人きりでその場に立ち尽くしていた。
そして神妙な顔つきのまま、何かを気にするように一点を見つめて固まっている。
すでに距離の遠くなった友人達の話し声も聞こえず、あれだけ感じていた蒸し暑さもしなくなっていた。
視線の先には墓地に隣接した林が広がり、その先にはここよりも鬱蒼とした空間が広がっている。
「……さん」
そんな時、ふと誰かの声が聞こえてきた。
それは友人達の誰とも違う、耳元で囁くのような声に他ならない。
「はっ……!?」
「……さん、いませんか?」
驚いた青年が耳を澄ませると、それは林の方から聞こえていた。
「え……? え?」
訳の分からぬ青年はまず、友人達の方へ目を向ける。
少し先の方ではまだ談笑したり、はしゃいだりしている友人達の姿が確かにあった。
どうやら林から聞こえる声に気付いているのは青年だけのようで、誰もこちらを見ようともしていない。
「……さん、いるんでしょう?」
前よりもさらにはっきりと聞こえるようになった声は、どうやらこちらへ少しずつ近づいているようだった。
「……」
それに気付いた青年の体からは勝手に脂汗が流れ、手足も少しずつ震えていく。
しかしそうなっても何故か体は動かず、寒々しい夜風は背筋をどこまでも冷やしていった。
「……さん、返事をしてください」
一方で声はさらに距離を縮めてくるが、どうにも肝心な部分が聞こえてこない。
何度聞いても最初の方だけが、擦れてなくなったように不明なままだった。
「う……。い、いや。こ、こんなのは気のせいだ。こ、こんな場所に来てしまったから風の音がそういう風に聞こえて……。そ、そうに決まっている……」
青年の方はと言えば、心を落ち着けようと目を閉じたまま胸の辺りに手を当てている。
「すぅ、はぁ……。はぁ、ふぅ……」
そして何とか落ち着こうとして、何度も深呼吸を繰り返していた。
「こもりさん、いませんか?」
だがその直後、これまでになくはっきりとした声が耳に届く。
「……!?」
それは空耳や幻聴などでは断じてなく、あまりに近い距離から言われた青年はひどく動揺する。
「こもりさん、いませんか?」
「こ、こもり……? それってあの怪談に出てきた、子守り? 本当にまだ、探しているのか。でも子守りさんって風に、人を呼ぶか? もし呼ぶなら、名前や苗字……。そう例えば、小森……。あれ。それって俺の、名字……?」
さらに聞こえてきた声に対し、青年は狼狽えるあまり考え付く事をつい言葉にしてしまう。
「あぁ……。やっと見つけた」
やや間を置いてぼそりと呟いた声には、確かに歓喜が混じっているのが分かった。
青年の耳元にはとても生温かく、まるで誰かの吐息が直に触れているような感触すらある。
「……!?」
驚いた青年は慌てて振り向くが、見た先には誰もいない。
そこには木々の葉先がわずかに揺れる素振りもない、どこまでも続く暗闇が広がっているだけだった。
「おーい、そんな所で何をしているんだ? 明日も授業があるんだし、もう帰ろうぜ」
それから友達の声に気が付くと、ようやく青年は我に返る。
「あ、うん。そうだな……」
そしてまだどこか気の抜けた状態ながら、何とか友人達と合流するとそのまま墓地を後にしようとしていった。
「……」
しかし墓地を抜けた辺りで青年は不意に立ち止まると、一度だけ後ろへと振り返る。
それは何となくした事で、特に意味があった訳でもない。
気付けばすでに周りに友人の姿はなく、自分を除く全員が遥か先へと進んでいた。
どうやら青年は自分でも気付かぬくらいの間、一人で呆然と立ち尽くしていたらしい。
「っと……!」
慌てた青年は足をもつれさせそうになりながらも、何とか皆の元へ戻ろうとする。
「うふふっ……。こもりさぁん」
そんな時、またもや誰かの生温い息遣いと声がしてきた。
「……!」
先程から感じていた通り、やはりこの場には何者かがいる。
「な、に……?」
しかもそれは自分に対して興味を向けているらしく、それに気付いた青年は思わず恐怖に身を固くする。
「おーい、どうした? 早く来ないと置いていくぞ!」
一方で前方にいる友人は、ついてこない青年に気付いて声をかけてくる。
薄暗いここと違って、建物の明かりや街灯に照らされた姿はとても煌びやかに思えた。
「ちっ、ちっ。ちぃぃぃっ……。うるっさい子達ねぇ……。あんなのに、用はないってのに……」
すると次の瞬間には本気で疎むような声と共に、凄まじい勢いの歯ぎしりすら聞こえてくる。
あまりの異様さにすでに青年の体は凍ったように動かず、振り返る事すらできないでいた。
「ぁ……。ぅ……。っ……。……!?」
それでも何とか今の事態を伝えようとするが、言葉を発する事ができない。
青年はまるで水から上げられた魚のようにあえぐだけで、それを見ておかしく思った友人達が揃ってこちらへ向かってきた。
「ぁ……!」
それを見た青年は安堵と感謝のあまり、思わず泣きそうになってしまう。
「無駄よ、こもりさん。あなたはもう絶対に逃がさない。殺し。殺す。殺して。殺した。殺そう。殺さねば。こ、ころ……。殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺……」
だが直後に背後から囁きかけられたのは、壊れたレコードのように繰り返される言葉だった。
「……!」
それは恐怖に慄く青年にとって死刑宣告に等しく、あっという間に視界は漆黒で埋め尽くされていく。
「gヴぉれジュ、っもデいfヴアグぁあアガぐッザッあgガアああアッあgg!」
やがてその言葉は明らかに人語ではなくなり、ただ叫ぶような濁音を叩きつけるようになってくる。
明らかに分かるのはこの上なく罵倒されているという事であり、それを聞くと意識が朦朧としていった。
そして青年は完全に気を失うと、地面に向けて派手に倒れ込んでいく。
それを見た友人達が驚いた様子で駆け寄っていくが、青年は地面の上で泡を吹いたまま痙攣を繰り返すだけとなっていた。
青年が次に意識を取り戻すと、そこは病院のベッドの上だった。
見舞いにやって来た友人の話を聞くと、当時の状況が少しずつ分かってくる。
友人達が見たのはいきなり立ち止まったまま、急に地面に倒れてしまった青年の姿だけらしい。
青年が自分の側に誰かいなかったか聞いてみても、誰もが怪訝な顔をして他には誰もいなかったと口にした。
それを聞いた青年はまだ少し釈然としない様子だったが、それもすぐに忘れてしまう。
何しろもうそこは安全な病院の中で、白く清潔で明るい空間がずっと広がっている。
そこで友人達と他愛のない話をしていると、青年も少しずついつもの調子を取り戻していった。
そうして平和な日常に戻ってきたという実感に浸っていると、やがて友人達の帰る時間がやって来る。
青年と友人は互いに大学での再会を約束すると、その日は気軽に別れの挨拶を交わしていった。
同日の午後、青年の病室には珍しい訪問者の姿があった。
両の腕にじゃらじゃらといくつもの数珠を巻いているのは年老いた老婆で、震えるように歩きながら病室に入ってくる。
「あの人、誰なのさ……?」
「私達から見て遠縁に当たる人で、ちゃんと親戚の人よ。確かあなたも昔に会った事あるはずだけど……。覚えてない?」
青年がすぐ側にいた母と小声で話していると、老婆は深刻な表情のままでなおも近づいてきた。
「覚えてないよ……」
「何でもすごい霊感の持ち主で、占いをすれば百発百中なんだそうよ」
「そんな人が、どうしてここに……?」
「うん、それはね……」
そして青年がなおも怪訝そうにしていると、老婆はベッドの横にある小さな椅子に腰かけていく。
「お前、あれに会ったんだろう?」
「え……?」
「正直にお答え。会ったんだろう?」
「あ、あれって……。一体、何なのさ……?」
さらに険しい顔を有無を言わさず寄せてくるが、青年は訳が分からぬ様子できょとんとするしかない。
「あの墓地にいた者だ。こもりさん……。そう言えば分かるだろう?」
一方で老婆は古びた杖を握る手に力を込め、ただでさえ濃い皺もさらに深く顔に刻まれるようになっていった。
「……! う、うん……」
その言葉とただならぬ雰囲気に、青年もようやく顔を強張らせていく。
「それで……!? 名前を……。小森の名を、教えてしまったのかい!?」
「え? 名前? う、うーん。どうだろう。教えちゃった、のかな……?」
「そう、か。うむ。それではもう、駄目だな……」
やがて老婆はゆっくりと姿勢を戻すと、体を小さく折り畳むようにうなだれていった。
「お、おばさん……! それじゃあ……!」
それまで口を挟まずにいた母も、ここに来てかなり狼狽えた素振りを見せている。
「残念だが、あいつに見つかってはもうお終いだよ……」
一方で目を閉じた老婆はそう言うと、白髪に指を通しながら頭を抱えていく。
「で、でも……。まだこの子は、直接あれを見ていないんでしょう? だったら……」
「いいや。こっちが見たとか、見てないとかそういう問題じゃないんだ。向こうにはっきりと感知されている以上、もうあれとは完全に繋がりができたと思った方がいい」
それからも老婆はやけに食って掛かる母に対し、淡々とした声ばかりを返していった。
「封印が自然に解けるはずはないんだが、甘くみていたのかもしれないね。もうこうなってしまったら、どんな方法も通用しない。せめて、これ以上は被害が広がらない事を祈るばかりだよ……」
そして杖に体重を込めたかと思うと、座っていた椅子からゆったりとした動作で立ち上がる。
その目はもうその場にいる誰も見ておらず、伏せた目は完全に閉じられているかのようだった。
「そんな殺生な……。何か助かる方法はないんですか……!?」
しかし母はそんな老婆に追い縋るように、とても懸命に声を発している。
「この際、甘い考えは捨てた方がいい。あれはもう当初の目的も忘れて、醜く変質してしまっている。情けや容赦なんてない。嫁だとか婿のように、直接の血の繋がりがなくても関係ない。一族郎党、同じ名を持つ者は危険だと思った方がいい」
それでも老婆の対応は変わらず、愕然とする母の元を通り過ぎていった。
「家の人が昔、あいつの餌食になりかけた時は有名な高僧に頼んで何とか封印してもらった。でも、あれだけの力のある人はもういない。確か弟子が何人かいたはずだが、呼んだ所でどうなるものか……。まぁ、それでも連絡だけは取ってみようかね」
やがて病室のドアの付近まで辿り着くと、老婆は不意に立ち止まってその動きをぴたりと止める。
「それにしても……。どれだけ時間が経とうと、どれだけ殺そうとまだ止まらないとはね。未だに、恨みは深いか……」
その表情にはただ虚しさだけが残っており、後はさっさと病室を後にしてしまった。
青年はそれから母に一体どういう事だと尋ねるが、どうにもはっきりとした答えは返ってこない。
とにかく今はゆっくり休む事だと言われると、それから母は老婆の後を追ってどこかへ行ってしまう。
一人きりにされた青年は滅多に見た事のない親の焦った顔に面食らい、ただ呆然としたままベッドの上にいるしかなかった。
それから静寂に支配された殺風景な病室の中、青年は訳が分からないままぼうっとしていた。
果たして自分が出会ったものは何だったのか、これからどうなるのかを考え続けている。
やがて一体どれだけの時間が経ったのか分からないが、気付くと窓から夕陽が差し込んでいた。
「……?」
その美しく荘厳な輝きに目を奪われていると、不意に何かに気が付く。
自分のいる真っ白なベッドの上に、対照的な程に真っ黒な影が重なっていた。
「こもりさぁん」
その直後、締め切った窓の方から猫撫で声がしてくる。
「……!」
青年はそれを聞いた瞬間に心がひどくざわつき、思わず胸の辺りを押さえてしまう。
そして見てはいけないと内心で思いつつも、目は勝手に影の続く先を追っていく。
「……!!!!」
やがてその先にあるものを見た瞬間、驚きのあまり思わず息が止まってしまった。
ここは三階だというのに、窓の外にはかなり大きな人型の何かがいる。
人型と言っても胴体の部分だけが蛇のように長く伸び、病的なまでに白い肌はまるで陶器のようだった。
そしてそれは窓から差し込む夕陽を遮るようにして、逆さになった状態のままじぃっと部屋を覗き込んでいる。
棒のように細長い指からはいくつも枝分かれするように、さらに小さい指が無数かつ放射状に生えていた。
それら全ては吸盤のようにガラスに吸い付き、窓からぶら下がる体躯をしっかりと支えている。
顔の輪郭は人そっくりではあるが、そこに本来あるべき鼻や口はどこにも見当たらなかった。
代わりに顔面は大きさや形がそれぞれ違う目で埋め尽くされ、どれもぎょろぎょろと絶えず蠢いている。
墨で塗り潰したように黒々とした髪は地面に向けてだらりと垂れ、眩い夕陽を浴びて鈍く輝いていた。
「うふふっ、ふははっっ、ははっはははっ……。みぃつけたぁぁぁぁ……」
やがてそれはくぐもった声を発すると、顔をぐるりと半回転させるように傾ける。
同時に全ての目は喜びに満ちたように歪みながら、ただ一人だけを視界に捉え続けていた。
「ひっ、ひぃぃ……!」
未だに目の前の相手が何なのかは分からないし、人が到底理解できる類のものではない。
唯一確実なのはあれは間違いなくこちらを害する存在で、青年は全身が総毛立つ感覚に震えていった。
「gジゃbアあァヴレぼォおあオっアぁァあガあぁァぶグオォあぁァアが!!!!!!!!!」
直後にそれは全身を激しく揺らしながら、この世のものとは思えない邪悪な叫びを発していく。
「うぐぁっ、ぐあぁあっぁあ……!」
それは耳をつんざきながら脳内に直接響き、まるで脊髄を鷲掴みにされたような感覚に陥る。
「あ……」
直後には青年の目の前は真っ暗になると、そこからはあっという間に何も感じられなくなっていった。
後に青年が発見された時にはすでに事切れた状態で、その全身は至る所から血が噴き出した凄まじい惨状となっていた。
当初は誰かが何かしらの手段を持ってそうしたのかと疑われたが、いくら調べてもそのような結論へ至る証拠や容疑者は見つからない。
それでは病気や身体の異常がもたらした結果なのかと思われたが、これもどれだけ調べてもおかしな兆候や変異はまるで認められなかった。
解剖を担当した医師はもちろん、調査を担当した警察もこのような不可思議な事態には頭を悩ませるしかない。
その上で結局は全てが詳細不明のまま、あくまで事件性はないものとしてこの件は処理される事となった。
まだ若いのにあまりにも早くこの世を去った青年に対し、周囲の人間は悲しみや困惑に包まれるしかない。
葬式には友人や知人、恩師や近所の住人など多くの人間が集って青年の死を悼んでいった。
一方で青年の家族や親類はあからさまに恐れおののくと、示し合わせたかのように一斉に現在の住処を離れていく。
それは職場や学校などを完全に放って、まるで夜逃げでもするような突然のものだった。
家の中にも多数の物や生活の痕跡が残されたままで、それはあまりにも不可解極まりない行動に思えて仕方がない。
恐らくそうするにはそれだけの理由があったのだろうが、そうした所で彼等の身に襲い掛かる不幸に何ら変わりはないようだった。
彼等が新たに向かったその先々では死亡者が続出し、今もそれは止まっていないらしい。
日本中どころか世界中に散らばった親族は一人ずつ、青年と同じようにある日いきなり意識を失う。
そして数日後にはこれも同じように、原因不明の激しい出血を伴って死亡する事となる。
その年齢や性別に区別はなく、唯一の共通点と言えば同じ苗字だけだったそうだ。
結局あの時、青年の前に現れた存在はどこまでいっても正体不明でしかない。
その目的や動機など多くも謎に包まれたまま、全ては闇の中に埋没するように密かに消え去っていく。
分かっているのは世に出回る怪談に登場する幽霊とは明らかに違い、異常なまでの凶暴性を持ち合わせているという事くらいだった。
他には特定の名前に固執し、同じ名を持つ者を執拗に狙い続けるという特徴もある。
だがそれら以外は確実な情報もなく、どうすれば逃れられるのかすら分からない。
仮にできる事があるとすればあれの存在を意識せず、下手に近づかない事くらいだろう。
もしも誰かからあれの噂を聞いてしまったのならば、すぐに忘れた方が賢明なのかもしれない……。
「さぁ、今度の話はどうだった? うん、そうだね。最初の話と比べて、一気におどろおどろしくなったね」
場を薄暗い一室に戻すと、少年は愉快そうに一人で何度も頷いていた。
「それにしても一体、誰がアレの封印を解いたんだろうね。全く、怖いもの知らずもいたもんだよ。まぁでもこの話はザ・怪談って感じだけど、ちょっとストレートすぎる気もするかな?」
さらに少年は相手の言葉を遮るように話し、それに異を唱える者もそこにはいない。
「人によっては、どこか既視感が出てくるかもしれないね。場合によってはもっと変化球な方がいいだろうし、君も色んなタイプの話を聞ける方がいいだろう?」
やがて少年は改めて前をじっくりと見据えると、やや前傾姿勢になりながら自分の前で両手を組む。
「うん、そうだよね。じゃあ、次の話はこんなのでどうかな……?」
そして目を細めて静かに息を吸い込むと、その場の雰囲気に合ったように静かな語り口で話し始めていった。
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