はじまりの日
藤里明日香
第1話
小さな嘘を一つついたのが始まりだった。一つの嘘が別の嘘を呼び次第に嘘が積もってゆく。耐えられなかった。嘘をつくのも、その嘘を信じてくれることも。私はずっと、生きる価値のない人間だった。
だから、もう。
終わりにするんだ、全部。
朝焼けとオレンジ色に染まる空が、やけに綺麗だ。そんな早朝、戦闘服に選んだのはブルーのジーンズに赤いパーカーと、足元には真っ黒なスニーカー。赤い服なら、もし血に染まったとしても大丈夫かな。私を見つけてくれた人が少しでも驚く要素が少ないといい。向こう側へ行く前に、一つでも善を行いたいなんて思うのは馬鹿げてる?散々嘘をついてきたんだから、閻魔様に舌を抜かれるのは確実なのに、今さら悪あがきしてる。
人影がまばらの車内に飛び乗ると、四人掛けの席に一人で座った。コンビニで買ったばかりのサンドイッチとおにぎり、それから自販機で買ったまだ温かいレモンティーのペットボトルを窓際に設置された小さなテーブルに置くと、間もなく発車のベルが高崎駅のホームに鳴り響いた。静かに扉が閉まり、それからガタン、ゴトンとお尻の下に響く震動と共に緩やかに電車が動き出した。じんわりと
湘南新宿ラインを選んだのは四人掛けの席にどうしても座りたかったのと、緑とオレンジ色のカラーリングが古めかしくて素敵だったからだ。それに新宿を通るから、どこに行くにしても都合が良かった。
山の上に観音様が小さく見える。小さい頃から観音様の元で育った。戦時中に作られたのに、戦火を免れた観音様は高崎市の守り神だ。山を振り返れば、いつもそこに構えていた。お父さんが生きていた頃は休みになると決まって歩いた。住宅街を抜けて清水寺の石段を昇り、しばらくすると二体の仁王像に迎えられる。少し怖さを抱えながら、なるべく目を合わせないように太い縄を揺らして鐘を鳴らして通り越し、さらに息を切らしながら石段を昇っていく。石段を終えて清水寺でお参りをした後、山頂の駐車場でひと休憩。周りのお店を見ながら参道を歩いていくと観音様が出迎えてくれた。思えば一番幸せな時間だった。右手首で針を止めたままの銀色に鈍く光る時計が視界に入り、ズシリと重たく沈んだ。
これからどこに行こう。ううん、違うか。私はどこに向かうべきなんだろう。目的を果たす場所は、出来るだけ寂しい場所がいい。
心を決めた日から、そういうサイトばかりを見ていた。『出来るだけ家族に迷惑をかけないで済む自殺の方法』『自殺の名所ランキング』『死ぬまでに準備すること』ーーー本当に色々と読んだし、かつてない位に勉強した。これくらい勉強していれば、入りたかった高校にも入れていたかもしれない。
意外だったのは、その手のサイトは自殺を助長するものばかりじゃなく、逆に考え直すように訴えるものばかりだった。中には飛び下りた人の無修正の写真を載せているところもあった。『死ぬ気になれば何でも出来ます。だから思い直してください。いま、ここから。』『綺麗でなんか死ねないよ。』そんな風に書かれていた。でも別に、綺麗で死にたいなんて思ってはいない。ただ出来るだけ人に迷惑はかけずにいなくなりたい。それだけだ。
深谷駅に着くと急に乗ってくる人の数が増えた。さっきまで目立っていた空席が次々に埋まり、車内の酸素が一気に薄くなる。私の前にも眼鏡をかけた男子校生がムスッとした表情で座り、隣には少し体型のいいおばさんが『ちょっといい?』と私に聞きながら返事を待たずに座った。ドシンと豪快に座ったおばさんのおしりが勢い良く私にぶつかったのに、おばさんは謝りもしない。こういうお母さんたちくらいの人は、よく子供にお説教したりするけど、こういう時は声を大にして言いたくなる。
自分はちゃんと出来てますか?素直に謝ることさえ出来ない人のことを、大人だと認めたくたない。本当に大人なんて、みんな勝手ばかりだ。
停車駅が増えるごとに、箱の中はますます窮屈な空間になる。四人掛けの席を取り囲むように立っている人たちは、我先にと餌を求める池の鯉たちのように窮屈そうだ。そんな光景を見ていたら人酔いしたらしく、
ふとサラリーマン風のおじさんと目が合い、睨みつけられた。気まずくて視線を窓の外にずらし、イヤホンをする。目を綴じれば、外の世界を遮断出来るからだ。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓に寄りかかって寝ていたせいか、首が少し痛い。かかりっぱなしの音楽の向こうからは、周りの音が聞こえてくる。もしかしたら、何かの車内アナウンスかもしれない。前の男子高校生が眼鏡の奥で瞳を上に向け、眉間にしわを寄せると取り出したスマホで忙しそうに指先を動かし始めた。周りの人たちもみんなざわざわし始め、スマホをいじり始め
ている。イヤホンは着けたまま音楽を消すと、原因は直ぐにわかった。
『桶川駅の構内で人身事故がありました。そのため、この車両はホームに入れません。しばらく停車致します』
なるほど。人身事故が起きたんだ。湘南新宿ラインのtwitter を見ると、次々に新しいツイートがあがっていく。
『桶川駅にいたら人身事故に遭遇!飛び込んだのは女子高生らしい』
『女子高生って情報は嘘です。本当はかなり年配の女性のようです』
『なんか警察と救急車来たnow!』
『救急車ってことはまだ助かる見込みある?』
『つうか駅に入れなくて電車止まってんだけど。バイトに遅れるマジ勘弁して』
『なんでこんな死に方するかな』
手元の小さな画面に次々と羅列していく言葉たちの中には、心ない無責任な言葉もあれば、胸を打つ優しい言葉もある。飛び込んだのは、私だったかもしれないと思うと、他人事にはどうしても思えない。これから私も、形は違っても同じ結果になるんだ。
飛び込んだ人のことを想像する。飛び込む前はどんな気持ちだったかな。怖かったはずだ。すごく迷ったりしたかな。誰かの顔が浮かんだりしたのかな。私も、そうなるのかな。
サイトで見た最期を迎えた人たちの写真が、次々と脳裏に浮かび上がる。脳が飛び出している人や、どんな顔をしていたのか全く分からないくらい原型を失っている人もいた。家族が見ても、自分の子供とか母親とか、父親とか兄妹とか、分からないかもしれない。
怖いくせに、反面羨ましいと思ってしまうのは、一瞬は苦しかったとしても悲しかったとしても、もう息のしづらいこの世界から解放されることへの憧れからだ。
どのくらい時間が経ったのか、立ってる人たちのため息の数が増えてきた。隣のおばさんは、鞄の中から次々とお菓子を取り出しては口へ入れている。ドラえもんのポケットみたいに、いくらでも出てきそうだ。チョコにキャラメルに飴にマシュマロ。いまどき高校生だって、ここまでの数は持ってない。
このおばさんだって、何十年か前は私と同じ高校生だった。生きていれば私もいつか、おばさんになる。だけど私は謝れない大人にも、お菓子を山ほど持ち歩く大人にもなりたくない。その答えを私が知る日は永遠に来ないのに、そんなことを考えている自分に可笑しくなった。
ツイッターに新たな情報が追加されていく。
『続報。やっぱり飛び込んだのは女子高生らしいです。救急車がサイレン鳴らして出て行ったから助かったっぽいです』
『やっぱり女子高生だ!担架の横にちらっと制服見えた』
『命は大切にねって教わってないのかな』
『受験生?わかんないけど助かりますよ~に』
もし助かったら、目を開けたと絶望的な気持ちになるかもしれない。ようやくこの世界に決別できたと思ったのに、目を開けたら元通りの世界だなんて。いや、違うか。元通りより、もっとずっと悪いかもしれない。みんなに自分が一番知られたくなかった気持ちを知られてしまうんだ。死にたいという気持ちは簡単に声に出して言えない、デリケートな側面を持っている。だってそれを声に出してしまったら、この世界に満足していないという気持ちが、明らかになってしまう。それは一番怖い。だから死ぬなら絶対に失敗しない方法にしなければ。周りの人たちの声を、二度と聞かなくて済むように。
「あ、すみません」
向かいに座る男子高校生が鞄から取り出したばかりのノートを落としただけなのに、わざわざ謝ってくれた。
足元のノートを拾い上げて渡した。
「どうぞ」
「どうも」
開いていたノートを閉じる瞬間に中に書いてある文字がはっきりと見えた。数学だけど、明らかに私とはレベルが違っていた。それによく見るとこの制服は柳橋高校だ。偏差値78で、末は官僚や弁護士、または日本を背負って立つような人たちが通うので有名な学校だ。偏差値56の学校に通う私とは雲泥の差がある。
涼しい顔でノートを開く彼に、私は心のなかでそっと謝った。ごめん、実はちょっと見えちゃってたんだ。読みやすそうな綺麗な字で書かれていた数字の横に書かれていた文字は『自殺計画書』だった。
はじまりの日 藤里明日香 @pocketstory2123
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