第1話:イリスの旅立ち

 今日も、その街の空には大きな花火が打ちあがる。大通りに所狭しと並んだ家屋の真っ赤な屋根が照らされて、街全体が燃えるように輝いた。一本の串焼きで争う火妖精の甲高かんだかい笑い声と魔法の炸裂さくれつを、住人は快い生活音として受け入れる。 街には火魔力が充満し、空気は常に熱を帯びている。

 

歓楽街かんらくがい


 自然発生的に名付けられたその街には、今日も闘争と悦楽えつらくが溢れている。


***

 

 月が頭上に輝く、深夜。フクロウの声を遠くで聞きながら、イリスの視線は真っ直ぐと、眼前の布切れに注がれた。細木に括り付けられ、頼りなく垂れ下がった一枚の布切れ。木々の間を吹き抜ける夜風が、銅色の長髪と真っ黒な布切れを撫でて揺らした。半身に構えて背筋をピンと伸ばし、感覚を鋭敏にして、指先に魔力を集める。何千回と繰り返された所作は流麗という他なく、イリスの美貌も相まってその姿は一個の彫刻を思わせた。限界まで引いた弓の矢から優しく手を放すように、音もなく放たれた火炎魔法は「焼き尽くす」という明確な意思をもって布の中心部へと吸い込まれていく。

 

 ——ボッ。


 細木の水分が一瞬にして蒸発し、小規模の爆発が起こった。


 今度こそ。


 上半身を失い一本の棒になった細木を見てそう思ったが、布切れは頭上からヒラヒラと舞い降りて、愚かな彼女をあざけった。透き通った白を基調としたドレスが、月明かりに照らされて蒼く光る。


「期待するな、イリス」


 近くに佇む大柄な妖精が声をかけた。低く迫力のある声だが、怒気は感じられない。軽装鎧プレートアーマーを纏った風貌は戦士を思わせ、彼の顔に年輪のごとく刻まれた数多の古傷が、その歴戦を証明している。鎧を透過して生えた一対の羽はまるで不定形な炎で、夜闇を陽炎かげろうのごとく歪ませた。


「今のは狙いが大雑把だった。熱線が布と木を貫通するように、しっかり狙え。布目を通して撃ち抜かなければ、耐性魔法は突破できない」


 彼の言葉に、イリスは頷いた。


「はい、ヴォルドー」


 布を拾い上げて、別の細木に括り付ける。おろしたての一張羅のような手触りに、思わず歯噛みした。このままでは、あの子との約束を守れない。祭りの日に、あの子――ライフィナとした、約束。力なく地に伏せ、消えるライフィナを眺めたあの時のことを、覚えている。漆黒のローブをまとう敵の紫に光る魔法を、覚えている。ライフィナの助けを呼ぶ悲痛な声を、鮮明に覚えているのだ。イリスはぎゅっと目を瞑った。彼女は高々布一枚に、一つの外傷もつけられないでいた。彼女が故郷を離れてから、既に一か月余りが経過していた。イリスは再び、半身に構えた。


 ライフィナ、待っててね。


 心の中で呟く。ほどなくして、雨が降り出した。雲一つない夜だった。


 

***



 その花火は、一際大きかった。歓楽街成立記念日を祝う大祭、その開催を告げる大花火だ。 橙色に輝く光子が宙を舞って、パラパラと街の空を染める。


「うわぁっ!?」


 あまりの爆音に、イリスは思わず飛び起きた。時刻はもう正午近くである。窓の外からは、祭囃子と妖精たちの談笑する声が聞こえる。


そっか、今日は祭りの日だった!


 段々と像を結んできた意識が、胸の高鳴りを呼び起こす。逸る気持ちで視線を上げると、ヨレたシーツの先で一匹の風妖精がふんぞり返っていた。イリスの腰の高さ程の身長で、その髪と肌は薄緑に透き通っている。その妖精はふんふんと鼻息を荒くして、組んだ腕を上下に振った。それに合わせて、小さな羽根がピコピコと動く。大きなつり目は見開かれ、髪と肌は今にも真っ赤に染まりそうだ。


「ねぇイリス!やっぱり起きれなかったじゃない!お祭りなんだから早く寝てって昨日は3回も言ったのに!!」

「もー、アネモネうるさい。楽しかったからいいの!」


 アネモネと呼ばれた妖精は、ドンドンと足踏みをする。軽やかなワンピースの裾がブワッと持ち上がった。アネモネは頬を膨らませ、ふぅっと息を吐く。初級魔法『ウィンド・ブレス』。風魔力を孕んだそれはイリス目掛けて吹き付け――まるで壁に当たるかのように消失した。窓から差し込んだ日光に照らされ、イリスの正面にできた半透明の膜が輝く。単純なシールド魔法による防御。イリスも妖精王子だ、これくらいは当たり前にやってのける。アネモネはさらに頬を大きくして悔しそうにしかめっ面をした。べーっと舌を出したイリスはベッドから転げ降りて、勢いそのままに寝室のドアを開けた。


 ボンッ。


 鈍い音がして、イリスはやれやれと首を振る。この音には心当たりしかないのだ。


「おはよ、エーダ」


 ドアをガチャガチャと開閉して、早くどいて、という意思を表明する。


「おはよ~、イリス~」


 薄黄色の大きな腹を掻きながら、エーダはふよふよと飛び立った。上半身裸に、黄色い花柄のスウェットといった装いだ。背丈はアネモネと同程度だが、恰幅かっぷくの良い外見が二回りほど存在感を大きくしている。ぴょこんと跳ねた短髪は、マヨネーズのツノのようだ。イリスはそのふくよかな土妖精を風魔法で押しのけ、リビングへと向かった。ずんずん音を立てて歩くその顔は、少々の苛立ちを湛えている。


 なんで私の眷属は五匹もいるのよ!......クセも強い気がするし!


 イリスは妖精王子である。しかも例外的に、五匹の眷属を有する。眷属の役割は日常生活の補助から労働、魔法の練習相手まで多岐にわたり、妖精王子にとって不可欠な存在だ。通常の眷属は王子本人を小型化したような外見で、特段会話をすることもない。その点だけ取っても、イリスの眷属は特殊だった。

 

「おはよう、みんな」


 そう言ってイリスがリビングのドアを開けると、二匹の眷属が出迎えた。


「おうー、イリス!よく眠れたかー?」


 そう言ってほの赤い手を挙げたのは、火妖精のイグニスだ。炎のような赤髪が逆立ってゆらゆらと揺れている。キリっとした目は精悍せいかんな顔つきを想像させるが、その場の誰よりも小柄な体躯が、高い声が、その印象を少年のようだと塗り替える。半袖短パンの格好も、少年らしさを加速させていた。イグニスは手近な水妖精の頭に片手を置いて、乗り出すように手を振った。昼食の準備をしているのだろう、せわしなく手を動かす彼女の顔はいかにも迷惑そうだ。


「おはようございます、イリス。.......ちょっとイグニス!いい加減になさい!」

「うぶぇっ」


 彼女は身体から水を勢いよく出して、イグニスを跳ね飛ばした。水魔法『アクア・ファウンテン』。水を出す、ただそれだけだが、水魔力が貴重な歓楽街では中々お目にかかれない魔法だ。ボフン、と蒸気が部屋に充満する。勢いよく発射されたイグニスは背後の棚に突き刺さってしまった。コミカルな格好になったイグニスには一瞥もくれず、水妖精は料理を盛り付けている。青肌、青髪、痩身そうしんで、長身。真面目そうな印象を受けるのは、眼鏡をかけているからだろうか。翠色のフレームが、窓から差し込む日光に照らされてキラリと光る。身に纏う襟付きのワンピースは、先ほどの水魔法で少し湿っているようだ。

 

「またやってるの?あんたもいつも大変ね、フルーメ」


 イリスは窓を開けながら同情しているかのような言葉を投げかけた。しかし、特に関心がないのはフルーメが一番よく分かっている。イリスには悪戯をしないからだ。


「貴方が強く言ってくれないとやめないんですよ?この馬鹿は......」


 フルーメは蛇口から出た水流を操って、皿を器用にダイニングテーブルへ並べた。その日の昼食は、ご機嫌にも流乱魚りゅうらんぎょのアクアパッツァだ。瑞々しい赤い果実と香草の鮮やかなコントラストが食欲を掻き立てる。しかし、イリスの表情は暗かった。


「なあなあー、俺思い出したんだけどよー。これ四日も同じメニューじゃんかー!」


 イグニスは棚から頭を出して、抗議した。彼の不躾ぶしつけとも思える指摘に、イリスは何も言わない。イリスも全く同じことを思っていたからだ。フルーメは眉間に皺を寄せ、不満げな表情をつくった。


「なら貴方が作ってくださる?でないとずっと私の気分で料理を出しますよ」


 イグニスを睨みつけるその手には、よく手入れされた包丁が光る。その時、気の抜けた声がリビングに響いた。


「僕は~フルーメの料理なら~なんでもいいよ~。ぜ~んぶ~おいしいもん~」


 開け放たれたドアからエーダとアネモネが入ってきた。アネモネがエーダの背中を押して運んできたようだ。彼女の顔は先ほどよりも赤くなり、額には青筋が浮かんでいる。


「朝ごはんの~おさかなのスープも~美味しかったし~」

「ねえ!エーダ!お、も、いー......!もう!一人で飛べるでしょ!」


 アネモネは悪態をつきながら、少しの違和感を覚えていた。エーダを運ぶのなんて日常茶飯事だが、普段はこれほど重く感じなかったはずだ。グッと、拳を握って魔力を込めてみる。やっぱり、なんだか上手く力が入らないような......。


 パンッ


 ひとつ、イリスが柏手かしわでを打った。


「朝ごはん、いただきましょ!さっきはごめんね、フルーメ。いつもありがと」


 フルーメは顔を背け、艶のあるポニーテールのような青髪をくるくると弄ぶ。


 「分かればいいんです......」


 少し不服そうな彼女に、イリスは笑いかけた。

 

 「でもね、フルーメ。この料理じゃ水魔力しか補給できないことも分かってほしいの。みんな少し元気がなさそうだし、私ももっといろんな料理が食べたいしさ!」


 森の生物たちは体内に豊富な魔力を有している。妖精は空気中からも魔力を得られるが、食事による補給効率は非常に高かった。フルーメの眉が少し下がり、申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「珍しく流乱魚が大漁で、調子に乗ってしまいました......。皆さん、ごめんなさい」


 そう言った彼女に、皆は慌てて日ごろの感謝を述べた。普段の献立は完璧で、こんなことは初めてだったからだ。フルーメは四方八方から飛んでくる感謝と褒めに困惑していたが、次第にその表情は照れ笑いに変わり、ひらひらと纏められた髪を撫でた。その後の雰囲気は、いつも通り和やかなものだった。結局のところアクアパッツァは美味しく平らげられ、昼食の時間は笑顔で過ぎていった。


「じゃあ、行ってくるね!」


 昼食から数分後、慌ただしく準備を済ませたイリスは家から飛び出した。アネモネとイグニスも、連れ立って飛び立つ。


「イリス!お金は持ちましたかー?」


 フルーメが小走りに玄関に出てきて呼びかける。もちろん、イリスは忘れていた。持ってきてー!と中空から叫ぶイリスにフルーメはため息をこぼしたが、次の瞬間には水流がキラキラとした楕円の宝石を運び、イリスの手に握らせた。


「フルーメ、ありがとー!いってきまーす!」

「いってらっしゃい、皆さん」

 

 フルーメは玄関前で手を振った。エーダはリビングの床に寝っ転がって、すやすやと寝息を立てている。

 幾度か羽ばたいて視界が屋根の高さを超えると、異質に活気立った街並みがあらわになってくる。連なった赤屋根からは提灯が垂れ下がり、火炎魔法で灯った青炎が街路を見下ろしている。その下には「ぷにぷにスライムのフローズンシャーベット」「火虫ひむしのパリパリ揚げ」といった定番の出店から、「天蚕てんさんのオーダーメイドクロス」「多原色魔石店」などの珍しい店までが所狭しと並ぶ。どの店舗も、はしゃいだ妖精たちで大盛況だ。先ほどまでの一件で鳴りを潜めていた胸の高鳴りは再び大きくなって、イリスはプロスケーターのように空中をくるくると回った。イグニスも少年のような顔を輝かせ、真似をしてくるくる回っている。アネモネは顔を抑えて嘆息した。


「もー......子供じゃないんだからさぁ」


 アネモネが呆れ顔で視線を下げる。すると、赤い街の中で佇む一匹の妖精が目に留まった。どこか遠くの街から来たのだろうか、きょろきょろと不安げに周囲を見回しているその妖精には、不思議と目で追ってしまう奇妙な存在感があった。歓楽街には珍しい水妖精で、すらっとした長身から妖精王子であることがわかる。表情は覗い知れないが、青めいた金髪は綺麗にまとめられ、花の装飾が彫られたカチューシャに彩られている。全身からは水魔力が漏れ出しているようで、彼女の周囲だけ幾分か涼し気な印象を受けた。


「ねえイリス。あの子、困ってるのかな」


 アネモネに呼びかけられ、イリスは高速化していた回転を止める。張り合って回転するイグニスは既にドリルのような見た目になって、空中に熱風を振り撒き続けている。イリスがアネモネの指先に目をやると、すぐに彼女のことを言っているのだとわかった。視線に気づいたのだろうか、彼女はおもむろに振り返って、空を見上げる。青い瞳を携えた切れ長の目が、イリスの双眸そうぼうをとらえた。

 

「うわぁー、キレーな子ね......」


 思わず息をのむ。それほどまでに美しい妖精だった。二匹はしばらく見つめ合って、どちらともなくはにかみ会釈をした。笑い顔は子供みたいなんだな、とイリスは思った。イリスとアネモネは羽ばたきを緩やかにし、ゆっくりと彼女のもとへ降りていく。イグニスは目を回して、ふらふらとどこかに飛んで行ってしまった。対面してみると、彼女の背丈はイリスよりも一回り大きい。


「こんにちは!私はイリス。こっちは眷属のアネモネ」


 心掛けて、普段よりも明るく挨拶をした。紹介を受けたアネモネは得意げな顔で胸を張る。小さな羽根も、目一杯広げて。


「丁寧に、どうもありがとう。私はライフィナ、よろしくね」


 自らをライフィナと名乗った妖精王子は、手を前に組んでにっこりと笑う。一陣の風が彼女を通り抜けて、イリスたちに涼風が吹き付けた。先ほどの不安げな様子からは打って変わって、余裕すら感じさせる佇まいだ。心配は無用だっただろうか。


「この街は初めて?よかったら、案内しようか」


 イリスから一応とばかりに投げかけられた提案に、ライフィナの表情は明るくなった。姿勢も少し前のめりになって、両手を胸の前で組むその動作は、喜びと安心を表現しているかのようだ。

 

「ぜひ!すっごく助かるわ!」


 その後は会話をしながら、いくつかの出店を回った。ライフィナが昼食を食べていないと言うので、歓楽街名物「不死鳥焼き」を振舞うと、彼女はその圧倒的な辛さに目を丸くしていた。真面目そうな印象とは裏腹に、ライフィナの表情はころころと変わったし、イリスたちの冗談によく反応して笑った。当初は若干の気まずさを感じていたイリスも、その様子を見てか、いつしか家での振る舞いと相違ない自然さでライフィナと接するようになった。イグニスは途中で戻ってきて、その陽気な性格を武器にライフィナと打ち解けた。ライフィナは祭りに集まった移動サーカスや歓楽街特有の東欧風建築を興味深そうに眺め、石像のように動かなくなるのを何度かアネモネに注意されていた。そんなとき、決まって嬉しそうに謝るライフィナの顔が、イリスにはとても不思議に映った。

 祭りの時間は足早に過ぎ去り、陽は段々と傾いていった。

 

「私、こんなに楽しいのってはじめて」


 唐突にライフィナがつぶやく。夕食後、大通りを散歩している時だった。家々に吊るされた青い光に照らされて、物憂げな表情がぼんやりと浮かび上がる。先ほどまで明るい笑顔を浮かべていた彼女の言葉に、イリスは何も言えずに続きを待った。周りをふわふわと飛ぶアネモネ、イグニスも同様だ。ライフィナはそんな彼女らの意図を汲み取るかのように、一拍の後に話し出す。


「ライフィア湖ってところから来たの。ここからだと山を一つ越えないといけないから、結構遠いかな......。まあ、全力で飛べば1時間くらいなんだけど」


 街は依然として雑踏に包まれているが、彼女の声は、言葉は、耳元で囁かれているかのように自然と響いた。


「綺麗なところよ。朝早くは少し霧がかかってるんだけど、湖の水面とその周りに咲くお花が、太陽の光できらきら輝くの。鳥たちは水魔力を振り撒きながら飛び立って、青い軌跡が空に残って......私は塔の上からそれを見てた。本当は、湖のほとりで見たかったのにね」


 悲しげな声だ。イリスたちは歩く、あるいは飛ぶ速度を随分と落として、ライフィナの話に耳を傾ける。


「あんまり、お外に出れなかったの、私......巫女なんだってさ。ライフィア様って神様がいて、それをすごく大切にしてるみんながいて。名前が似てるからかな、魔法が、特別だからかな~......大事なんだってさ。だから、外に出ちゃダメなんだってさ。......わかんないよ」


 それは誰にも言えなかった、いや、言う相手さえいなかったのであろう、ライフィナの本心のように思われた。声と肩は少し震えて、彼女の目線は自然と上を向いていった。イリスにとって、ライフィナの境遇はカルチャーショックと表現する他になかった。妖精王から生まれてすぐに歓楽街へと流れつき、五匹の眷属と共に悠々自適な生活を謳歌してきた。自由を信念に掲げるこの街ではそれが正義で、絶対で、唯一だった。他に目を向けたことなどなかった。これまでの無関心が、確かな重圧をもって胸に迫っているように感じられた。


「そんなのおかしいわ!神様なんて、いるかもわからないじゃない!!」


 アネモネが頬を膨らませてプリプリと怒っている。ライフィナは微笑して、視線を元に戻した。

 

「そうね......だから、抜け出してきちゃった。すっごく大きな花火があったでしょ?あれが山の向こうに見えて、私、居ても立っても居られなくなっちゃってさ」

「誰にも、気づかれなかったの?」


 イリスが疑問を口にする。至極当然な疑問だ。ライフィナは少し考えてから、首肯した。

 

「今日に限って、護衛が居眠りしてたの。いつもだったら、絶対そんなことないのに」

「めっちゃラッキーだな!?」


 イグニスが目を丸くする。


 「ふふ、ラッキーよね!私、すぐに窓から飛び立ったわ。全力で羽ばたいて、羽ばたいて......そして、いつのまにかこの街に着いてた。そしたらイリスたちが声をかけてくれたの!.....嬉しかったな」


 ライフィナが照れ臭そうな微笑を浮かべる。提灯の青に照らされてもなお、深い紅に煌めく街並みから、彼女だけが浮いているように見えた。イリスは、目元にぎゅっと力を込める。そうしないと、溢れてしまいそうだったから。


「俺さー、良かったよ。ライフィナと会えて」


 イグニスはニカッと笑い、いつもの調子で口にした。普段はイグニスの言葉を打ち消すアネモネも、大きく頷いて同意を示す。少し先を歩くライフィナは振り返って、ありがとう、と言った。イリスは数瞬言葉を探したが、頭をぶんぶん振って、真っ直ぐな目でライフィナを見つめた。


「これからが楽しみね、ライフィナ!見たかったお花も、食べたかった御馳走も、全部全部、叶えちゃえばいいじゃない!もちろん、私も、眷属のみんなも、一緒にね!」


 イリスがイグニスとアネモネに目配せする。二匹はイリスの両脇に来て、胸を張って頷いた。


「約束しましょ。誰にも文句なんて、言わせないわ。だってここは、『自由』の街なんだから!」


 イリスは口角を上げて腕を組み、力強く頷いた。ライフィナは少し驚いたような顔をして、そのあと、少女のように笑った。

 

 その時だった。


 ザンッ。


 視線の先、ちょうどライフィナの真後ろあたりに鎮座する家の屋根から、二つの影が降りてきた。一体はイリスの倍ほども大柄で、もう一体はイリスの倍ほども小柄だ。身に纏う黒いローブは足まで伸び、その内部の一切を秘匿している。瞬間のうちに現れたそれは、既に魔法の詠唱を始めていた。ぞっ、とイリスの背筋に怖気が走る。かおも羽もないその姿は、圧倒的なまでの不吉を纏っていた。アネモネは焦ったような表情を浮かべてフリーズし、危険を察知したイグニスはライフィナの方に飛び出す。


「ライフィナ!避けてッ!!」


 イリスは両手を前に突き出し、自身が覚えている中で最速の攻撃魔法を詠唱する。火魔力の操作が上手くいかないが、そんなことは関係なかった。『花火はなび』と名付けられたその火炎魔法は、イリスの手のひらから射出されると同時に勢いよく縦回転し、ライフィナの肩を掠めて敵へと駆ける。熱傷と断裂を約束したそれは、大柄な影を真正面から捉え、そして......跡形もなく霧散した。どれだけ目を凝らしても、ローブには傷一つ見当たらない。


「さあ、帰りましょう。ライフィナ様」


 大柄な影が嗄れ声でつぶやくと、ライフィナの周囲に長細い紫煙しえんが立ち込め、彼女の四肢に巻き付いた。淡い紫に光るその魔法は、誰の目にも明らかに未知だった。ライフィナは必死に抵抗するが、不定形の煙は緩やかな捕縛を続け、無為に体力を消耗させる。ライフィナに向かって飛び出したイグニスの眼前には小柄な影が出現し、酷く単純な回し蹴りによって彼をイリスのはるか後方まで吹き飛ばした。


「ッ......アネモネ!お願い!!」


 イリスは力強く羽ばたき、漲る水魔力を拳に込める。アネモネの風魔法によるバックアップを期待したが、彼女はまだガタガタと震えて動けないでいた。イリスは振り返ることもなく、小柄な影の元へ突進する。意外にも、彼女は冷静だった。思考は熱を帯びていたが、奴を捨て置いてライフィナを取り返すことはできないと正しく理解していた。小柄な影は姿勢を低くし、てのひらをイリスの方へ向ける。堂に入るという言葉が良く似合うその構えは、ハイレベルな武道家を想起させた。


「はあァッ!!」


 気迫は十分。突進の勢いのまま、イリスは乱雑な突きを放つ。本人の風魔法によって高速化したその拳は、影の顔面へ一直線に向かい――奴の背後から伸びた黒い触手によって、いとも簡単になぎ払われた。なっ――。イリスの当惑をよそに、その右頬には回し蹴りがお見舞いされる。見るのと喰らうのでは、随分違うものだ。余りの威力に彼女は弾き飛ばされ、脱力し切って地に伏せた。回転する視界の中に、奴らの姿が映る。


「ライフィナ......」


 手を伸ばすが、無駄だ。意味などない。それは当然分かっていた。拘束され、大柄な影に担がれたライフィナと目が合う。彼女の眉間には無意識の力が入り、その目からは涙が溢れている。口元に巻き付いた紫煙で半分ほど隠れた残りの顔は、ぐちゃぐちゃに歪んでいるだろう。


「喧嘩だー!」

「すごいぞ!!黒いやつ、強い強い!」

「もっとやれーっ!」

「「「キャハハハハハッ!!!」」」


 大通りを飛ぶ火妖精たちがはしゃいでいる。屋台の店主も、並んでいる妖精王子たちも、同じだ。その笑顔に一切の偽りはない。彼らに、善悪はない。定められたルールを守るも、力で思いのままにするも、この街では『自由』だ。イリスは思い切り歯を食いしばった。


「殺すか?」


 小柄な影が尋ねる。空洞の奥から感じる視線に、イリスの本能が全力で警鐘を鳴らした。濃厚な死の予感。大柄な影は、担いだライフィナの方をちらりと見る。

 

「いや......いい。無駄なことはするなと言われている」

「そうか、残念だ」


 二つの影が踵を返す――その瞬間。灼熱を帯びた斬撃が俄かに逸れたような軌道を描き、小柄な影のローブ、その袖を切り裂いた。正中線での断裂を免れた小柄な影は、素早く周囲を見回す。大柄な影は何かに気がつき、面倒くさそうに声を上げた。


「勇者のなれ果てが。流石の威力だが……少し遅かったな」


 イリスは地面から視線を上げる。影が現れた屋根に、一匹の屈強な妖精王子が佇んでいた。その肩には炎を纏った刀剣を備えている。男は剣に手をかけた。鋭い眼光が、影を睨んだ。


「『あれ』を使うぞ。足手纏いがいては勝負にもならん」


 男が飛んだ。屋根を蹴り飛ばす音が遅れてくるほどのスピード。燃える刀剣が影を捉える瞬間、小柄な影が地面に何かを叩きつける。その時、イリスの耳に声が響いた。

 

 お願い、イリス。私を助けて。


 ライフィナの声だった。頭の中に直接届くかのように、鮮明に聞こえた。


 ドンッッッ......


 重音が響く。男の剣は地面を捉え、深く抉った。その周囲には、群青に輝く石片のみが散らばっている。二つの影も、そしてライフィナも、初めから存在しなかったかのように。


「ライフィナ......」


 イリスが呟く。その肩に、弱々しく手が置かれた。仰向けに振り返ると、イグニスを担いだアネモネが泣きじゃくっている。イグニスの意識は無いようだ。


「イリスぅ......ごめぇん......何も、出来なかったのっ……ごめんね......」

「......アネモネ、大丈夫。イグニスを連れてきてくれて、ありがと」


 アネモネの頭を、イリスの手が優しく撫でた。アネモネの震えが伝わってくる。イリスの目からも、熱い涙が溢れた。


「......友達か?」


 男はイリスの方に歩み寄って尋ねた。

 イリスは頷く。


「悔しいか?」


 イリスは頷く。


「友達を、取り返したいか?」


 イリスは頷く。


「俺は訳あって奴らを追わなきゃならない。お前も、一緒に来るか?」


 イリスは、深く頷いた。


「ヴォルドーだ」

 

 男が手を差し伸べる。


「……イリスよ」


 男の手を強く掴んで、起き上がった。その力強さは、ライフィナ奪還を誓う証だった。イリスは日の沈んだ空を見上げる。祭の終わりを告げる大花火が、真っ赤に咲いた。

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妖精の森 / The Fairy Forest ユルング @yurung_alt

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