聖域と王 1  

夜の大阪、十三は、濁っていた。


湿度が落ち着かないといけない季節。

高架を過ぎた風がひとつ、アスファルトの地肌を撫でてくる。

肉と油と酒と、言葉にできぬ獣のような熱気が空気に漂い、

それが肺に入った瞬間、どこかで懐かしさと吐き気が同時に湧いた。


みみみは、ひとりで立っていた。

橋のたもと、堤防沿いの死角。

向こうには、高層のホテル。見上げると、ビルの群れが星の代わりに光っていた。

耳を澄ますと、阪急電車が橋を渡る金属音が、風に削られて届く。


この街に慣れすぎていた。

焼肉の煙、風俗案内の声、白く曇ったガラス戸越しの笑い声。

どれも“音”ではない。“気配”だった。

人の暮らしが剥き出しになった街の匂い。


今夜もその延長線にいた。

立ち飲み屋の安いハイボールで喉を焼き、

遅れてやって来る酔いをやり過ごすように、

堤防の端に腰をかけて煙草を吸っていた。

何本目かは分からない。

この場所に来るたびに、何も考えないでいようとした。

だが、どうしても“何か”が頭を離れない。


そのとき、空気が――反転した。


いや、正確には「気圧」が変わったというべきだろう。

皮膚と外気の間に、ひとつ薄い膜が張ったような違和感。

その瞬間、みみみの首筋から背中にかけて、冷たい汗が這う。


“なにかが、来た。”


そう思ったのは、自分の思考ではなかった。

それは、自分の中に「他者の観測」が入り込んできた感覚。

意識の隙間に、誰かが手を差し込んできた――

いや、「手」ではない。「構造」が滑り込んできた。


彼の身体は覚えていた。

これは人間の気配ではない。

だが、恐怖でもなかった。

それはむしろ、あまりにも整いすぎていて、美しかった。


しかし、脳は反応しきれなかった。

皮膚の裏で、“時間”のようなものがひとつずつ剥がれていく。

忘れたはずの言葉が、脳内に氾濫していく。


「…律。」


いや、その言葉を知っているはずはなかった。

だが、その音の“前の感覚”が、全身の粘膜をじわじわと焼いていく。


視界が反転する。

右が左に、上が下に、順序が崩れ、記憶が混線する。

指先が自分のものであるという確信が剥がれ、

眼球の裏で誰かが笑った気がした。


「は……」


声を出したが、言葉にはならなかった。

代わりに喉が震え、嘔吐感が腹から逆流してくる。

胃が焼けて、食道が空気を拒絶する。

彼は堤防に手をついて、吐いた。


それは胃の中のものではなかった。

“記憶”だった。

自分という器に詰め込まれていた、

ありとあらゆる生活の、音と匂いと湿度と、思い出と後悔。


全部が一気に逆流して、彼の精神を壊した。


みみみの瞳は開いていたが、世界は歪んでいた。

白と黒のノイズが交互に明滅し、

肉を焼く匂いが、自分の皮膚から立ち上るように変質する。


そのとき――

遠くで、“音にならない音”が鳴った。


それは、言葉より先に意味を持ち、

形より先に美しさをまとった存在。


律だった。


だが彼は、まだその名を知らなかった。

ただ、自分の中に“世界で最初の音”が宿りはじめたことだけは、理解していた。


そして、その夜の十三は、

確かに――彼の感覚の死骸の上に、美しく響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

律 ~奏でる世界~ みみみ @mimizuiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ