遠き追憶にワインを添えて

別槻やよい

遠き追憶にワインを添えて


 夜の監獄に革靴の音が響く。

 首元までしっかりと閉じられたシャツと折り目の整った淡いグレーの制服は、男の涼しげな目元と同様に洗練された印象を与える。それは巡回中だった刑務官を萎縮させ、自ら壁際に退き敬礼させた。

 それに加え錆一つない新品の襟章が男の威圧感を増す手伝いをしている。不幸な刑務官からしてみれば、彼は業務態度の抜き打ちテストをしに来ている上官に他ならなかった。

 

 男は挨拶もそこそこに去っていく同僚の背中に一切興味を示すことなく歩を進め、やがてとある独房の前で足を止めた。

 廊下の室内灯から零れる薄暗い明かりが独房の奥を暗闇たらしめており、ベッドに横になっている囚人の顔は伺えない。しかし男は確信をもって鉄格子をノックした。


 「ごきげんよう、ミスター。ルームサービスのお届けです。」

 「……目覚まし時計は頼んでないはずだが?」


 湖に広がる波紋のような声が耳に入ったのか、独房の中の囚人は笑いを噛み殺しながらゆっくりと体を起こした。少し寝癖のついた黒髪は朝に巡回した時とは打って変わって短く切り揃えられており、また伸び放題だった口髭も綺麗さっぱり剃られてまるで別人のようだった。その中で薄闇のベールから覗くいたずらっぽい緑の双眸は唯一変わっていない彼の特徴と言えるだろう。

 そんな死刑執行を明日に控えた囚人は、深夜に訪れた刑務官の懐にある若干のふくらみを見逃さなかった。

 

「おいおいウィル、まさかとは思うが本当に持ってきたのか?いつの間にそんな悪い奴になっちまったんだよ。」

「人聞きの悪い。言ったでしょう、ただのルームサービスですよ。」

 

 刑務官――ウィリアムは懐からスキットルを取り出し軽く揺らして見せた。少ない空気とたっぷりの酒が混ざる音が空気を伝わり、囚人は眠気の吹き飛んだ瞳を輝かせる。

 

「グラスもお付けしますか?」

「ああ頼むよ。ディナーが終わった時にうっかり下げられちまったんでね。」

 

 ウィリアムは腰のポーチから二口で飲み終わるような小振りなグラスを取り出すと、八分目まで酒を注いで囚人に手渡した。そして壁に立てかけてあった椅子に腰かけて、同じグラスをもうひとつ取り出し自分用に酒を注ぐ。

 二人はグラスを互いに突き出し乾杯の仕草をした。鉄格子を挟んでいたのでお互いに距離があり音は鳴らなかったが、二人にとってはそれで十分だった。

 待ってましたと言わんばかりにグラスを傾けた囚人は、しかし一口飲んだだけで驚愕の眼差しを手元に向けた。

 

「美味いな。軍で飲んでた安酒とは比べ物にならない美味さだ。」

「戦前に買って家の倉庫の番をしていた秘蔵っ子の白です。甘い方がお好きだと言っていたでしょう?海を渡った美食の国からの輸入品なので、今では何処にも売ってませんよ。」

「何時からここは五つ星ホテルになったんだ?」

「ふふ……少なくともあなたがチェックインした後ではありますね、アレックス。」

 

 華やかに香る葡萄酒の匂いに感嘆のため息をつきながら、囚人――アレキサンダーは上唇を舐める。それを可笑しそうに眺めながら、ウィリアムは自分のグラスに口を付けた。

 ウィリアムが刑務官になりたての頃、勧められるがままに背伸びをして買ってみたものだったが、どうやら店主は相当なソムリエだったらしい。今まで飲んだ中で一番美味しいかもしれないと頭の隅で考えつつ、彼はグラスに残った酒をくるりと回した。

 最初のひと口とは打って変わって、舌で味わうようにワインを舐めたアレキサンダーは満足気に唸った。

 

「これで先に行った奴らに最高の自慢話ができるな。」

「それは何より。チェックアウトのご予定は?」

「明日の朝5時、朝食は抜きだ。」


 二人の間に、しばし沈黙が流れた。

 やがて乾いたため息のような失笑がウィリアムの口からこぼれ落ちる。

 

「……随分と気が早いもので。」

「観客が待ちきれないんだとさ。スターってのは苦労するぜ。」

 

 アレキサンダーはやれやれといった様子で肩をすくめると、グラスに残った酒を煽った。彼は呑み込んでからも暫く口をもごつかせ、口内に残った香りを目を閉じて堪能している。

 そんなアレキサンダーの様子に笑みを堪えながら、ウィリアムは追加の酒を注いだ。

 

「おっと、ありがてぇ。渡せるチップが手元に無いのが悔やまれるね。」

「おや、そうでしょうか?あなたが出せるとっておきのチップがあると思いますけれど。」

「勘弁してくれ、折角伸ばしたのに剃られちまったばかりなんだぞ。」

「確かに数日前よりハンサムになりましたね。髪の毛でもいいですけど?」

「こっちも滅茶苦茶短くされたんだ。ロングヘアーは受けが良くないらしい。」

「似合っていたのに残念でしたね。」

 

 真剣な顔をして顎をさすったり髪に手櫛を通すアレキサンダーを見て、ウィリアムは椅子に座り直しながら首を振った。

 

「旧友へ自慢話を届ける前に、私にも思い出話をしていただけませんか。あるんでしょう?取り調べの時にも出していない秘蔵っ子が。」

「ああなるほど、この酒へのチップとしちゃあ確かに上等だ。……何が聞きたい?爆撃機が去った後の人が焼ける匂いか、それとも憎たらしいクソ野郎の最後の悲鳴の方が趣味に合うか?」

「もう、よしてください。せっかくのワインにおかしな風味が混ざるじゃないですか。」

 

 ウィリアムは空になったグラスを室内灯にかざして目を細める。

 

「もっと心温まる、何気ない話をしてくださいよ。安酒を飲み交わした夜の会話とか、機体整備中の休憩時間とか……。私は戦前から戦後の今までこの監獄住まいですから、あなた方が見たであろう空の景色がとても眩しい。大地は丸いですから、きっと窓の外には果ての無い青空や夕焼け、もしかしたら満天の星空が広がっていたのでしょうね。」

 

 それを聞いたアレキサンダーは操縦席の真横を弾丸が掠めた時のように目を瞬かせ、やがて膝上のグラスへとゆっくりと視線を落とした。揺れる水面に映るのは過去の情景を思い出している穏やかな瞳だった。

 彼はしばらく押し黙ったまま、憑き物が落ちた様に軽くなった頭で何を話したものかと考えた。

 

「そういえば、同期の中にやたら猫が好きな奴がいたな。」

「おや、良い趣味をお持ちですね。」

「基地の近くを縄張りにしていた野良猫が居たんだけどさ。あいつは安い給料をほとんどその野良猫への缶詰に変えちまっててよ、給料日前になると俺とか他の奴らに飯をたかりに来てたんだ。」

 

 


 

 

 ちゃむちゃむと缶詰の中身を食べる野良猫と、それを幸せそうに眺めている男。その様子をアレキサンダーは呆れた顔を作ってよく野次馬をしに行っていたものだった。

 

「ポール、それ麓で売ってる缶詰の中で一番高いやつじゃねえか。聖人ぶるならこっちにたかるんじゃねえよ。」

 

 そう言うと同期の男――ポールは猫から視線を外さずに手を振った。

 

「場所代が値上がりしたんだ。仕方ないだろ?払えなきゃここでの昼寝は許されないんだぜ。」

 

 格納庫裏は立地の関係でいつも日が当たらず薄暗かったが、お昼時になると太陽が建物の間を縫ってコンクリートの床を温める。その温度は昼寝をするには絶妙な暖かさで、野良猫が縄張りにするのも頷けた。

 

 月日が流れアレキサンダー達が立派な戦闘機乗りになり、野良猫の数も増えた。ポールも少しだけ給料が上がったが、それでも数の力には勝てず負けの気配が濃厚になっていく。それを見かねて、ポールの同期たちはそれぞれ救援物資と名のついた猫餌を差し入れるようになっていた。

 アレキサンダーもまたポールに援軍を出した一人だ。

 

「ポール、それ麓で売ってる缶詰の新しい味じゃねえか。全員に食わせたいなら質より量だって言ってんだろ。」

 

 そう言うとポールは缶詰を食べている猫を撫でながらこう言った。

 

「毎日同じもん出してたらシェフの名折れだろ。それにこいつ、お気に召さなきゃ噛みついてくるからな。俺も苦労してんだよ。」

「お前が作ってるわけじゃねえだろうが。」

「あっはっは、違いねえや!」

 

 その時振り向いたポールの顔が久しぶりに脳裏に蘇った。

 目尻が垂れたアーモンド色の瞳が、弧を描く口元と合わせてとても優しげにこちらを見上げている。愛嬌たっぷりなそばかすが笑い皺に埋もれていて、小さな子猫が彼の肩に乗っかり風に吹かれて揺れている焦げ茶色の癖毛にじゃれついていた。

 

 戦争が始まって別の基地への移動命令が出たポールは、別れ際に手持ちの金を全て缶詰に変えてアレキサンダーに託した。今思えば制空権が確保できていない戦場へ赴く事を知って、既に覚悟を決めていたのだろう。

 アレキサンダーが生きているポールを見たのはそれが最後だった。

 

 


 

 

「あいつ本当に馬鹿だったからさ、新しい装備を買う金も残していかなかったんだぜ。軍の支給品じゃあ戦場を生き残るには不十分だってのは、入隊したてのチビですら嫌でも察するもんなのに。」

 

 三杯目の葡萄酒を飲み切り、アレキサンダーはくっくっと肩を震わせた。

 

「彼もまた、あなたの上官が手にかけた一人ですか。」

「いんや、似たようなもんだがポールは自業自得に近い。あのクソ袋の手に直接かかったのはベンとウィルソンだ。二人とも真面目で誠実な奴らだった……あんたみたいにな。」

「それは光栄ですね。特別にスモークチーズのサービスもお付けしましょう。」

「おお、初めて俺の口の良さを神に感謝したぜ。こりゃあ最後の晩餐はこの酒盛りのための前座だったに違いない。」

 

 包み紙の中から顔を出した一口サイズのスモークチーズを二個手渡され、アレキサンダーは晴れやかに笑った。

 口の軽くなった彼は続けて思い出話に花を咲かせた。初めて実際に空を飛んで盛大に吐いた同期の話や、筋トレが性に合いすぎて操縦桿を破壊してしまった同期の話、それから曲芸飛行が得意で訓練中に一度も弾に当たらなかった同期の話――。そのどれもが笑い話であり、アレキサンダーと同期たちの大切な宝物であった。

 ウィリアムはどの話も興味深そうに耳を傾け、時に笑い、適度に相槌をうつ。決して話の腰を折らないように、けれども、茶々を入れるのは忘れずに。

 

 心躍るひと時ほど時間の流れは早くなるもので、ウィリアムは腰につけた懐中時計の針が別れの時刻を告げようとしていることに眉をひそめた。アレキサンダーはそんなウィリアムの様子を見て一つ欠伸をすると、手に持っていたグラスの中身を飲み干す。

 

「ああ、良い夜だった。久しぶりに皆の顔を思い出せたぜ。これで会いに行ったときに誰が誰だかわからないってんで笑われずに済むよ。」

「それは何よりです。私もいい思い出が出来ました。」

 

 会話が途切れると室内灯が立てるチリチリとした音がやけに大きく聞こえる。手渡された空のグラスをハンカチで軽く拭いてからポーチに収め、ウィリアムは椅子を静かに壁へ立てかけた。

 このまま立ち去るのかとアレキサンダーが別れの挨拶を告げようとした時、ウィリアムは鉄格子に近寄って冷たい鉄の棒に指を添えた。

 

「アレックス、また空を飛びたいですか?」

 

 目深に被った帽子のせいでアレキサンダーはウィリアムがどんな表情を浮かべているのかを伺うことは出来なかった。

 しかしそれでも、鉄格子の外側に居る友人が何を言いたいのかはわかっていた。

 

「いいや、俺はもう飛びきったよ。」

 

 アレキサンダーはベッドから立ち上がると、鉄格子に添えられていた指をそっと押し返した。ウィリアムはそれに逆らわず、そのまま一歩、鉄格子から離れる。

 帽子に手をかけ顔を上げたウィリアムは、少し困ったような笑みを浮かべていた。

 

「……あなたなら、そう言うだろうと分かっていました。我が国の誇りにして英雄、60以上の星を落としたエースパイロット。」

「そしてなにより、お前の友人だ。格好良く逝くのは当然だろう?」

「ええ、そうですね。肝心なところで真面目さが顔を出す、私の大切な友人。」

 

 二人はお互いに笑い合うと、また一歩距離を取った。

 

「さようなら、アレックス。また会える日を楽しみにしています。」

「さようなら、ウィル。そん時は騒がしい仲間を全員紹介してやるよ。」

 

 ウィリアムはその後、振り返ることなく独房を去った。

 アレキサンダーもまた、ウィリアムの後姿を追うこと無くベッドに身を横たえた。

 

 


 

 

 数日後、副看守長の机に座ったウィリアムの元に一通の手紙が届いた。

 真っ白な便箋に宛名と消印、送り主は隣国の刑務所。そこはウィリアムが務める刑務所からずっと北へ向かった先にあり、アレキサンダーの死刑執行が執り行われた場所であった。

 

 戦争当時、敵対していた隣国に対して行われた爆撃機による民間人の大量虐殺。それはアレキサンダーの上官が指示していたものだったが、当の上官を私的な理由により殺害してしまったため彼は「上官殺しの罪」と「虐殺の罪」の両方を背負う羽目になったのだ。

 内情を知る者からすれば、彼は政治的犠牲者と言わざるを得ない。しかしアレキサンダーは一切の文句も減刑を求める訴えもせず、全ての責任を背負いこの世を去った。

 

 ウィリアムに届いた手紙の中には送り先の刑務官からの簡潔な伝達事項が書かれた紙が一枚、そして緑色の紐で括られた短い髪の束がひと房同封されていた。

 その黒い髪を見た瞬間、ウィリアムの指先が微かに震える。――それが誰のものなのか、彼に説明は不要だった。

 

「まったく……気前のいい人ですね。」

「副看守長、何か良い知らせだったのですか?」

「いいえ、何でもありませんよ。」

 

 どうやらアレキサンダーは十分なチップを払ったにも関わらず、追加のチップを支払いたかったらしい。

 不思議そうにこちらを見る部下を適当にあしらったウィリアムは伝達事項の紙だけを取り出し素早く目を通すと、直ぐに髪の束が入った封筒へ戻した。そして手紙は鍵のかかる引き出しの中に仕舞われたため、アレキサンダーの忘れ形見は他の誰の目にも触れることなく眠りについた。

 

 ウィリアムはそのまま、何事も無かったかのように仕事を再開したのだった。

 



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 死刑囚アレキサンダーと、刑務官ウィリアムの物語。相互理解の死に別れでした。

 アレキサンダーは上官を殺し軍法会議にて死刑が決まったのですが、本国へ輸送中に終戦してしまったせいで監獄に約一年間滞在していました。ウィリアムとはその時に知り合った友人です。

 今後興が乗ったらアレキサンダーと同期達の話や、ウィリアムのその後を書くのもきっと楽しいと思います。

 もちろん死に別れエピソードです。

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