踊り傀儡

愛愁

踊り傀儡

 欲しいものがあるわけでも夢があるわけでもないが、私はずっとお金を貯めていた。

「私は奥さんの合図を待ちますからね。お金は貰いました、約束は守ります」

 そう言って業者は笑った。

 結婚して数十年が経ち、三人の子供は立派に巣立っていった。子育ての間、私たち夫婦の間にはプラトニックな愛などは存在しなかった。ただ名目として夫婦であるだけであり、お互い別の人生を歩んでいるみたいだった。

 愛してくれないことに対しての憤りは無い。ただ、往年の恨みが積み重なってしまっただけ。そしていつしか、その恨みは明確な殺意へと変貌していった。


 押入れの深く、隠してあるかのように眠っている埃の被ったアルバム。もうずっと存在しないも同然だったのにも関わらず、家に帰ると居間の机の上に広がっていた。夫は知らずのうちに死を悟ったのだろうか。意図的に走馬灯を見ようとしているのだろうか。二人を映した写真はめくるめく時代を感じさせる。

 散らかった写真は夫だけのものではなかった。夫が青春を想起する時、私も同じく青春を追体験している。出逢ってから今までの数十年の思い出が視覚情報として一気に押し寄せてくる。

 一体何故?どうして私がやりあぐねていたことを、ようやく一歩踏み出したと言うのに。どうしてこのタイミングで、そんなことをするのだろうか。

「なあ、久しぶりに二人で出かけないか?」

 夫は言った。青春の気配に障られたのか、意外にも私は乗り気だった。雲行きが怪しくなり輪郭は朧になった二人の愛のように、気持ちは漫然としていた。

 本当は情も感じたくない、が、最後の思い出を作りたかったのかもしれない。これから死に行く彼にお土産として思い出を作りたかったのかもしれない。この青春は私の為なのか、夫の為なのかわからない。全ては『タイミングが悪い』と言えるだろう。

 子供が生まれてからは二人で遠出することもなかった。久しぶりの遠出、いつもは役に立たないはずの夫もこの日は率先して車の運転を買ってでた。自分が言い出したことだからという責任感もあるのかもしれないが、私は夫がそうしたいというのであれば、否定しなかった。これから死に行く夫の最後の我儘だと思えばなんてことはなかった。これで、最後だ。


 子供が生まれる前、最後に二人で来た場所である海を見に来た。少し砂浜を歩いた。若い私達は砂の重さなんて気にもしなかったのに、今では足にまとわりつく重量が不快で仕方なかった。

「覚えてるか?二人で夜の砂浜に寝そべって星を数えたんだ。あの時はなんだってできる気がしたなぁ....」

 夫は星座に関しての造詣が深かった。私が知っている数少ない星座を見つける間に彼はいくつも星座を見つけては私に教えてくれた。知識をひけらかしたいだけだったのかもしれないが、私は彼に色々教えてもらうことが好きだった。

 何も知らずに大人になることを憂いていた私にとって、彼の知識は何よりも大事なものだったに違いない。いつからか、何かを教えてもらうことは無くなった。愛に飽きたからではない。きっと飽きたのではなく、二人の間に発生する熱に慣れてしまったのだ。

 では、お互い、未だに愛していると言えるだろうか。初めて抱き合ったあの瞬間のように、私たちはお互いの価値観を削り合って摩擦をしていると言えるだろうか。

 漠然とした不安感にどこか違和感を感じつつも、きっと私たちの間に愛情などは存在しない、潰えてしまった過去の遺物だと言い聞かせた。本当に、そうだろうか...。


 二人で結婚した直後に来た遊園地に来た。今は廃園となってしまったので外から廃墟を眺めるしかないが、かつての思い出を回想するだけならばそれで十分だった。

「乗り物の好みが別れて、どっちに乗るかなんて喧嘩もしたよな。帰りの車の空気は最悪だったよ。しばらく口もきかなかったんだっけ」

 私は空中鞦韆に乗りたかった。彼はメリーゴーラウンドに乗りたかった。くだらないことで喧嘩をして、そしてくだらないことで仲直りをした。夫に対しての恨みも、きっと些細なことがきっかけだったんだと思う。何が直接の原因だったかなんて思い出せないけど、きっとどこかで仲直りするきっかけというのもあったんだと思う。

 いつだってくだらないことで喧嘩をしてきた。私の髪型が好みじゃないとか、彼の服装が似合ってないとか、お互いがお互いを無碍にして、その度に尊重しあって生きてきた。くだらないことで怒っていたけど、その分笑いがあった。

 もしかしたら、長年の鬱憤、それに対するきっかけは古いアルバム、ひいては今日今この時なのかもしれない。


 大学時代に訪れた植物園に来た。くだらない理由で喧嘩をして一度は破局した私達だった。数ヶ月経ったある日、私たちは二人で以前訪れた植物園で再会した。

「お互い送り合ってた手紙が突然届かなくなって二人とも怒ったんだよな。結局出してなかっただけだったんだけど、二人とも意地を張って認めなかった」

 彼が私のことを愛してくれなくなってしまったんじゃないかと凄く悲しくなった。確かあの時も、私は忘れなければいけないはずの過去を捨てきれずに、彼のことを思って涙を我慢しながらこの植物園に来たのだった。再開した日は私たちが付き合ってから丁度三年目の節目の日だった。

 彼と再開した時すごく嬉しかった。彼も同じ様なことを考えていたんだって。行動が同じなら心境も同じというわけではないけど、私たち二人はそんなに気難しいことはしない二人だった。二人とも悲しくなってここを訪れて、そしてそんなくだらない再会でまた手を取り合って...。

 彼が過去を思う気持ちが、少しでも昔のように笑いかけてくれるなら、もしかしたら、また再開出来るかもしれない。


 二人同じくバイトをしていたお店に来た。高校も同じだった私たちは少しでも二人でいる時間を長くしたくてバイトも同じところを選んだ。飲食店ということもあり結局二人で仲良くする暇なんてなかったけど、同じ空間にいるというだけで嬉しかった。

「結局すぐに辞めちゃったバイトだったけど、でも、辞める時も一緒だったね」

 当たり前の日々がすごく楽しかった。同じような毎日でも、将来なんて顧みずにその瞬間を謳歌していたのだ。あの時の私は、まさか彼を恨む日が来るなんてことは思いもしなかっただろう。

 何もない毎日でも、いつか崩れてしまう幸せでも、ただそれだけで十分だった。本当に、あれだけで十分だったのに、いつから必要以上に何かを望むようになってしまったのだろうか。この平凡とも言える毎日を幸せとも思わず、私は刺激を求めていた。

 それでいいじゃないか....。


 最後に、二人が初めて出逢った中学校に来た。廃校になったと言え中に入るわけにもいかないので、これもまた外から眺めるだけになってしまった。

「初めて逢って、告白して、そこから何もかもが楽しかった。喜怒哀楽全部を経験してきた。本当はそれで、本当はこのままで何もかも素晴らしいのに、邪な気持ち故に僕は君に望みすぎた。貰ったものを数えず、貰ってないものばかりに目を向けて。結局また、意地を張って何もしなかった」

 何も言えなかった。それは私だって同じことだ。年の功を過信するあまり、私は彼に目もくれない。受けた恩を忘れて、かけられていない情けを探してばかりいた。

 メリーゴーラウンドのように同じ毎日でも、変わり映えのない生活でも、それで良かった。狭い舞台の上で二人酔狂しても、二人でいる間に窓の景色も変わっていた。何度も変わり、何度も巡り、何度も同じ時間を過ごしたけど、それで良かった。例え全舞が切れたとて、糸が切れて動けなくなったとしても、堕ちたところが二人一緒ならそれだけで良かった、はずなのだ。

 笑えてきた。馬鹿馬鹿しく思えてきた。情に絆されたと言われようとも、これから先不安定なことがあるにしても、くだらないことで諍いが起こったとしても、その度々に私は夫と彼を照らし合わせていくのだ。新鮮さの無くなった夫の中に、確かにいるはずの彼を思い出し、彼が昔から変わらず夫になったことを思い出して生きていくのだ。

 お金はいらない。二人の時間があれば良い。しかして私は業者に断りの電話をかけた、刹那、割れる校舎の窓ガラス。誰もいないはずなのに。

 私の横に立っていたはずの夫は、私を置いて空中鞦韆に乗って消えた。

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踊り傀儡 愛愁 @HiiragiMayoi

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