雪月風花

 誰よりも、優れた剣であった。

 誰よりも美しい剣であった。


 自由奔放にして、何者にも囚われぬ――そう評されることの多かった朔矢の剣は、しかし実のところ、誰よりも流派に誠実であった。


 陰奇術士として堕ちた今なお、最も正統にして、唯一無二のものであるように。

 

 己の剣を称賛されることを、朔矢は内心で誇りに思っていた。

 当然のことであろう。

 その剣こそが、志紀への憧憬から生まれたものだったのだから。


 そう――門下生の多くは誤解していた。


 志紀さえもだ。

 朔矢の剣の本質を理解していた者など、恐らくは、最期の瞬間の当主正玄くらいのものだっただろう。


 その根幹、そのすべて。

 朔矢の剣は、最初から最後まで、『かつての志紀の剣』に他ならなかった。

 最愛の者を自らの手で斬るために正道から外れ、邪道の剣と化してしまった今の志紀の剣ではなく、かつての――。


 だが、例え邪道の剣であろうとも、その在り方は確かに『未来』を見据えていた。

 朔矢を斬るという未来のために、志紀の剣は研がれた。


 対して、朔矢の剣はその逆。

 幼き日に自分を救ってくれた、強く、正しく、美しい志紀の剣。

 それこそが、朔矢にとってのであり、その原点であった。


 すなわち――朔矢の剣は、『過去』のために在る剣。

 幸せだった過去を忘れぬために。

 そして、憧れたその人を常に感じられるように。


 であるならば、この結末は必然である。

 憧れの剣を手にし、過去を見つめ相対したところで、未来に進まんとする相手に辿り着けるはずもない。


 過去にしか向き合えない模倣が、本質を凌駕することはない。

 朔矢の剣は志紀と異なり、人斬りという本質を携えていなかった。




 朔矢の左肩を貫いた刃先からは、血液だけでなく、濃密な瘴気が黒き靄となって噴き出していた。


 これまで幾度となく陰奇術士を討ってきた志紀であったが、こうした現象は一度たりとも経験がなかった。

 しかもその瘴気は意志をもったかのように志紀を目掛けて奔り、触れると同時に、まるで染み入るようにその肉体へと吸収されていった。


 一瞬、それすらも朔矢の新たな攻撃かと構えたが、当の朔矢が明らかに驚愕している様子からして、意図的なものではないと判断できた。


 ――その直後である。


 志紀は、幻視を得た。


 


 呻き、藻掻き、己を裂くような苦悶の中にいる『自分』がいた。

 喉から血を噴き、身を地に引きずり、肉体が何かに蹂躙されるかのような、苛烈で、底知れぬ苦痛。


 ――それは、かつて朔矢が陰奇術士へと堕ちた、その瞬間の記憶であった。


 凄絶な痛み、不快、そして吐き気。

 身体が蝕まれ、造り直される不快感は底知れぬもの。

 だがそれでも――朔矢にとっては、些細な苦しみに過ぎなかった。


 あの道場を出なければならなかったこと。

 志紀の傍から離れなければならなかったこと――。

 それに比べれば、この程度の苦痛など、なんということもない。


 そして、それでもなお残された希望のために、朔矢は――。

 だから、だから……。


《早く、俺を■して――》




「見るなッ! 見るなぁあッ!」


 朔矢の絶叫と共に、志紀ははっと意識を現実へと引き戻された。

 その手にある刀へと、再び意志と覚悟を込める。


 一方の朔矢は、狼狽を超えて、もはや錯乱に近い様子を呈していた。


 ――自分のことだから、理解できてしまうのだ。


 あの映像は過去の朔矢自身。

 そしてあの想いは、堕ちる直前、心の奥底に封じ込めていた渇望。

 それが、瘴気という形で零れ、志紀の内に流れ込んだのだ。


  理由はわからない。

 だが、確信だけはある。


 これから先、朔矢が傷を負うたびにその血と共に想いが滲み出し、志紀はそれをしまう。


 それは、朔矢にとって望まぬ事態であった。


 今の、穢れ、醜く変じた自分の姿を見られるのは、ただただ耐え難い。

 まして、秘匿し続けてきた想いを、志紀に知られることは――恐怖だった。


 しかし、それ以上に恐れていたのは――。

 志紀が、己の想いを知ってしまったがゆえに、戦う意志を失ってしまうこと。


 全てを捨て、全てを懸け、ようやく手にした、この

 たとえ殺し合いであっても、志紀と刃を交えるこの一瞬だけは、偽りなき逢瀬。


 それを――

 同情と憐憫で、奪われることだけは――。

 それは、朔矢にとって何よりも恐ろしい現実だった。




 心を覗かれること。

 それは、朔矢にとって致命的とも言える弱点であった。


 かつて『弟』であった存在はただただ愚かであった。

 ゆえに志紀という男は、責任感からその後始末をしなければならなくなった。

 ――そうでなければならない。


 だが、もしもその裏にある真意が志紀に知られてしまえば。

 計画の全容が露呈すれば、すべてが崩れてしまうかもしれない。


 志紀のことだ。

 仮に真実を知れば、怒りも恨みも飲み込み、戦意を喪失させるに違いない。

 殺し合いの空気など、もはや維持できまい。


 いや、それ以前の問題がある。

 それは――この想いが、知られてしまうこと。


 これまで幾度となく押し隠してきた、この感情だけは、決して、何があっても、悟られてはならない。

 そのはずであった。


 しかし、そんな朔矢の意思とは裏腹に、刃は徐々に精彩を欠き始めていた。


 ――当然であろう。

 己のすべてを曝け出し、全霊をもって戦いに臨む志紀に対し、心を偽り、想いを秘めたままの戦いで、どうして勝てるというのか。


 それでも。

 それでも、それでもと、朔矢は懸命に抗い続けた。


 ――だが、無情にも。


 その脇腹に、小さな切創が刻まれる。

 いつの間にか、志紀は朧月夜を鞘へと収め、安物の刀を携えた二刀の構えへと移行していた。


 深くはない。

 陰奇術士たる朔矢にとっては、瞬時に再生する程度の浅い傷。

 ……にもかかわらず、またしても瘴気が靄となって立ち上り、志紀の身体へと吸い込まれていく。


 そして――再び、幻視が始まる。


 


 それは、憎しみであった。

 神代沙夜という存在に向けられた、烈しいまでの憎悪。


 ――あいつさえいなければ、自分は今も道場にいられた。

 あいつの軽率な行動が、すべてを壊した。

 すべてを、奪っていった。


 いや、それだけではない。


 あいつは女でありながら、志紀の許嫁として傍に在りながら、己の方へふらふらと揺れ動いてみせた。

 俺達の間を、女の身でありながら。


 ――気に食わない。


 憎い。

 妬ましい。

 憎い。

 妬ましい。

 憎い、妬ましい、憎い、妬ましい。憎い、妬ましい、狡い――。


 それは地の底より噴き上がる、黒焔の如き怒り。

 妬み、屈辱、焦燥が交わり、濁流となって心を塗り潰す。




 幻視が終わり、ふたりは同時に我へと返る。


 動揺の色を見せる志紀に対し、朔矢は静かに確信する。

 ――この瘴気の靄は、己の感情そのものだ。

 外に出たところで薄れるものでも己が弱くなるものでもない。

 ただ、その感情と結びついた記憶が見えるだけ。


 それゆえに、やはり見せてはならぬものなのである。


 ここにあるのは、知られてはならぬ想いばかり。

 知られたくない秘すべきものばかり。

 今の自分の、最も醜く、最も見せたくなかった側面――。


 「……あいつへの憎悪は、この屈辱感は、三番目くらいには知られたくなかったな」


 搾り出すように呟いた朔矢の声には、滲むような惨めさがあった。

 それでも、刃を向けることに躊躇いはない。


 むしろ――。

 中途半端に斬られ、志紀の手を汚すよりは。

 いっそ、早く、潔く――死にたかった。


 そのために、朔矢の剣は一層苛烈に、激しさを増していった。




 それは、確かに温かな感情であった。

 高い木の枝から、地上に立つ兄を見下ろす幼き日の記憶。

 「まったく、しょうがない奴だな」

 呆れ混じりの微笑みを浮かべる兄の横顔――。

 その表情が、ただひたすらに愛おしかった。

 この時間が永遠に続けばよいと、心の底から願った。


 次に浮かんだ情景は、かつて名も知らぬ陰奇術士と戦った時の記憶であった。

 あの頃の自分たちは、今よりも遥かに未熟だった。

 二人がかりでようやく対峙した敵に、何度も死を覚悟した。

 それでも生き残れたのは、隣にいる兄を死なせたくなかったから。

 そして、兄もまた、同じ願いを抱いてくれていたと、確かに感じられたからだ。


 さらに浮かぶのは、道場内における記憶。

 兄を跡継ぎとするため、己を汚して暗躍した日々。

 醜悪な権力闘争に加わることは、心底辛かった。

 それでもなお、希望はあったのだ。

 兄が道場を継ぐという、ただ一つの希望が。

 それが叶うのなら、自らの本心も、兄の隣に並ぶべき者が別の誰かであるという現実さえも、すべて飲み込み、裏から支え続ける覚悟があった。


 斬撃が交錯するたび、朔矢の過去が幻視として顕現し、彼の心情までもが露わになる。

 必死に抗いながらも、剣を受け、また幻が走る。

 それは、まるで悪夢のような繰り返しであった。


 そして、ついにその記憶が顕れる。


 ――道場の後継者を決めるための、あの模擬戦。

 あの時、朔矢は既に『死ぬ覚悟』で臨んでいた。


 本気の兄に勝てるはずなどない。

 実力差は歴然で、今以上に開いていた。

 だが、兄は本気を出さなかった。

 勝負を譲り、自らの手で敗北を選んだ。


 その結果、望まぬ当主の座が朔矢に舞い込む。

 そして――全てが狂った。


 嘆き、悔い、苦しみ、絶望。

 天から地へ堕ちるように、朔矢の世界は反転した。


 ――その一連の幻視を経て、ついに志紀は悟った。


「お前は……変わったわけでは、なかったのだな」

 陰奇術士に堕ち、闇に染まり、人を斬る存在になったと、そう思っていた。

 だが、それは誤りだった。

 朔矢は、あの頃のままだ。

 今もなお、何も変わらぬ『弟』として、そこに在った。

 ただ、人として生きることが出来ぬ程、追い詰められただけだった。


「違う……違う! 俺は、昔の俺じゃない……もう、お前の弟なんかじゃ……」

 朔矢は、震える声で否定する。

 だが、その言葉には何の重みもなかった。

 幻視で曝された心情に比べれば、あまりにも薄く、軽い。


「なぜだ……なぜ私と戦い、なおかつ死ぬことを望む? 私は……確かに、立派な兄にはなれなかったかもしれない。だが……それでも、なぜ――」


 志紀の問いは、なおも朔矢の核心に届かない。

 彼が必死に隠してきた想いが、いまだ厚い壁となって志紀の前に立ちはだかる。


 だからこそ、朔矢はまだ戦えた。

 いましばらくは、まだ――。


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