通じ合った想い

 気づけば、『楽しい』と感じる感覚は、とうに失われていた。


 見られたくない。

 嫌だ。……早く、楽にしてほしい。


 朔矢の胸中を占めるのは、そんな後ろ向きな想いばかりであった。


 あれほどまでにこいねがった逢瀬の時であり、あれほど焦がれ続けた末路であるはずなのに。


 苦悶を抱きながら、刃を振るう。

 身体能力においては勝っている。

 剣の才覚においても、決して劣ってはいない。


 詰めれば敗北は不可避であっても、拮抗するだけの力量はある。

 実力において、決して絶望的な差ではないはずだった。


 だが、今の戦いには、拮抗という言葉は似つかわしくない。


 怯え、苦悶に歪む表情で剣を振るう朔矢に対し、志紀の顔はあまりに静かであった。

 快楽の笑みも、苦痛の痕もない。

 あるのはただ、虚無に等しい淡々とした表情。

 それはまるで、落胆しているかのようでさえあった。


 ――朔矢でさえ、読み取れない。

 誰よりも見続けてきたこの男の、いまの心は、もはや彼の理解を超えていた。


 剣戟の響きが耳に届くたび、朔矢の心臓は恐怖に跳ね、震えが手へ伝わり、刀圧が鈍る。

 それがまた隙となり、さらに追い詰められていく。


 朔矢は、ただ、劣勢に追い込まれ続けた。

 志紀の、即席の二刀流にさえ、まるで歯が立たぬ。


 ゆえに、結果は当然のように訪れる。


 長剣の刃が朔矢の胴を薙ぎ払うよう深く裂いた。

 人間であれば即死に至る深手――だが、朔矢にとっては死に届かぬ傷。


 そして、その傷口からは、これまで以上に濃密な瘴気が立ち昇った。

 それは朔矢の身体を覆うほどに膨れ上がり、やがて煙のように志紀のもとへと還っていった。


 ――残されたのは、最後の一欠片。


 小さな、小さな拠り所。

 見せたくなくて、手放すこともできなくて、

 小さな手で必死に握ってきた、たった一つの欠片。


 志紀はそれ以外のすべてを――見た。


 全てを知った。

 全てを悟った。


 朔矢という男の過酷な環境を、その歪んだ心根を。

 そして、すべての原因が自分自身にあったことも。


 それが、己への――禁じられた愛であったということも。


「……私が、追い込んでしまったのだな」

 志紀は淡々と告げ、静かに刀を降ろした。


「ち、違う! 俺が勝手に……俺の我儘で……」

「では問う。朔矢、お前は何を欲して堕ちた? 何を求め、闇に身を投じた? 答えてみよ」

「それは……」

「陰奇術士となってから、何か幸福を得たか? 快楽を得たか? 誰かを殺めて、心が満たされたことはあったか?」


 朔矢は、何も答えられなかった。


 陰奇術士となるために、多くの命を奪った。

 なってからも、追いかけて来る者たちを幾度となく屠ってきた。


 だが――。

 その行為のどれ一つとして、楽しいと思えたことはなかった。

 快楽も、悦びも、満足もなかった。

 ただ、辛いだけ。

 そもそも、兄以外との戦いさえ朔矢は楽しいと感じたことはない。


 他の陰奇術士と異なり、朔矢にとって陰奇術士と成ることは、単なる『手段』に過ぎなかった。

 自らがための、唯一にして最後の手段。


 ここまでしなければ、志紀は自分を殺してくれない――。

 そう信じ込んでいた。

 そう思い込ませたことこそが、志紀の罪であった。


 いや、それだけではない。


 志紀の罪は、三つある。


 一つ、朔矢の本心を知ろうとしなかったこと。

 一つ、朔矢を『殺される以外に救いがない』と思い詰めさせたこと。

 そしてもう一つ――陰奇術士にならねば、殺してもらえないと錯覚させたこと。


 その三つこそが、朔矢を陰へと堕とした志紀の罪。

 そして、志紀自身が《元凶》である、動かぬ証左であった。


 朔矢は俯き、沈黙した。


 これだけは、避けたかった。

 最後に残った、たった一つの希望。


 この想いを秘めたまま、悪として討たれること――。

 その願いさえも崩れ去り、朔矢は何もかもを喪っていく。


「わかった」

 志紀が言った。

「それがお前の望みであるのなら、最後まで付き合おう。……お前の兄として。そして、お前が愛してくれた男として」


「……えっ」


 朔矢は驚き、顔を上げる。


 そこには、先ほどと変わらぬ仏頂面の志紀がいた。

 嫌悪も、拒絶も、憐憫もない。

 ただ、あるがままを受け容れるような静かなまなざし。

 変わらない、兄の姿がそこにあった。


「なぜ……」

「なぜも何も。お前がそれを望んでいるのだろう? それに、そうなるまで追い込んだのは私だ。ならば、私が責任を負う。それは、何もおかしなことではあるまい」


「でも……にいさ……志紀は関係なくて――」

「好きに呼ぶといい。……いや、お前がそう望むのなら、再びと呼んでほしい。もちろん、それ以外が良ければ、それも構わない」

「にいさん……」

「ふっ。その呼び方が、やはり一番しっくりくるな」

「にいさんは……一体どうしたの? 急に……」

「私は何も変わらぬよ。お前もそうだ。……弟が、そう願うのならば、それを叶えたい。それだけのことだ」

「でも……俺は、酷いことを……たくさん……」

「知っている」

 志紀は言った。

 すべてを、見てきたのだ。

 その罪と、そこまでの苦悩全てを。

 世界中の誰もが朔矢を非難したとしても、志紀だけは肯定する。

 それは全て、自分の所為で行った罪なのだから。


「それに……俺は……にいさんのことを……」

 嫌悪されることも、拒絶されることも恐ろしく、その先を口に出来なかった。

「それも、もう理解している。気づけなかった。……詫びさせてほしい」

「……気持ち悪くないの?」

「なぜ、そう思う?」

「だって……俺たち、男同士で……」

「性別など、些事だ。……そもそも、私はそういった機微に疎い。わからないと言っても良い。正直言えば、お前の想いを嬉しくは思う。だが、それ以上にどうすればよいのか、私にはわからないのだ」

「……ほんとうに、気持ち悪くないの?」

「弟を気持ち悪がる兄が、どこに居る。……強いて言えば――」


「い、言えば?」


「……こそばゆくは、あるな。その想いが」

 そう言って、志紀は少し困ったように顔をしかめた。

 それが照れ隠しであるとわかった瞬間、朔矢の頬が緩む。


「……はは。俺、馬鹿みたいだ。もっと早くに、相談していれば。もっと早く、この想いを打ち明けていれば……きっと、違う未来があったはずなのに」


 確かに、あったはずなのだ。

 兄が道場を継ぎ、婚約者ができて、それを見守るという選択。

 平穏な失恋、あるいは淡い関係のまま、きっと人の世界で生きられたはずだった。


 だが――それはもう、口にすべきではない。


 あまりにも多くの犠牲を払ってしまった今となっては。

 志紀も、それを理解している。


 なぜなら、その半分は、彼自身の罪であったから。


「だから――朔矢。構えろ」

 志紀は静かに言った。

「お前の望みを、叶えてやる。……本気で、私たちの最後にふさわしい全力で――交わろう」


 朔矢の頬を、ぽたりと一粒の涙が伝った。

 その顔には、かつて兄の隣にいた頃のような、無垢な、子供のような笑顔が浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る