嗤うケダモノ
長引く戦いの中、互角であった均衡が、徐々に傾き始めていた。
静かに、しかし確かに。
その差は、哀しいほどに明確だった。
人としての限界と、人を超えた者との差異。
朔矢はもはや人ではない。
陰奇術士――その名に『術士』とあるが、実体は異形そのもの。
つまるところの、化外だ。
外見こそ人のかたちを保ってはいるが、構造も理も、簡単に人から外れている。
多くの差異を持つが、やはり最も大きな違いは『底』だろう。
多くの底が、人と比べ物にならぬ程深い。
当然、体力、持久の底も。
人の器では到底到達できぬ領域に、朔矢は立っている。
疲労が志紀の表情に現れ始めていた。
眉間の皺。歪んだ口元。荒れる息。
それでも志紀は、己を律し、必死にその衝動を押し殺していた。
――駄目だ、まだだ。駄目だ、駄目だ……。
それは単なる肉体の疲労だけではなかった。
疲労と長期の戦闘により、抑えていたそれが、内奥から噴き上がろうとしていた。
陰気によって解き放たれた本能。
人間として在ることを拒む、理性では制御しきれない感情。
――嗤い。
殺し合いの中に芽吹く、甘い悦び。
決して許されぬ感情が、志紀の内でかすかに笑みを孕み始めていた。
「何してんだよ、あんたは」
そのとき、朔矢の声が、冷ややかに空を裂いた。
「まだ本気にならないのか?」
言葉は軽く、挑発的だった。
だがその真意は、志紀の本質を深く穿っていた。
志紀は怒鳴り返すように叫んだ。
「本気に決まっている! ……わからないのかッ!」
声音が揺れ、言葉が震えた。
感情の乱れ――心に、余裕などなかった。
そもそも、志紀は最愛の弟を殺すために、ここに立っている。
その時点で、既に心は壊れかけていた。
なのに、朔矢は笑っている。
余裕さえ見せてくる。
……自分は、こんなにも抑えているというのに。
「だからさ、そうじゃないんだってば」
朔矢は、わざとらしく溜め息を吐いた。
「――笑えよ」
「……笑う? 私が……なぜ……」
「わかってるんだよ、俺には」
朔矢の声は、妙に優しかった。
「お前は、本気のときにしか笑わない。俺とやり合ってるときだけ――そうだろ?」
その言葉に、志紀は一瞬、息を止めた。
自覚など、なかった。
だが思い返せば、確かに――志紀は朔矢との戦いの中でだけ、笑っていた。
それは敵意の笑みでも、余裕の嘲りでもない。
……ただ、歓喜。
殺し合いの中に生まれ落ちる、純粋な悦楽。
だが、そんなものを認めてしまってはならなかった。
志紀は、人として正しく生きてきた。
清廉に、誠実に、正道を歩いてきた。
――なのに今、自分は。
弟を殺すことを、愉しんでいる?
「笑え」
朔矢が、静かに、告げる。
「その方がさ、本気になれるんだよ。あんたはさ」
その言葉が、決壊の契機となった。
強さという正義、目的という免罪符。
正しさが許した瞬間、志紀の内なる歪みは抑えきれなくなった。
口角が、ゆっくりと持ち上がる。
緊張と恐怖の中に、歓喜が宿りはじめる。
理性が砕ける音が、かすかに聞こえた気がした。
――嗤っていた。
志紀は、嗤ってしまった。
嗤わずにはいられなかった。
それは、これまで見せたことのない――醜悪な、凶相。
稚い子が見れば泣き叫ぶような、殺意と悦楽が混在した嗤いだった。
「……やっと、俺達らしくなってきたな」
朔矢が、呟いた。
奇妙なほど、自然だった。
何一つ違和感などなかった。
――最初から、朔矢は志紀の全てを受け入れていたのだ。
「そう言えば……お前はそうだったな」
志紀は、呟いた。
本気になると、笑みが消える男。
いつからか、そうなっていた。
命を懸けずとも本気で競い合った、かつての時間を思い出す。
だが今は、その境などない。
どちらかが命を落とすまで、終わらない。
「さて、もう休憩はいいか」
「もとより必要ない。来い、朔矢」
「ああ……志紀」
二人の呼吸が、再び重なった。
朔矢が
一振りで二重の斬撃を生む、理を超えた異形の刃。
まるで刃そのものが二つに増えたかのような、挟撃の形。
両刃のごとき斬撃は、まるで鋏。
防ぐ術は乏しく、通常なら、後退しか選べぬ一手となるだろう。
だが志紀は、敢えて前に出た。
刃が加速し切る前に、刀と鞘をもって両側を止める。
――恐ろしく無謀で、そして無茶な判断だった。
「イカレてるな、本当」
朔矢が、無表情のまま呟いた。
そう、志紀は戦いに飲まれ、正気を喪っている。
だが、それこそが――彼にとっての本気だった。
道場の頃から、それは変わらなかった。
本気の戦いに臨めば、志紀は淡い笑みを浮かべ、朔矢は氷のように無表情になる。
周囲の者たちはそれを、朔矢が笑う余裕を失ったからだと捉えていた。
だが、真実は些か異なる。
朔矢が真に本気になるのは――戦いのためではない。
戦いを楽しむ志紀、その“志紀の本気”に向き合うためだけに、朔矢は全霊を注いでいた。
志紀が自分との戦いを愉しんでいる。
ならば、自分もそれに応えねばならない。
決して失望させぬように。
志紀の全てを受け止められるように。
ただ、それだけだった。
全神経を研ぎ澄まし、志紀の一手一手に応じる。
表情さえも凍らせて、己を殺し、志紀を生かすために全てを懸ける。
朔矢にとってこの時間は、他でもない――交わりの刻であった。
心が許されぬことは百も承知。
この想いが許されるはずなどない。
それでも、志紀のために生きたかった。
志紀を、幸せにしたかった。
それが、朔矢にとっての『戦い』だった。
そしてその想いは、今なお、毫も揺らがぬ。
たとえ己が穢れ、人であることを捨て、最期には志紀に討たれる運命であったとしても――。
それを前提にしてなお、朔矢の愛は陰ることを知らない。
彼は陰奇術士となりながら、決して堕ちることはない。
志紀以外のすべてを顧みぬ究極の他者愛ゆえに、陰気は歪まず、欲に飲まれることもない。
その欲望すらも、最悪の恐怖と紙一重であるからだ。
朔矢が望む至上の結末は、志紀の手によって殺されること。
初めから、そのために全てを計画し、ここまで来た。
――その逆は、決して許されない。
殺したくはないが、殺すつもりで戦いたい。
死にたくないと足掻きながら、全力を持って討ち滅ぼされる。
矛盾するようなその祈りのかたちにおいてのみ、朔矢の願いは成立した。
煌めく刃が振るわれる。
対峙する双眸の光とともに、夜の闇に交差する。
互いに瞳の光が見えるほどの至近。
それでも、その距離は永遠に埋まらない。
二人の間には互いの集大成とも呼ぶべき刃があった。
命を賭した技が交錯するこの場所で、なお距離は零にならない。
――それが、心地よかった。
かつて、どれほど多くの不純物が二人の間にあっただろうか。
それだけ多くの感情が、この瞬間を阻んでいたのか。
だが今、その全てが削ぎ落とされた。
求め続けた《いま》が、ここにある。
この時間だけを、ただ、待ち望んでいた。
本気と本気が交錯する。
戦いは、なお拮抗を保つ。
まるであの頃の道場のように。
だが、いずれ決着はつく。
それも、そう遠くない未来に。
そしてそれは、朔矢が望んだ通りの結末であるはずだった。
志紀の表情に、微かな疑念が差す。
それに朔矢は気づいた。
きっと、不思議な感覚だったのだろう。
互いに互いを、己以上に理解する。
まるで未来の一手を読む棋士のように、舞うように剣を交わす。
千日手のような応酬の中、しかし確実に均衡は崩れ始めている。
しかもそれは、人を辞めた朔矢ではなく、疲労困憊の中無理をする志紀の側が押しているという形で――。
信じがたい。
だが、現実はそうなっていた。
驚愕と困惑を押し隠す志紀の顔が、妙に愛おしかった。
朔矢が、笑いそうになる自分を必死に抑えるくらいに。
志紀の中には、戦いを愉しみたいという獣性がある。
その強すぎる衝動を抑えるために、彼はあれほどまでに生真面目であった。
あの愚直なまでに真面目であったのが、己が心を律するための衣であったのだ。
だが、そのことを知っているのは、朔矢ただ一人だった。
一振りにして、鋏のように二度の斬撃を生む異形の剣技。
その原型は、かつて《闇堕としの焔鴉》と呼ばれた魔技にある。
全力で振るわれる双の刃。
その剛剣をもって、朔矢は清嶺館当主・神代正玄を打ち倒し、自らの剣を唯一無二のものとした。
尋常ならざるその技は、陰奇術士としての肉体、元来の膂力、そして剣術の極みによって成立する。
そのすべてが噛み合ったときに放たれる双撃は、防御を許さぬ絶技であった。
だが――志紀は、それをたった一本の刀で防ぎきった。
《朧月夜》。
それ一振りで、志紀は《咢》の双撃を受け切ったのだ。
先のように出鼻を潰した形でもなければ、隙を突いた形でもない。
全身全霊の一刀双撃を、真正面から打ち崩した。
その事実が、志紀自身をも混乱させる。
本来、この技を攻略するために、使い捨ての二刀流を習得したはずだった。
二刀を持ち、武器を壊してでも一度防ぎ、奇襲をかける。
そういう策を練っていた。
だというのに、それを使わずとも対処できてしまった。
自分の技量は、未だ神代正玄にすら及ばない。
ならば、その正玄を超えた朔矢に届くわけもない。
その道理に抗うため、歪んだ剣を手にし、死を賭してここまで来た。
――にもかかわらず、自分の方が優れている?
朔矢の剣が、理が、骨子が、全て見えてしまう。
動きが、予兆が、寸前の意図さえ、手に取るように理解できてしまう。
だから――
振り下ろされる剛力の刃を、一歩退き――紙一重にて躱す。
髪を掠める刃風にも恐怖はない。
その放たれた刃は、まるで自分自身が斬ったかのような錯覚さえあった。
下がりながら身体をねじり、左腕だけで刀を支え、突きを放つ。
相手が攻撃を放ったのと、ほぼ同時に放たれる突き。
それは、ほとんど無拍子に近い一撃だった。
朔矢が気づいたときには、すでに肩に刃が突き立っていた。
志紀は泣きそうな顔をしていた。
朔矢は、微かに笑みを浮かべる。
弟を刺したことへの後悔。
歓喜の果てに誰かが傷ついたという現実。
そして、戦況が逆転したことへの困惑。
それらが入り混じった、混濁の表情。
朔矢には、それがたまらなく愛しかった。
――本気で戦えば、必ずこうなると、最初から分かっていた。
なぜなら、朔矢の剣は“志紀への憧れ”から始まったのだから。
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