流れていく

佐の六月

第1話


私はその日、駅のホームで電車が来るのを待っていた。眩むような、暑い夏の日だった。


外に剥き出しのホームに、容赦ない陽光が照りつける。色あせた古いベンチがある以外そこには人1人いなかった。ホームの端が夏の暑さでゆらゆらと揺れていた。私は日差しに背を向けて、錆びて茶色くなった金網に寄りかかる。軋む金属の音で自分がここにいることを感じられた。最後に電車に乗ったのはいつだっただろうか。頭がぼおっとして思い出せない。すぐに、まあどうでもいいかと思った。すぐに思い出せないことを思い出そうとするには、今日は気分が良くない。だってこんなに暑いのだから。もう電車は来ていい時間のはずだけどどこで何をしているのだろうか。屋根もないホームには、電光掲示板も、遅延を知らせるアナウンスもない。ただ蝉の鳴き声だけが響いている。それも私にとってはもはや沈黙のようなものだった。空を見上げると白んだ青が広がっている。昔、空を見上げるのが怖かったことを、少しだけ思い出した。あの頃いくつも怖いものがあった。あれから随分時がたって、こうやって空を見上げることができるようになっても、私にはまだ数え切れないほどたくさん怖いものがあった。


遠くで踏切の音が響く。叫ぶみたいに甲高い音。この音を聞くとまるで自分の半身が、電車に引かれてちぎれてしまったような気持ちになる。警報音って全部そうだ。危険を知らせる音だけど、私はその音を聞いただけでもう体をめちゃくちゃにされた後みたいになる。電車の震える音が段々と鮮明になってくる。私は俯いて、汚れたスニーカーでコンクリートの床を蹴るように撫でる。ザラザラと触りの悪い感触が靴に引っかかる。ああ、もう来てしまう。いつか必ず来るのだけど、でも来なかったら良かったのに、と思ってしまう。そんな愚かな私を嘲笑うように電車のブレーキをかける音が響いた。空気が抜ける音がして、私の気まで抜けていきそうだった。顔を上げると見慣れたはずの電車が止まっていた。あの場所でも、何度も見ていた気がするけど、場所が変わるだけで何だかくたびれて古びた、でも心が解けるような雰囲気に変わっているような気がした。私は電車へと歩き出す。体を離した弾みで金網が小さく震えた。車内にはまばらに人がいた。座っている老婦。立ちっぱなしのサラリーマン。座席の端でぴったりとくついて話す女子高生。自分よりずっと大きなリュックを背負ったまま座る小学生くらいの男の子。冷房が微かにきく車内では、みな額に薄らと汗を浮かべていた。ドアの閉まるアナウンスが聞こえた。ドアが閉まり始める。車内には充分過ぎるほど空いている席はあったが、私は閉まりゆくドアの傍に立つ。完全にドアが閉まると、私はそこへと寄りかかった。電車はゆっくりと動き始めた。


私が今電車に乗っているのは、遠くに住む友人に会い行くためだった。久しぶりに地元に帰ってきてしまった私に「よかったら会いに来て」という連絡はここにいてもいいのだと言われているようでうれしかった。窓から私がかつて住んでいた街が遠ざかっていく、この景色を、かつて期待と不安に溢れながら眺めていた私がいたことを思い出す。流れていく景色の中で、建物が段々と点々として、代わりに緑が増えていく。電車の窓から見える景色が建物で埋まっていないのが妙に心をすっとさせた。


電車の走る音だけが静かに響く車内に、女子高生たちの笑い声が弾けた。彼女達の近くにいたサラリーマンがびっくりして彼女たちを見る。彼女たちは少し申し訳なさそうに、でも堪えきれないとばかりに互いを見合って、小さく笑い続けていた。あちら側の車窓からは夏の午後の鋭い日が降り注ぐ。私にはとても眩しいけど、彼女たちは気にも留めないようだった。夏休みにも関わらず制服を着て、丈の短いスカート丈に、色ついた唇。彼女たちに、怖いものなどないようだった。



最初に怖くなったのは、夜だった。夜が来ると眠らなくてはならない。寝たら明日になってしまう。だから怖かった。次に人混みが怖くなった。全ての視線が自分に向いているような気がした。それから逃げるように早足になって、同じ場所に少しだっていられなくなった。目上の人と話すこと、一人で外に出ること、誰かと話すこと、何もかもが怖くなった。それでも襲い来る日常を乗り越えようとしていくうちに少しずつ周りから遅れていった。歯車が噛み合わなくなるみたいに。全てが壊れた日のことはよく覚えている。暗かった空が明るくなってくることに絶望して、もう何日も大学に行けていないことを親にどう説明しよう、とかとにかく何か口に入れないと、とかまともでないのにまともに考えようとしていた。ずるずると這うように冷蔵庫の前に立って、開ける。何も入っていない。驚きはなかった。何も入っていないのは知っていた。でも何となく開けてしまうのだ。期待したことは大体外れるけど、こういう時の期待は必ず叶う。それだって、救いみたいな気がした。賞味期限切れの牛乳パックが目に入って捨てようと思った。混沌とした日々の中で部屋の片付けは何故かできていた。なんなら部屋の片付けしかできなかった。牛乳パックを取ろうと手に持ち、それを落とした。


しっかりと掴んだはずだった。でも落としてしまいたいとも思っていた。床に落ちた牛乳パックからドクドクと白い液体が吐き出されていく。それは何か生き物が蠢めいているようだった。私は床に座り込んで、拭きもせずにその様を呆然と見ていた。この時「ああもうダメだ。」と思った。



寄りかかっていた扉が開いて、体が傾いた。ああもう次の駅だったのか。私があたふたとしていると


「大丈夫ですか?」


あの大きな荷物を背負った男の子が声をかけてくれた。


「あ、は、は、はい。」


その少年の迷いのない声と瞳にまたあたふたとしてしまう。何かもっと言わないとと思うけれど、自分の小さく頼りない声が、頭をぐるぐる駆け回って上手く言葉を紡げない。


「おばあちゃん!」


気がつくと少年はホームへと駆け出して行ってしまった。まだ小学生くらいなのに、1人で祖母に会うために電車に乗っていたのか。あの真っ直ぐな瞳を思い出す。彼ならどこに行っても自分の思うままに生きていけるような気がした。羨ましいと思う半分、その強さが恐ろしいと思った。



怖いものは全てあの街にあると、地元に逃げ帰ってきても、私はまたも恐怖を見つけてしまった。私は怖いものがないことも怖かった。怖いものがないということは、いつか怖いものが私の前に現れるかもしれないということだからだ。安らぎや幸福の隣にはいつも恐怖が寄り添っている気がした。何が安らぎや幸福を壊すのだろうか。道を歩いていたら車に跳ねられるかもしれない、車が通らなくても、上から何か降ってくるかもしれない、家にこもっていても何か天災が起こって、全部めちゃくちゃになるかもしれない。絶望した。毎日、人の目を気にして吐きそうになったり、涙を流さないと夜を越えられないような苦しさを感じているのに、死の淵でも苦しまなければならないことがあるのかもしれない。そんなことがこの世界にありふれているなんて。あの少年は知っているのだろうか。



そんなことを考えて、そんなことを考える自分が嫌になる。ここにいる老婦も、サラリーマンも女子高生も、きっとそんなこと考えていない。考えていたとしても、勉強のこととか人間関係とか、仕事とか将来のこととか、私みたいな恐怖ではない、どれも全部前に進むために必要な恐怖な気がする。それなら私の恐怖はなんだろう。私はどうしてこんなに全てに脅えているんだろう。俯くと汚れた私のスニーカーが目に入る。高校生の時は、いつもスニーカーを綺麗にしていたな。あの頃はなんだってそうだった。目に入るもの、触れるもの全てを大切にしていた。そうやって自分も大切にしていた。


その時、言葉を失った。サラリーマンの感嘆する声に驚いて咄嗟にそちらの車窓を見た時だった。


海が、見えたのだ。すぐに塀のようなものに隠されて、それは見えなくなった。


そして気がついた。この電車が、海を通るということを。



海は怖いものたちの中でも、特に怖かった。全てを飲み込みそうだった。見ているだけで息が止まりそうだった。私の住む町は海からずっと遠い。なのにいつのまにこんなところまで来てしまったのか。



最初は、友人から私のところに来てくれるということだった。でも私は、少しでも、少しでも前に進みたくて、私から会いに行くと言ってしまったのだ。その結果、今私は海のすぐ傍まで来てしまった。思わず座り込む。全然、考えもしなかった。いつも一通り怖いことを考えているはずなのに、予想できなかった自分が嫌で、でもこうなることを望んでいた気もしていた。本当は海が見たかったような気がした。何もかもが怖くて堪らないなかで、どうにか怖いままでも生きていけないかと思っていた。女子高生たちのような強さも、あの少年のような真っ直ぐさも持っていないけど、それでも


「...海がみたい」


車内が暗くなる。トンネルへと入ったようだった。見渡すと女子高生たちも老婦も、窓の方を見ている。きっとこのトンネルを抜けた先に、私の望んでいる景色が待っている。私は立ち上がって反対の扉へ歩き出す。そうして、車窓の目の前に立つ。やがてこの窓を埋め尽くすであろう景色を見るために。私はその時を、じっと目を瞑って待つ。暗闇を走る電車の震えが体に響く。



暗い暗い中で、瞼に青が弾けた。



目を開くと海だった。それは空との境目もわからなくなるほどの海だった。サラリーマンの感嘆のため息が聞こえる。女子高生たちは一言も声を発しない。きっと、彼女たちも老婦も言葉を忘れてこの海を見つめているのだろう。きっとというのは、私はその時海以外、何もかもを見ていなかったからだ。海の青に、光が踊るように形を変えて輝いている。眩しさも、煌めきも何もかも溶けてるみたいな青だった。水の揺らめく音すら聞こえてきそうだった。そうか、こんなにも輝いていたのか。海は眩しかったのか。まだ海が怖くなかったころに見た時は、知らなかった。それがとても、嬉しかった。



海はそこで待っている。私を、ではない。様々なものに流された全ての人を。それなら私は生きていけると思った。例え望まなくても、流されるままで生きていくことを許してもらえるなら、私はきっと大丈夫だと、そう思った。

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