オリーブの咲く箱庭

猪口萩(いのぐちしゅう)

オリーブの咲く箱庭

いつまでもこんなところにいたら平和ボケしちまいそうだなんだと、窓の外、下の方から聞こえる。

初めてではなかった。実際毎日ドンパチやる役回りもある組織で、のどかな林の中の館の警備なんて仕事を振られれば拍子抜けするものだ。その後いつ死と隣り合わせの状況に赴かなければいけなくなるかわからないなら尚更、文句も言いたくなろう。

しかし金髪の少年は僅かに眉を顰めていた。――奴ら、入れ替わる度にこうだ。オリビア様に聞こえたらどうする。

彼が横からの視線を感じてそちらを向くと、隻眼がきつく見下ろしていた。

はいはい”顔に出すな”ね。そばかすの浮いたほほをまた微かに歪めながら、少年は顔を戻した。

「ねえ、アル」

「はい」

その女性は自らがつけた愛称を使う。アルと呼ばれた彼、トーポは咄嗟ににこりと笑って返事をした。


「ここはどう?慣れたかしら」

窓の方から彼女はゆっくりと振り返った。暗い色の髪が、重力に逆らわず流れている。

「考えうる限り最上の環境です」

気に入りのものらしく床を離れる日はほぼ毎日つけているバレッタが、差し込む日できらめく。あれに嵌っている石たちがたった一粒で自分そのものより何倍何十倍も高価だと、トーポは気づいている。

「よかった。今はおなかいっぱい食べてるでしょう」

柔らかくにこりと笑う彼女に、トーポも頬を緩めてみせる。

「ええ。全てオリビア様のおかげです」

オリビアは「まあ。……姉さまのおかげよ」と言ってまた窓越しに青空を仰いだ。

少年は今度こそあからさまに眉を顰めた。確かにこの組織の莫大な富は彼女の姉の手腕によるものであるし、トーポの雇い主だって姉の方だ。しかし差し向けられた捨て駒の彼を哀れな孤児と信じて拾ったのも、さらにここで暮らせるよう頼んだのもオリビアである。

素直で世間を知らず、愚かなほど優しい。温室で育った花のようだ。悪天候に弱い、小さくて儚い、真っ白な花。少年は目の前の少女にそんな印象を持っていた。

「ィ゛……」

隣から伸びた気配のない手が、トーポの手の甲をぎりりとつねる。隻眼の女性の表情は切りそろえた真っ直ぐな黒髪に隠れて見えないが、言いたいことはよくよく伝わった。オリビアに届かない声量で「申し訳ございません」と彼がつぶやくと、白い手は離れていった。

「姉さまはすごいのよ。ねえ、クローネ」

「ええ」

「姉さまはね……賢くて、強くて、美しくて、苛烈で愛情深くて」

彼女は歌うように話す。柔らかいクリーム色の声だ。昼下がりのあたたかい風にひらひらなびくカーテンと似ている。

「それで、わたしをとても愛しているの」

「……」

ノアは病弱な妹に自然豊かな土地の邸宅を与え、警備も護衛も話し相手も手配した。妹が気に入った紅茶やクッキーはブランドごと買い上げた。やっと掴んだ数時間の休息をただオリビアと2人で茶と談笑を楽しむのに使っている。妹にちょっかいをかけようとした輩はことごとく息の根を止めるが、消すつもりだったドブネズミは妹に頼まれたのでこうして側仕えへと叩き直した。そういう女である。

その愛が故に自らへ起きたこと、こちらを見下ろす深紅の瞳を思い出したトーポドブネズミの背筋が、すうと寒くなる。

「姉さまはいま雪に触れたいと言えば降らせてくれるし、あの雲が食べたいと言えば持ってきてくれる」

物語の中の魔法使いか妖精か、はたまた神か。幻想的なたとえ話がはらはらと部屋に満ち、トーポとクローネの耳に落ちていく。彼女は日に焼けていない手を空中へ差し出し、そこに姉がいるように、エスコートを受けるように、ふわりと上げた。

「空を飛びたいと言えばきっとこの手をとって連れていってくれるわ」

オリビアの瞳に映るノアはいつでも不敵に微笑んでいる。荒唐無稽と言ってしまえばそれまでだが、あの女ならやってのけるのかもしれない――少年はそう思った。

「わたしが」

オリビアは言葉を切る。


「姉さま以外大嫌い、顔も見たくないと言えば、世界はわたしと姉さまだけになるわ」


彼女の声は変わらず柔らかい。温かい。


「……」

オリビアは少し頼りない足取りで壁伝いに歩き始めた。そっと駆け寄ったクローネに支えられてサイドテーブルまで進むと、挿してあるラナンキュラスを一輪手に取って引き抜いた。たおやかな指先から下に伸びる茎が水を滴らせている。

「わたし、平和が好き。姉さまが平和ならもっと素敵だわ」

花を目線まで持ち上げ、躊躇いのない動作で残していた葉をむしった。ぱらぱらと、それらが当然のように差し出されたクローネの手へ落ちていく。


「だから、”わたしオリビアは知らない”の」

呟いて彼女はそれを花瓶へと戻した。

オリビアは花へ近づいてすう、と息を吸ったが、それらからはほとんど香りがしない。匂いの強いものは彼女の身体に障るとトーポは教わった。知らないはずがない。この屋敷は彼女のものだ。他でもない、ノアの愛する妹、オリビアの。

「ねえ、アル。怖い顔をしないで」

――わたしの前では。

素直で世間を知らず、愚かなほど優しい白いブラウスの少女オリーブの花は、困ったように微笑んだ。

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オリーブの咲く箱庭 猪口萩(いのぐちしゅう) @hagini_inoshishi

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