その山、私有地につき
広川朔二
その山私有地につき
車の窓から流れる景色は、昔と変わらない。舗装が甘くなり、木々が車体に擦れそうになるたび、ようやく「帰ってきた」と思えるのが、この山道のいいところだった。
浩一は、ハンドルを握りながら深く息を吸い込んだ。空気が違う。湿り気の中に、若葉や土、木の皮の匂いが混じっている。都市で過ごす日々では決して嗅げない、子どもの頃から染みついた匂いだ。
父が亡くなったとき、遺産として残ったのは、築六十年の古びた実家と、周囲の山林だった。最初は正直、国に帰属させることも考えた。使うあてもなければ、維持するだけで手間と金がかかる。だが、久々にこの地を訪れ、手入れの行き届かない庭や、鳥の声しかしない山の静けさに触れたとき、浩一は心の奥にしまい込んでいたものが呼び起こされるのを感じた。
ここは、帰る場所なのだと。
親から聞かされていた通り、実家周辺以外の土地はすでに整理されていた。幸いにも相続税や維持費を差し引いても、自分の預貯金を合わせれば、息子に迷惑をかけずに済む程度の現金資産は残せそうだった。それなら、と浩一は山を引き継ぐ決心をした。
もっとも、遠方にある実家には頻繁に通えるわけではない。妻と子は都市部の生活に慣れ、息子は山よりゲームの中の世界に親しみを持っていた。それでも浩一は、偶の休日を使っては実家に帰り、黙って山を見ていた。木々の揺れる音が、日々の喧騒でこわばった神経をほぐしてくれるようで、何よりも贅沢に感じられた。
そんなある日、何の気なしにスマホで動画を見ていた時のことだ。
「見て見てー!これ、ぜーんぶタダで採れたんですよ!」
派手な口調の女の声に、ふと指が止まった。画面には、まさしく山菜料理の数々。ワラビ、タラの芽、ゼンマイ。懐かしい見た目に思わず目を細めた。母がよく春になると作ってくれた煮物が、こんな感じだった。浩一自身は山歩きが得意ではなく、山菜はもっぱら両親が採ってきたものだったが。
だが、それよりも引っかかったのは、背景だった。
……見覚えがある。気のせいだろうか。動画の冒頭には、杉林と、舗装のない林道のような風景が映っていた。よくある山道といえばそうだが、どこか、自分の山に入る林道に似ていた。
「自然の恵みって、最高だよね!山なんて誰のものでもないし!」
その言葉に、浩一は眉をひそめた。誰のものでもない? そんなはずはない。山には所有者がいるし、明確に私有地として登記もされている。勝手に、しかも配信のネタにするなんて。
浩一は、動画のコメント欄を読んだ。
「ここってどこの山ですか?」「持ち主いないんですか?」「勝手に入ってよくない?」
配信者は、「秘密でーす!w」「だーいじょぶ、山はみんなのもの♪」と無邪気に返していた。
無知なのか、確信犯なのか――。
冷めた気持ちのまま、浩一はスマホを閉じた。
そして、決めた。
次の休みには、久々に実家へ行こう。
山の様子を、見てこよう。
週末、浩一は早朝に家を出た。目的はただひとつ。あの動画で見た景色が、本当に自分の山なのかを確かめるためだ。
県道を逸れて林道に入ると、細い道にタイヤが小刻みに揺れた。山の中に入るほど、道は荒れていく。だが、かつて見慣れた景色の中を注意して進んでいくと、明らかに“異物”があった。
……そこだけ、空間が開けている。
道の脇、いつもなら落ち葉と雑草に覆われているはずの斜面が、不自然に均されていた。まるで車が停められるようなスペースには地面にはタイヤ痕。そして、その先には、折れた枝と、踏みしめられた草の筋が続いていた。
こんな空間はなかったはずだ。
間違いなく、人の手が入っている。ここは自分が登記している私有地だ。地図でも、法務局でも確認している。誰かが、勝手に――。
実家に戻った浩一は、パソコンを開き、検索を始めた。
「私有地 山 山菜採り 違法」
すぐに複数の記事が出てきた。「私有地での山菜採取は窃盗にあたる可能性」「無断侵入は軽犯罪法違反」――つまり、あの配信者の行為はれっきとした違法だ。
なにより腹が立つのは、その無神経さだ。
昔は近所の人が、事前に一言かけて山菜を採りに来ることもあった。しかし皆、礼儀を持ち、顔も知れていた。採れた山菜をおすそ分けしてくれたり、立ち話をしたり、そんな信頼の上にあったやり取りだ。山の恵みを「共有」するとは、そういう関係のことを言うのだ。
あの動画に映っていた料理や言葉には、そんな気配は一切なかった。ただ、得意げに、「タダで取った」「自然の恵み」と謳い、勝手に人の財産をネタにして笑っていた。
浩一は腹の底にじっとりとした怒りがたまるのを感じた。
—それに。
山は恵みを与えてくれるだけではないのだ。あの動画の人物は山の危険性まで理解しているようには見えなかった。
このまま見過ごすわけにはいかない。
だからといって監視カメラを設置するのは現実的ではない。山中は電波も届かず、電源も確保できない。ましてや山の周囲をすべて囲うなど、不可能だ。
せめて、はっきりと意思表示をしよう。
そう考えた浩一はホームセンターでベニヤ板と赤いペンキを買い、「私有地につき無断立入禁止」と大きく書いた。文字が目立つように、縁を太く縁取り、地面に杭を打ち込んで固定した。あの不自然な空間のすぐ脇。誰が見ても、それが「ここは入ってはいけない場所」であると分かるように。
自然を独占したいわけではない。ただ、ここが危険であること、そして“誰かの大切な場所”であることを分かってほしかった。これで少しは気づいてくれるだろう――そう、願っていた。
だが。
翌週、仕事の合間を縫って再び訪れた浩一は、目を疑った。
看板は、折られていた。
無惨に、地面に転がり、ペンキの文字は泥にまみれていた。
「……ふざけるなよ」
低く、浩一の声が漏れた。
看板を拾い、もう一度打ち直す。壊された木片を使って応急処置をしながら、歯を食いしばった。怒りと、情けなさと、無力感が入り混じる。だが、この場所に常駐して監視する時間も余裕もない。今日も、しばらく来られなくなりそうなので、実家の戸締まりと整理のために来ただけで、すぐに帰らなければならないのだ。
「俺がいないのをいいことに……」
そう思うと、腹の底に澱のような憤りがたまっていく。
山は、命のある場所だ。滑落もあれば、毒草もある。熊だって出る。電波も通じない。何かあっても、誰も助けに来られないのだ。
山の危険を知っているからこそ、警告したのに――。
看板を立て直した後、浩一は長く山の方を見つめていた。風が枝を揺らし、葉がさやさやと鳴っている。まるで、山自身が何かを訴えているようだった。
◆
季節が進み、山の緑が深みを増す頃。浩一は再び実家を訪れた。
林道に入ってすぐ、異変は目に飛び込んできた。
――車だ。
あの空間に、グレーの軽自動車が無造作に停まっていた。外装は埃まみれで、屋根には細かい枝葉が乗っている。風で運ばれたにしては多すぎる。数日、いや、それ以上の時間が経っているように見えた。
「……まさか、車を捨てられた?」
近づいて確認する。ナンバーは付いている。窓の隙間から覗いても、荷物らしいものはほとんど見えない。ただ、助手席の足元に潰れたペットボトルと、レジ袋が落ちていた。
――妙だ。
浩一は一度深呼吸し、スマホを取り出した。今日はもしものために準備してきた張り紙を、ワイパーに挟む。
「ナンバー控えました。次見つけたら警察に通報します」
それでも、違和感は消えなかった。誰かが今も山に入っているのか? それとも、すでに……。
嫌な想像が脳裏をよぎった。
電波は通じない。いったん実家へ戻り、固定電話から警察に連絡を取ることにした。
「山林の私有地に、放置された車があるんです」
事情を説明すると、警察は意外とすぐに動いてくれた。山間部での行方不明や事故は過去にも事例があり、早期対応が重要とされているらしい。
現地に来た警察官がナンバーを照会した直後、表情が変わった。
「これ……行方不明者の車です。数週間前から捜索願が出ています」
言葉の温度が一気に下がった。
後日、山に捜索隊が入った。浩一も、警察の要請で立ち会った。
薄暗い杉林を進む。踏み跡はまだ薄く残っていた。かすかに下草が寝ている。警察犬が立ち止まり、山の奥を指し示すように吠えた。
そして、それは見つかった。
正確には、「一部」が。
「熊だな」
現場検証に立ち会った捜査員の言葉に、浩一は眉一つ動かさなかった。
「自業自得」
同行する警察官も聞き取れないほどの呟きだったが、それは、心の奥から自然に湧いた言葉だった。
雑木に血が飛び、土が抉れている。残されていたのは、引き裂かれたリュックと、身元の確認に必要なものだけだった。
命の終わりを迎えたその女が、どんな最後だったか――誰にも分からない。ただひとつ言えるのは、彼女が侵入していた場所は、私有地であり、野生の動物が生きる危険地帯だということだ。
警察から詳細な事情を問われたが、浩一は淡々と答えた。
「以前から無断侵入が続いていて、看板も壊されていました。身元は存じません」
「気づいていたんですか? この人物が山に入っていたと」
「ええ。看板を壊していた人物と、同一人物かどうかまでは分かりませんが……動画配信なども見かけたことはあります」
そう語る声に、怒りも悲しみもなかった。
その翌週、実家の縁側で、浩一は一人、山を見ていた。
静かだった。虫の音、風の音、どこか遠くで木が軋む音。昔と変わらない自然の音が、ただ静かに響いていた。
人が一人、ここで命を落とした。
それなのに、自分は、驚くほど平静だった。
「……自業自得だな」
その言葉は、苦しみや同情から出たものではなかった。ただ、事実として口にしただけ。
この山は、優しくもあるが、同時に容赦がない。自然とは、そういうものだ。人がそれを“タダ”で楽しめると思い込んだとき、代償を払うことになる。
浩一は、湯飲みの茶を口に含み、静かに目を閉じた。鳥の声が遠くから聞こえ、淡い霧が杉の合間を流れていく。
先週の出来事は、ニュースにはならなかった。地方紙の片隅に、小さな記事として掲載された程度だ。
「女性が山中で遺体で発見 熊による事故か」
――それだけだった。名前も、配信者だったことも、載らなかった。
だが、浩一にとっては、それでよかった。
騒がれるような話ではない。誰かが、軽んじていた自然に、ただ飲み込まれただけの話だ。
彼のスマホには、あの配信者のチャンネルがまだ登録されたままだった。
更新は途絶え、コメント欄には「更新まだですか?」「心配しています」という書き込みが並ぶ。
浩一はそれを無言で見つめ、そっと登録を解除した。
その日、彼は再び山へ入った。
途中で買っておいたベニヤ板と杭を持ち、かつて看板を立てていた場所へ向かう。あの「空間」は、今や落ち葉に覆われ、草が戻り始めていた。
浩一は静かに新しい看板を立てる。
文字は、以前と同じ。
「私有地につき無断立入禁止」
だが、その下に、もう一行だけ付け加えた。
「自然を甘く見ないこと」
そう書いた赤いペンキが、夕日に照らされていた。
夕方、実家の台所で、妻が作って持たせてくれた山菜の煮物を口にする。
ふと、昔、母が同じように作ってくれた味を思い出す。
春の苦味が、舌に心地よい。少しだけ、涙腺が熱くなった。
「やっぱり、この味だな」
この山は、守られるべき場所であり、守るべき価値がある。
そして、自然は時に、静かに裁きを下すのだ。
その山、私有地につき 広川朔二 @sakuji_h
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