アポトーシス

桜庭ロコ

アポトーシス

卒業式の喧騒が、体育館の分厚い扉の向こうでまだ微かに反響している。まるで遠い世界の出来事みたいに。私は、誰にも告げず、ほとんど無意識に階段を上っていた。目指す先は屋上。規則を破りたいとか、そういうことじゃない。ただ、なんとなく、開けた場所に行きたかっただけ。「立ち入り禁止」と書いた重たい鉄の扉を押し開けると、春先のまだ少し冷たい風が頬を撫でた。


先客がいた。


フェンスに寄りかかり、眼下に広がる、やがて忘れてしまうだろう街並みを眺めている。見覚えのある後ろ姿。


「ハルト……?」


声をかけると、彼はこちらを振り返った。驚いたような、でもすぐに納得したような、複雑な表情。


「ヒマリ? どうした?」


「うん。なんか、下にいるのが息苦しくて」


そう言うと、ハルトは小さく頷いた。「わかる気がする」とだけ呟いて、また視線を街に戻した。


中学の頃は、ふたりでよく話した。家が近かったわけでも、部活が一緒だったわけでもない。ただ、なんとなく波長が合った、のかもしれない。席が隣になった時、くだらない話で笑い転げた記憶がある。でも、高校に入ってクラスが分かれてからは、廊下ですれ違っても挨拶を交わす程度。別に喧嘩したわけじゃない。ただ、「ちがう側」の人間になった、それだけ。


「久しぶりだね、こうやって話すの」


私がそう切り出すと、ハルトは「そうだな」と短く答えた。フェンスから少し離れ、私の方に向き直る。彼の制服の胸元には、卒業生を示す白いコサージュ。私と同じものが、風で少しだけ傾いている。


「ハルトは、これからどうするの? やっぱり、うわさ通り東京の大学?」


「ああ。医学部。なんとか滑り込めた」


「すごいじゃん! やっぱりハルトは違うなあ」


言葉に嘘はなかった。彼はいつだって努力を惜しまなかった。授業が終われば図書館に直行し、週末も模試や塾。まるで何かに駆り立てられるように、彼は常にペンを走らせていた。


「ヒマリは?」


唐突に尋ねられ、私は少し言葉に詰まった。


「私? 私は……まだ、何も」


「そうか」


ハルトの返事は素っ気なかったが、責めるような響きはなかった。ただ、事実を確認しただけ、というような。


「別に、焦る必要もないか。ヒマリには……時間は、いくらでもあるんだもんな」


その言葉に、私の胸は少し痛んだ。悪気がないのはわかっている。事実だ。私は、いわゆる「アポトーシス世代」。正確には「アポトーシス無効化処置済み世代」だ。遺伝子操作によって、細胞の老化プロセスが極限まで抑制されている。理論上、寿命はない。対して、ハルトは従来型の、限りある命を持つ人間。私たちの世代は、ちょうどその過渡期にあたる。この新しい医療行為を選択した親もいれば、選択しなかった、できなかった親もいるのだ。


「……まあね。でも、ありすぎるのも、どうなのかなって思う時もあるよ、時間」


自嘲気味に言うと、ハルトは意外そうな顔をした。


「贅沢な悩みだな、それは」


「そうかもしれないけど。だって、終わりがないんだよ? ゴールのないマラソンを走ってる気分。どこに向かって、どれくらいのペースで走ればいいのか、全然わからない」


フェンスに両肘をつき、私も街を見下ろす。ミニチュアみたいに車が行き交い、人々が歩いている。あの小さな点の一つ一つに、それぞれの人生と、それぞれの終わりがある、いや、無いのかもしれない。


「俺には、時間が足りない。だから、死ぬ瞬間まで走り続けなければならない」


ハルトがぽつりと言った。


「やりたいことが多すぎる。知りたいことも、見たいものも。大学の四年間だって、あっという間だろう。研究者になって、何か一つでも新しい発見ができたらと思うけど、それだって一生かかるかもしれない。いや、一生あっても足りないかもしれない」


彼の横顔は真剣だった。その瞳には、未来への希望と同時に、焦りのような色も浮かんでいるように見えた。


「だから、無駄にしてる暇はないんだ。一日一日が、一分一秒が惜しい」


「……ハルトは、ずっとそうだよね。昔から」


「そう見えるか?」


「うん。いつも一生懸命で、まっすぐで。すごいなって思うよ。私には、そういうのないから」


私には、熱中できるものがない。将来の夢もない。無限に与えられた時間を持て余している。親は、好きなことを見つければいい、ゆっくりでいい、と言うけれど、その「ゆっくり」が永遠に続くかもしれないと思うと、胸の中が空っぽになったような、そんな感じがする。


「無限の時間か……」


ハルトは空を仰いだ。


「正直、想像もつかないな。病気や事故がなければ、永遠に生きられるんだろう?」


「まあ、理論上はね。でも、事故に遭わない保証なんてないし、未知の病気だって出てくるかもしれない。それに、心が耐えられるのかな」


「心?」


「うん。永遠に生きるってことは、『今』に意味は無いってこと。全てを無限に先送りしてもかまわない人生……ちょっと怖いよ」


ハルトは黙って私の言葉を聞いていた。彼の表情は硬いままだったが、その奥に、かすかな共感のようなものが揺らめいた気がした。


「そうかもしれない」


しばらくして、彼は言った。


「俺は、限りがあるからこそ、今この瞬間が輝くんだと思ってる。終わりがあるから、必死になれる。何かを成し遂げたいって思える」


「……そう、なのかな」


「少なくとも、俺はそう思う」


風が一段と強く吹いた。私の髪が乱れ、ハルトの学ランの襟がぱたぱたと音を立てる。


「だから」とハルトが続けた。


「ヒマリの言う、ゴールのないマラソンって感覚も、少しわかる気がする。俺だって、もし時間の区切りがなかったら、何かに全力で打ち込めるか分からない」


「ハルトでも、そういうのあるんだ」


「当たり前だろ。人間なんだから」


彼は少し笑って見せた。


「寿命があろうがなかろうが、迷ったり、不安になったりするのは、同じなんじゃないか」


その言葉は、水面に落とした滴のように私の胸に波を立てて広がった。そうだ。私たちは、寿命という点で決定的に違うけれど、今ここに立って、未来に対して漠然とした不安を抱えている点では、同じなのかもしれない。無限の時間に戸惑う私と、有限の時間に焦るハルト。どちらも、与えられた時間をどう生きるべきか、確かな答えを持てずにいる。


「……そっか。そっかあ」


何が「そっか」なのか、自分でもよくわからなかった。でも、さっきまでの胸のつかえが、少しだけ軽くなった気がした。


「なあ、ヒマリ」


「ん?」


「もし、いつか……その、なんだ。もし、やりたいこととか、そういうのが見つかったら」


「うん」


「その時は、全力でやれよ。時間は無限にあるかもしれないけど、やりたいって思った『今』の心は、その時しかないんだから」


ハルトらしい、不器用だけど、まっすぐな言葉だった。


「……うん。ありがとう、ハルト」


夕陽が西の空を染め始めていた。卒業式という、一つの区切りの日の終わり。


「じゃあ、俺、そろそろ行くわ」


ハルトがフェンスから離れた。


「うん。……東京、頑張ってね」


「ああ。お前もな」


何を頑張るのか、具体的な言葉はなかったけれど、それで十分だった。


彼は私に背を向け、屋上の出口へと歩き出す。その背中が、扉の向こうに消える直前、彼はもう一度だけ振り返った。


「じゃあな」


「うん。また」


「また」なんて、次がいつ来るのか、あるいはもう二度と来ないのかもしれない約束の言葉を、私たちは交わした。だけど、その言葉は強い春の風に飛ばされることなく、静かに私の心に沈んでいった。


扉が閉まる、重い音。屋上には、私ひとりが残された。


ゆっくりと息を吸い込む。春の冷たい空気と一緒に、体が、心が、透明になるような感覚があった。


何年もずっと心にあった重いもの。漠然とした不安の分厚い影。今は、不思議と何も感じない。目の前に広がるのは、ただただ美しいオレンジ色の世界。私の心も、その光に溶けていくように、どこまでも透明になっていく。この世界に完璧な瞬間というものがあるとすれば、それは間違いなく、今だ。全身の細胞が、そう確信していた。


私は、この瞬間を永遠にしたいと思った。永遠に続く時間なんて、本当は欲しくなかったのかもしれない。この、たった今の、完璧な一瞬こそが、私の求める永遠なのだ。


気がつくと、私は屋上の入り口側のフェンスを背にしていた。目の前には、夕陽を反射して鈍く光るコンクリートの床。その先に、街並みを見下ろすもう一つのフェンス。


衝動的に、私は全力で走り出した。


どくん、どくん、と自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。風を切る音。荒くなる呼吸。けれど、苦しくない。むしろ、体中から喜びが溢れ出してくる。生きていることが、こんなにも鮮烈で、楽しいなんて。知らなかった。無限の時間を前にして、ずっと忘れていた感覚。


短い助走。


最後のフェンスが迫る。


私は力強く地面を蹴った。


柔らかく、どこまでも広がるオレンジ色の空に向かって、全身を投げ出した。

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