屋上の監視者

その視線は、夜の端にあった。

 はじめまして。

 台湾出身の馨(かおり)と申します。

 祖父が私に、日本語の名前「かおり」を贈ってくれました。

 ですので、もしよろしければ、どうぞ「かおり」と呼んでくださいね。


 日本語も、物語を書くことも、まだまだ勉強中の身です。

 至らぬ表現や、読みづらい箇所があるかもしれませんが、

 どうか最後まで、温かく見守っていただけたら嬉しいです。


 それでも――

 この小さな物語を通して、ほんの少しでも、私の想いがあなたの心に届くことを願っています。


 ここまで目を通してくださり、心より感謝いたします。


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 これは、私にとって初めて、

 自分自身の物語を言葉に綴ろうとする試みです。


 少し長くなってしまうかもしれません。

 けれど、それだけ私にとっては大切で、忘れられない記憶なのです。


 もしよろしければ――

 ほんの少しだけでも、立ち止まって、

 この小さな声に耳を傾けていただけたら、これほど嬉しいことはありません。


 この広い世界のどこかで、

 名も知らぬ私の心に、そっと寄り添ってくださるあなたへ。

 ――そんなあなたがいてくれるだけで、私はもう十分です。


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 この物語を語り始める前に――

 どうしても、伝えておきたいことがあります。

 (もし私の話が少し長いと感じたら……どうか、そっと笑って許してくださいね。)


 これは、いわゆる幽霊や怨念の話ではありません。

 けれど、もし「怪談」という言葉に、

 説明のつかない何かとの遭遇も含まれているのだとしたら――

 そう、これはきっと、私にとっての「怪談」だったのだと思います。


 あの夜に起きたことは、

 十年近くが経った今でも、私の記憶の中で、あまりにも鮮やかに息づいています。


 思い出すたびに胸をよぎるのは、

 あのとき私を包んだ、困惑、不安、そして驚き――

 そんな複雑に絡み合った感情たちです。


 きっと、読み終えたあなたは思うでしょう。

 「作り話なんじゃないの?」と。


 正直に言えば、もし私が逆の立場だったら、

 やっぱり同じように疑ったと思います。


 それでも、どうか信じてください。

 これは、私がこの目で見て、この心で感じた、紛れもない現実です。


 もちろん、信じるかどうかは、あなたに委ねます。

 もし信じられなかったとしても――

 ひとつの不思議な物語として、

 心の片隅に、そっと置いていただけたなら、それだけで十分です。


 この体験が、私にとって特別なものとなった理由。

 それは、あの瞬間を目撃したのが、私ひとりではなかったということです。


 もう一人。

 私と一緒に、あの場にいた人がいました。


 けれど、その人は、あの日を境に、

 この話題に触れることを、まるで避けるかのようになりました。


 私が勇気を出して言葉を向けても、

 まるで何もなかったかのように、静かに話を逸らしてしまうのです。


 最初のうちは、私も何度か食い下がろうとしました。

 けれど、やがて諦めるようになり……

 気がつけば、心に滲む孤独だけが、静かに広がっていたのです。


 今日、こうしてこの物語を綴ることにしたのは――

 その孤独が、どうしようもなく重くなってしまったからです。


 友人たちに打ち明けようとしたこともありました。

 けれど返ってきたのは、困ったような笑顔と、

 「本気で言ってるの?」という、優しさに包まれた、微かな距離感だけでした。


 理解はしています。

 でも、誰にも共有できないという現実は、

 想像していた以上に、胸の奥深くに突き刺さるものでした。


 だから今、私はこの言葉を残します。


 もし、世界のどこかで――

 ほんの一瞬でも、私と同じような何かを感じたことのある人がいるなら。


 たった一言でも、

 「わかるよ」と伝えてもらえたなら。


 それだけで、私はきっと、救われるのです。


 このあと綴るのは――

 ささやかだけれど、確かに私の中の世界を変えてしまった、そんな一夜の記憶です。


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 あれは、大学二年の夏、何気ない夜のことだった。


 夜も更け、空気にはまだ昼間の熱気がじっとりと残っていた。


 当時付き合っていた彼とは、同じレストランでアルバイトをしていた。

 それが、私にとって人生初めての恋だった。すべてが新鮮で、きらきらと輝いていた。




 その夜、店長がふいに言い出した。


 「バイト終わったら、みんなでカラオケ行こう!今日は俺のおごりだ!」


 その思いがけない一言に、私たち若いバイトたちはみんな大はしゃぎだった。


 彼と私は、いったん私のアパートに戻って着替えることにした。




 さすがに一日中レストランで働いて、体中に染みついた油と食べ物の匂いのまま、密閉されたカラオケに行くのは気が引けた。




 外はすでにすっかり夜も更け、人通りもまばらだった。


 バイクにまたがり、いくつかの細い路地を抜けながら、私たちはアパートの前まで走った。


 それは築年数の経った十階建ての古いマンションだった。

 向かいには、少し新しめの十階建てのビルが建っていて、二つの建物の間には細い道路が一本走っていた。




 彼はバイクを停め、ヘルメットを直しながら、施錠の準備をしていた。

 私はそのそばで、ただ黙って立っていた。


 ――若い女の子なら誰でも経験するような、ちょっぴり退屈で、でもなんとなく幸せな待ち時間。


 私は、ねっとりと肌にまとわりつく夏の夜の空気を、そっと胸いっぱいに吸い込んだ。






 その瞬間――



 私は……感じたのだ。



 “それ”の存在を。






 言葉にできない、奇妙で不穏な感覚だった。

 まるで、どこかから冷たい何かが、じっと私を見つめているような……そんな気配。



 ただの視線じゃない。

 日常でたまに感じるような「誰かに見られてる?」という曖昧な不安とは違う。



 それは、骨の奥まで突き刺さるような“凝視”だった。

 冷たく、鋭く、神経の深いところに直接触れてくるような……そんな視線。



 思考が追いつくより先に、身体が反応した。

 両腕に、ぶわっと鳥肌が立つ。



 あの“視線”の圧があまりにも強烈で、

 私はほとんど本能的に顔を上げた。

 何かに導かれるように、向かいのビルの最上階へと視線を這わせる――




 そして、その瞬間。

 私は……息を呑んだ。




 ビルの屋上、その縁に――

 巨大な黒い“何か”が、じっとこちらを見下ろすようにしゃがみ込んでいた。



 最初は、水タンクか通気口、あるいは何かの設備が落とした影かと思った。



 だが、視線がその輪郭にピントを合わせたその瞬間――

 私は、確信した。




 ……あれは、生きている。

 間違いなく、「生き物」だった。




 もしあれがただの建物の一部や機械設備だったとしたら……

 なぜ、私は今まで一度も気づかなかったのだろう?


 毎日ここを通っているのに。

 何度も見上げているのに。

 あんな形の「影」、見たことがない。


 これは錯覚なんかじゃない。

 建築物の一部と見間違えたわけでもない。

 私の目は――確かに、あれを“見てしまった”のだ。


 それは屋上の縁に、まるで中世の教会にいるガーゴイルのようにうずくまっていた。


 身を低く伏せ、腕をだらりと垂らし、

 巨大な身体は建物の端にぴったりと張り付いている。

 まるで、声なき“番人”のように。


 一瞬だけ、私は理性で自分を納得させようとした。

 ――あれは、何かの奇妙な装飾かもしれない。


 ……でも、その考えはすぐに崩れ去った。


 台湾の建物に、あんな不気味で非対称な飾りなど見たことがない。

 ここはただの普通の住宅ビル。

 そんな奇妙な像を、ひとつだけぽつんと飾る意味があるはずがない。



 ……それに、あれは――





 呼吸していたのだ。





 確かに、私はこの目で見た。

 その胸が、ゆっくりと、しかし確かに上下していた。

 動きはかすかでも、現実のものとしか思えなかった。


 あれは……生きている。

 絶対に、ただの“物体”なんかじゃない。


 その体躯は、驚くほど巨大だった。

 人間のサイズなど、遥かに超えている。


 全身は漆黒の皮膚に覆われ、

 月光を受けて、ねっとりとした艶を放っていた。


 まるで、爬虫類のような――ぬめりを感じさせる質感。

 生き物なのに、異様に無機質な……そんな矛盾した印象を与える肌だった。


 その身体は、まさに“彫刻”だった。

 濡れたような黒い皮膚の下に、しなやかで密度のある筋肉が浮かび上がっている。


 精緻に彫り込まれた大理石の彫像のようでありながら、そこには確かに“生”が宿っていた。


 一つひとつの筋肉の稜線がくっきりと際立ち、張り詰めた力を秘めている。


 まるで、長い進化の果てに生まれた究極の捕食者――

 その姿には、一切の無駄がなかった。


 肩甲骨から背中にかけて、滑らかに弓を描くように隆起している。

 そのラインは美しく、そして、恐ろしいほどに力強い。


 小さな動き一つさえ、爆発的な運動に繋がるような緊張感を孕んでいた。

 その背筋は、まるで月夜に浮かぶ山脈の稜線のようにそびえ立ち――

 地面に重く、息を呑むほどの影を落としていた。


 そして、その広い背には――

 びっしりと、小さく密集した鱗が重なり合っていた。

 一枚一枚が整然と並び、まるで黒い鎧をまとった戦士のよう。


 鱗は、決してただの“黒”ではない。

 月光を受けて、ほんのわずかに金属のような光を返していた。

 それは、沈んだ漆黒。

 まるで高級な黒檀、あるいは長い時の流れで磨かれた玄武岩のような、深い艶。


 一片一片が、まるで前の鱗に吸い付くように密着していて、

 その防御は完璧だった。

 外からの力を一切寄せつけない、鉄壁の構造。


 そして、その鎧は――

 呼吸のたびに、かすかに波打つように動き、

 まるで太古から続く何かを、静かに囁いているようだった。


 その翼は、いまは背にぴたりと畳まれていた。

 だが、そのシルエットだけでも想像できる――

 ひとたび広げれば、夜空の半分を覆い隠すほどの大きさだろう。


 翼は背中の両側に密着し、肩甲骨から腰にかけて、

 二本の黒く盛り上がった稜線を形作っていた。

 まるで古の伝承にしか登場しないような、巨大な翼。

 動かずとも、その中に秘められた飛翔の力が確かに感じ取れた。


 翼の縁には、鋸のような細かい突起がずらりと並んでいた。

 まるで、拡大されたコウモリの羽――

 粗野さと繊細さが共存する、異様な美しさ。

 その一つひとつが、空気の流れを操るために、

 緻密に計算され尽くしているかのようだった。


 翼膜は、蝉の羽のように薄く、

 その表面は月光を呑み込み、闇に溶けていた。

 ただ、縁の部分だけが、かろうじて輪郭を描いている。


 その薄膜には、かすかに走る細い線があった。

 まるで古代の地図。

 それは、この世界のものとは思えない、別の“何か”を記しているようにさえ見えた。


 ――あれが空に舞い上がれば、間違いなく嵐を巻き起こすだろう。

 その巨大な翼が空気を裂き、風圧があたり一帯を震わせ、

 この街の夜空すら――激しく、揺れるはずだ。


 そして、あの巨大で静寂な体の下には――


 見る者を凍りつかせるような、恐ろしい“爪”があった。


 太く黒い鉤爪が、ビルの縁のコンクリートに深く食い込み、

 関節は盛り上がり、筋肉は極限まで張り詰めていた。

 まるで、ほんの一撫でで、その一角を粉々に砕けるかのような力。


 指は五本――一本一本が成人男性の腕ほどの太さを持ち、

 その形は、人間と太古の肉食恐竜の中間のようだった。

 人間のような器用さを残しつつも、

 いつでも獲物を引き裂ける、野性的な暴力を内に秘めている。


 その爪は、ビルの端をがっちりと掴み、

 異形の身体全体を見事なバランスで支えていた。


 それぞれの爪の先端は、鋭く細長く、月光を冷たく反射する黒い爪。

 その爪先の弧線は、鋼さえ貫けそうなほど精緻で――

 柔らかな人間の肌など、一瞬で切り裂かれるだろう。


 爪の先はわずかに内側へと湾曲していて、

 それはまさに、“掴み”“裂く”ために設計された完璧な形だった。




 ゆっくりと、視線がその“顔”へと辿り着いた瞬間――




 それは、まさに視覚への衝撃だった。


 その顔は、猛禽と悪魔が融合したような異形の造形をしていた。

 全体の輪郭は、鷲や禿鷹を思わせるような鋭さを持ち、

 見るだけで本能が危険を訴えてくる。


 頭蓋の頂からは、太くねじれた二本の角が天へ向かって真っ直ぐに伸び、

 その先端は優雅に、しかし不気味に後方へと湾曲していた。


 角の表面には、風化によって刻まれたような細かい紋がびっしりと走り、

 自然の中で長い年月を経て形成されたかのような重厚な質感があった。

 それは、漆黒の輝きを放ち、月の光に照らされてなお、沈黙の威圧を纏っていた。


 角の根元は圧倒的に太く、

 まるで千年の呪いを宿すために鍛えられた“暗黒の王冠”の基部のようだった。


 そこから徐々に細くなり、

 やがて先端は、刃物のように鋭く尖っていた。


 頭部の両側からは、鋭利な耳が突き出ていた。

 それは、夜の静寂の中でわずかな物音さえも拾い上げるかのような緊張感を纏っていた。


 その耳は骨格に沿ってぴたりと密着しており、

 ひとつひとつの曲線が、獲物を逃さぬ捕食者としての本能に従って形づくられているようだった。


 そして、その嘴――

 それは、見るだけで胸が詰まるような、圧倒的な存在感を放っていた。


 鋭く湾曲した鉤状の鳥の嘴。

 その表面には、風雨にさらされ、時間に磨かれたかのような細かい裂け目が走っていた。

 だが、その曲線は、今なお完璧だった。


 “裂き砕くためだけに生まれた武器”。

 その黒は、底知れぬ闇の色をしていた。


 それは、天空を狩る古の捕食者の末裔。

 巨大で、刃のような美しい弧を描き、

 まさに獲物を仕留めるために最適化された、“鉤の刃”だった。


 その漆黒の嘴の縁には、冷たい刃の光がわずかに宿っていて、

 たとえ一歩も動かずとも――

 見る者の魂を貫くような威圧感を纏っていた。


 そして……その“目”。

 それこそが、この世界のすべてを凍りつかせる、“理由”だった。


 その瞳は、燃えるような緑の光を宿していた。

 闇の中、ぽつりと浮かぶ二つの炎――

 それは、まるで灯されたエメラルド。


 光の反射ではない。

 本物の“発光”だった。


 二つの幽かな翠の焰が、夜の静寂を破らぬまま、静かに燃え続けていた。


 その緑は単なる一色ではなく、複数の層を成していた。

 外縁は淡い霧のような翡翠色、

 中心に近づくにつれ深みを増し、

 そして、瞳の真ん中には――

 まるで緑の超新星の核のような、鋭い閃光が宿っていた。


 その輝きの奥に、私ははっきりと“それ”を見た。


 縦に細長く伸びた瞳孔。

 猫のようで、しかしそれ以上に冷たく、鋭く、非情だった。


 深緑の光を真っ二つに裂く、漆黒の一線。

 それはまるで、何もかもを引き裂き、呑み込んでいく――

 底知れぬ“奈落”のようだった。



 その瞳と、私の視線が――交わった。



 その瞬間。

 心臓が握り潰されるような、重苦しい感覚が走った。

 音にすれば、ぐしゃりと圧縮されるような、内側からの圧。



 だが、そこに“敵意”はなかった。

 好奇心も、怒りも、喜びもない。



 その目には、感情というものが一切存在していなかった。

 それは、人間が地面の蟻を見下ろす時のような視線。

 憐れみもなければ、侮蔑もない。

 ただ、そこに在るだけの――“冷淡”。



 それは、評価でもなく、分析でもなく。

 目的すら持たない、“観察”。



 永遠に続く世界の片隅で、

 たまたま今、私を対象に選んだだけの“観察者”。



 その瞬間、私は確信した。

 ――あれは、私を見ていた。



 ただの肉体ではない。

 魂の奥底まで、まるごと“視られていた”のだ。



 その視線の中で、私は“人間ではない何か”の存在様式に触れてしまった。



 時間に縛られず、物理法則にも従わない――

 そういう、生き方。



 まるでこの世界とは別の次元から来た存在が、

 たまたま今だけ、こちらの現実の“縁”に立ち寄り、

 我々のような小さな生き物を“眺めている”だけ。



 その一瞬。

 だが、永遠にも感じられたその瞬間――

 私は、時間というものが剥ぎ取られる感覚を味わった。



 心臓の鼓動が異常なほど遅く、重くなり、

 血液が血管の中で動きを止める。

 四肢は氷のように冷たく、感覚すら薄れていく。



 私は、もう一歩も動けなかった。

 ただその場に立ち尽くし、声も出せず、

 あの目に――沈黙のまま、貫かれていた。



 頭の中に、いくつもの問いが閃いた。



 ――あれは、何?

 なぜ、ここにいる?

 なぜ、私を“見ている”?



 けれど、その問いに答えを探す前に――

 骨の奥から、原始的な恐怖が這い上がってきた。



 思考ではない。

 これは、本能だ。



 まるで、太古の昔。

 人間がまだ闇の中で生き、

 獣の気配を肌で察知していた時代の……



 捕食者に狙われた“瞬間”にだけ、

 身体の奥底で警鐘のように鳴り響く、

 あの“感覚”。



 それが、今――私の中で、はっきりと目を覚ました。



 それは、ただ静かに――そこにいた。



 微かに頭を垂れ、

 緑の光をたたえた瞳だけが、しっかりと私を捉えていた。



 あの存在にとって、私はきっと、夜の闇に浮かぶひとつの点にすぎない。

 偶然目に留まった一匹の蛾。

 ひととき風に舞っただけの、名もなき塵。



 人が、落ち葉の一枚や、すれ違った虫の姿を記憶しないように――

 それもまた、忘れられるべき“小ささ”。



 けれど、その圧倒的な存在の中で。

 そのとき、確かに“私”は、見つめられていた。

 ほんの一瞬かもしれない。

 それでも、“それ”は――私を、見た。



 どれほどの間、そうされていたのかはわからない。



 あるいは、私が気づくよりもずっと前から――

 この静まり返った夜の片隅で。

 それは、ずっと……

 私を、見つめていたのかもしれない。





  「……見たの?」


 やっとの思いで声を出し、震える声で彼に向き直った。

 指先がわずかに震えながら、向かいのビルの屋上を指差す。


 「見て……あそこ……!」


 彼は黙って私の指す方を見上げた。




 その瞬間。




 彼の全身がぴたりと止まった。

 顔面が真っ青になり、唇が微かに震え、

 目には隠しきれない恐怖がにじんでいた。




 「……行くぞ」


 彼は押し殺したような声で言った。


 「早く……いいから、今すぐだ……!」


 それは怒鳴り声ではなかった。

 けれども、圧倒的な焦燥と恐怖がにじむ声だった。


 彼は私の腕をつかんだまま、

 ほとんど引きずるようにしてアパートの入口へと急いだ。


 そして、彼に腕を引かれた、その瞬間――

 胸の奥で、ある衝動が鋭く閃いた。




 ……振り返って、もう一度だけ、見たい。




 今この瞬間を逃したら、

 私は二度と、あの存在を“見る”ことはできない気がした。


 本能がそう囁いていた。


 けれど。

 理性と恐怖が絡み合い、私の身体はそれに抗えなかった。


 結局、私は彼に引かれるまま、

 小走りで、ビルの入り口へと駆け込んだ。


 そのわずか数秒の間に、

 私はまるで夢の中を歩いているような感覚に陥った。


 世界のすべての音が、遠ざかっていく。

 耳に届くのは、自分の心臓の――

 重く、鈍く、ただひとつの鼓動だけだった。


 私たちは駆け込むようにしてアパートの中へ入り、

 彼は勢いよく扉を閉めた。


 その音が、やけに大きく響いた。

 彼の体は張りつめた弦のように緊張していて、今にも切れそうだった。


 部屋の空気は異様に重く、息を吸うのも苦しいほど。

 全身は汗でびっしょりなのに、なぜか何の温度も感じなかった。



 「……見たよね?」



 私はとうとう抑えきれずに口を開いた。

 声が震えるのは、興奮なのか、それとも恐怖なのか、自分でもわからなかった。


 「さっきの……あれ、見たよね? あの……あれ……」


 「やめろ!!」


 彼の声が突然、鋭く跳ねた。

 あまりの剣幕に、私はびくりと肩を震わせた。


 それでも、胸のざわめきを止めることはできなかった。


 「普通の“もの”じゃなかったでしょ? あの緑の目、あの姿……あなたも見たでしょ?」


 「……もう言うなって言ってるだろ!!」


 彼の声はさらに鋭さを増し、

 その目には、私の知らない色が宿っていた。


 それは、恐怖だった。

 そして、怒りに近い、何か深く押し殺した感情。


 「……こういうのは、口に出すもんじゃない。」


 今度は低い声で、突き放すように呟いた。


 「なにもなかった。いいな? なにも、見てない。」


 「でも、あれは……」


 「黙れ!!」


 今度の声は、ほとんど怒鳴り声だった。


 「もう、言うな! 俺は……聞きたくないんだよ!!」


 その瞬間、私ははっきりと理解した。

 私たちが見た“あれ”は、ただ恐ろしいだけじゃない。


 ――言葉にしてはいけない、

 “本当に、触れてはいけないもの”だったのだ。


 無理やり押し殺された空気が、部屋の中をぎしぎしと軋ませていた。

 その圧に、私は体中が強張っていくのを感じた。


 私は、自分が何に怯えているのか分からなくなっていた。

 あの屋上の“それ”か。

 それとも、今この瞬間も、私が知らない“何か”の真実なのか。


 「……あれ、絶対に鳥とか、コウモリとかじゃないよ……」


 まだ諦めきれずに、私はかすれた声で呟いた。

 言葉にしなければ、自分が今ここにいることすら信じられなかった。


 「……あの大きさ、見たでしょ? 目、光ってたよ。しかも……あの角……」


 「何回言わせるんだよ!!」


 彼が突然、振り返った。

 顔は怒りと恐怖に引きつっていて、

 目には、限界ぎりぎりの焦燥が浮かんでいた。


 「聞きたくないって言ってんだろ!! 知りたくもねぇ!! 黙れ!!!」


 その声が壁にぶつかり、部屋中にこだました。

 言葉の余韻が消えていく間、私たちの間には、息すら通らない静寂が残った。


 やがて、何も言わずに、

 私たちはそそくさと服を着替え始めた。


 どこかに向かうためではない。

 まるで“元の日常”にすがるように、ただただ無言で、出かける準備をした。


 彼の顔はずっと暗く沈んだまま、

 張り詰めた糸のように――危うく、脆かった。


 階段を降りる間、

 私の心の中では、いまだ激しい葛藤が渦巻いていた。


 怖くてたまらない。

 けれど、それでも――どうしても、もう一度だけ確かめたくて仕方なかった。


 公寓の玄関を出たとき、

 私は本能のように、顔を上げた。


 ……もう一度、見たかった。



 けれど、そこには――



 何も、なかった。



 向かいのビルの屋上には、

 冷たい構造のラインだけが浮かび上がり、

 その背後には、どこまでも広がる、深い藍の夜空。


 あの圧倒的な存在感を持った巨大な影は、

 まるで最初から存在などしなかったかのように、

 完全に――跡形もなく、消えていた。


 私は、あの屋上の片隅をじっと見つめていた。


 ほんのわずかでもいい。

 羽ばたいた後の影。

 風を乱すような気配。



 ――何か、痕跡を。



 けれど、そこには何一つ残っていなかった。


 さっきまであの目に見つめられていたというのに、

 今はもう、何も。


 まるで、あの短い対峙のすべてが、

 夜の中に溶けて消えた――ただの幻だったかのように。


 「もう見るな!」


 彼が私の腕を強く引いた。

 その声には、抑えきれない苛立ちがにじんでいた。


 「……行こう。」


 そうして私たちは、

 胸の奥に言葉にならない恐怖と疑問を抱えたまま――


 もう、二度と戻れない夜の中へと、

 静かに足を踏み入れていった。


 その夜の残りの時間、

 私たちは予定通り、カラオケへと向かった。




 密閉された小さな個室の中。

 誰かがマイクを握り、誰かが笑い、グラスが鳴り、スナックの袋が破られる音。

 にぎやかな声が、次から次へと響いていた。


 表面だけを見れば、何もかもが“いつも通り”だった。

 けれど、私の中では――

 あの夜が始まる前の自分には、もう戻れなかった。


 私は部屋の隅に座り、友人たちの歌声をぼんやりと聞いていた。

 テーブルの上に転がったグラスや、

 開けっ放しのスナック袋を、ただ無言で見つめていた。


 みんなの笑い声も、曲の音も、

 まるで厚いガラス越しに聞いているようで、

 遠く、ぼやけて、どこか――中身が空っぽだった。


 私は、何度も何度も、

 隣に座る彼の表情を盗み見るようにしていた。


 あのことに触れた痕跡が、どこかに滲んでいないか――

 その目の奥に、言葉にできない何かが潜んでいないか。


 けれど、私が口を開こうとするたびに、

 彼は無言で、冷たく、はっきりとした視線を私に向けた。


 その目が、すべてを拒絶していた。

 言葉が、喉の奥で凍りついた。


 その夜、彼はいつもより口数が少なく、

 どこか過敏で、落ち着かない様子だった。


 何かに怯えているようでもあり――

 何かを、必死に忘れようとしているようでもあった。


 私は結局、心の中に溢れていたすべての疑問と感情を、

 ひとつ残らず、ぐっと飲み込んだ。


 それからの日々、

 私は、あの夜の記憶から抜け出すことができなかった。


 あの、巨大な黒い影。

 緑の光を燃やす、あの目。

 魂の奥まで貫かれるような、あの凝視。


 どれもが、私の脳裏に深く、深く打ち込まれていた。


 まるで釘のように――

 頭から、離れなかった。


 昼でも夜でも、

 目を閉じた瞬間に、

 どうしても、あの情景が浮かんでしまうのだった。


 そして、私はいつの間にか、ある種の執着にも似た行動を繰り返すようになっていた。


 一人で、何度もアパートの屋上へと足を運んだ。

 タバコの箱を片手に、

 柵のそばに立ち、ただ黙って、向かいのビルの屋上を見つめ続けた。


 この屋上からなら、あの建物の最上階を隅々まで見渡せる。

 私は自分に言い聞かせていた――これは、あれが夢ではなかったと確かめるためだ、と。


 けれど、本当は分かっていた。

 私は――待っていたのだ。


 あの存在が、ほんの一瞬でもいい、再び現れてくれることを。


 夜明けの空の下でも、

 夕焼けに染まる時間でも。

 晴れた日も、風が吹き荒れる日も。


 私はただ、そこに立ち尽くしていた。


 けれど、あの場所は――

 いつだって、静かに、空っぽだった。


 まるで、あの夜の出来事そのものが、

 現実のひび割れに一瞬だけ現れた、ズレた幻だったかのように。


 あるいは、

 “あれ”は、偶然この世界に迷い込んだだけの存在だったのかもしれない――

 二度と戻ることのない、異なる時の住人。


 風が耳をかすめるたびに――

 夜の闇が、街の輪郭をのみ込むたびに――


 あの緑に燃える瞳を思い出す。

 魂の奥を見透かすような、あの凝視を。


 あまりにも鮮やかで、

 あまりにも抗えなくて、

 それでいて、手の届かないほど遠かった。


 そしてそのたびに、

 静かに、確かに、孤独が心の中に広がっていった。


 まるで荒れ野に根を張る蔦のように。

 音もなく、気づかれぬまま――

 胸の内を這い上がり、

 私を静かに締めつけていくのだった。




 私はこれまで、何度も彼にあの夜のことを話そうとした。

 けれど、そのたびに――


 言葉は途中で途切れ、

 あるいは、理由のない怒りに、無理やり押し潰された。


 最初のうちは、彼も聞こえないふりをして、

 話題をそらすだけだった。


 けれど、時が経つにつれて、彼の態度は次第に変わっていった。

 口調は荒くなり、まるで何かに怯えているかのように、

 張り詰めた声で私を制止した。


 「……だからもう、やめろって言ってんだろ!」


 そのときの声は掠れていて、

 怒鳴りたいのに、喉の奥で千切れたような音だった。


 「……見たからって、全部に意味があるわけじゃない。

  見たら忘れろ。そういうもんなんだよ、こういうのは……」


 彼の目に浮かんでいたのは、ただの恐怖ではなかった。



 それは、もし自分があの夜を“本当にあったこと”として認めてしまえば、

 もう二度と、元の世界には戻れなくなる――

 そんな底知れぬ恐れだった。



 私は、それ以上何も言わなくなった。

 問いかけることも、確かめることもやめた。


 ただ、あの夜のすべてを、静かに、心の奥に封じ込めた。



 かつて私たちは、

 互いの笑い声や、無邪気な信頼で、

 目に見えない橋を築いていた。



 でもその橋は――

 あの夜を境に、音もなく、静かに、崩れ落ちていった。



 そして――

 私たちは、別れることになった。



 あの夜が原因ではない。

 ただ、彼が他の誰かを好きになっただけだった。



 それは、すでにひび割れだらけだった記憶の中に、

 最後の、深くて暗い亀裂を刻み込むような、

 惨めで、どうしようもない別れだった。



 私は一人になった。

 誰にも語れないあの夜の記憶だけを抱えて、

 終わりの見えない道を、ただ歩き続けた。



 時々、考えてしまう。

 ――もし、あの存在を見たのが私だけだったなら、

 ここまで苦しまなかったかもしれない。



 少なくとも、

 世界から取り残されたような、

 この胸のチクチクする痛みは、感じなくてすんだかもしれない。



 でも、彼も一緒に見た。

 彼の恐怖は、紛れもなく“本物”だった。



 だからこそ――

 この記憶は、なおさら重く、

 なおさら、忘れられないものになった。



 愛も、共感も、未来も失った今、

 私はただ、

 その夜を抱きしめたまま、

 世界の中に一人、取り残されていた。



 この数年、

 私は何度もあの夜の情景を心の中で反芻してきた。



 孤独で、音のない夜。

 街の灯がひとつ、またひとつと消えていき、

 世界が漆黒の闇に沈んでいくその瞬間。


 ふと、こんな問いが頭をよぎる。


 ――あの生き物は、今、どこにいるのだろう。


 誰にも知られない場所に、

 今もひっそりと潜んでいるのか。



 あるいは、私たちの気づかぬ深夜のどこかで、

 今も人間の世界を、静かに見下ろしているのだろうか。


 それとも、あの夜は、ほんの一瞬の錯綜だったのかもしれない。



 かすかな次元の綻びを越えて、

 偶然、この世界に足を踏み入れ、

 私たちが気づくよりも早く、

 元いた場所へと、音もなく戻っていった……



 まるで、最初から、何もなかったかのように。



 きっと、

 “あれ”は私のことなんて覚えていない。



 ――いや、

 そもそも記憶にすら、残っていないのだと思う。



 私なんて、あの広大な夜空の中に浮かぶ、

 ちっぽけな塵のような存在だった。



 人間が、ふとした瞬間に視界の隅で捉える、

 ただの微細な点。



 一瞬だけ注がれた視線。

 そして、何の痕跡も残さず、

 そのまま忘れ去られてしまう。



 でも――

 私は、

 あの数分間の“凝視”に、すべてを奪われた。



 その重さを、今も背負い続けている。



 存在の重みと、存在の軽さ。

 そのあまりに残酷で、どうしようもない対比が、

 いまも私の胸の奥に、

 冷たく、静かに、残っている。





 私は何度も、あの夜の光景を紙に描こうとした。



 何度もペンを取り、

 あの巨大な黒い影を、この手で定着させようとした。



 けれど、描けば描くほど、

 線はかすれ、色は薄れていく。



 記憶の中にある“それ”の、あの圧倒的な存在感に、

 私の手は、まるで追いつけなかった。


 その視線の冷たさも、重さも、

 私の筆には、あまりにも遠すぎた。


 だから私は、別の方法を選んだ。


 AI(エーアイ)に、

 あの夜のすべてを――


 私の記憶の中に焼きついた細部を、

 一つ残らず、言葉にして伝えた。


 そして私は、願うような気持ちで言った。

 「この風景を、描いてほしい」と。


 AI(エーアイ)に描かせたあの一枚は、

 完璧とは言えなかった。


 それでも、そこには確かに、

 私の記憶と呼応する何かがあった。


 黒く濡れた皮膚。

 たたまれた巨大な翼。

 緑に燃える、あの眼差し。


 画面を見つめた瞬間、

 胸の奥がずんと重くなり、息を呑んだ。


 忘れかけていた感覚が、

 まるで深海から浮上してくるように――

 静かに、でも確かに、

 私の中に戻ってきた。


 それは、十年前のあの夜の残響だった。


 ここまで読んでくれたあなたは、もしかしたら思うかもしれない。


 「これは若い頃の、過剰な感受性による幻だったのでは?」と。


 あるいは――

 夜の光と孤独が重なったことで生まれた、

 一瞬の錯覚だったのではないか。


 うん、それも分かる。

 もし逆の立場だったら、私もそう思っていたかもしれない。


 でも――

 私にとって、あの夜は本物だった。


 “それ”と目が合った、あの一瞬の重み。

 あの静けさの中にあった存在感。


 どんな出来事よりも、ずっとリアルだった。


 十年経った今でも、目を閉じれば感じる。

 世界の端から突き刺さるような“あの視線”を。


 そして――

 あの時、心臓がぎゅっと潰されたような、あの鈍い音も、

 今もまだ、耳の奥に残っている。


 それでも、

 人生は続いていく。


 仕事、人間関係、将来の計画。

 日々のあれこれが、私を前へと押し流していく。


 けれど、時おり――

 風が耳をかすめ、

 街の輪郭がまばらな光に沈む夜になると、


 私は、ふと空を見上げてしまう。

 あの遠い夜空のどこかを、静かに見つめてしまう。


 そして心の奥で、そっと問いかける。



 ――あなたは、まだそこにいますか?



 もしかしたら、

 “あれ”は本当にどこかにいるのかもしれない。


 高く、遠く、

 私たちのこの小さな命を、

 静かに見下ろしているだけなのかもしれない。


 もし、あなたも――

 ある夜、ある場所で、

 言葉にできない“それ”を感じたことがあるなら……


 どうか、教えてください。


 たった一言でもいい。

 「わかるよ」――それだけでも。


 この広くて冷たい宇宙の中で、

 「自分はひとりじゃない」と思えること。




 それは、確かに存在する、

 小さくて優しい奇跡なのだから。

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屋上の監視者 @kaori0830

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