「えっと……」

どもです。

目を合わせたら言えない事。

「別にたいした事じゃないんだけど」

 その一言で、部室に浮かんでいた一人と一人が二人になった。心地よい孤独感が壊れてしまったことに、部誌を広げたまま、本間ほんまようは幾許かの未練を顔に表した。

 しかし、当の相田あいだしおりは文庫本を盾のように開いていた。テーブルに肘をついて、全くだらしのない姿勢で。当然視線など通るはずもなければ、ようの顔に描かれた記号が伝わることもない。

 全く新鮮な出来事だ、とようは溜息の一つでも吐いてやりたくなった。気持ちよく活字を取り込んでいる者に向かって話しかけて妨害したにも拘わらず、本人はそれを「たいした事でもない」と宣うばかりか、俗に言う「ながら」の態度であるのだから。

「それで?」

 短気で神経質な活字中毒者であるようがそれに苛立たないはずもなく、ぶっきらぼうに続きを促した。

「目を合わせたら言えない事があって」

「へえ、それは面白いな。そういう繊細さは君が書いた文章にしか表れないものとばかり思っていた」

「褒めてくれてる?」

「解釈はどうぞご自由に」

 文脈から拾ってくれ、と雑に放り出す。ようの嫌味たっぷりな含意を知ってか知らずか、栞は無邪気に喜んでみせた。目の前で面白くなさそうに鼻を鳴らす男が見えていないのかもしれない。

「それで、僕に何が聞きたい。目を合わせてハッキリと物を言う方法か?」

「それは要らない。ようみたいに敵作りたくないし」

「今作ったことには気付いていないらしいな」

 気が乗らないながらも話を聞いてやろうとしたようの意志は早くも消えてなくなりそうであった。常であればこの面倒な絡みを他の部員に押し付けているのだが、今日は木曜。頁と栞以外の文芸部員はみな委員会の活動に駆り出されていて、部室を訪れることはない。

 栞の話を無視してさっさと帰ってしまう、というのも選択肢として挙がってくる。しかし、目の前のいけ好かない同輩がこの部で一番に繊細で美麗な文章を書くことは認める所であり、ようが好む重厚な文体について論じる相手としても非常に適格で、たとえば今後一切の関わりを断つというようなことに未練を感じないかと言われれば――つまり、敢えて語弊を恐れずに言うのであれば、ようは栞を好いているのであった。

 はあ、と見せつけるように溜息を吐き、開いたままだった部誌を閉じる。

「目を合わせたら言えない事が何だって?」

「うん、どうやって伝えたらいいのかなって」

 上手く言えない事を伝えるにはどうすればよいか。中々それらしい議題だ、とようは顎に指を滑らせる。日頃から栞の描写センスを理解したいと思っていた頁にとって、このテーマは都合のいい機会だった。

「『目を合わせたら言えない事』である理由にも左右されるが、その内心が読者に伝わるよう導線さえ引かれていれば、情景描写に意味を含ませることが多いだろう」

「ごめん、現実の話なんだよね」

「帰る」

「帰らないで」

 万年一人ぼっちのように相談するとはあまりにも大胆な配役ミスだ。眉根をぐっと寄せた顔で、ソーシャルメディアなり何なりを使って友人に話せばいいだろう、と真っ当な言葉を返す。栞は曖昧に笑った。どことなく気恥ずかしさを感じさせる笑みだった。

「みんな『早く言え』としか言ってくれなくて。言えないから相談したのにさ」

「縁切った方がいいんじゃないか?」

ようってそういう考え方だからぼっちなんだろうね」

「帰る」

「帰らないで」

 ようは短気である。加えて、冗談交じりの揶揄に一切付き合わない程度の賢さを持っていた。栞によって鞄を確保されていなければ何の躊躇いもなく部室から逃げ出していただろう。

「覚えておくといい、僕はこういう考え方だから君との縁も簡単に切ることができるんだよ」

「今のは本当にごめん。謝るからようの考えを聞かせてくれない?」

 まるで子供を宥めすかすような言い回しに釈然としない苛立ちを覚えたものの、栞は至って真剣な顔をしていた。人間関係を等閑視して憚らないようが誰かに頼られるというのは極々稀な出来事である。それも、ある一面においてのみではあるが、尊敬している相手なのだから、応えてやろうという気になった。

 少し考えて、脳内で論理を構築する。

「君らは急いでいる。電子機器で相互的に繋がっておきながら、まるでそれが希薄であるかのように振舞い、関係の構築を急いている。言葉を見くびっている。軽んじている。貶めている。現実で会わなくたっていい現代社会において全くの不合理だ」

 ようの言葉は僅かな怒りを覗かせていた。

 一般的なことだと言う。学校を卒業するその日まで随分と大切に扱っていたそれが、いつしか「友人だった相手の連絡先」に成り下がる。それを直接会う機会がないから仕方ない、という論理で済ませることまでが何ら珍しくない。故に、その別離を恐れて、彼ら彼女らは急いでいる、と。

「愚か者だ。言葉にしないからだ。一度別れて、それを繋ぎ止めなかったから、繋がっていないというだけのことだろう。馬鹿げた逃避行為が卒業と人間関係の終わりを重ねている」

「人間関係の消滅は必ず選択の結果である、ってことね。それがどうしたの?」

「そう急ぐこともないだろう、というだけの話だ。言えない事があるのであれば、言えるようになるのを待てばいい。僕はそう思う」

 何とも迂遠な語り口で、当たり障りのない結論が肩透かしだった。しかし、栞は、ようが時折見せるこういった装飾を好んでいた。

 登場人物の感情に焦点を当てることが多い栞にとって、重んじられるべきは結論だ。時には論理を全て無視して「それでも」などと書くことすらある。一方で、ようの文章では、論理が先立ち、結論はそれに追従する。多様な人々の描き方が根本的に違うのだ。栞にとって頁の文章は、世界の切り口が異なる色を見せてくれるという意味で、鮮やかだった。

 付き合いにくい気性であることは否定しがたいものの、納得できる洞察と共に新たな価値基準を示してくれる相手であり、そういう意味としては同じ文芸部員としてよう以上に深い所まで理解してみたいと思う相手はいない――つまりは、栞もまた頁を好いているのであった。

「ありがとう。そうしてみる」

 もっとも、提出された結論が大して毒にも薬にもならないような回答であることは変わりないが、どうやら栞はそれを求めていたらしい。一区切り付いたことで、ようは再び部誌を広げようと鞄に手を突っ込み、正面から未だ注がれている視線に気が付いた。

ようの考えって連絡先を交換してることが前提だよね」

「勿論」

「じゃあそこまでは急ぐべきだってこと?」

 何を言おうとしているのだろう、と頭を働かせる。普通に考えてみれば、連絡先すら分からない相手に「目を合わせたら言えない事」を伝えようとはしないだろう。であれば意図は奈辺にあるか。考えれば、そうかからないうちに回答が生成された。恐らく、この相談事に纏わる思考を創作に転用する胸算用であり、こちらの思考を模倣しようとしているのだ、と。

「連絡先を扱うことに特別な何かがないのであれば、テンポ感が悪くなってしまうだろう」

 栞は首を傾げた。

「なんでまた現実から離れてるのかな」

 ようもまた首を傾げた。

「現実の話なのか?」

 ごんっ、ごん。栞の頭がテーブルに当たり、跳ねてもう一度ぶつかった。さながら陸に打ち上げられた魚のようだ、と眺めてみる。どうやら地上に適応できなかったようで、しばし跳ねることもなく沈黙していた。

 更に数秒ほど見つめていると、今度はセイウチのようにずりずりと後退し、頭をやおら持ち上げた。行動から察するに、この女生徒は水棲生物なのだろうか。

「……言わないと分かってくれないよね」

「言葉にせず伝わるのなら、僕は今頃こんなものを読んでいないだろうな」

「それはそうかもしれないけどさ」

 想定外に綺麗な返答で面食らう。極度にリアリストで個人主義的に見せるようであるが、詩的な述懐を避けているわけでもない。冷ややかな文章の合間に挿し込まれる三六度の一文こそ、栞が好む装飾であった。もっとも、そうしたセンスの延長線上に皮肉が位置しているのをどうかと思いつつ、であったが。

 察してもらう、ということはどうにも期待できないらしい。普段からハイコンテクストな表現を使いこなしているのだから汲み取る能力もありそうなものだが――その能力を振るう気がなっければ持ち腐れるのみだ。

 仕方がない。嘆息して、携帯を取り出した。

「連絡先を交換しよう」

「どうしてそうぶすっとしているのかは分からないが、まあ、いい。僕にはやり方がよく分からないから勝手にやってくれ」

 手渡してそう言い放ち、部誌へと意識を移す。相も変わらず細工のように作り上げられた文章を一つ一つ解していく。その奇妙なほど自然なメタファーを、言葉巧みに生み出す読者との共通認識を。

 桜色の花弁から下へと辿り、根茎を掘り起こすような作業。一見非常に感覚的で捉え所のない描写を論理的に理解する。それがようなりに見つけた栞の文章との向き合い方だった。

「……うん?」

「はい、終わり。できたよ」

 ちょうど友人登録が完了した栞に出鼻を挫かれ、思考が散乱する。何か思いついたような、と記憶の糸を手繰り寄せ、波に揺られる船のような進みで、ようやく再び答えに至った。

 目を合わせたら言えない事をいつか言うためには、関係を絶やさないことが必要で。その関係を保つためには連絡先が必要で、そして、そのために、今。

「君は、僕に対して言いにくい事があるのか?」

「急に鋭くなったね。正解、だけど今は言わない。言えないから」

「わざわざ繰り返さずとも分かっている」

 目を合わせたら言えない事。気にならないでもないが、活字中毒のようにとっては大した興味もない事柄だった。興味を失い、部誌に耽り、孤独な二人きりを楽しむ。

 午後十六時四八分。僅か七分の会話であった。

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「えっと……」 どもです。 @domomo_exe

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