第13話

 俺はとぼとぼとビルに戻った。そして黒い扉を開けて部屋に入り、双眼鏡を手にしてミヨコのマンションを見る。ミヨコの部屋は固くカーテンで閉ざされていて中の様子は伺えなかった。俺は双眼鏡を顔から離すと左手で目頭を押さえた。さっきのはチャンスだった。ミヨコと親密になれる切っ掛けだった。その切っ掛けを俺は、考えられる中の最悪な形でふいにしたのだ。俺は「はぁ」と溜息を付く。だが、考えてみても、今の俺はただの変態だった。覗きで、ストーカーだ。こんな俺とミヨコが仲良くなると言うのは道理じゃないように思えた。そうなのだ、ミヨコは幸せになるべきで、俺のような無職と一緒になるべきじゃない。今回のこれは、これが一番理想的な終わり方だったのだ。俺はそう思うようにして双眼鏡を置いた。

 次の瞬間、後ろから扉を開く音がした。俺は仰天して声を出した。

「わっ!」

 後ろを振り返ると、老婆が立っていた。老婆は背が低く、黒い服を着ていた。老婆は俺を見ると声を掛けてきた。

「あれま、お客さんかえ。珍しいこともあるもんじゃ。どうじゃ、その双眼鏡は。よく絵が入るじゃろう」

 老婆は俺に近づき、双眼鏡と俺の顔を見比べるようにした。お客さん、ということは、ここは何かの店だったのか? 俺はそうとは知らずにここに通っていたが、そうするとこの老婆は店主か。

「ここは、何の店なんですか」

「何の店もなにも、この双眼鏡を置いてあるだけの店じゃよ。覗いたんじゃろ? これで街を。どうじゃ、よく見えるじゃろこれ」

「あ、ああ。でもなんなんですか、これは。こんなものは俺は見たことも聞いたこともない」

「これはなぁ。何かと言えば、そりゃ何かであることは確かなんじゃが、問題は、その何かが何であるかというのは、わしの口からは言えないんじゃということなんじゃな」

「……」

「それはそうと、お前さん。だいぶ楽しんだじゃろう。お代貰ってもいいかい」

「お代? 金を取るんですか?」

「そりゃそうじゃろ。そういう商売じゃ。ほれ、双眼鏡のここんところにメーターが……」

 老婆はそう言うと双眼鏡を手に持って持ち手のところにあるメーターを指さした。

「ありゃぁ。だいぶ使ったようじゃな。しめて五十万じゃ」

「五十万?」

 俺は耳を疑った。双眼鏡の利用代が五十万だって? そんなことは俺は聞いてない。こんなのは違法だ。俺は老婆に向き直った。

「すいませんが、払えません。俺はこの双眼鏡が有料だってことは知らなかった。こんなのは詐欺です」

「そうかい。それじゃ、しょうがないのう。ほれ」

 老婆はそう言うと俺の胸を片手で押した。俺は後ずさり、地図の貼ってあるホワイトボードに背中を当てるようになった。すると地図がまるで俺の身体を取り込むように、俺を地図の中に吸い込もうとし始めた。

「なっ、なんだこれは!」

「ほっほ。お代が払えないんじゃ、しばらくそこで働いてもらうしかないのう。頑張ってのう」

 俺は地図に飲み込まれ街のはるか上空から下に向かって落ちていった。身体全体に強風が当たり、街の俯瞰した景色がどんどん近づいていく。俺はやがて自分のアパートの真上に来て、顔を覆った。

 次の瞬間、俺は布団の上で目を覚ました。目覚まし時計が鳴り響く部屋のコタツの上にはルリビタキのぬいぐるみが置いてある。どうやら俺の部屋のようだった。俺は目覚まし時計を止めると、あくびをする。そういうえば今日はまだ平日だった。俺は仕事に行かなければいけないのを思い出す。支度をして部屋を出ると、朝日が昇っていて路上に街の青黒い影を落としている。俺は階段を降りて、仕事場に向かった。


おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘密の双眼鏡 夏川まこと @akink

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ