ランドセルの中

あゆうみあやの

ランドセルの中

「もうランドセル、いらないんじゃない?」

 母の言葉は、静かに、鋭く。私の心の中に刺さり、抜けなかった。

 何を考えているのかわからない、真っ黒な瞳。何も感じていないかのような、平坦な口調。母のすべてが、私を否定しているようだった。

 私の口は糸で縫いつけられたかのように開かない。

 母が変なものを見るような表情をしてから私の部屋を退いた。

 視線の先に、母に見捨てられたようなランドセルがポツンとたたずんでいる。

 それまで静かな輝きと希望を含んでいたランドセルは急に色あせた気がした。

 思わずランドセルを抱き寄せる。

 古びた革の匂いが、過ぎ去った日々の記憶を呼び起こした。

 あのころ憧れた高校生はこんな寂れたものではなかったはずだ。


 小学校入学前、ランドセルを選びに行ったとき。

 「ああでもない」「こうでもない」と、笑いながら言い合った母と私。

 それを呆れながらも静かに見守ってくれる父。


 風邪で幼稚園を休んだとき。

 昼間のインターホンで届いた荷物で怠かった私の体は一気に軽くなった。

 困り顔だった母の表情はふわっと明るくなった。

 お姉さんぽさを求めたワインレッドのランドセル。

 それが私とランドセルの始まりだった。

 私が入れてしまいそうなランドセルに大きな希望をたくさん詰め込んだ。

 父がゼリーとオレンジジュースを片手に帰ってくる頃には私はランドセルを背負って部屋中を走り回っていた。


 入学式のとき。

 『ランドセルに背負われてる』とありきたりな言い回しで私を笑う父と母に緊張していた私も自然と頬がゆるんだ。

 見頃が過ぎた葉桜の前で撮った家族写真。

 散った花びらは私を祝福するように舞っていた。


 リビングに飾ってあったそれはいつの間にかなくなっていた。


 私の小学校生活は順風満帆だったと思う。

 絵に描いたような優しい父と母。一緒に遊ぶ友達。優しい先生。怖い先生。

 特にいいこともないけど悪いこともない日々。

 中学校に入学してからもきっとそんな感じだろうと思っていた。


 でも、それはあっけなく壊れた。


 仲がいいと思っていた父と母の笑顔は作り物だった。

 『子供の前では喧嘩をしない』という私のためなのか親のためなのかわからない方針は最終的に私を固い地面に叩きつけた。

 卒業式の次の日、両親は離婚した。

 前日まで笑い合っていたやさしさの面影はひとかけらもなく、両親には虚無が取り憑いていた。

 いきなり離婚を告げられた。

 ふざけないで。

 そんな私の気持ちなんて彼らにはもう届かなかった。

 私は母と暮らすことが決められていた。

 その日から、母の笑顔と優しさに靄がかかった。母から余裕が消えた。父はどこか遠くへ行った。

 私たち家族の幸せはランドセルと共に終わりを告げた。


 ただ、ランドセルだけが幸せの象徴として残った。


 何度も何度も話し合って決めたワインレッドのランドセル。

 側面には蝶がキラキラした糸であしらわれている。これも母と散々揉めて決めたものだ。


 ランドセルを捨てる?

 そうしたら私は何を頼りに生きていけばいいのだろう。

 特に楽しくもない高校生活。

 両親と手を繋いで見ていた高校生はもっと輝いていた。

 スカートを短く折って、バッグにキーホルダーをたくさんつける。

 学校帰りに友達と寄り道をして、カフェで駄弁る。

 そんな憧れはどこかに置いてきてしまった。

 私のスカートは学校が指定している長さより長いし、バッグには飾り気ひとつない。

 寄り道をするような友達はできなかった。


 あの日から私の中のなにか大事なものが抜け落ちたようだった。


 カチリ、と音がしてランドセルの金具が開いた。

 買ってもらったのは10年以上前なのにそのときと開ける感触は変わらなかった。

 小学生の時から時間が止まっているランドセル。

 かぶせを外すと前ポケットのファスナーに交通安全のキャラクターが書かれた反射板がついていた。

 小学生の時みたいにゴムをグッと引っ張ると呆気なくそれはちぎれた。


 中をみると両親に渡すはずだった感謝の手紙が入っていた。

 それを中を見ずに真っ二つに引き裂いた。

 何度も何度もビリビリと破る。

 破る。破る。破る。細かく。細かく。

 もう破れなくなるぐらい小さくなったころには、床は紙屑だらけだった。

 いつかの花びらみたいだ。

 

 これはお別れの花びらだ。


 ゴミ箱用のゴミ袋にランドセルを放り込んだ。

 その上から花びらという名の紙屑を詰め込む。

 ギュッと口を縛り、外のゴミ箱に放り込んだ。

 こうしておけば母がそのうち捨てるだろう。


 自分でゴミ捨て場まで持って行く勇気は出なかった。


 部屋に戻ると、なんだか前が明るく見えた。

 スカートを折った。

 バッグに持っていたありったけのキーホルダーをぶらさげた。

 明日友達を寄り道に誘おうと決意した。

 ランドセルには、手紙と一緒にあの頃の希望も詰まっていたみたいだ。


 これでよかったんだ。

 これで、よかったんだっけ?

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ランドセルの中 あゆうみあやの @amatsukaze_aya

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