SHAKE

@captaindorry

プロローグ 静兆

都心に佇む、

老舗劇場──タウラス・セントラルシアター。


改築なったばかりのその劇場に、

今夜、灯りがともった。


夜空は低く重く、

細かな霧雨が、

新しいガラス張りのファサードを静かに濡らしている。


歩道の石畳はうっすらと光り、

にじむ街灯の輪郭をぼんやりと映し返していた。


冷えたコンクリート、

わずかに漂う鉄の錆の匂い、

湿った空気にかすかに溶け込んだ新しい建材の匂い──


この夜だけに立ち上がった、独特の緊張が、街の片隅を満たしていた。


ドレスアップした観客たちは、

傘をすぼめながら、

濡れた舗道を静かにすべるように歩いていく。


劇場内では、静かに、開演前のBGMが流れていた。

ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』──

優雅でありながら、どこか胸を締めつけるような旋律が、

まだ始まらない舞台の緞帳越しに、かすかに響いていた。


誰もが、

ため息のような小さな吐息を胸に閉じ込め、

それでも胸の奥では、抑えきれない高鳴りが跳ねていた。


このこけら落とし公演のために、

業界を代表する俳優たちが一堂に会している。


改築を終えたタウラス・セントラルシアター。

その初日の舞台──

それだけで、すでに"事件"だった。


劇場に足を踏み入れた瞬間、

赤い絨毯の柔らかな感触と、

空調に乗ったほのかなバニラと木材の匂いが、観客たちを包み込む。


フラッシュは焚かれない。

囁き声だけが、霧のように空間を流れていく。


「今日、タウラスの会長も来るらしいよ──」

「特別席、すごい厳重だった。」


ささやきは次第に連鎖し、

浮き立つような、しかしどこか怯えたような空気を作り出していた。


──そんな客席がざわめく中。


黒服に囲まれた一団が、

ロビーから静かに入ってきた。


中央にいるのは、

タウラス製薬の絶対的権力者、九条重蔵。


重厚なスーツを身に纏い、

背筋を伸ばし、

一歩一歩、床を打つように歩く。


観客たちは、そのただならぬ存在感に、

吸い寄せられるように視線を向け、

自然と道を空けた。


重蔵は、

ステージを見下ろす特等席へたどり着くと、

ゆっくりと黒革張りの椅子に腰を下ろした。


重く、堂々と。


劇場全体の空気が、

微かに震えた。


重蔵は、

無言のまま、

暗闇の中を見渡し、

鋭い目つきで場内を睥睨していた。


それだけで、

彼の支配する世界の輪郭が、

ぴたりと定まるかのようだった。


バックステージ。


鉄骨剥き出しの天井からは、

白いスポットライトが無遠慮に降り注ぎ、

壁際には、急ごしらえの木材や工具が乱雑に積まれている。


埃っぽい空気の中に、

新しい塗装と機材の焼ける匂いが混じっていた。


そして今、

その空気は、

異様な焦燥と混乱で満たされていた。


──原因は、たったひとつ。


開演二時間前。

楽屋口で、プロデューサー藤堂隼人が

演出家・椎名剛を呼び止めた、あの瞬間からだった。


「剛、ちょっと、すぐ……!」


藤堂はいつになく沈痛な面持ちだった。


「……会長からのご指示だ。孫の蒼司くんを、今日の舞台に出してくれって。」


一瞬、耳を疑った。


「……今から? 段取りも、稽古も、何もないんだぞ?」


「顔を出すだけでいい! 村人たちの群れに混ざって、一言だけ……頼む!」


藤堂の額には、にじむ汗。

普段なら絶対に見せない、追い詰められた表情。


スポンサー様のご意向──

それに逆らえるはずがなかった。


椎名は、強く奥歯を噛み締めた。


(……地獄だ。)


あの日、積み上げた台本も、

緻密に組み上げた演出プランも、

すべて、ここで音を立てて崩れていく。


たった一つの無茶な指示で。


その通達から、現場は一変した。


急遽、衣装チームが走り回り、

舞台監督は頭を抱えながら出番のタイミングを組み直す。


演者たちは、

戸惑い、

苛立ち、

それでも、表には出さずに黙って待った。


バックステージは、

まるで戦場だった。


鉄と汗の匂い、

飛び交う小声、

どこかで落ちた金属音──


すべてが、異様な緊張に染め上げられていた。


そして──

それでも、劇は、進まなければならない。


誰もが無言のまま、

心の中で必死に祈っていた。


バックステージ奥のインカムに、

短い無線が飛び込んできた。


「……会長、ただいま到着。特別席、着席しました。」


その報告が流れた瞬間、

舞台袖の空気はさらに重たく、鋭く張り詰めた。


椎名は、台本を握り締めたまま、

心の奥底で小さく呻いた。


(……もう後戻りできない。)


スタッフたちの目線が、無言のまま交錯する。

誰も言葉を発しない。

ただ、それぞれの呼吸だけが、不自然なほど大きく聞こえた。


タウラス製薬の会長──九条重蔵が席に着いた。


すべての視線と重圧が、

この舞台に注がれている。


絶対に失敗は許されない。


だが──

すでに、

何かが狂い始めていた。


そんな張り詰めた空気を、

ふいに、まったく違うリズムで破る者が現れた。


ひょい、と。


舞台袖の暗がりから、

一人の若者が、まるで迷子でも探検でもするように、

ふらりと歩いてきた。


九条蒼司。


付き人も護衛もなし。

電子タバコを指先で回しながら、

お気楽そうな笑顔を浮かべている。


異様だった。

あまりにも異様だった。


バックステージの張り詰めた緊張の中で、

彼だけがまるで、違う温度の空気を纏っていた。


スタッフたちは、

ざわめきかけた声を喉の奥で押し殺し、

互いに目を逸らした。


椎名は、深く息を吐き、

意を決して蒼司に歩み寄った。


「……少しだけ、お時間いいですか? それと、すみません、ここ禁煙でして。」


椎名は、できる限り柔らかい声で切り出した。


蒼司は、悪びれる様子もなく、

「あっ、すんませーん!」

と笑いながら、ポケットに電子タバコをしまった。


あまりに軽い。

しかし、その無邪気な笑顔の奥には、

何か底知れないものが隠れているように見えた。


椎名は、台本を握りなおしながら続けた。


「九条さん。今回の舞台は、シェイクスピアの『ハムレット』です。

 内容はご存じでしょうか?」


蒼司は、指をポキポキと鳴らしながら、


「ハムちゃんがウジウジするやつっしょ? だいじょぶっす!」


(……本当に大丈夫なのか?)


椎名は、内心で頭を抱えた。


「村人たちの一人として、登場してもらいます。

 台詞は──"Good my lord, beware this night!"(殿下、今宵はご用心を)──

 一言だけです。」


蒼司はふざけた敬礼ポーズを取りながら、


「ラジャーっす!」


「それ以外の行動は禁止です。

 ──絶対に、他の役者には絡まないこと。」


「もちろんっす!」


無邪気な笑顔。

だが、その裏に潜む何かを、椎名は敏感に感じ取っていた。


「それから。」


椎名は念を押す。


「今回の舞台は、すべて英語で進行します。

 台詞も、英語でお願いします。」


蒼司は、肩をすくめながら、


「イエス、サー!」


もう一度、ふざけた敬礼をしてみせた。


その軽やかさに、

バックステージの空気が、ほんのわずかに軋んだ気がした。




舞台左右には、字幕用の大型モニターが設置され、

注意事項の日本語字幕が映し出されていた。


それに合わせ、

場内には英語によるアナウンスが静かに流れている。


"Please turn off your mobile phones."(携帯電話の電源をお切りください)

"No eating, drinking, recording, or photography during the performance."(会場内での飲食、録音、撮影はご遠慮ください)


観客たちは、

モニターの光を眺めながら、

それぞれに、期待と緊張を胸の奥に溜め込んでいた。


軽く胸元を押さえる者。

指先を落ち着きなく膝に走らせる者。

唇をきつく結び、瞬きを忘れたまま前を見つめる者。


誰もが、

始まる瞬間を待ちながら、

自分でも気づかないうちに呼吸を浅くしていた。


特別席では──


九条重蔵会長が、

黒い影のような存在感を漂わせ、

無言で鎮座している。


その沈黙こそが、

劇場全体を支配していた。


舞台袖では、

役者たちが、

最後の呼吸を整えていた。


震える指。

握りしめた拳。

小さく呟く祈り。


張り詰めた緊張が、

空間のすみずみにまで満ちていく。


(頼む──せめて、予定通りに……)


椎名剛は、心の中で静かに祈った。


だが、

その胸のどこかで、

すでに理解していた。


──今夜は、何かが、違う。


微かな音を立てて、

見えない歯車が、静かに動き始めている。


そして。


劇場内に、開演ベルが鳴り響いた。


本来なら、華やかに場を祝うはずの音。


だが今夜のベルは、

錆びた鉄を無理やり軋ませるような、

鈍く、ねじれた音だった。


その異様な音が、

劇場の隅々にまで染みわたり、

空気そのものを、じわじわと侵していく。


客席が、ぴたりと静まり返る。


舞台袖では、

スタッフたちが固く息を呑み、

役者たちが目を閉じ、

たったひとつの幕開けに備えた。


劇場全体が、

見えない潮流に呑み込まれるように、

ゆっくりと、

運命の舞台へと滑り出していく。


──幕が、上がった。


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