最終話 ゆきどけの日
葬儀のあと、翔太はしばらくの間、何も手につかなかった。
美咲がいなくなったことが、現実として胸に落ちてこないまま、日々だけが過ぎていった。
ある日、彼女がかつて入院していた病院から、一通の封筒が届いた。
中には、少し擦れた茶色のスケッチブックが一冊と、看護師の手紙。
震える手で、翔太はそれを開いた。
最初のページに、小さな字でこう書いてある。
「翔太くんへ。
これは、忘れたくなかったものの記録。
でも、忘れてしまう私のためのものでもあります。」
ページをめくるごとに、彼女の描いた景色が現れる。
中学校の校舎、屋上、二人で歩いた帰り道。
雪が解けはじめた公園、春を待つ街の色。
記憶の断片が、絵として残っていた。
どこかで途切れ、どこかで乱れて、言葉にならない線がいくつも交差している。
けれどそのすべてに、翔太の姿があった。
表情の描き方だけで、彼女がどれほどの想いを込めていたのかが、痛いほど伝わってくる。
スケッチブックの途中に、一枚だけ違う雰囲気のページがあった。
春の陽ざしのなか、コートの襟を押さえて立つ、美咲の姿。
背景は、あの河川敷。
再会した日だ――六年ぶりの、あの日。
翔太の脳裏に、あの瞬間が鮮やかに蘇る。
あの河川敷、美咲はふと立ち止まった。
まるで何かを思い出すように、首をかしげて、あたりを見渡していた。
――その仕草に見覚えがあった。
「あ……翔太くん、だよね? ひさしぶり」
その笑顔に、違和感はなかった。
けれど今、翔太はようやく気づく。
あの時の彼女――たしかにどこか、迷っていた。
記憶をたぐりよせるようにして、自分の名前を呼んだ。
笑っていたのに、目だけが、どこか探しているようだった。
スケッチブックの絵には、その河川敷からの街並みと、二人が立っていた位置までもが正確に描かれていた。
だが、美咲の足元には、一本の小さな線が描かれていた。
まるで「戻る道」と「進む道」の分かれ道のように。
翔太は気づく――
美咲は、あの日すでに、「記憶の迷路」の中にいたのだ。
それでも会ってくれた。笑ってくれた。名前を呼んでくれた。
ページをそっと閉じて、翔太は息を吸い込む。
もう戻れないけれど、
あの春の日は、ちゃんとふたりのものだった――そう信じたかった。
最後のページ。
美咲はもう、文字を書く力もなかったのか、震える筆跡でただ一言。
「ありがとう」
翔太は、胸の奥に何かがじんわりと広がるのを感じた。
彼女は、自分には何も言わなかった。
けれど、ちゃんと想ってくれていた。
覚えていてくれた。
忘れていくなかで、なおも刻もうとした記憶が、自分に向けられていた。
スケッチブックを胸に抱え、翔太は静かに目を閉じる。
冬が終わり、雪解けが進むと、次第に土の匂いが街を包み込む。
十勝の春は、他のどこよりもゆっくりと来る。でも、それだけに大切だ。
けれど、翔太の心にはもう「雪解け」が訪れていた。
過去の痛みを抱えたままで前を向き、自分の道を歩きながら――その記憶を大事にしていくことを決めた。
雪解けを待ち続けた日々は、確かに終わった。
そして、その下に眠っていた新しい季節が、静かに始まった。
窓の外では、風がやわらかく木の葉を揺らしていた。
春には少し遅れてやってきた、美咲の「さよなら」と「ありがとう」。
そして
美咲との思い出は、翔太の心の中に、永遠に咲く桜となった。
ゆきどけの日まで @hiroiiiii
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