第26話 日常、そして寄り添う夜

 ――ぼんやりと、白い天井が目に映る。


 「……ここ、どこだ……」


 目をしばたたきながら、頭がまだぼんやりとしたまま辺りを見回す。

 消毒液の匂い、窓から差し込むやわらかい光。真っ白なシーツに無機質な壁。

 すぐに気づく。


 (……病院、か……)


 何とか上体を起こそうとした、その瞬間――


 「悠人っ!!!!」


 バタバタッと走り込む音がして、視界いっぱいにピンク色の何かが飛び込んできた。


 「うわっ!?」



 ドシン!!


 

 全体重が一気にのしかかり、胸のあたりが苦しくて呼吸が詰まる。


 「リ、リリム!? ちょ、お前、苦しい……!」


 必死に引きはがそうとするが、リリムは両腕でぎゅうぅっと締め付けてきて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を俺の胸に埋める。


 「うぇぇぇん……悠人……目が覚めたぁぁ……!! 三日間も眠りっぱなしだったんだよぉぉぉ……!!」


 「さ、三日も……!? マジかよ……」


 思わず呆然としながら、リリムの頭をポンポンと叩いた。

 その肩がひくひく震えて、まるで子供のように泣きじゃくる。


 「お前……そんなに泣くなよ、俺はもう平気だって……」


 ふわっと香るシャンプーの匂いが、なんだか妙に懐かしい気持ちにさせた。


 「はーい、うるさいの復活っと……」


 突然カーテンがガラリと開いて、カグラが呆れ顔で現れる。

 いつもの巫女装束、けれど顔には少し安堵の色が見えた。


 「ったく……元気そうで何よりだけど、騒ぎすぎると怒られるわよ」


 「カグラ……」


 「ふふ……本当、もうドジばっかりして……無理させんじゃないわよ、リリム」


 リリムがむくっと顔を上げ、涙の跡を袖でゴシゴシ拭う。


 「う、うん……でも、悠人が無事で本当に良かった……!」


 カグラがため息をついて、そっと背を向けた。


 


 ◆◆◆


 

 数日後。退院の日。


 重い足取りで自宅のアパートに戻ると――


 「……あれ?」


 目の前に広がる光景に、思わず立ち止まる。


 「壁……直ってる……?」


 以前、リリムがドカンと吹き飛ばしたあの壁が、まるで何事もなかったかのようにきれいに元通りになっていた。


 「でしょでしょー!? ふっふっふー♪」


 リリムが自慢げに胸を張る。


 「仁科がね、魔法で直してくれたんだって! 今まで『面倒だ』って放置してたのに、やっと重い腰上げたんだよー!」


 俺はため息をつきながらも、思わず笑みがこぼれる。


 「……なんだよ……やるときゃやるんだな、あいつも」


 荷物を置いて、まずはひとっ風呂――。


 シャワーの音が心地よく響く中、肩まで湯船に浸かり、思わず声が漏れる。


 「はぁぁぁ……生き返る……」


 しみじみとお湯に癒されていると――


 「きゃっ♡」


 背後から妙に明るい声がして、ガラリと浴室のドアが開く。


 「え?」


 振り返った瞬間、目を疑った。


 服を脱ぎ終えたリリムが、満面の笑顔で入ってきたのだ。


 「ちょっっ!?!?!? お前、何してんだよ!!!」


 泡まみれの俺が慌てて身を隠すと、リリムは無邪気に首をかしげながら、ちゃっかり湯船に入ってきた。


 「だって……悠人、また倒れちゃうんじゃないかって……心配だったんだもん……」


 そして、ツルッと背後に回り込み、ぴたっとくっついてくる。


 「ほら……あったかいでしょ……?」


 柔らかい感触と、甘い声が耳元をかすめる。


 「ま、待てリリム!! 今は違う、落ち着けっ!!」


 「もういいでしょ……? 私、本当に……悠人のこと……」


 リリムの声が、耳たぶをかすめるように甘く響く。

 その吐息混じりの声に、背筋がゾクッと震えた。


 「お、おい……リリム……?」


 必死に声を絞り出すが、呼吸がやけに浅くなる。

 背後からぴたりと寄り添うリリムの身体――

 素肌が、俺の背中に密着していて、体温がじわじわと伝わってくる。


 「……悠人……」


 リリムがそっと顎を肩に乗せ、指先がゆっくりと俺の胸元をなぞる。

 その指の動きはゆっくりで、妙に意識が集中してしまう。


 「私ね……ずっと、悠人のこと考えてたの……」

 「病院でも、お家でも……毎日、ずっと……悠人が心配で……」


 背中にリリムの小さな手が滑り、そっと抱きしめる力が強まる。

 彼女の柔らかさと体温が生々しく感じられて、理性がぐらりと揺らぐ。


 「ちょ……リリム……マジで……待てって……」


 言葉は出るものの、全身が熱くなり、のぼせたような感覚。

 リリムの髪が濡れていて、その香りが湯気に混ざりふわっと鼻をかすめた。


 「ずっと……触れてたかった……悠人のこと、大事にしたいの……」


 耳元でそう囁き、リリムの唇が、そっと首筋に触れる。

 電気が走るような感覚に、全身がピクリと震えた。


 「う……リリム……ほんと……やばいって……」


 言葉とは裏腹に、手は自然と彼女の腕をそっと掴んでいた。

 後ろから抱きしめられているのに、心臓がドクドクとうるさいくらい鳴り響く。


 リリムがさらに身を預け、頬を俺の肩にすり寄せる。


 「悠人……私、本気だから……」


 その声は、今までで一番真剣で、甘くて、柔らかくて――

 決壊するみたいに、頭の中が真っ白になる。


 俺は振り返り、リリムの顔を見つめた。

 濡れた髪、頬の赤み、潤んだ瞳がまっすぐ俺を見つめ返してくる。


 「リリム……」


 気づけば、自然と唇が触れていた。

 お互いに何も言葉はなかった。ただ、深く、優しく、何度も確かめ合うように口づける。


 リリムの両手が、俺の背中を這うように上がり、首にそっと腕を回してくる。

 その温かさが、胸の奥まで染み込んでくるようだった。


 「……悠人……もっと……」


 甘く崩れる声が、耳元で溶けていく。

 熱い湯気の中、重なり合った体温はもう、互いの境界を曖昧にしていった。


 ――しばらくの間、風呂場には、水音と、抑えきれない想いが交錯する音だけが響いていた。



 ◆



 風呂上がり。二人でホッと一息。


 「……なあ、この料理……マジでお前が作ったのか?」


 テーブルには、きれいに盛り付けられた和食が並んでいる。

 焼き魚、味噌汁、煮物――まるで誰かプロが作ったみたいだ。


 「うふふーん♡ びっくりした? これね、ぜーんぶ私が作ったんだよ!」


 満面の笑顔で胸を張るリリム。


 「……お前、もしかして料理の天才なんじゃ……」


 「だよねっ!? ついに私、開花しちゃったかも♡」


 箸を持ち、味見――。


 「……う、うまい……」


 静かにそう呟くと、リリムはますます得意げに笑った。


 楽しく笑い合いながら食卓を囲む。

 ふと、俺は真顔になり、リリムを見つめる。


 「なあ、リリム……これから、どうするんだろうな、俺たち」


 リリムは、一瞬きょとんとして、それから優しく微笑む。


 「……大丈夫。悠人がいれば、私、何があっても頑張れるよ」


 その言葉が、妙に心にしみた。


 


 ◆


 


 夜の静寂。

 部屋の中には、カーテン越しに柔らかい月の光が差し込んでいる。


 ベッドの上で、リリムがそっと俺に身を寄せてきた。


 「悠人……」


 細く、かすれるような声が耳に届く。

 見つめ合うと、彼女の瞳がわずかに潤んでいて、何かを訴えるように揺れていた。


 「……リリム……」


 言葉にならないまま、自然と顔が近づく。

 次の瞬間、ゆっくりと唇が触れ合った。

 それは優しくて、甘くて、でも胸が締め付けられるような切なさが混じるキスだった。


 リリムが少しずつ体を預けてきて、柔らかく俺の胸元に抱きつく。

 その髪がかすかに揺れて、ふわりと甘い香りが広がった。


 「……ずっと一緒にいたい……」


 小さな声で囁くと、リリムは俺の胸に顔を埋め、そっと震える腕で背中に回してくる。

 その細い指先が背中をなぞるたびに、触れ合う肌が熱を帯びていく。


 「リリム……」


 俺は彼女の頬に触れ、もう一度深く唇を重ねた。

 さっきよりも長く、ゆっくりと、互いの息遣いを感じながら口づけを交わす。

 リリムの肩がわずかに揺れ、抱きしめる腕がきゅっと強まった。


 ベッドのシーツがかすかに音を立てる。

 指先がそっとリリムの背中をなぞり、彼女の肌が小さく震えるのがわかった。

 唇が頬、耳元、首筋へとそっと移動していくと、リリムがかすかに息を詰め、細い声が漏れる。


 「ん……悠人……」


 その声は、耳元で溶けるように響いて、心臓が早鐘のように高鳴った。

 俺たちはそっと見つめ合い、何も言わずに互いの想いを伝え合う。


 手のひらでリリムの頬を優しく包み、もう一度、深く唇を重ねる。

 重なり合った体温が、境界線を溶かしていくみたいにひとつになっていく。


 「……悠人……もっと……」


 リリムが恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、かすかに震える声でそう呟く。

 俺は黙ってうなずき、そっと肩を抱き寄せた。


 シーツが滑り落ち、月明かりに照らされたリリムの肌がきらりと輝く。

 触れた場所から、体の奥底まで熱が伝わり、二人はゆっくりと、何度も何度も確かめるように触れ合った。


 優しさと愛しさと、そしてどうしようもない衝動が交錯する。

 言葉なんていらなかった。ただ、互いの温もりを感じることだけがすべてだった。


 重なり合う体温、速まる鼓動、柔らかく絡み合う手と手――

 夜は、深く、深く流れていった。


 静かな月明かりの下、二人の影はずっと寄り添い続けていた。




(つづく)


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『現代社会を征服しようと悪魔を召喚しましたが、想像以上にポンコツだった件』 あらやん @arataworks

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