朝の錯覚と、視線の海

 ──ふわふわしてる。


 あたたかくて、さらさらで、やわらかくて。


 夢の中にいるような、うっとりする触り心地だった。


 ……いや、夢か?


 俺はまだ、目を開けていない。

 たぶん今も、半分眠っている。


 そんな中、指先が、何かに触れていた。


 繊細で、絹のようにすべすべした感触。

 くすぐるような、くすぐられるような、そんな触り心地。


「……なんだ、これ」


 ぽそりと呟いて、もう一度そっと撫でる。


 さらさら。


 そして、少しだけ──ぷにっとした、弾力。

 なんだこの絶妙な……この、絶妙な手触りは。

 俺は、ゆっくりと、指先に力を込めて、押してみた。


 ぷにっ。


「──あっ」


 軽く、甘い声が落ちてくる。


「だめだよ~っ、ごしゅじんさまっ☆ そこ、押しちゃやぁ~んっ☆」


「……え?」


 なんか今、すごく明るくて甘い声が聞こえたような──


「んもぉ~っ☆ 朝からそんなとこ触るなんてぇ~っ☆ おイタが過ぎるよ~っ♪」


 声はすぐそこにある。

 俺のすぐ目の前。


「……」


 まだ寝ぼけている脳が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「だって……こんなにサラサラしてて、ぷにぷにして……触り心地、最高なんだもん……」


「やぁ~んっ☆ 照れちゃうよぉ~っ☆」


「……うん。これは……ほんと……極上……」


 ……ん?


 待て。


 今更、唐突に脳の奥が警鐘を鳴らした。


 なんだ、この感触。


 あれか? “翼”か? 

 いや、違う。

 この手触りは、あのふわふわした“羽根”とは明らかに違う。


 もっとこう……柔らかくて、ぷにぷにしてて。

 ……羽じゃない。

 絶対に、羽じゃない。


 俺は、ゆっくりと。

 本当に、ゆっくりと。

 まるでホラー映画の登場人物が、開けてはいけない扉を開けるような速度で──


 瞼を、開いた。


 視界が、じわりと明るくなっていく。


 そして、理解した。


 俺の“指先”が触れていたのは──


 “眼球”。


 ……目、だ。


 白く、ぷにぷにした、血管の浮いた、それでいてつややかな表面。


 どう見ても、目玉だった。


 俺の指は、その中心──瞳孔らしき場所のど真ん中に、直に、触れていた。


 ぐにゅ。


 指先が、わずかに沈んでいた。


 ──おい。


 いやいやいや、待て待て待て。

 これは、いろんな意味でヤバい。


 俺は今、目玉を、触ってる?

 違う、押してる?

 ていうか、これ“目”なんだよな? 

 

「……」


 天使の身体は謎の環状構造体だ。

 そしてその“環”の内側にも外側にも、これでもかというほどに、目、目、目。

 眼球が、無数に埋め込まれている。


 俺の指が押していたのは、その中の──たった一つにすぎなかった。


 しかもその目が、潤んでいる。

 微妙に、俺の指に反応して、焦点を合わせようとしてる。


 ──やめろ。


 そんな“視線の感触”みたいな反応、いらないから。


「やぁ~んっ♪ もう、ごしゅじんさまったらぁ~っ☆」


 くるん、と天使の環の身体が旋回する。

 そのたびに、環に埋め込まれた眼球たちが、ぞわぞわと揺れながら、俺の方を見てくる。


 ──いつもなら。


 ここで俺は、一瞬で身を引いていたはずだ。


 あまりにもおぞましい“視線の乱舞”。

 眼球の直触りという、“倫理的にアウトな何か”。


 だけど。


 今はまだ、半分眠っている。


 現実感が、薄い。


 だから、気がつけば──


 俺は、またそっと、指を動かしていた。


 さらり。


 ふわり。


 触れた瞬間、絹のような滑らかさが指先を撫でていく。

 ぬめりはない。

 湿り気もない。

 けれど、なぜか“柔らかくて心地よい”。


 まるで羽毛とガラスの中間のような、不思議な質感。


 そして、サラサラ。


 目なのに。


 どう考えても“目”なのに。


 それはなぜか、妙に落ち着く感触だった。


「……気持ちいいな」


 ぽつりと漏れた声すら、自分のものじゃないような、ふわふわとした響きだった。


 ──この時の俺は、“目玉”を直に撫でていることに、確かに気づいていた。


 けれど、そこに“傷つける”という発想はなかった。


 というか、あの無数の“目”を見ていて、どうしても“壊れる”とか“傷つく”というイメージが浮かばなかった。


 柔らかいのに、壊れそうにない。

 繊細なのに、どこか不滅的な“安定感”がある。


 人間の目とは、根本的に“別物”なんだと、どこかで理解していた。


 だから、俺は。


 その“目玉”の一つを、まるで猫の耳でも撫でるように、もう一度、ゆっくりとなぞっていた。


 相変わらず不思議な感触だ。


 絹のようで、羽毛のようで、けれど“目”だった。


 意味が分からないのに、なぜか安心できる。

 目を撫でているのに、脳が“ぬくもり”として受け取ってしまっている。


 ……変だ。

 なのに、気持ちいい。


 そんな矛盾に包まれているうちに、再び瞼が重くなってきた。


 ああ……まずいな……。


 せっかく起きたはずなのに、また、眠気が──


「ふふ~っ☆ しかたないなぁ~っ、ごしゅじんさまは~っ☆」


 どこか嬉しそうな声が耳元で弾む。


 その直後だった。


 ぱさっ、と。


 空気が揺れる音とともに、ふわりと、あの“感触”が背中に触れた。


 三対の翼が、やさしく、俺の身体を包み込む。


 ふわっ。


 じんわりと、あたたかい。


 さっきまで撫でていた“目”とはまったく違う。

 これは、確かに“羽根”だった。


 柔らかく、軽く、しっとりとしていて──それでいて、全身を“やさしさ”で覆ってくる。


 まるで、深く深く、布団の奥に潜り込んだ時のような安心感。


 安心して、安らいで、また、意識が遠のいていく。


「またまたおやすみなさ~いっ☆ ごしゅじんさま~っ☆」


 そんな声が、夢と現の境目で揺れていた。


 そして俺は、もう一度。


 すぅ……っと、意識を眠りの底に、落としていった。

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ある日天使(ガチ)がやってきた ソクラティス @sokura90

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