閑話1 レギア・バーンハルト
帝都中心部に佇む「ローザリア」は、帝国の貴族階級だけが足を踏み入れることを許される高級サロンだった。夕暮れの柔らかな光が、クリスタルのシャンデリアを通して室内に幾筋もの虹色の光を投げかけている。
豪奢な調度品に囲まれた一角で、レギア・バーンハルトは金と銀の糸を織り交ぜた最新流行のドレスに身を包み、優雅にワイングラスを傾けていた。彼女の周りには中央錬金院の若手研究員たちが集い、彼女の一挙一動に視線を向けている。
「やはり、ああいう"異端者"はこの帝国にはふさわしくないのですわ」
レギアは上品な微笑みを浮かべながら、澄んだ声で語った。赤みを帯びた琥珀色のワインが、グラスの中で優雅に揺れる。
「まったくです、バーンハルト様。死者を利用するなどという発想、常軌を逸しています」
「神聖な魂の領域に土足で踏み込むようなもの。冒涜以外の何物でもありません」
周囲の研究員たちは、こぞってレギアの発言に同調した。彼らの声には、ユノ・レイグランツへの非難と軽蔑が滲んでいる。
「しかも、帝国の秩序を根本から覆すような理論を堂々と提出するとは。彼の才能は惜しいものでしたが、思想が危険すぎました」
別の研究員が加わると、話題はさらに加熱していった。ユノの「倫理破壊」や「神聖秩序への冒涜」を非難する声で満ちる中、レギアは優雅にグラスを揺らしながら静かに微笑んでいた。
(これでようやく、私たちは"正しい帝国"の未来を築ける)
表面上は完璧な優雅さを纏った彼女だったが、心の奥底では複雑な感情が渦巻いていた。彼女はふと、十年前の記憶に引き戻された。
帝国錬金学院の広々とした講堂。春の陽光が大きな窓から差し込み、実験台の上の薬瓶を輝かせていた。その中央に立っていたのはユノ・レイグランツ。彼は誰よりも自信に満ち、誰よりも輝いていた。
「今回の実験では、従来の回復ポーションの効能を三倍に高めることに成功しました。これにより、辺境地域でも十分な医療が行き届くようになるでしょう」
若きユノの声は力強く、理想に満ちていた。講師たちは口々に彼を称え、学生たちは敬意の目で見つめていた。その中に、若きレギアの姿もあった。
(あの頃の私は何を思っていたのだろう)
レギアは当時、家柄と才能を武器に、常にトップを走っていた。貴族の令嬢として生まれ、幼い頃から最高の教育を受け、錬金術の才能も開花させていた。誰もが彼女を天才と呼び、将来を託していた。
しかし、ユノの登場によって全てが変わった。彼は平民の子でありながら、純粋な才能だけで彼女を追い越していった。レギアは表面上は友好的な態度を取りながらも、内心では絶えず彼と競っていた。
必死に研究を重ね、最上の成果を叩き出したはずだった。だが、講師たちの賛辞は、常にユノへと向けられた。レギアの美貌も家柄も、あの天才の「純粋な才覚」の前では霞んでしまった。
「バーンハルト様、お言葉ですが、あの男が開発していた技術の一部は軍が接収したと聞きましたが…」
ある若い研究員の言葉に、レギアは現実に引き戻された。彼女は小さく咳払いをし、優雅な仕草でグラスを置いた。
「そうですわね。使えるものは使う。それが帝国の方針です。彼が異端者だからといって、有用な技術まで捨てるほど、私たちは愚かではありませんもの」
彼女の言葉に、周囲からは納得の声が上がった。誰もが彼女の判断を正しいと信じている。レギアは静かにワインを飲み干し、優雅な仕草で微笑んだ。その表情は完璧に上品だったが、心の奥底でわずかな虚無感が疼いていた。
(あなたがいなければ、私たちはもっと自由に栄光を手にできる)
(あなたは間違っていた。帝国に必要なのは、制御された正しさ)
彼女は言い聞かせるように、心の中で繰り返した。
「レギア様、先日発表された美容錬金術の新論文、素晴らしかったです。特に高位貴族の方々からの評判が高いとか」
話題が変わり、周囲は再び彼女の研究に花を咲かせた。美容錬金術、特に若返りや長寿をもたらす薬品の研究は、貴族階級から多大な支持を受けていた。レギアはその分野の第一人者として名を馳せていた。
「ありがとう。美とは尊いもの。高貴な人々に幸福をもたらすのが、私たちの務めですもの」
彼女は洗練された笑みを浮かべながら答えた。しかし、その言葉を口にしながらも、心の片隅では別の声が響いていた。
かつてユノが主張していた言葉。
「錬金術の真髄は、全ての人に平等に恩恵をもたらすこと。貴族だけが享受する特権ではない」
(うるさい…そんな綺麗事で世界は変わらない)
レギアは内心で反論しながらも、その声を完全に消し去ることはできなかった。
サロンの時を告げる鐘が鳴り、彼女は立ち上がった。完璧な立ち居振る舞いで、周囲に別れを告げる。
「今日は楽しい時間をありがとう。帝国の未来のために、私たちがやるべきことはまだ多くありますわ」
彼女が優雅に退出すると、その背後で賞賛の声が続いた。
サロンの外に出ると、夕暮れの空気が彼女を包んだ。帝都の街並みは、すでに夜の灯りが灯り始めていた。彼女は用意された馬車に乗り込みながら、窓から遠くを眺めた。
視線の先には、辺境へと続く大通りが見えた。今頃、ユノ・レイグランツは追放の旅の途中だろう。彼の研究室は既に別の錬金術師に与えられ、その名前は帝国の記録から抹消されつつあった。
(さようなら、ユノ。これで私の勝ちだわ)
レギアはそう思いながらも、胸のあたりに湧き上がる奇妙な感覚を消すことができなかった。勝利の喜び?敗者への哀れみ?それとも…
馬車が動き出し、揺れる灯りの中で彼女は目を閉じた。心の奥底でまだ残っている感情。嫉妬、敵意、そして哀惜。矛盾する感情をすべて、冷たい笑みの下に封じ込めながら、レギア・バーンハルトは「勝者」の顔を保ち続けることを誓った。
しかし、忘れられない。あの日、誰よりも自由に、誰よりも美しく錬金術と向き合っていたユノ・ライマールの姿を。そして、それを自分が破壊したという事実を。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
屋敷に到着すると、執事が彼女を出迎えた。レギアは優雅に頷き、何事もなかったかのように微笑んだ。
「ええ、素晴らしい夜でしたわ」
彼女の胸中で、矛盾する感情が密かに渦巻いていた。
錬屍術師ユノ 君山洋太朗 @mnrva
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