第5話 追放と誓い

雨が降り始めた帝都の朝。灰色の雲が街を覆い、人々は急ぎ足で行き交う。帝国錬金術院の裏門から、一台の簡素な馬車が出発しようとしていた。


「荷物はすべてここに入れた。食料と水は三日分、到着後は現地の官吏が対応する」


護衛役の兵士は淡々と説明を終え、馬車の扉を開けた。


「乗れ」


ユノ・レイグランツは無言で馬車に乗り込んだ。亜麻色の髪が雨に濡れ、銀灰の瞳は光を失っていた。かつて帝国中央錬金院で「若き天才」と呼ばれた男の持ち物は、今や小さな鞄一つに減っていた。研究データや装置、果ては彼が開発した医薬品のレシピまで、すべて没収されたのだ。


「待ってください!」


声がして振り返ると、ジェラルド先生が息を切らして駆けてきた。長年の研究生活で背中が丸くなった老教授の顔は、悲しみと焦りに歪んでいた。


「ユノ君、これを」


老教授は小さな本を差し出した。表紙には「基礎錬金術式集」とある、学生用の教科書だ。革表紙は雨に濡れ、所々しみができていたが、それでも教授の手はしっかりとその本を握っていた。


「先生、これは……」


「中を見るのは、安全な場所についてからにしなさい」


ジェラルドは意味深な言葉を残し、ユノの肩を軽く叩いた。その手には長年実験を続けてきた錬金術師特有の、薬品の染みと微かな火傷の跡があった。ユノの手にも、同じような痕跡が残っている。


「世界は広い。帝国の外にも、真実を求める者たちはいる」


「ありがとうございます、先生」


ユノは本を受け取り、白衣の下の胸ポケットにしまった。それが彼の最後の希望になるとは、まだ知る由もない。


「出発する」


護衛の兵士が合図すると、馬車はゆっくりと動き始めた。窓からは、徐々に遠ざかる帝都の景色が見える。七色の魔法石で装飾された錬金術院の尖塔、豪華な装飾が施された貴族街、そして灰色の煙を吐き出す下層区の工場群。かつて彼が夢見た栄光の地、今は彼を追放した冷酷な都市。


「死体から生体エネルギーを抽出し再利用するクリーン錬金術」——それが彼の研究テーマだった。死者の体に宿る魔力の残滓を回収し、再利用するという極めて効率的かつ革新的な技術。病で亡くなった者、戦争で命を落とした者、事故で不慮の死を遂げた者たち。その命を、少しでも世の中の役に立てたいと願った技術だった。


雨は次第に強くなり、窓ガラスを叩きつける音が車内に響く。馬蹄の音と混ざり合って、哀しげなリズムを刻んでいた。


「便利な世界を作るはずだったのに、なぜ俺が……」


ユノは小さく呟いた。理解できなかった。「死者冒涜」「倫理違反」。彼の研究をそう決めつけた帝国評議会のあの瞳には、確かな恐怖と蔑みがあった。背後に非効率な旧貴族制度を守ろうとする保守派の政治的圧力があったことも、彼には見えていた。


馬車が市門を抜け、広大な街道へと出た頃、一人の老婆が馬車に駆け寄ってきた。雨に濡れた粗末な外套を羽織り、足を引きずりながらも必死に追いかけてくる。


「待ちなさい!錬金術師さん!」


護衛が馬を止めようとする前に、老婆は窓に顔を寄せた。その顔には深い悲しみと、どこか懇願するような表情がある。雨に打たれた顔は涙と雨滴が混じり合い、皺の間を流れていた。


「あなたが、死者を活かす術を研究していた方ですね?」


ユノは驚きながらも頷いた。護衛兵が老婆を引き離そうとする中、彼女は一枚の紙をユノに差し出した。雨に濡れないよう、油紙で何重にも包まれていた。


「私たちの声を忘れないでください。この名簿は、帝国の政策で家族を失った者たちの記録です」


ユノは紙を受け取った。そこには整然とした字で、多くの名前が記されている。貧困地区での疫病、鉱山事故、前線での戦死——様々な理由で命を落とした人々とその遺族の名だ。名前の隣には日付と、亡くなった状況が簡潔に記されていた。


「彼らの死を無駄にしないでください」


老婆は最後にそう言うと、護衛兵に捕まる前に雨の中へと姿を消した。その背中は小さく、しかし毅然としていた。


ユノは名簿に目を通しながら、一つの名前に引き寄せられた。雨粒が紙の上に落ち、インクがにじむ。彼は慌てて濡れた部分を拭った。


「アイリス・フェンリル……」


16歳の少女。帝都郊外の村で、疫病により家族全員を失ったとある。彼女自身も病に倒れ、最後は治療費が尽き、施療院の片隅で息を引き取ったと記録されている。葬儀すら行われず、遺体は錬金術師見習いの実習用として使われたとも。


ユノの手が震えた。怒りか、哀しみか、それとも決意か。


「忘れない」


ユノは紙を丁寧に畳み、ジェラルド先生から受け取った本の間に挟んだ。紙の端にあった小さな血痕——おそらく老婆の指先から滲み出たものだろう——が、紙に赤い花を咲かせていた。


雨脚が強まり、馬車は帝都から遠ざかっていく。車窓から見える風景は徐々に荒涼としたものに変わっていった。開けた平原、そして遥か彼方に見える山々。彼が送られる辺境の地だ。かつて彼が足を踏み入れたことのない未知の領域。


やがて雨は止み、薄日が差し始めた。晴れ間から射す光が、湿った地面から立ち昇る蒸気を金色に染める。ユノはジェラルド先生から受け取った本を開いた。表紙をめくると、本のページは中央が刳り抜かれており、その空洞にはひとつの小さな結晶が収められていた。深い青と紫が混じり合う、宝石のような輝きを放つそれは——


研究データ保存用の記憶結晶——彼の研究の核心部分が詰め込まれているのだ。


「先生……」


ユノの目に、初めて涙が浮かんだ。希望はまだ消えていなかった。絶望の淵で差し伸べられた手。それは小さいが、確かな光だった。


馬車は揺れながら進み続ける。彼は窓の外を見つめながら、心の中で静かに誓った。一面に広がる草原と、点在する村々。かつては彼にとって無関心だった風景が、今や新たな意味を持ち始めていた。


「死者を冒涜しているのは、俺じゃない。生きているつもりで腐っているお前らの方だ——」


彼の銀灰の瞳に宿るのは、もはや若き理想家の情熱ではなく、冷たく燃える決意の炎だった。実験痕のある手指が本を強く握りしめる。


夕暮れ時、馬車は小さな村の宿場に立ち寄った。ユノは静かに窓の外を眺めながら、名簿に記された名前を一つひとつ心に刻んでいた。


「アイリス・フェンリル……」


彼は再び少女の名を呟いた。名簿には彼女の遺体が最終的にどこに葬られたかの記録はなかった。帝国の記録からも消され、誰にも覚えられることなく忘れ去られた命。


「世界は一度死ぬべきなのかもしれない。そして、俺の手で蘇らせる」


辺境へと続く道は果てしなく長い。しかし、それは彼の新たな旅路の始まりに過ぎなかった。孤独な追放者の道程。しかし、彼はもはや一人ではない。名簿に記された無数の魂が、彼の行く先を見守っていた。


若き錬金術師の心に、"マッドサイエンティスト"の種が確かに芽生え始めていた。そして、いつの日か、この世界を変えるほどの存在になる「錬屍術師ユノ」の船出である。

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