二、待ち人

 その日、私は久しぶりに――町のS老人を訪ねた。

 S老人は私の大伯父の知り合いで、確かもう八十をいくつか超していたが、非常に元気な人だった。

 ここ三月ほどは仕事が忙しく、老人のところへはすっかり無沙汰をしていたわけだが、老人は愛想よく迎えてくれた。

「そういえば、あなたは不思議な話を集めているのでしたね。こんな話はいかがですか」

 S老人はそう言って、次の話を聞かせてくれた。



 私の古い友人に、Aという男がいます。これからお話しするのは、このAが昔体験した出来事です。

 Aは真面目な男でしたから、この話はAの嘘や作りごとではなく、まったくAの実体験であろうと思われます。

 このAは先ほども言ったとおり本当に真面目で、石地蔵、石部金吉という言葉がぴったりはまるような人間でした。

 そんな男でしたから女遊びどころか、女そのものに興味がないようで、女と会う時間があるなら、本の一冊でも読んでいる、といったふうでした。

 彼の両親も昔は焦っていて、色々と見合いも勧めていたそうなのですが、時が経つうちに諦めてしまったようなのです。

 そういったAの性格は私もよく知っていましたので、Aが結婚したと聞いたときには私も驚きました。お相手の女性とは、Aがそのときに勤めていた会社の上司の紹介で知り合ったのだそうです。

 結婚したところでAの性格が変わるわけでもなく、大っぴらに惚気けるようなこともなかったのですが、それでも時折ぽつりぽつりと、彼なりに惚気らしいことを言うことはありました。

 Aの細君――Bさんは大和撫子という言葉がぴったりの方で、私も初めて会ったときに、なるほどAに似合いの方だと納得したものです。

 ただ、このBさんは身体の弱い人で、季節の変わり目には体調を崩して寝込んでしまう。AはそんなBさんを気遣って、Bさんが寝込んだら医者を呼んだり粥を煮たりと、何くれとなく看病する。そればかりでなく、普段から滋養のある食物をあれこれと買い求めたり、どこそこの湯がいいと聞けばそこへ湯治に連れて行ったりとしていたのです。

 正直に言って、私も他の友人らも、Aがそこまで細君に気を遣えると思っていなかったので、あの男にもやはり温かい血が流れていたのだなあ、などと言い合ったものでした。

 Aがそうして気にかけていたのが良かったのか、Bさんも少しずつ身体が丈夫になり、三年、四年と経つころには、寝込むこともだいぶ減ったのだそうです。

 ある日、これも今日のような初冬のころだったそうですが、Bさんが久しぶりに酷い風邪を引いてしまったのだそうです。加えて間の悪いことに、Aはそのころ会社から二日間の出張を命じられており、これがどうしても誰かに代わってもらうことも、日付をずらすこともできなかったので、医者と隣家の奥さんにBさんを頼み、出張に出かけたのです。

 Aが家に帰るのは、二日後の夕方の予定だったのですが、途中で事故があって乗っていた汽車が遅れ、Aが最寄りの駅に着いたときには、すっかり暗くなっていました。

 Aの家は、駅から十分ほどのところにありましたので、Aは急いで家に帰ろうと駅舎を出たところ、そこにはBさんが人待ち顔で立っていたと言うのです。

 BさんはAを見つけてにっこり笑ったのですが、Aは当然、ひどく驚いたのだそうです。

 何せ、そこに立っていたBさんは、寝間着姿のうえ、足には足袋すら履いていない裸足だったのです。

「お前、どうしてここにいるんだ」

 Aがそう訊ねると、Bさんは、

「旦那さんのお帰りが遅いので、様子を見に参りました」

 と言います。

 Aはこのとき、Bさんに事情を問い質すよりもまず、Bさんを安全に家につれて帰ろうと思ったと言いました。もしかしたらBさんは、発熱のあまりにおかしくなったのかもしれず、それならば今ここであれこれと訊ねるよりも、すぐに家に連れ帰って医者を呼んだほうがいいと考えたのだそうです。

 それに夜の冷たい空気が、Bさんに良くないことは火を見るよりも明らかであり、とにかく寝間着姿のBさんに着せかけようと、Aは着ていたコートを脱いだのです。そしてコートを脱いでふと顔を上げると、Bさんの姿はどこにもなかったのだそうです。

 Aははじめ呆気にとられ、それから、これはもしやBさんの身に何かあったのではないか、と、大急ぎで家に帰りました。

 これが小説や芝居ですと、Bさんは布団の中で冷たくなっていた……ということになるのでしょうが、そんなことはなく、Bさんは布団の中で健やかに寝息を立てていました。

 隣の奥さんによると、Bさんの熱はAが出張に出た日にはずいぶん高かったそうですが、この日の昼頃には下がったということです。

 後で目を覚ましたBさんに聞いてみると、Bさんは駅でAを待っている夢を見ていたと答え、不思議なこともあるものだと、二人で首をかしげたそうです。

 Aはこのことがあってから、それまでよりもBさんを大切にするようになりました。

「夢で俺を迎えに来るほど、心配をかけさせたくはない」とよく言っていたものです。

 Aが引っ越してからは、めったに会うこともなくなりましたが、今でも夫婦二人とも元気で、子供や孫に囲まれて、仲良く暮らしているそうです。

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ある記者の雑記帳より 文月 郁 @Iku_Humi

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