第14話 観測されたくて、手を伸ばした

朝、教室に入ると猫がいた。

毛の長い、茶色の猫。

教壇の下、陽だまりの中でふわりと丸くなっている。

誰も驚かず、むしろ当然のように「おはよう、クロ」なんて声をかけていた。

……クロ?

私は立ち止まった。

どこからどう見ても、茶色い。

よく知っている、長い毛並み。

名前のクロとはぜんぜん違う色。

クロならむしろ、前の――。

「その子、クロっていうの……?」

すぐ近くの子に聞いてみると、

「うん、ずっと前からクラスにいるよ? 変なこと言うね、葵」

あっけらかんとそう返された。

でも、私だけは知っている。

この猫は一度いなくなって、そして『戻ってきた』。

しかも名前が変わって。

「……まる、戻ってきたの?」

誰にも届かないように、小さくつぶやいた。


昼休み、屋上で蒼介に訊いた。

「猫のことだけど、あれって……何?」

蒼介は少し考えるようにしてから言った。

「再構成の兆候、だと思います」

「再構成?」

「この世界そのものが、何らかの選択を経て『上書き』された可能性があるということです。猫の名前が変わったのは、観測のズレではなく――世界が、構造的に変化している証拠かもしれません」

「でも、そもそも……この猫は?」

「変化の『鍵』になる存在。もしくは、あなたが見失わなかったもの、かもしれませんね」

私は猫の背をそっと撫でた。

ふわふわしていて、ちゃんとあたたかくて、ちゃんと知ってる匂いだった。


放課後、教室の窓辺でぼーっとしていた。

黒板の上に貼られた掲示物は、昨日とほんの少しだけ違う位置にあった。

慎ちゃんはまた少し『元の彼』に戻っていた気がしたし、心優は『ふつうの優しい子』に戻っていたようにも見えた。

でも、それもきっと私がそう見たいだけなのかもしれない。

蒼介は窓辺に立っていて、私が近づいても何も言わなかった。

私はそっと言った。

「この世界って、たぶん完璧に戻ったわけじゃないよね」

蒼介は少しだけ笑った。

「はい。ですが、元に戻る必要はあるんでしょうか」

「……ない。むしろ、あのへんてこな日々がなかったら、私、蒼介のこと……こんなふうに思ってなかったかも」

「それは、喜んでもいいことなんでしょうか」

「わかんないけど」

私はすこし歩いて、蒼介の隣に立った。

壁にもたれて空を見ていた彼の肩が、ほんの少しだけ近くに感じられた。

「ねえ、蒼介」

「はい」

「もし、この世界がまたぐちゃぐちゃになって、私が私じゃなくなったら……それでも、一緒にいてくれる?」

「『私が私でなくなる』とは、つまり、記憶と感情と身体が同一でない状態を指しているんでしょうか?」

「……ちょいウザい。今はそういうのじゃなくて」

「すみません」

蒼介が、ふっと小さく笑った。

「……でも答えるなら、『はい』ですよ。あなたが何者であろうと、僕がここにいる限り、その『あなた』と共に在りたいと思います」

私の胸の奥が、じんわりと暖かくなった気がした。

そのあと、沈黙が落ちた。

でもそれは気まずいものじゃなくて、なんだかとても、あたたかかった。

私はそっと手を差し出した。

蒼介は迷うように一瞬だけ視線を落としてから、静かにその手を取った。

体温があった。

ほんとうに、ここにいた。

「ねえ、蒼介」

「はい」

「私、たぶん……何かを確かめたくて、ずっと探してたのかも」

「何をですか」

「全部に意味なんてないならさ。せめて、『綺麗なもの』をひとつでも多く見ていたいんだよね」

「……綺麗なもの」

「うん。意味とか論理とかじゃなくて。この世界に、ちゃんと『ありがとう』って言える何かが、ひとつでもあればいいって思うの。……そう思えたのは、蒼介といたからだよ」

「それが、あなたをこの世界に繋ぎとめているものなんですね」

「……こうして手を繋いでるってことはさ」

私はコホン、と小さく咳払いをして、ちょっと得意げに言った。

「相互接続の感覚が、観測の連続性を、なんかこう……確定させるってやつ?」

蒼介は一瞬きょとんとしたあと、静かに首を横に振った。

「……語順と用語の選び方が、だいぶ自由ですね」

「うざっ!」

私は笑いながら、繋いだ手にぐっと力を込めた。

蒼介も、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。


教室の隅。

窓際の陽だまりに、猫が丸くなって眠っていた。

毛の長い、茶色の猫。

「やっぱり、いたんだ」

そう呟いた私に、蒼介がふっと笑う。

でもその顔は、どこか切なさを滲ませていた。

それでも、私は笑えた。

たとえこの世界が、昨日と少し違っていても。

いま、この手を繋いでいるのが『本当に蒼介』か分からなくても。


それでも、私はこの世界を選んだ。

この人と、ここで。



おわり


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観測されたくて、手を伸ばした 白澤 玲 @sirasawarei

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