第13話 世界に、触れてしまった

昼休み、私と蒼介は屋上にいた。

柵の向こうに広がる空は今日もどこか灰色で、遠近感が曖昧だった。

「……心優と慎太郎、入れ替わったみたいだったんだ」

私がそう言っても、蒼介は黙ったまま雲の動きを見ていた。

「心優は急に冷たくて、仕切るタイプになってて。慎ちゃんは、逆にぼんやりしてて、言葉がやわらかくて……なんか、違うの」

「それは、ふたりが変わったんですか?それとも――あなたの見え方が変わったんでしょうか」

その言葉に、私は黙るしかなかった。

「観測される側が変わるのか、観測する側が変わるのか。それは、同じ問いに見えて、まったく別の問題なんです」

蒼介は指先で、風に流れる前髪をそっと横に流した。

私はその横顔を見ながら、ふと考えた。

「もしかして私、自分の都合で心優のこと『やわらかい子』って思ってただけかも。慎ちゃんも、『いつも強くて頼れる男子』って、勝手にそう見てた」

「そうですね。人は、自分の信じたいように世界を改変して見ることができる生き物です」

「つまり……私が見てたのって、私が欲しかった人たちってこと?」

「相手という存在は、あなたが選んだ解釈の中にしか存在していません」

蒼介は淡々とそう言った。

でも、その言葉の奥に、かすかな痛みのようなものを感じた。

それは、彼が自分自身のことを言っているような、そんな気さえするほどに。


放課後、下駄箱の前で、私はガラスに映った自分と目が合った。

知らない顔だった。

まつげの長さも、目の奥の光も、昨日までと違う。

――でも、私は私だ。

ふと気づくと、蒼介が隣にいた。

「……どこまでが世界で、どこからが私なんだろうね」

ぽつりと呟いた言葉に、蒼介は一瞬口を開きかけて――閉じた。

その顔に、ごくわずかだけど、迷いが見えた。

(あ、いま、この人――)

いつもは絶対に崩れないその表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。

それが、どうしようもなく胸に残った。

「……でも、私、もう見ちゃったから。このへんてこな世界に触れちゃったから。いまさら目を逸らせないよ」

蒼介は、私の言葉に応えるように少しだけ歩みを進めた。

「それでも、恐れることはないですよ。きっとあなたは、あなたのままで在れる」

「でも、その『あなた』って何?昨日の私と、いまの私は、本当に同じなの?」

「――記憶が連続しているから、そう感じるだけかもしれませんね。もしかすると今朝目覚めたあなたは、別の世界からやってきた『新しい存在』かもしれない」

「それじゃ昨日までの私は、どこに行ったの?」

「波動として重ね合わされたまま、ここにいるかもしれません」

「……え?」

「量子力学的に言えば、状態は『存在していた』のではなく、観測された瞬間に初めて『定まった』とも考えられます」

「じゃあ『私』って、観測されることで決まるの?」

「そういう見方もあります。でも、それが『誰に観測されるか』で、また話は変わってきます」

「じゃあ……蒼介は、私をどう見てるの?」

「葵さんは、あなたが思っているよりもずっと……あなたです」

「……なんかそれ、前も言ったよね」

「ええ。――でも、今日は少しだけ難しい言い方でお伝えしましょうか」

蒼介は、少し声色を変えた。

そして、ちょっとだけ芝居がかった口調で言った。

「存在論的自我は、主観的連続性の枠組みにおいて、本質的自己と等価であるがゆえに、その非観測性をもって自己性の証左とするのであります」

「……え?」

ぽかんと口を開けた私を見て、蒼介はしばらく無言だった。

「あなたまで、変わっちゃったの……?」

そう言った自分の声が、少し震えていたことに気がついた。

本気で不安だったのか、ただの呆れだったのか、自分でもわからなかった。

蒼介は、ふっと息を吐いた。

「……冗談ですよ」

それから、ほんの一瞬だけ――本当に一瞬だけ、顔を綻ばせた。

その笑みを見た瞬間、私は思った。

この人は、ちゃんと人間なんだ。

ちゃんと、ここにいる『蒼介』なんだ。


世界のかたちは変わり続ける。

でも、この笑顔だけは、たしかにここにあった。


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