扉の向こうは自由への道、そこから繋がる物語を君が紡いでくれた。

春野 セイ



 あいつが――。

 ボクの物語はここで終わったけど、と言ったが、俺がその続きを聞きたいと言ったら、あいつは、はにかんだ笑みを浮かべて頷いた。


 あいつは……。

 いや、池本いけもとはテーブルをずっと見つめていて顔を上げようとしなかった。

 俺もまだ、まっすぐに池本の目を見つめる勇気はなかった。




 数日前、ショッピングモールを歩いていたら、目の前を歩いているあいつを見つけた。

 俺は走ってその肩をつかんだ。

 あいつはびっくりして振り返り、すぐに俺だと気づいた。

 池本は逃げなかった。

 そして、懐かしい面影のある顔でくしゃっと笑った。

 笑った瞬間から、物語は繋がっていたんだと俺は思った。

 その日は俺が急いでいたため、あいつと強引に連絡先を交換して、メッセージのやり取りをしたいと言って別れた。

 俺はどうしても話がしたかった。


 なんとかして会いたいと交渉して、あいつと出会ったショッピングモールにある喫茶店に誘った。

 会える日まで、俺はあいつにスマホで連絡をしまくった。

 あいつは文章を書くのが得意だったので、丁寧にいろいろ教えてくれた。

 でも、それだけじゃ足りなかった。

 俺が知りたいのは、続きだった。



 池本が転校した翌日から、すべては変わってしまったような気がしていた。



 中学一年のあの頃――。

 俺が、図書室で謝った翌日からあいつは学校を休んだ。

 学校へ行くと、決まってあいつの机の上に誰かが花を生けた花瓶を置いていた。

 その日、俺はそれが気に入らなくて花瓶を窓際に置いた。すると、置いた奴も気に入らなかったらしい。すぐに俺に突っかかってきた。


「勝手なことすんな」

「何が楽しいんだ?」

「やっぱりお前はホモか?」


 そいつの言葉にカチンときたが、相手をするのは無駄だと思ってやめた。ちょうどチャイムが鳴ってホームルームのために担任が入ってきた。

 俺たちは席に着くと、担任の女教師は黒い背表紙の出席簿をトンと机に当てて音を出してから、ページを開いてすぐに俺たちの名前を呼ぶのかと思ったが、別のことを言った。


池本いけもとりょうくんが転校しました。みんなによろしくだそうです。先生も今朝知ったので、転校先などは知りません」


 女教師はそれだけ言うと、出席を取りますとすました顔になり、強引にいつもの日常に戻そうとしているように俺は見えた。


 俺のその時の心境?

 心が冷えたよ。

 とっさのことで、息ができずにあえいだ。

 だって、いきなり転校するなんて思いもしなかったからな。

 けど、その一方で、池本はいつ学校へ来るんだろう。来たらまたいじめられている姿を見なきゃいけないのか。

 などと、いろんな思いを抱えていた。


 それからどうなったか?

 簡単だ。

 池本の机に花瓶を置いた奴は、別の奴の机に花瓶を置こうと企んでいたようだ。


 次のターゲットは俺だった。

 一学期の途中で池本はいなくなり、それから俺はクラスメートから静かに無視されるようになった。


 大丈夫だよ。

 池本が悪いわけじゃない。

 でも、俺は運がよかった。それからすぐ、二学期が始まる前に親の仕事の都合で俺は別の中学へ転校したんだ。


 母さんから転校してもいい? と聞かれたが、平気そうな顔を作らなくても「いいよ」と心から言えたよ。母さんを心配させたくなかったしね。


 俺はそれから新しい中学校に行く事になった。

 困ったのは英語だ。

 池本は大丈夫だったか? 俺は参ったよ。

 俺の新しい中学は英語が筆記体だったんだ。前の中学はブロック体だったから、板書できなくて泣きそうだったね。


 俺が笑うと、池本は目じりの涙を拭いて笑った。


「なあ、次は池本が話してよ」


 俺が言うと、池本は首を振ってもう少し俺の話が聞きたいと言った。


「ああ、そうだな。池本がいなくなってから、ずっと池本の事ばかり考えていた。クラスメートに無視された時、こんな気持ちだったのか、とか」


 俺は肝心のことを言わず、はぐらかしてばかりいたかもしれない。

 池本はテーブルに置かれている水を一口飲んだ。

 コーヒーが運ばれてきたが、二人とも手を出さなかった。


 すると、ようやく池本が口を開いた。


「……転校した中学校で、最初、ボクは殻に閉じこもっていたと思う。人と会話をするのが怖かった。人と目を合わすのもできなかった。傷つけられるくらいなら最初から傷つかないように、友だちなんていらないと思っていた。けど、新しい中学の子たちはみんな優しくて、一緒に帰ろうと誘ってくれたり、勉強を教わったり、漫画やアニメの話で盛り上がると気づいたらクラスの子たちと仲良くなっていた」

「そうか、よかったな」

「うん……。それから、ボクが本を読むのが趣味だと知った子が、一緒に小説を書いて投稿しようって声をかけてくれて、二人で小説を書き始めたんだ。文化祭ではボクは戯曲を書かせてもらって、ロミオとジュリエットのお芝居を書いたりもした。お母さんはボクにいつも学校はどう? と聞いてくれた。友達ができたことや小説の話をするとお母さんは安心したようだった。それから今は進学して大学に行ってる」

「俺も進学したよ」


 何とか留年せずに大学へ進学できた。俺たちは20歳で池本も同じのはずだ。

 お互いの話をしてしまうと、たちまち静かな空気が流れ始めた。


 俺は池本の肩をつかんで、どうしたかったのだろう。

 こうして転校した後、友達ができてうまくいったよ、という話がしたかったのだろうか。


「あの……」

「え?」

「あの、もういいかな……」


 池本がそう言った瞬間、俺の体を電気が走ったように背筋が冷たくなった。

 池本が帰りたそうにしている。

 俺は呼び止めようとして声を出そうとしたが、できなかった。


 声をかけたのはまずかっただろうか。

 池本が顔を上げて俺を見た。


「あの……。ごめんなさい……」

「な、なんで池本が謝……るんだ?」

「だって……、ボクが君のイスに座らなければ、あんな事は起きなかった。君がクラスメートにいじめられる事もなかったのに……。ボクが、ボクのせいで……」


 池本の肩が震えている。

 せっかく新しい中学へ行って楽しい毎日を踏み出したのに、なぜか目の前の彼は泣いていた。俺は一度だって泣いたことはない。


 池本を忘れた日は一度もなかった。


「図書室で謝ろうと思ったのは、もうこれ以上、池本がいじめられるのを見るのが嫌だったからだ」

「……うん」


 辛いだろか。こんな話はしたくないのだろうか。

 俺が黙っていると、池本がテーブル脇の伝票を手に持った。

 待って、まだ行かないでくれ。心では叫んでいるのに、声が出なかった。


 池本は俺に会いたくなかったのかもしれない。

 手が震えていたのだろうか。

 気が付けば、池本が俺の名を呼んでいた。


戸田とだくん? ど、どうしたの? 大丈夫?」

「あ、ああ……」


 俺は青ざめていたのかもしれない。

 まだ、俺は何も言っていない。

 肝心な話は何もしていない。


「池本……。俺……」


 俺は下唇を噛んでから言った。


「俺は会いたかったんだ。池本に会って話がしたかった……」

「うん……」

「会って、もう一度謝りたかった」


 池本は席を立たずに俺の話を聞いていた。


「ごめん。言いわけはしない。ごめん……」

「ボクは気にしていないよ。あの時、君は謝ってくれたし」


 伝票をつかんだままの池本は動かなかった。

 コーヒーが冷めてそのままになっていた。


「あのさ……。また、俺と会ってくれないか?」

「え?」

「嫌だよな……」


 声が震えていた。会えるわけないと思っていたけど、同じ町にいたらいつか会えるかもしれないと探していた。


「池本は俺と会いたくなかったかもしれないけど……」

「そんなことないよ」


 きっぱりとした声がして、俺が顔を上げた。

 池本の目は潤んでいた。


「今度は映画でも行こうか、友だちとして」


 毅然としている態度を見て、池本は俺がいなくてもへっちゃらなくらい成長したんだなと思った。

 自分もしゃきっとしなきゃ。

 背中を押してもらえた気がして、急に体の力が抜けた。


「そうだな。映画好きなのか?」

「うん。好きだよ」


 池本が笑っている。

 泣き顔しか覚えていなかったが、目の前の池本が笑っているのを見て忘れないでよかったと思った。


 まだ俺たちには時間が残っている。

 あの頃、時間はなかなか進まなかった。

 早く終わればいいと思っていた時間が、今はあっという間に過ぎていく。


「さっきも言ったけど、ボク、小説を書いているんだ」

「ああ」

「いつか、読んでくれるかな」

「俺が読んでいいんだったら」

「君が出てくる話でもいいかな」


 すぐには返事ができなかった。

 少し息をついて俺は考えて頷いた。


「ああ。いいよ、ていうかもう登場してるんだろ?」


 笑いかけたら、池本が一瞬、目を丸くさせてはにかんだ笑みを浮かべた。


「うん。もう書き終えているんだ。けれど、その続きはこれから書くことにするよ」


 それがどんな物語なのか俺は知らない。

 けれど、その続きはきっと、一番に読めるのじゃないだろうかと思うのは、俺の勝手な要望なのかもしれない。


 俺たちはそれからコーヒーをゆっくり飲んだ。

 冷たくなっていたが、たぶん帰りたくなくてそうしていたのかもしれない。




 物語の続きを君が聞いてくれている。

 こんな幸せな瞬間があるだろうか。

 友達になりたいと願った君が目の前に座って笑っているなんて。


 ボクは君を好きになってよかったと思った。

 ボクの方こそ、忘れた日は一日だってないよ。


 諦めないでよかったと生き続けようとしている自分をボクは褒めてあげたいと思った。

 どんな話でも物語には必ず続きがあって、その扉を開いた誰かが紡いでくれる。

 ボクはこれから先もそう信じている。



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扉の向こうは自由への道、そこから繋がる物語を君が紡いでくれた。 春野 セイ @harunosei

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