道ゆくもの

南雲

道ゆくもの


「嗚呼、一体どうしたというのだ!」

ヨハネスは頭を掻きむしり、白いフケを辺りに撒き散らした。

書斎机には、世界中から集めた哲学の書物や、小さな文字で埋まったメモ用紙が、折り重なっていた。

「また夜が明けてしまった」

皺の刻まれた顔が、卓上ランプに照らされ、机の上に影を落とした。

重厚なカーテンが閉ざされた部屋の景色に変化はなかったが、鳥たちの囀りがしきりに朝の訪れを知らせてきていた。

ヨハネスは落ち窪んだ目を擦り、開いていた本をゆっくりと閉じた。

老眼鏡を外すと、部屋を取り囲む本棚を仰ぎ見た。天井まで伸びる本棚には、自分で書いた本が中央に飾られていた。

初めて書いた『哲学の変革』は、ベストセラーを叩きだし、新たな思想として注目を受けた。

それが今では、古の思想として忘却されつつある。

人生の去り際に、もう一花咲かせ、心置きなく散っていきたいのだが。

「こんな様子では、先に命が尽きてしまうな」

 自嘲するように息を漏らし、凝り固まった首を回すと、鈍い音が響いた。

「固まった頭を動かすためにも、少し動いた方が良さそうだ」

ヨハネスはそう言うと、重い体を椅子から持ち上げ、早朝の街へと繰り出した。


 早朝の街は静まり返り、薄い霧がかかっていた。

空を見上げると白い月が朧のように浮かび、反対側では太陽が今にも顔を出しそうだった。

家の横に広がる自然公園は霜に覆われていて、草むらを歩くと小さく音を鳴らした。

ヨハネスは春の匂いが混じる空気を肺に取り込み、平野へと続く並木道に視線を向けた。ここから平野までは歩いて二十分もかからない。運動がてら日の出を拝みに行くのも悪くないだろう。

ヨハネスは薄暗い並木道に足を踏み入れた。

アスファルトは黒く湿っていて、いつもとは違う静けさに包まれていた。

「人の気配が全くない、というのも落ち着かないものだ」

頭上では鳥が忙しなく飛びまわり、鬱蒼とした草むらが時折揺れるのを感じた。


「うわ!」

グシャッと足元で何かが潰れる音が響いた。

慌てて目を向けると、カタツムリが潰れていた。

「こんな道の真ん中にいるなんて!」

ヨハネスは足裏に残る嫌な感触に顔を歪めつつ、帽子を胸に掲げ、頭を垂れた。

「もしや……」

薄暗い道の上に目を凝らしてみる。

木の葉だと思っていたシルエットがはっきりと浮かび上がった瞬間、ヨハネスは思わずギョッと身を仰け反らせた。

湿ったアスファルトの上には、カタツムリやナメクジが、至る所に散乱していたのだ。

同じ過ちをしないように、目を忙しなく動かしながら歩き出す。

大小様々な大きさのカタツムリの中には、地面に張り付くようにひしゃげているものもあった。

「まさか、死んでいるのではないか」

ヨハネスは一際大きなナメクジの前にかがみ、ゆっくり眺めてみる。

丸々と太ったナメクジは、後ろにシャボンの膜をひきながら、その場で身じろぎをするように動いていた。

「何と鈍いのだ!早く動かないと……」

ヨハネスは言葉を途切れさせ、重く息を吐いた。

何を諭そうとしているのか。彼らは、自らの道を淡々と進んでいるだけなのだ。

「無事に渡れることを祈っているよ」

ヨハネスは出せる限りの速さで、朝日に向かって歩きだした。


 並木道を抜けると、新緑に萌える平野が眼前に広がった。

薄緑色の草原は風に吹かれ、朝露は太陽に照らされ、ミラーボールのように瞬いていた。キジバトの鳴き声が優しく響き、湿った土の匂いが鼻先をくすぐる。

 あまりの美しさにヨハネスは感動し、――絶望に心をうち震わせた。

どれだけ時間をかけ、どれだけ文献を読もうと、この美しさには敵わない。

偉大な太陽からしてみれば、ヨハネスは、カタツムリやナメクジと、何の違いもないのだ。

「なんと哀れな生き物なのか」

ヨハネスは肩を落とし、頭を力なく振った。


「嗚呼!何ということだ!」

 目の前に広がる光景に、目を大きく見開く。

ヨハネスが朝日を拝んでいた、そのほんの僅かな間に、黒く湿っていたアスファルトはすっかり乾き、カタツムリやナメクジは、忽然と姿を消してしまっていたのだ。

残された銀色の跡を、呆然と眺める。

「道の中央で転がっていたものも、間に合ったのか……」

ヨハネスは誰かに呼ばれたかのように、ハッと振り返り、太陽を仰ぎ見た。

歩みが遅くとも、太陽が昇るよりも早く、彼らは渡りきった。

「偉大なお前も、彼らを照らすことはできない……!」

嗄れた声が、風とともに並木道を駆け抜けていく。

ヨハネスは深く静かなため息を漏らすと、曲がった背骨をわずかに伸ばし、朝日が照る並木道をゆっくりと歩きだした。

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