あかつきに翔ける

月井 忠

一話完結

 1950年5月21日、金星の風を見た。

 叔父が遺した観測日誌にはそう書かれていた。


 彼との不思議なつながりを感じたのは、これが初めてだった。


 父の弟である叔父は生涯独身で、亡くなった後、遺品は父が引き取っていた。

 元来、家族付き合いが苦手な人で、幼い頃に一度顔を合わせた後は、彼の葬儀での対面が最後となった。


 叔父の死は突然で、私が成人してすぐのことだった。

 だから話にしか聞かない叔父のことは、こうして資料に触れるまですっかり忘れていた。


 日誌に書かれた1950年といえば戦後復興の時期で朝鮮戦争が勃発した年でもある。

 そんな時代にあって、どうして金星を見通すことができたのか。


 自らの終活に取り掛かろうと、我が家にあった土蔵を整理していたはずが、偶然見つけた叔父の痕跡。

 今更になってと叔父は草葉の陰で笑うかもしれない。


 それでも私は彼の遺した品々をかき集め、一つの場所に積み上げた。


 手始めに段ボールに入っていた丸められた紙を開くと、全体に大きく望遠鏡の設計図が描かれていた。

 許容誤差が細かく記入され、ネジのピッチまで描かれている。


 もしかしたら叔父は戦中、何らかの技師をしていたのかもしれない。


 設計図のそばにあった紙束をめくると、細かな罫線の中に規則正しく部品の仕入れ先が書かれていた。

 ほとんどが英語名の会社や人物である。


 進駐軍とも関係があったのだろう。

 部品はレンズや紫外線フィルターなど、当時では手に入りにくいものばかりだ。


 叔父は戦後、高校教師をしていたと聞いた。

 生活費を削って買い集めた物かもしれない。


 他の観測日誌にも目を通す。

 金星の詳細なスケッチがいくつもあり、英語論文の写しと翻訳もあった。


 論文から下地を形成した後、自作の望遠鏡に映る金星の満ち欠けをスケッチし、紫外線観測による雲の模様の変化から、金星の風を読み取ったのだ。

 その風は、金星の自転速度を遥かに上回る秒速100メートルにも達し、一定方向に全球をぐるりと一周する、止むことのない風だ。


 今ではスーパーローテーションと呼ばれるその風は1960年代に発見されたものだった。

 発見に先立つこと10年、叔父はその存在に気づいていた。


 それからいくつものノートをめくったが、その事実を誰かに伝えたという記録は出てこなかった。

 自らの観測に自信を持っていたはずなのに、論文にすることもなく、更に調べた形跡もない。


 土蔵の床を這うように、ひんやりとした冷たい空気が入り込んできた。

 入口に目をやると、もう日が暮れている。


 今、空を見れば宵の明星、あるいは一番星としての金星が見えるだろう。


 なぜ金星だったのか。


 地球によく似た兄弟星とも呼ばれ、地球に最も近い惑星。

 あるいは、愛と美の女神に魅了されたのか。


 ただ、それは私自身にも言えることだった。


 叔父の日誌に残された日付、1950年5月21日。

 それは私にとって意義深い日、2010年5月21日の60年前の日付と一致している。


 つい先週のその日、私も開発に関わった金星探査機「あかつき」が打ち上げされた。

 今も金星に向かって進む「あかつき」は、いずれスーパーローテーションの謎を解いてくれるだろう。


 叔父は戦後の物不足の中で望遠鏡を作り、私は金星探査機のプロジェクトに携わった。

 共に金星に手を伸ばして。


 私は想像の羽を広げて、激しい風に向ける。

 ぐんぐんと飛び上がる姿は「あかつき」に重なった。


 どこまでも続く暗い宇宙のその先に、叔父の遺した真っ白な羽が舞った気がした。

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