第12章「月夜のセレナーデ」第5部「月夜のセレナーデ」

美月と星野は並んで月見野公園への道を歩いていた。コンサートホールからの明かりが徐々に遠ざかり、代わりに月の光が彼らの道を照らし始めていた。雲は完全に晴れ、満月とは言えないものの、十分な明るさの月光が夜の公園を銀色に染めていた。


「雲が完全に晴れたわね」美月は空を見上げて言った。


「ああ」星野も空を見上げた。「不思議だね。君の演奏中は雲に覆われていたのに、今は…」


二人の間に静かな理解が流れた。それは言葉で説明できるものではなく、二人だけが共有する特別な感覚だった。


公園に足を踏み入れると、そこはまるで異世界のように静かで荘厳な雰囲気に包まれていた。日中の喧騒が嘘のように、深い静寂が支配している。木々の間を抜ける風の音と、遠くで鳴くコオロギの声だけが聞こえる。


「あの日、初めてピアノを弾いた日のことを覚えている?」美月が静かに尋ねた。「あの時も、こんな月明かりだった」


星野は優しく微笑んだ。「覚えているよ。君が満月の下でピアノを弾いたとき、僕はその瞬間、科学では説明できない何かを見た気がした」


彼らは小さな広場に到着した。そこには古いピアノが設置されていた。音楽祭のために置かれた屋外ピアノだ。そして、その隣のベンチに座っている人影があった。


月光老人だった。


彼は二人が近づいてくると立ち上がり、静かに微笑んだ。「来たね、二人とも」


そのとき美月は、月光老人の隣に置かれた二つのオルゴールに気がついた。一つは彼女が演奏で使用したもの、もう一つは彼女が見たことのある、しかし開けたことのない方だった。


「月光老人さん」美月は丁寧に頭を下げた。「演奏会に来てくださったんですね」


「ああ」老人は満足そうに頷いた。「最初から最後まで、素晴らしい演奏だった。特に、月の光が消えた後の部分がね」


彼はベンチに座るよう二人に促し、自分も再び腰を下ろした。静かな月夜の下、三人は月見野の夜景を見下ろす位置に座った。


「私の役目は終わった」月光老人は突然言った。「長い間、月見野の音楽の守護者として務めてきたが、もうその時は過ぎた」


美月と星野は驚いて顔を見合わせた。


「守護者…?」美月が尋ねた。


月光老人はゆっくりと頷き、「私の本当の名前は月見恒彦」と言った。「月見家は代々、この町の音楽の守護者を務めてきた。そして今、その役目は次の世代へと継承される時が来た」


彼は二つのオルゴールに手を伸ばした。「このオルゴール、真理に渡したのは私だ」


「お母さんに?」美月の目が大きく開いた。


「ああ」月光老人…月見恒彦は懐かしそうに微笑んだ。「彼女は素晴らしいピアニストだった。私はこのオルゴールを通して、彼女の才能を守り、育てた。そして彼女もまた、月見野の音楽を守る一人だった」


美月は動揺して言葉を失った。月光老人と母がこのような繋がりを持っていたとは。


「そして」月見は美月を見つめた。「彼女の娘であるあなたも、その才能を受け継いだ。しかしあなたは母以上のものを持っている。真理は月の光に導かれたが、あなたは自分自身の光を見つけた」


星野が静かに尋ねた。「月見さん、あなたはずっと美月さんを見守っていたんですか?」


「ああ」月見はうなずいた。「真理が亡くなってから、その娘が再び音楽を取り戻す日を待っていた。そして、その手助けをしてくれる誰かが現れるのを」


彼は星野に向かって柔らかく微笑んだ。「あなたがそうだった」


月見恒彦は二つのオルゴールを手に取り、美月に差し出した。「これからは君たちの時代だ。月見野の音楽の新しい守護者として、この二つのオルゴールを受け継いでほしい」


美月は震える手でオルゴールを受け取った。「でも、私は東京に行くかもしれません。音楽協会からのオファーで…」


「場所は問題ではない」月見は静かに言った。「音楽は場所に縛られるものではなく、魂に宿るものだ。あなたがどこにいても、月見野の音楽は生き続ける」


彼はポケットから小さな鍵を取り出し、美月に渡した。「これは、もう一つのオルゴールを開ける鍵だ。今まで開かなかったのは、あなたがその準備ができるのを待っていたからだ」


美月は鍵を受け取り、二つ目のオルゴールを開けた。すると、これまで聴いたことのない、しかし不思議と懐かしい旋律が流れ始めた。それは母のオルゴールの曲とは異なるが、どこか共鳴するような響きを持っていた。


「これは…」美月は言葉に詰まった。


「月夜のセレナーデ」月見が答えた。「真理のために特別に作られた曲だ。そして今、それはあなたのもの」


美月の目に涙が浮かんだ。母との繋がりを感じる瞬間だった。しかし同時に、自分自身のアイデンティティがより明確になる感覚も抱いていた。


月見は立ち上がり、「さて、私の役目は終わりだ。これからは二人の時間だ」と言った。


彼が去ろうとしたとき、美月は声をかけた。「月光老人…いえ、月見さん。ありがとうございました」


月見恒彦は振り返り、最後に穏やかに微笑んだ。「真理は天国で喜んでいるだろう。彼女が望んだのはいつも、君の幸せだった。そして、君自身の音楽を見つけることだった」


彼は星野にも一礼し、「彼女をよろしく頼む」と静かに言った。星野は深く頭を下げ、「はい」と力強く応えた。


月見恒彦は小道を歩いていき、月の光の中に消えていった。その後姿が尾を引く長い影は、次第に漫画の一コマのように黒くなり、やがて完全に引き延ばされた月の光線として地面を滑り、木々の間を抜けて消えた。あるいは本当に消えたのか、それとも単に視界から遠ざかっただけなのか、二人には分からなかった。


美月はしばらく、彼が消えた方向を見つめていた。月光老人の存在は彼女の音楽人生において、不可思議で神秘的でありながらも、奢深く支える柱として在り続けた。彼の去りゆく姿は、彼女の過去の一部分が遠ざかっていくようであり、同時に彼女に新しい未来への道を開いているようかにも感じられた。


しばらくの沈黙の後、美月は二つのオルゴールを見つめた。「信じられないわ。母とのつながりが、こんな形で…」


星野は彼女の隣に座り、その肩に優しく手を置いた。「月見さんは、あなたが自分自身の音楽を見つけたと言った。今日の演奏で、それが証明されたんだ」


美月はうなずき、オルゴールから流れる「月夜のセレナーデ」の旋律に耳を傾けた。


「この曲…」彼女は静かに言った。「何だか知っているような気がする。まるで昔から心の中で聴いていたような」


「試してみる?」星野はピアノを指さした。「この屋外ピアノで」


美月は少し驚いたように彼を見つめた後、微笑み、うなずいた。二人は立ち上がり、ピアノの前に移動した。


美月が座り、指を鍵盤に置くと、まるで呼応するかのように星野がピアノの上に立てかけていたギターケースを開けた。


「一緒に弾こう」星野がギターを構えながら言った。「君のピアノと僕のギター。月夜のセレナーデを」


美月は驚いたように彼を見た。「一緒に?でも練習してないわ」


「大丈夫」星野は自信を持って言った。「僕たちは言葉がなくても通じ合える。音楽でも同じだ」


美月はゆっくりとうなずき、オルゴールの旋律を頼りに、ピアノで「月夜のセレナーデ」を奏で始めた。最初は少し迷いがちだったが、すぐに指が旋律を覚え、自然に動き始める。書いたことのない楽譜を弾いているような不思議な感覚。彼女の指はまるで自分の意言を持ち、心の奥から湧き上がる旋律を追いかけているかのようだった。


星野のギターが美月のピアノに応えるように加わった。彼の指が弾く線は、美月の旋律を収集し、分析し、そして必要な音を足していく、科学者としての高度な計算と、音楽家としての直感が一体となった演奏だった。彼のギターは彼女のピアノの音色を補完し、時に上質なハーモニーを彫り出し、時に対照的な音型を描いていく。二つの楽器が絶妙に絶妙に絶妙に絡み合って美しいハーモニーを創り出した。


二人の演奏は満月の夜の光のように柔らかく、そして雪解けの泉のように清らかだった。それは練習したわけでもないのに、まるで長年一緒に演奏してきたかのような完璧な調和だった。それは二人の間に存在する目に見えない絆、言葉を介さずとも互いの心の動きを理解し合える特別な繋がりが、音色となって表れたものだった。


月の光が二人を照らし、その音楽は公園全体に広がっていった。風が止み、夜の生き物たちも静かになり、すべてが彼らの演奏を聴いているかのようだった。美月は演奏しながら時折、星野の業弦を駆ける指を見つめた。彼の派手でそれでいて繋細い指運びに、彼女は心を奥から揺さぶられた。そこには音楽療法士としてのプロフェッショナルな技術と、一人の音楽を愛する男としての情熱が混ざり合っていた。


演奏が終わり、最後の音が夜air에 溶けていくと、美月と星野の間に特別な瞬間が訪れた。言葉を交わさなくても、二人は同じ感情を共有していることを知っていた。


「美月」星野が静かに名前を呼んだ。彼の声には、これまでの「星野先生」としてのプロフェッショナルな響きはなく、一人の男としての柔らかさがあった。「あの夜、手のひらに月の光を集めたときから、僕の中の何かが変わり始めた」


美月は彼の目を見つめた。この瞬間のために長い道のりがあったように感じた。「私も」彼女は心を開いて言った。「あなたに出会わなければ、ピアノに戻ることも、自分自身を見つけることもできなかった」


「東京のオファー」星野が続けた。「受けるべきだと思う。君の才能はより大きな舞台で輝くべきだ」


「でも、それはあなたと離れることになる…」


星野は彼女の手を取り、「いや、そうじゃない」と言った。「先ほども言ったけど、僕にも東京大学からの誘いがある。もし君が望むなら、僕たちは一緒に新しい道を歩むことができる」


月の光が彼らの姿を銀色に染める中、美月の目には喜びの涙が浮かんだ。「本当?」


「ああ」星野は微笑んだ。「これからも一緒に音楽の旅を続けていきたい。音楽療法士としてじゃない、一人の音楽家として、そして…」


彼は一瞬言葉を探し、それから確信を持って言った。「あなたのパートナーとして」


美月は感情に満たされ、言葉が見つからなかった。代わりに、彼女は星野の手をしっかりと握り、自分の気持ちを伝えた。


「誠」


彼女は初めて敬称なしで彼の名前を呼んだ。たった一文字の違いだが、その響きには新たな親密さと信頼が満ちていた。美月自身、その呼び方に心臓が高鳴るのを感じた。彼の名を口にした瞬間、これまでの「星野先生」「星野さん」「誠さん」という呼称が持っていた距離感が消え去り、純粋に一人の人間として彼を呼ぶ喜びがあった。


「一緒に歩きましょう。音楽の道を、人生の道を」


星野は彼女の手を引き寄せ、もう一方の手で彼女の頬に触れた。彼らは月の光の下でキスを交わし、その瞬間、世界は二人だけのものになった。


キスの後、彼らはしばらく抱き合ったまま立っていた。風が再び吹き始め、木々の葉が優しい音を立てる。


「ねえ、見て」星野が月を指さした。


美月が見上げると、月は今や完全に雲から解放され、夜空に堂々と輝いていた。しかし彼女は、もはや月の光を必要としないことを知っていた。彼女の中には、自分自身の光があった。


「手のひらを広げて」星野が静かに言った。


美月は言われた通りに手のひらを広げた。星野も同じように手を広げ、二人の手のひらを合わせた。


「今、君の手のひらには何が見える?」星野が尋ねた。


美月は彼らの繋がった手を見つめ、微笑んだ。二つの手のひらが作る小さな空間に、月の光が柔らかく注がれていた。しかしそれは単なる反射ではなく、まるで二人の間から生まれる光のようだった。


「月の光…」彼女は息をのむように言った。「いいえ、それは外からの光じゃない。私たちの中にある光。二人の光が出会って、一つになるのね」


「そう」星野は優しく応えた。「これからは二人の光で、道を照らしていこう」


二人は再び手を握り、月見野の夜景を見下ろした。かつては不安と制限の象徴だった月が、今は新たな始まりの証となっていた。


「もう一度、弾きましょうか」美月はピアノに視線を戻した。「私たちの『月夜のセレナーデ』を」


星野は微笑み、ギターを手に取った。「いいね。でも今度は、オルゴールなしで。僕たちだけの音楽を」


彼らの演奏が再び夜air에 広がり始めた。二人の魂が音楽を通して語り合う、完璧な瞬間だった。


遠くから、月光老人…いや、月見恒彦が二人の姿を見守っていた。彼は満足げに微笑み、静かにつぶやいた。「継承は完了した。新しい守護者たちの時代の始まりだ。彼らはもう月を追いかける必要がない…月そのものを内に宿したのだから」


彼の姿は月の光の中に溶け込むように消え、美月と星野の音楽だけが夜に響き渡った。


月見野に新たな物語が始まろうとしていた。それは月の光に導かれるものではなく、二人の内なる光によって照らされる物語。手のひらに月を宿した美月の笑顔と、彼女を見つめる星野の穏やかな瞳が、この夜の完璧な締めくくりだった。


(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月夜のセレナーデ #100%AI生成作品 @moMAMom

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ