束の間の再会、そして別離

死神が、くたびれたスーツのポケットから何かを取り出した。それは、何の変哲もない、灰色がかった小石のように見えた。死神はその小石を指で弾くと、それは音もなく宙を舞い、ユキの目の前の空間で静止した。



すると、不思議なことが起こった。小石を中心に、濃い霧が渦を巻くように晴れていく。そして、霧が晴れた空間に、見慣れた光景が浮かび上がったのだ。それは、ユキの家のリビングだった。ソファには、お父さんとお母さんが座っている。


「お父さん! お母さん!」



ユキは駆け寄ろうとしたが、見えない壁があるかのように、それ以上近づくことはできなかった。しかし、二人はユキに気づき、優しい笑顔を向けた。



『ユキ……!』



お母さんが、涙を浮かべながら手を伸ばす。その手は、ユキに触れることはない。



『よく頑張ったね、ユキ。もう、痛くないかい? 苦しくないかい?』



お父さんが、穏やかな声で尋ねる。その声は、いつもユキを安心させてくれた、温かい声だった。



「うん……もう、痛くないよ。苦しくない」



ユキは、涙を流しながらも、笑顔で答えた。ずっと言いたかった言葉が、次々にあふれてくる。



「お父さん、お母さん、ありがとう。たくさん、たくさん、ありがとう。私のこと、大好きでいてくれて、ありがとう」



『当たり前じゃないか。ユキは、私たちの宝物だよ』



お母さんが言う。



『ずっと、ずっと、愛しているよ』



お父さんが言う。



二人の言葉は、温かい光のようにユキの心を包み込んだ。


「私も、お父さんとお母さんのこと、だーいすき! 生まれ変わっても、また二人の子供になりたい!」



ユキは、精一杯の気持ちを伝えた。もう、思い残すことはない。



「だから、もう行くね。心配しないで。私は大丈夫だから」



『ユキ……』



二人は、悲しそうな顔をしたが、それでも優しく微笑んで頷いた。



『元気でね、ユキ』



『さようなら、私たちの可愛い娘』


リビングの光景が、ゆっくりと薄れていく。まるで、水彩画が水に溶けていくように。やがて、元の灰色の霧だけが残った。ユキは、涙で濡れた頬をそのままに、穏やかな、満たされた表情をしていた。



「……死神さん、ありがとう」



ユキは、傍らで黙って成り行きを見ていた死神に、深々と頭を下げた。



「これで、行けます」



「そうか。それは結構」



死神は、相変わらず感情の読めない声で答えた。


いつの間にか、ユキの目の前には、鉛色の水面が広がっていた。幅の広い、流れの緩やかな川だ。対岸は濃い霧に覆われて、何も見えない。岸辺には、古びた木造の小舟が一艘、静かに舫われている。船頭らしき、灰色のフードを目深にかぶった影のような姿が、舟の上で待っていた。



「さあ、乗りなさい」



死神が促す。ユキは、小さく頷くと、迷うことなく小舟に歩み寄った。そして、ひらりと軽やかに乗り込む。舟は、ぎしり、と乾いた不快な音を立てた。



船頭が、音もなく長い竿を岸から離す。小舟は、滑るようにゆっくりと川面を進み始めた。ユキは、岸に残る死神に向かって、もう一度小さく手を振った。そして、すぐに前を向き、霧深い対岸を見つめた。その小さな背中は、不思議なほどしっかりとして見えた。



やがて、小舟は濃い霧の中へと吸い込まれ、完全に姿が見えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る