アイルの瞳ーフェアリーフェスティバルへの招待状-

稲子 東(トウゴ ハル)

アイルの瞳ーフェアリーフェスティバルへの招待状-

 新月の夜。水面が鏡のように天空の星々を映し出した。私の目線の先、水平線の向こうにキラキラと光る小さな群れが湧き出した。その群光は蚊柱のように上空へ一度盛り上がると、大きく真っ白な光球となって音もなく水面に波紋を立てずに動き出した。

「あっ、……」と、私は声にならない息を吐いた。


 もう季節の感覚がなくなって久しい、と私は思っている。今日も大学へ通じる川沿いの歩道をお気に入りの日傘を差して歩いていた。私は、二年間の留学を経て、母校の博士後期課程を単位取得中退したところだ。未だ博士論文を提出できないでいる。世間でいうところのオーバードクターという身分に今春なったところだ。ただし、体よく言えば、指導教授の計らいで大学授業のコマを2つ頂いて、これも世間が言う大学非常勤講師という肩書を手にしていた。私はこれまでに大学紀要に二本、所属学会の査読付き論文一本をすでに公表していたし、2年間のグラスゴウ大学大学院でのディプロマ論文を提出することで、僅かばかりの箔がついたことが非常勤講師職を獲得するという幸運に恵まれた。しかしながら、もっと深読みをすれば、単に指導教授が学校行政に深入りしてしまい、教授自ら講義を持てる余裕を失ったといった方がいいかもしれなかった。とにもかくにも、この新学期から私は講師として「社会思想史」、「専門外国書講読A」の2科目を教えていた。

 いつものように水曜日の午後から出講した。三限と四限が私の受け持ち講義だった。非常勤講師控室に着いたのは昼休みとあって、多くの先生の入れ替わる賑やかな講師室の風景が広がっていた。

「ああ、マナミ(学美)先生。今日は来るのがお早いですね」と、同姓の英語担当の内田千草先生が私に気さくに声をかけてきた。

「千草先生、こんにちは。」

「はい、今日のおやつよ」と言って、ケーキづくりが日課の彼女はラップで包んだ2つのパウンドケーキの欠片を私に手渡した。千草先生は五十代のママさん先生だ。会計士の旦那さんとその事務所の跡継ぎとなる息子さんの3人暮らしの家庭を持つれっきとした他大学の教授先生である。彼女の体格からも朗らかな雰囲気を醸し出されて、この時間に集まる多くの先生方とも和やかに過ごされていた。なので、私も新米ながら千草先生にお声をかけていただいたことで、小さなグループの仲間に入れてもらっていた。

「もう来週が定期試験日ですね。」と、私は大学の日程を彼女に確認した。

「そうか、マナミ先生はちゃんと定期試験日に試験を実施するんだ。」

「あれ? 先生は……。」

「私は授業内試験だから今日で最後よ。必須英語クラスのこじんまりとしたクラスだから日頃から目が行き届くでしょう。だから、学生の成績はすぐに付けられるから。まだ、マナミ先生は新任だから試験システムを知らないだけかな。」

「いえ、把握はしています。なので、専門外書購読の授業はテストなしです。」

「そうそう。話は変わるけど、今日ね、安藤先生と向笠先生と簡単な前期打ち上げをするつもりだけど、マナミ先生もおいでよ。駅前の居酒屋で軽くやるだけだからさあ。」

 もう千草先生は私が来るものというような口ぶりで尋ねてきた。

「はい、先生方のお邪魔にならないようでしたら、参加させてもらっていいですか」と打算的快諾をした。私自身も多くの先生方と親しくなっておいた方が将来的に有益だろうという単純発想からだった。

 昼の二つのコマが終了するといつも五時前である。私たち四名が揃うと、講師室を後にした。まだ夏の太陽が否応なく人間を焦がしていた。私は強く感じるのだ。そうだ、地球は私たち人類にこの地上から失せろと怒っていると。人類の歴史はたかが知れたもの。四十六億年の中の微々たるものだ。人類の誕生と繁栄が地球を痛めつけているのだ。SDGSという言葉が声高に謡われているが、この考えこそが傲慢そのものであると。もし、持続可能な世界で得するのは人類以外にいないだろう。多くの動植物の種族はその間にも絶滅していくのだろう。日傘で顔を隠しながら、先輩先生方の後姿をちらちらと見ながら足を進めていた。

「どうだった、マナミ先生。もう講義にすっかり慣れた?」と、彼女たちの中でも若い風貌の向笠先生が振り返って私に声をかけてきた。私は確かに意表を突かれた。せっかく自分の中で醸成している人間嫌いの空気に浸っていたからだ。私は元気よく返事をしようとしたそのとき歩道の段差につま先を引っ掛けてしまった。私は小さな「あっ」という音を無意識に発した。

「大丈夫かな。」

 向笠先生の右手が私の左手首を掴んで、しっかりとした彼女の力強さが私の体内に伝わってきた。。

「ありがとうございます。先生は力がありますね」と、私は思ったままを口にした。すると向笠先生は、にこりと笑ってから、「私ね、本当はアスリートだったのよ」と言って、さらに表情を柔らかくした。私は至極納得してしまった。なぜなら、彼女の肩幅は広く、胸部には厚みを感じられる。確か彼女の担当科目はスポーツ経営学のはず。

「昔ね、競泳の強化選手だったのよ。今では趣味程度に近所のスイミングスクールでも教えているけどね。だって世の中は広いでしょう。それに体力と体格は天性のものだから、自分で努力してもそれ以上に伸びないでしょう。こんな言い方をすると、研究者の先生方に怒られるかな。アハハ」と、向笠先生は再び私に向かって笑顔をつくった。

「先生の言う天性のものって、持って生まれた才能のことですよね。」

「そうだよ。今は私なんか学力不足、探求心不足かなって、思っているもの。」

 私は英国留学当初にある女性に出会っていた。向笠先生に助けれたことで、その彼女のことを日中から思い出した。いや、正確にはいつも私の中にいて、いつも家では私に語りかけているから、思い出すというレベルではないが。

 各世代の代表が、つまりアラサーの私、アラフォーの向笠先生、アラフィフの安藤先生、そして50代中盤の千草先生、居酒屋の個室テーブルを私たちは囲んだ。当然のことながら、先輩先生方には奥の席を進め、私は入り口に近い末席を選ぼうとして、皆さんを促した。すると、千草先生が、「今日は確かに前期打ち上げだけれども、あなたの歓迎会を兼ねているのよ」と言われて、私が上座に座ることとなった。

「千草先生。この席、居心地が悪いのですけれども……」と、不満を私は漏らした。

「何、言ってるの、遠慮なしだよ。あなたはいつも研究会で老人のお世話をしている口でしょう。今日は女子会なんだから。それに年齢関係なく無礼講でいきましょう。私たちはそれぞれの領域でエキスパーなんだから、個性は強いはずよ。ウフフ。」

 楽しそうに三名の女性は、私を自分たちの仲間として迎い入れてくれたように、私は感じた。今日は素直に楽しんでいいのかなと、私は未だ少々の猜疑心をもちながら。

「さて、あなたのことは、もうマナちゃんと呼んででいいかな」と切り出したのは、中国史の安藤先生だった。

「そうね、マナちゃんは結構、辛辣なこと言うからなあ」とは、千草先生のポロリ。

「アハハ、呼び捨てでもいいくらい?」と、向笠先生が先輩女子に続いた。

「それって、皆さんが私に親しみを持っていると解釈していいですよね。ちょっとニュアンスが間違うと、先輩方の発言もハラスメントになっちゃいますよ。私はいいですが。遠慮されると逆に私に魅力がないってことですよね。」

「アハハ、マナちゃんは良い研究者になれそうね。それぐらいはっきりしてないと先生方は張り合いがないし、虐めがいがないって思っちゃうものね。そう、この世界は虐められてナンボのところあるものね。」

「千草先生、おっしゃることはよく分かってます。私が所属しているイギリス哲学会の研究会は皆さん辛辣ですから、いちいち気にしていたらこちらの神経が持ちません。最初の発表のときなんか、出席された先生方が次々に質問されるものだから、自分の頭の回転が追い付かなくなって、最後は停止状態になりました。『もう、どうして私のことを本気で虐めるの』って、内心でぽろぽろ泣いてましたもの。研究会の一同は思考停止に陥った私を今度は置いてけぼりにして、議論で盛り上がっているんですよ。今日の報告者をほったらかしにしてですよ。でも、やっと慣れました。研究者って、これはここにおられる千草先生も、安藤先生も、向笠先生もですよね、本当に各分野の超オタクですよね。」

 私はそこまで一気に話し終わると、皆さんのお顔を観察するように見渡した。すると、大きな声で彼らは笑い出した。

「よっぽど研究会の先生に気に入られた発表テーマだったのね?」と、安藤先生は言うと、さらにボルテージを上げて笑い出した。私は何が起こったか分からず、キョトンとしていた。どうも私は何事にでもムキになるらしい。よく言えば、真剣なのだ、一途なのだということらしい。オーバードクターで、何年経っても非常勤の口さえもらえない方々が大勢いらっしゃることは私も同じ学会を見渡して承知している。千草先生はこればっかりはご縁の賜物だと幾度も言っていた。彼女は院生のときにご主人との結婚を機会に学究の道をリタイヤしようとしたそうだ。しかしながら、ご主人から「本当にやりたいことは譲れないでしょう」と説得されたという話をここで初めて伺った。いつも明るい彼女を見ていると順風漫歩にエリート研究者の道を歩んでこられたと、私は安易に思い込んでいた。

安藤先生は、一方、貫くという気持ちがないと相手に伝わらない、と主張していた。彼女は同じ研究者仲間だった旦那さんと十年前にパートナーとなられたそうだ。彼女は女性研究者でよく言われるように、結婚後、夫姓に変更することによって、自分の積み重ねてきた実績が消滅したかのようになることを嫌い、夫婦別姓でこれまでやってこられた。五歳の女児と家では格闘中だとか。彼女は改めて私に言った。「自分を、自分の研究に誇りをもつこと」と。一番若い向笠先生は少々自嘲気味に、「私ね、アスリートとして負けたくなかったよ。強化選手になって、代表選手になって、世界の頂点に立つことを夢見てきたのよ」と言ってから、私たちに、「仲間ということで、本邦初公開!」と言うと、講師には似合わないラフなロゴ入りティシャツの背中を巻くって腰にある手術跡を見せてくれた。千草先生の縁の話に近いが、彼女は自分に与えられた運命ってあるのかなと諦め半分の表情を浮かべた後、「ねえ、先生方は知っていらっしゃいますよね。マキアヴェリの君主論の言葉。『人事の半分は運命が握っているが、残りの半分とはいかないがそれは自分のものなのだ』という格言。私はアスリートとしては運命に見放されたようですが、実体験を活かしてスポーツの魅力やエンターテインメント性とその運営管理を密接に考察してまいります」という、彼女自身の学界での志を主に語られた。最後に、予想だにしない行動に出られた。私に強く抱きついて、「マナちゃん、私のお友達になってね」と付け加えた。彼女の大きな胸は私を完全に包み込んでいた。私は幼少の頃、母の愛情に包まれた大気を微かに覚えていた。

 すでに女子会も酒杯が進んでいたこともあって、こんな質問を先輩先生方から向笠先生と私に浴びせられた。千草先生は、何杯目かのジョッキを飲み干した。

「さて、まずはけいちゃん(向笠先生の本名は、向笠恵子)にだよ。いけちゃん、恋人は要るの?」というストレートな質問がぽんと飛んだ。

「とうとうその質問ですか。私も先生方の女子会に誘っていただきましたから、その恋バナ的な話へ話題が移りそうな気配は薄々感じてはいたんですよ。」

「コラ、これだから研究者はいけ好かない。何かと言うとすぐに前口上なり、言い分けをしようとする。嫌な人種だよね。」

「分かりました。ちゃんと言います。私には今、パートナーはいません。」

「断じて誓うか?」

「誓います。」

「では、マナちゃんは、どうなのよ。お相手は? あなたはいそうね。誰か、いた口かな?」

「楽しみだな、マナちゃん」とは、安藤先生の期待に満ちた突っ込み。

「すみません。私、ずーと独りなんです」と、冗談半分に軽く応えた。

「そんなことないよね。ブラウスの中に金色のネックレスのチェーンが見えるよね。それに何か意味あると私は踏んでいるんだけどな」と、千草先生は酔いの中にも鋭い眼光を保って私の小さな表情を観察しているようだった。

「……、これは母の形見です」と、私はたじろぎながら言葉を発した。

「えっ?」という一同の驚きの顔が私に注がれた。安藤先生は私の顔を優しく一瞥した後、時計を眺めた。

「ごめんね。私も娘のことが気になるから帰るね」と言って、幾ばくかの紙幣を置いて立ち上がった。私は、少々後悔した。コレでお開きになったら、私は責任を感じる。

「そうね。それぞれ何か抱えて生きてるんだもの。マナちゃん、今度、お母さんのこと訊かせてくれる? 私にたまには甘えていいんだよ。そうだ、名案がある。どうかな息子の嫁に来ない? 半分冗談だけど。うふふ」と、千草先生は笑顔を作ると彼女も立ち上がった。少しふらついた彼女の身体を百七十センチはある向笠先生が小さな彼女を支えた。

「千草先生、また、一緒に帰りましょう」と、向笠先生は言うと、私に先に出ているように促した。どうも千草先生と向笠先生は家の近くで軽く飲み直すらしい。

 私たちは別々のプラットフォームに立っていた。千草先生と向笠先生は上りの横浜・品川方面、安藤先生と私は下り方面のホームにいた。安藤先生は横須賀へ、私は逗子へ散っていった。

「また、後期に会いましょう!」という大声で千草先生は吠えると、向笠先生と車両に乗り込んだ。安藤先生と私も、それぞれの方面行き各駅停車に乗り込んだ。


 逗子線の車両がホームへ着くと、私は先頭車両の最前列のドアから降りて葉山口改札を抜けた。時間はまだ八時を過ぎたあたりだ。改札を抜けると左に折れて、橋を渡り、教会を通り越して右折する。竹垣の古い家を通り越す。そこに私の仮の宿りがある。

 この屋敷は父方の祖母の持ち物だ。私はこの家に通算八年くらいお世話になっている。これは留学していた2年間を除いた期間だ。大学入学が横浜の大学に決まってから、快く祖母は私を迎い入れてくれた。「ここからはそう遠くないから、我が家から通いなさい。その方が私も寂しい思いはしなくてすむし、マナちゃんとなら楽しく過ごせそう」と、祖母に歓迎された。その祖母も足腰が弱くなったのと、持病を抱えているという理由から三浦半島の有料老人ホーム(そこは温泉付きだそうだ)に私が2年間の留学から戻ってきてから、程なくして本人が決断した。私が帰国して、諸手続きが完了したある朝のこと。

「マナちゃん。お顔がきりりと引き締まった感じ。私の若いときに似ているわ。」

「どうしたの? おばあちゃん。私が帰ってきたからもう心配ないわよ。」

「ええ、ありがとう。でもね、あなたがいない間、考えていたのよ。もう、私も体がちょっとずつ動かなくなるし、あなたにこれからのことで心配や不安を与えたくないなあ。私がいるとあなたの貴重な時間を奪い取っていくような気がするのね。あなたのパパとママがいれば、当然、頼っちゃうかな。でもね、もういないでしょう。おじいちゃんも早くからいなくなっちゃたから。」

「おばあちゃんの弱気、私、初めて見るかも。」

「私ね、内田家を守ってきたでしょう。働き盛りの頃、おじいちゃんが癌で逝っちゃったでしょう。そうだ、あなたはおじいちゃんのお顔しか知らないか。いつも見てるでしょう、

仏壇のお写真。あら、こっちの角度から見ると、私のおじいちゃんの若い頃の写真とそっくりかな。」

「おばあちゃんらしくないよ。私が家を空けて、気が楽になってボーッとする時間が多くなって、急に老け込んだのかな?」

「何を生意気なこと言ってるの。まだ横浜のお店はちゃんと管理しているのだから。そうか、お店の件もあったわね。」

「おばあちゃん。もしかして、これって終活なの?」

「そうなるかな。おじいちゃんが最近ね、私の許にいるのよ。いつも私を見て微笑んでいるの。ちょっと私、変かな? マナちゃん。」

 私は少し小さくなった祖母の身体を力一杯抱きしめたくなった。でも、本気でぎゅっと抱きしめると祖母の身体がバキッと折れそうなので、優しくふわりとした感覚で居間のソファーに腰かけている彼女に近寄って、抱きしめた。祖母は祖父を亡くしてから、内田家の家系を維持するために奮闘してきた女性経営者である。内田家は昔、この辺りの地主だったそうである。この屋敷もすでに相当古びてはいるが、やたらと部屋数がある。だから、隅々まで掃除をするのは大変だった。

「私ね、あなたが生まれたときは本当にうれしかった。でもその後、本当にこの弱い子、これから生きていけるのかしらと、いつも会うたびに思ってた。あなたが自分を主張し始めたと聞いたとき、内心、世間に対して『ざまあみろ』って思ってたわ。あなたがあなたの路を歩み出したとき、『立派な人間にお成り』って伝えたの覚えてる?」

「ええ」と返事をして、私はそのままの姿勢で祖母の話を聞いていた。

「あなたが留学から帰ってきて、本物の女性になってくれてもっと嬉しかった。」

「おばあちゃん、いつも私を応援してくれてありがとう。」

 私はずっとおばあちゃん子だったのだ。私の記憶の中では、パパもママも以前から薄いカーテンの向こう側にいる感じだった。

 

 もう、内田の祖母はこの屋敷にいない。錆びついた門戸を開けるときに必ず確認する。家の玄関灯はいつも付けたままだ。最小限の防犯のためだ。

玄関の古風なドアを開けた。片手で自分の身体のバランスを保つために上がり框の横にある靴入れの棚に手をついて、パンプスを脱いだ。

「ただいま」といつものように帰宅時に声を出た。

「お帰り、マナーミ」と、ケイトの温かい声が私の耳に届く。

 これからケイトと今日の短い反省会をするのが、私の日課である。私はケイトに断ってシャワーを浴びるために先に浴室に入った。汗を流してスッキリしたかったから。

「マナーミ、ナイスバディのまま?」

「本当は覗いているでしょう。お手を出さないでください。」

 シャワーの流水音とともに、彼女の声は聞こえなくなった。ケイトは私の友達、親友、それ以上の関係に値する私の恩人だ。留学先でフラットを探している間に滞在していたゲストハウスで、私たちは運命的に出会ったと言っていい。それから私たちは大学の学生課の資料から物件を探して、ルームシェアで生活を始めた仲だ。一人での留学に途轍もない不安と期待を抱えて異国の地で生活する人間にとっては、彼女は強力な味方となった。ケイトはスコットランド北西部にあるルイス島の出身だ。彼女は私の屋敷にどうしているかって? いないというと、怖がる人が多いかもしれない。さらに私自身が研究者である立場からすると、完全に荒唐無稽のことを言っているように聞こえるかもしれない。

さあ、どう説明したら分かってもらえるか。いや、理解するなんて到底御無理でしょう。分かってもいただかなくても結構というのが端からの結論だ。一言、彼女が私を助けてくれたのは事実だということ。

 私はケイトに教えてもらった髪型、マッシュルームレイヤボブの髪の毛をタオルドライで無造作にかき乱しながら、オーバーTシャツを羽織っただけで居間のソファーに腰を降ろした。

「今日は疲れたみたいだね、マナーミ。」

「うん、とっても疲れたよ。だって、先輩先生方のお誘いで女子会に参加したからね。」

「ふーん、そうなんだ。」

「もっと私に関心持ってくれないかな。最近さあ、ケイトは私に対して冷たいんじゃないかな。声のトーンも低い感じ。昔ならケラケラと大声を上げてくれたじゃない。」

「うん。最近ね、肉体の調子が思わしくないんだよね。やっぱりさあ、マナーミは私の大切な人じゃない。だから、海を隔てた極東ジパングまで私の思いは届いているんだけど。

よく言うじゃない。『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』ってさ。」

「この場合、『健全なる霊性は健全なる肉体に宿る』と言った方が的確じゃないか。本当に日本に帰国してから、あなたの声が鮮明に聞こえたときは心臓が弾けるかと思ったもの。」

「驚かせたね。でも、あなたはすぐに分かってくれて、この状況に慣れてくれた。」

「確かに最近の私の睡眠中に出てくるヴィジョンの中でも、あなたはベッドに横たわっていたみたいだったけど。まだ教えてくれないの?」

「何を?」

「何って、どうしてあなたの姿を私は夢の中でよく見るの? どんな方法で私の無意識の中に忍びこんで来てるの? もうかれこれその状況になって三年は経つよね。あなたの笑顔が目の前にある。あなたが微笑みかけてくれている。あなたが私を包んでくれている。私が知っている田舎の風景がぐるりと私を取り囲む。私ね、もう一度、ケイトのお家に行ってみたいなあ。最近、あなたは寝転んでいて、優しい真っ白な手を私に伸ばしてくれる。

どうも『愛してる』って、あなたの唇が動いているのがはっきり読み取れる。」

 私はテーブルの上にエールの缶を二つ用意して、その一方に口をつけながら時折喉を潤していた。多分、今の私の光景は第三者が目撃していたら、延々と独り言を言っている構図だろうと思われた。

「あのね、マナーミ。もうすぐ私の肉体としての寿命が尽きるたい。」

「えっ? ちょっと待ってよ」と、私の声のトーンが大幅に増した。

「私にとってあなたは特別な人。こんな風にコンタクトが取れることは分かっているわね。」

「もちろんだよ。ケイトがいなかったら、私は留学生活を送れなかったし、あなたの力が私の人生をがらりと変えてくれたんだもの。ありがとう、ケイト。」

 簡単な他愛無い対話を短時間するのが常であるが。そこまで私が言い終わるか終わらないうちに、突然、彼女の声と独特な気配がふっとどこかに去っていった。いつもはケイトが「そろそろ失礼するね。バイバイ」って言うと、彼女が去る気配が私の髪の毛を、手を触ったような感触を残して空気が動いていた。今回はそれがなかった。

 私は素直に心配になり、若干の恐怖感を持った。ケイトがこのような特異的な接触をするのも、彼女が住んでいる島の南端部は電波エリア圏外なのだ。こんなにグローバルな世界になったというのに珍しいエリアに違いない。単に人口が極端に少なく、有線の固定電話もないようなところである。まさに異世界への入り口がその島にはある。私たちの学生生活一年目が終わった時期だった。といっても、私はグラスゴウ大学の哲学研究科の院生として、彼女は苦労して大学に進学し、歴史学を学ぶ一年生としての身分だった。彼女は年下で、私とは二つ違い。もちろん彼女の方が若いのだが、現地ではいつも他者からは私はまだ二十歳にもなっていないという見立てだった。一年が無事に終わったとき、ケイトから自分の田舎に来るように誘われた。思い出す夏風景は大地の緑の芝と草原、巨大な岩が丘陵のあちこちから顔を出している壮観なものだった。さらにいつも風が収まることを知らない空気の壮大な流れと碧海。ぽつんと岩に囲まれる形で石造りのあまり大きくない古い家があった。

「あそこに灯台があるでしょう。」

 ケイトが指差したのは、海に浮かぶ小さな岩の上の白い灯台だった。

「私の家が代々管理してるの。行政がさあ、予算がないって言って、未だにアナログ管理なんだよ。」

 私たちが彼女の実家に着いたのはグラスゴウから出て、二日目だった。一日目はグラスゴウのクィーンズステーションから鉄道を使いマレイグまで行き、フェリーに乗ってスカイ島のマレイグを目指し、そこでB&Bに一泊した。翌日、ハリス島へのフェリーに乗船し、その後にポストバスを使い、郵便物と一緒に運ばれた。そのバスの本来の目的は人輸送ではないが、過疎地では公共交通の役割も果たしている。バスの終点で、彼女は地元の小さな郵便局に入っていった。たぶん顔見知りであろうと思われる初老の職員さんと懐かしそうに会話をしていた。そこに彼女のドナルド家の私書箱があるらしい。封書を彼女は受け取っていた。そこは小さな漁港だった。

「もうすぐおばあちゃんの車が迎えに来るから、我慢してね。」

 私はケイトと一緒にいることは全く苦痛にならない。こんなに自分にぴったり合う人物がこの世の中にいたこと自体不思議に思っていた。ケイトと手を繋ぐだけで、暖かい空気がどこからともなく湧いてくる。その空気は私の全身をくまなく包み込み、心が軽やかになっていく。しばらくして白髪の老女が運転する車が私たちを認めて近寄ってきた。その間に、ケイトは顔を合わせる村の人たちと訛の強いアクセントで簡単な挨拶をしていた。島のアクセントとイントネーションを私が耳にしても言葉の意味が分からないほど、スコットランド都市中心部の英語とは異なった言語であった。彼女の祖母は人懐こい笑顔で私を迎い入れてくれた。どれくらい漁村から離れているかなど、時間の感覚はなくなっていた。さらに、他者とのコミュニケーションツールが皆無なので、自らの存在が自然の中のちっぽけな一部分であることにここでは向き合わなければならない。彼女の住処と私の住処はファーウエストとファーイーストであることを私は帰国してから思い知らされることになった。

 先生方との女子会では全く酔いが回らなかった私が、帰ってきてからエール缶を一本飲み干しただけで眠たくなってきた。居間は薄く冷房をかけたまま。ケイトの感触を感じられないままの寂しさが酔いを増長させたようだ。私はどうも転寝をしてしまった。

 しばらくした時だったと思う。私の顔を覗き込む誰かの気配を感じて、ぼうーと焦点の定まらない目を開いた。愛しい顔が私の顔に被さってきた。ケイトの唇が私の唇に重なった。その瞬間、彼女の顔の輪郭が、水蒸気が拡散するように霧消していった。私は大声で彼女の名前を叫んだ。

「ケイト!」

 私の意識が自分自身の体の覚醒を妨げたようだ。そうだ、よく見る夢かな? 私はケイトの姿を眺めているようだ。私は「ケイト」と彼女の名前をここでも呼んでみた。しかしながら、私が見ているこのヴィジョンには音声は含まれていない。私は彼女がやはりベッドに横たわる姿と、こちらを見て親し気に呼びかける唇を見ていた。ケイトの口の形から「イ」、「ウ」と呼んでいる様子が伺われた。母音で、イ行の言葉とウ行の言葉で表されたと私は思う。彼女の右手が私のほうに伸びてきた。再び、ケイトの温かい眼差しがこちらをじっと見ていた。それから私の見ている映像は、私自身が彼女にぎゅっと握りしめられたようだ。ケイトの胸のふくらみが迫ってきて、目の前が暗くなった。私はその後、どうもぐっすりと寝てしまったようだ。転寝をしたと思っていたところ、つまり居間のソファーからいつの間にか私の体は移動していたようだ。私はタオルケットに包まっている自分を発見した。

私はどうしてもケイトと会いたくてしょうがなくなった。でも、その前にいつものように私が仕事を終えて、玄関戸を開けると「お帰り、マナーミ」の声を確認したくてしょうがなかった。ケイトの声が聞こえるのは私が仕事から帰ってくる夕方以降と決まっていたのだ。昼間は彼女の声を確認することは皆無だった。どういう仕組みで彼女と対話しているのか、そのことについてはさして詮索するつもりは端っからなかった。ケイトは特殊な能力を持っているのは、ルームシェアを通じてよく分かっていた。

 翌日は、夕方から個別指導塾の講師として出勤することになっていた。水曜日に大学で教え、その後の木・金・土曜日はいつもその塾へ通っていた。大学の講義二コマでは生活ができない。その二コマを獲得したのも幸運の女神が差配しなければいけないだろう。なければないで、生活を維持するために他の何かしらのバイトを見つけなければやっていけない。それが非常勤講師の現状であることは自分自身がよく分かっていた。

 眩しい陽光が遮光カーテンの隙間から私の身体を横切るように光線が差していた。

 スマホのバイブレーション機能が作動した。表示を見ると、向笠先生と表示されていた。確かに先生方とは昨日初めてラインを交換したばかりで、少し意外な気さえした。

「はい、内田です。」

「あ、マナちゃんですか?」

「はい、私です。どうかしました? 向笠先生。」

「昨日は私たちに付き合ってくれて、ありがとう。年配の教師ばかりで、気疲れしたでしょう。」

 私は自分の精神状態についての発言は控えたかったので、話題を他へ持っていった。

「千草先生は大丈夫でしたか? あの段階で、結構、お酒を嗜まれていたように思いますが。」

「ええ、千草先生はどちらかというとお酒はお強いから。ですから、品川まで帰ってから、先生のご自宅近くの行きつけのバーに寄って、軽く一杯飲んでから帰宅したのよ。千草先生、喜んでらした。あなたのことね、自分の娘みたいだって。『本当に娘になってくれないかしら』なんて、おっしゃってたわ。」

「それって、千草先生の息子さんと私を結び付けたいと思っていらしゃるのかしら?」

「深い意味はないんじゃないかな。先生ご自身が女性研究者としてここまで来られたから、

そんなに邪推しなくてもいいと思うよ。ただ、あなたのような可愛い娘が難しい思想領域を専攻しているからちょっと心配していらっしゃるのよ。男性研究者でも専任の途はなかなか見つからないしね。そうそう、マナちゃんは、来週も出講するでしょう?」

「はい、定期試験を日程通り行いますから。向笠先生もでしたっけ?」

「そう、スポーツ経営学は二百人以上が履修しているから、いつも筆記試験してるの。だって、レポートは確かに提出させていいのかもしれないけど、最近はどこかのサイトの解説丸写しも多いしね。まあ、見ればすぐ分かりますけど。レポートを悠長に見るより、設問にちゃんと授業内容も含めてまとめてくれているかを確認した方が採点は早いでしょう。」

「ええ、そうだと思います。」

「じゃあ。そのとき話すね。」

「え、何をですか?」

「実はね。今回、マナちゃんと親しくなれたし、この夏、あなたと小旅行でもしたいなあ、と思ってね。それじゃあ、来週、講師室で会おうね。バイバイ。」

 向笠先生との会話はそこで切れてしまった。この夏も私は生活費を稼ぐのに塾の夏期講習のスケジュールを生徒の予定表を見ながら組まなくてはいけない。果たして日程が上手くかみ合うのかも全く定かではないのに。私は次にお会いするとき向笠先生には悪いが、お断りをしようとすぐさま決断をした。

 日中のうちに次の論文を書くための資料ノートを僅かずつ整理した。アダム・スミスの研究者であった元横浜市大の名誉教授であった田中正司先生の『アダム・スミスの倫理学』から先生のスミスに対する評価の引用個所を確認した。どれだけ集中していたか時間の感覚がない。まあ、いつもの主観的時間が客観的時間を凌駕しているだけ。正午を過ぎたあたりで、携帯の着信音のバグパイプ音が奏でられた。もうサイレントモードとバイブ機能は解除していた。いつもよりそのバグパイプ音は大きいが、携帯の所在を突き止めるのに時間を要した。

「おばあちゃん、元気?」

「もちろんだよ。今月分の生活費はあなたの口座に振り込んでおいたからね。あまり子供たちに時間を費やさずに、自分のことをちゃんとおやり。私はまだまだ逝かないからね、安心して研究に専念しなさい。」

「元気そうだね、おばあちゃん。いつも応援ありがとう。」

「素直な子だよね。マナミは。そうだ、日曜日はだいたいお家にいる? 私ね、最近はすこぶる調子がいいのよ。まあ、会社も私がいなくてもちゃんと健全経営を続けているしね。私ね、終活の続きを少しやろうかと思って、帰宅許可をいただけたの。」

「わああ、おばあちゃんが帰って来てくれたら、私どんなにうれしいか!」

「大袈裟なこと言わないで。でもね、少しはあなたの気持ちも理解できると思うの。おじいさんがいなくなってから、家に帰っても誰もいないでしょう。それだけで悲しくて、寂しくて酒量も増えたりして。あなたもお酒をも飲み過ぎたら駄目だよ。」

「お酒はお家では缶ビール程度だもの。ねえ、おばあちゃんがお車で帰って来るなら、おばあちゃんとよく一緒に行った鎌倉のビストロでお食事しよう。私、予約しておくから。」

「なんて優しい子だろう。そうしようか。」

「はい、おばあちゃん。絶対だよ。」

 私は少しだけ自分の心が落ち着く予定が入ったことに安心した。祖母は私の孤独についてきっと心配してくれたのだと思う。独りぽつんと大きなお屋敷で過ごすことが祖母にとっては悲しみの象徴だったかもしれない。私が進学を決めて上京してから祖母とはよく時間を過ごしていた。彼女の運転手からは「社長はマナミお嬢様がいらしてからは、張り合いをもって仕事を日々こなされています。それ以前は、自分で仕事の量を増やしておいででした」という言葉を私は耳元でそっと打ち明けられた。人間は社会的な動物だというが、私は決してそうは思わない。社会がいかなるものか、多くの人々は深く考えたことがあるのだろうか。真に言葉の交わせる少数の方が身近にいればそれだけで幸せだ。私にはケイトがいれば、それだけでいい。

 白いTシャツと黒いワイドパンツを履き、白のストラップサンダル履き。上に赤いシアーカーデを引っかけて塾へ行くためにお家を出た。私が今夜帰ったとき、「おかえり,マナーミ。」という返事を聞くために、鍵を右に回した。

 自分の鼓動が外に漏れているのではないかと心配になるほど、私はドキドキしながら玄関灯の下で鍵穴にキーを通して左に回した。カチっという音ともに引き戸を開けた。

「ただいま。」

「おかえり。マナーミ。」

 少し声は小さいが、ケイトの私への愛の籠った返事だった。その声を聞いただけでじわじわと涙が溢れてきた。私は昨日のケイトの口づけが私への最後のメッセージではないかと不安におびえて一日を過ごしていたことを白状しなくてはならない。トートバックを居間のテーブルの上にポンと置いた。そのままの服装でソファーに腰を降ろした。私は頬を濡らした涙を掌で拭いながら、次の言葉を探っていた。

「良かった。返事してくれたね、ケイト。病気ならちゃんと直してね。」

「うん……」と、小さな返事が帰った後、彼女の声が途切れた。私は慌てて、大声を発した。

「ケイト、ケイト! 答えてよ!」

 しばらく自分の声が空気を掻きまわし、その響きが私の耳を覆った。

「ケイト……」と、自分の声の言葉尻がか細く、頼りなく揺れ始めた。もし、彼女がこの世から消えてしまったら私は独りぼっちになってしまう。本当に独りぼっちだ。こんな感情が湧き出したのはすこぶる久しぶりのことだ。いつ以来のことだろうか。多分、私は彼女に会うまで親友というカテゴリーに値する人間に会ったことがないような気がする。両親が不慮の事故で同時に亡くなって以降、とくに小学校卒業までは完全に独りで過ごした時間が長いような気がする。中学校に入学してからほんの少しだが、私の身の上を理解してくれる友人もいたような記憶があるような。進学高校では自分なりに振舞うことができたように思う。その後、上京して私の田舎の事情を知らない友人達とは深入りしないような関係的距離を保っていた。それが良かったかどうかは、自分では判断できないでいる。

留学先のグラスゴウでの1日目は、宿の部屋に案内された直後に私は横になったまま動けなくなった。少し休んで、シャワールームが空いていたら長時間に蓄積した疲れを洗い流したいと思っていたが、どうもそのままの格好で眠ってしまったようだ。自分としてはこんな有様になるのは初めての失態だ。翌日、B&Bの近隣にある教会の朝の鐘の音で目覚めた。私は留学初日の朝をこんな状態で迎えたことを非常に後悔をしつつ、共同洗面場に向かうためにフェイスタオルとポーチを持って覚悟を決めて部屋のドアノブを回した。とにかく海外での生活がこれから始まるという緊張感と不安が自分の心をそわそわさせていた。二階の奥まった一角に二つの蛇口があった。先客が女性であることを確認した。確実に私の身長よりも高い。彼女は少しウェーブのかかった豊かな髪を後ろに束ねていた。私は少し安心して、年齢がそんなに変わらないと思われる女性の隣の蛇口につこうとしていた。彼女は洗い終えた顔をタオルで拭こうとして横に設置してある棚の上に目を瞑ったまま手を伸ばそうとしていた。私は、「あっ」と咄嗟に口から漏らした。私は彼女のタオルが床につく前に掴み取って、彼女に手渡した。

「あなたのタオルですよ。」

「ああ、ありがとうございます。」

 彼女は濡れた顔を拭うと、大きな青い目を見開いて、私に笑顔を返してくれた。とても優しそうな眼の奥の輝きを私は感じて、彼女に対して好印象を持ったのは確かだ。まだ、彼女のことを全く知らなかったのだが。私は彼女が私の隣の角部屋のドアを開けたのを目撃した。

心のどこかで、「良かった」と私の内面が呟き、ほんの僅かだが肩の力が抜けたような気がした。私も洗顔を済ませると、部屋に戻って恥ずかしくない化粧を施してから階下のキッチンに朝食をとるために降りて行った。私はこのB&Bに2泊する旨を予め申し込んでおいた。そのうちに大学の学生生活課に行って、自分のフラットを見つけようとしていた。本当に二日の間に異国での自らの住まいが見つかるという保証はない。もしその期間に見つけられなかったときは、宿泊の日数を伸ばす心づもりでいた。この日は最初に大学へ行き、その後、現地の銀行に口座開設の準備に行こうとしていた。私はすべてが初めての経験にやはり自分の中に落ち着かなさを抱えたまま、食堂に入っていった。二つの円形のテーブルに四席ずつの椅子が配置してあり、すでに一つのテーブルは家族連れと思しきグループが陣取っていた。迷う自分に困惑していた。あまりにも多くの朝食の品々があった。ここに来る前のロンドンで一泊した大型ホテルではコンチネンタルブレックファストだったから、トーストにベリージャムを塗って、紅茶を口にするシンプルなものだった。私が戸惑っている様子を宿の主人が見つけたのだろう。

「さあ、あなたの好きなものを自由にとっていいんだよ」と声をかけるなり、一枚の大型トレーを私に手渡した。私が次の動作に移ろうと考えていた矢先に、先程の彼女が私のそばにやって来た。

「さっきはありがとう」と、そのブルースカイに近い透明な瞳が私を包んだ。彼女は次の言葉を発した。

「これが有名なスコッティッシュブレックファスト。知ってる?」

「いいえ」と私は素直に首を横に軽く振って、彼女に目線を合わせようと少しだけ顎を上方に向けた。彼女の身長は百七十センチを超えている。彼女は微笑んで、「これがポリッジ。これが焼トマト、この黒いハム状のものはハギス……」と一つ一つ皿を指差した。その後、必ずと言っていいほど、「召し上がれ」と言って、私の大皿の上に無造作に載せていった。

こんなに朝から食べられないよ、というのが私の率直な感想だった。有難迷惑……。回転型の大型トースターに私は面食らった。初めてみる機械だ。彼女がそのトースターの使い方を教えてくれた。私は日本製のポップアップトースターしか使ったことがない。

 彼女と私は隣同士で着席した。

「いただきます」と、私はいつも食事の前に習慣になっている言葉を出した。それもいつものように日本語で。

 彼女は尋ねてきた。

「今、何て言ったの? そうそう何語だった?」

「あ、ごめんなさい。今のは日本語です。そうだな、『ご飯食べましょう』ということと同じかな。」

 すると、彼女は私の真似をするように、さっきの私の言葉を発音しようと試みた。

「イタ、ダキ、マス。」

 私も彼女に合わせてもう一度、「いただきます」と添えて、ナイフとフォークを動かし始めた。

「観光ですか?」と、彼女は興味津々と言った表情で私に尋ねてきた。

「いいえ、勉強です。」

 その言葉に、彼女の顔がパッと明るくなったように感じた。私自身は何の疑いを抱かずに彼女の問に受け答えをしたのだが、一期一会の正体不明の人物に素直に答えすぎたかなと自分自身の心の内側に若干の後悔めいた感情が頭を擡げようとしていたときだった。

「私もです。私は今年、グラゴウ大学に入学するフレッシュマンです。あなたもですか?」

 そうか、彼女は新入生なんだ。私はそれを聞いたので、彼女を信用しようと思い直した。

「私は、マチュアスチューデント扱いで、大学院入学の許可をもらいました。」

「じゃあ、あなたは優秀なんですね。あなたの見た目はもっと若く見えたので、てっきり観光目的の高校生だと勝手に思ってしまったの。観光目的ならお友達と一緒にいるはずですね。アハハ、ごめんなさい」と、彼女の少しテレを隠した嫌味のない言い回しに私は好感を持った。自然と会話が弾み、食欲の方も思いのほか進んだので、大皿に取った品々を平らげてしまった。彼女の皿の上には私の二倍以上の食物があったはずであるが、私より先に食事を終えて、二杯目のコーヒーをちゃっかり注ぎに行っていた。朝食が終わるころになって、お互いの名前を告げ、私はWhatsAppのアプリを早速入れた。私たちの次の目標がフラット探しだったという共通点ということもあって、大学の学生生活課で最新の賃貸物件の情報を得て、アポイントメントを取ってから一緒に出かけた。

 すでにこのB&Bから見える大学の象徴と言ってもいいメインタワーが十九世紀の英国の威厳を誇るように尖塔を曇り空に突きさしていた。宿屋はケルビン通りに面しており、その道を登っていくと大学正門に到着した。私は日本の新制大学にありがちなビルディングとは違い、伝統と格式を重んじるゴシック調建造物に圧倒されていた。後日、簡単な新入生向けオリエンテーリング参加と授業料を支払いに再び来ないといけない。彼女は朝と同じ格好でざっくりした網目のウールニットセーターとダボっとしたデニムを。それで寒くないのかな、と訊きたくなったのは私。少し肌寒く感じている私は革ジャンとストレートデニム。そして小型のディバックを背負って歩いていた。大学通りからバイレス通りの四つ角を右に曲がって、住宅街と思しきヒルヘッドという地名のやや丘になった場所に足を進めていくとやはり十九世紀の三階建てマンションだと思われる住宅群の中に入ってきた。

「クレセントロードだったよね」と、私はケイトに話しかけた。

「この辺りのはずだよね。確か……」と彼女が言って、辺りをゆっくり見回した。

 奥まった径の突き当りに人影を見つけると彼女が小走りにその人物に近寄った。すると、ケイトは私の方に笑顔で振り返って、「お出で、お出で」と手招きをしていた。私の視界にはマイカーにワックスを塗っている大柄な男性の姿が見えた。

「やあ、電話をくれたのは君たちだね。えーと、ケイトとマナーミだったかな。」

「はい、私たちです」と、ケイトと私は同時に返事をした。そのタイミングが絶妙だったと見えてその男性は声を上げて笑っていた。

「一つ訊いていい?」と、主人と思われる男性の質問。多分、私たちに自分たちの空き部屋を借すにふさわしいかどうかの質問だと思われて、私は少し緊張気味に次の彼の言葉を聞き漏らすまいという姿勢を取った。

「君たちは、猫は好きかい?」

「はい、好きです」と、再びケイトと私の声が重なった。

「ハハハ、君たちは本当に仲がいいんだね。息がぴったりだよ。うん、君たちに貸してもいいかな」と、主人の声を聞いてやって来たかどうかは定かではないが、一匹の毛足の長い三毛猫の部類だろうと思われる大型の猫が私たちの足元にすり寄ると、私たちを先導するかのように玄関ドアの隙間から一度入ってから、顔を見せた。

「モップは、どうやら君たちを気に入ったようだね。じゃあ、付いてきなさい」と、彼は言うと、にこやかに私たちを家に迎い入れてくれた。

 玄関から居間を経由して、キッチンの脇の階段を下りていったベースメントの突き当りに木製のドアがあった。

「ここが君たちに貸す部屋になるよ」と言うと、ドアが開かれた。

「わぉ!」と、やはり同時に私たちは驚きの声を上げた。部屋の広さはどれほどと言えばいいのか。私は入るなり自分の歩幅で縦と横を測ってみた。すると、少なく見積もっても縦横二十二歩はある。そして、すでに備え付けのテーブル、ダブルベッド、さらに小さいが応接セットも備えてあった。暖炉もあった。窓の高さも相当なもの。その窓からは斜面に裏庭が見えた。少女二人。一人は小学生で、もう一人は幼稚園生。彼女たちが芝の坂を下って、ニコニコしながら私たちを見ていた。

「ああ、娘たちだよ。ダナとディアナ、お姉さんたちに挨拶しなさい。」

「マッカーサーさんは、アイルランドのご出身ですか?」と、ケイトが尋ねた。

「そうだね。祖父の代にこっちに移住してきたよ。君もケルトの血が流れているようだね。そう言えば、マナーミは日本人?」

「はい、そうです」と応えたのだが、次に自分の言葉が続かない。何を話していいのか、ではなく、そろそろ英語疲れを起こしているような状態だったと後で分かった。ケイトは私の疲労を察してか、後は「私に任せて」というジェスチャーとアイコンタクトを私に示してくれたように私は感じた。

 御主人の名前はダグ(ダグラスの愛称)、奥様なリズ(エリザベスの愛称)。そして、先の二人の少女。二人の娘がいるから、ルームシェアには女性を求めていたとのこと。また、猫のお世話ができることが条件だったらしい。とくに猫の世話に慣れた人が欲しかったとのことで、バカンスで1か月程度留守をしても任せられることも条件のうちに入っていたらしい。この広い部屋があるのがベースメントなのだが、傾斜している庭に面しているドアが私たち専用の出入り口である。したがって、基本的にベースメントのすべての施設は使用できる。別にキッチンが付いており、ガスレンジも備え付け。シャワールームも私たち専用のスペースにある。しかしながら、日本では当然あるはずの風呂は無し。

「明日から越してきてもいいよ」と言うダグの声楽家ではないかと思われるよく通る声を耳にして私たちは安堵した。B&B暮らしも短期で終わるのだという安心感が私を少しだけ開放的にしたのは確かだった。その確約を取り付け、私たちは学生ユニオンの食堂で遅めの昼食にサンドイッチを摂り、再び会う約束をした後、一度各々の用事を済ませるために別れた。私はバンクオブスコットランドに口座を開設した。ここに内田の祖母からの仕送りや奨学金の振り込み等をしてもらう手筈を整えた。

「ケイト!」と、私は親しみを込めて大きな声をかけた。彼女は正門の守衛室の前に立っていた。私は通りを隔てる横断歩道の信号機の所で青信号に変わるのを待ちきれずにいた。私が親しみを込めた声と同じくらいの明るい笑顔を彼女は返してくれた。信号機が変わるとなぜか私は翔っていた。もちろん、彼女とハグをするために。

「マナーミ」とケイトは私の方に声をかけると、彼女は両腕を伸ばし、私が自分の胸に飛び込んでくるのを予期したかのように待ち構えていた。ほんのちょっとの躊躇いが瞬間的に自分の心の片隅を掠めたが、今日はこれからの彼女との生活が決まったことの嬉しさが何よりも優っていた。私はもしかするとハグ欠乏症に陥っていたのかもしれなかった。多くの場合、父方である内田の祖母が私を羽交い絞めにするのが大学生時代であった。

 私の身体はポンとケイトの胸元で弾んだ。彼女のふくよかな乳房が私の細い体を受け止めた。そのとき、私の心に蟠っていた強固な不安がちょっとだけ砕ける前触れのようにヒビが筋状に入るクラック音に似た音を私は耳にした。

「マナーミ、久しぶりだね」と抱き合ったままの姿勢で彼女はお道化て私の耳元で言うと、より強い力で私を締め上げた。

「痛いよ、ケイト。」

「ごめん、ごめん。」

「いいえ、大丈夫。でも、ケイトはもしかするとスーパーウーマン?」と、今度は私も軽口を叩いてみた。でも、半分は本当だと、私は思っていた。私よりおおよそ十センチ以上身長が高くて、体型的にもがっしりしている。やはり、スコティッシュの血統だからか。そうだスコットランドの英雄であるウィリアム・ウォレスやロバート・ブルースを生んだ土壌だから、などと妄想が勝手に走り出していた。彼女のハグは私をまだ開放してくれなかった。

「会えたね、マナーミ。私はとってもうれしい。運命なんだよ、私たち。」

「うん」と、私はケイトの言葉を素直に受け取った。彼女のオーラに包まれていく感覚を持った。その感覚はさっきのクラック音を大きく響かせていった。完全に不安という分厚い殻がはじけ飛んだような気がした。

 私たちはユニバーシティストリートとチャーチストリートの一角にあるパブに入った。そして、ケイトと私の明日から始まるルームメイト生活についてのルール作りをするために小さなカウンター席に落ち着いた。私はケイトに勧められるままにエールをワンパイントだけという約束で彼女と同じように注文した。加えて、本場のフィッシュアンドチップスも一度は食べたかったのでそれも頼んでみた。

「わあ、フィッシュ想像よりも大きいな。これはタラでしょう。こんなに食べられないよ。」

「大丈夫。このお店のメニューは評判高いという噂だよ。食べてごらん、マナーミ。そうそう、そのバスケットにビネガーとマヨネーズ、あ、マスタードも置いてあるよ。」

 私たちはワンパイントグラスを軽く目線まであげて、「チェアーズ!」と言って遠慮がちに私は彼女が翳したグラスにカチンと自分のグラスを寄せた。

「マナーミとルームシェアしなければ、あんなラクシャリーなお部屋には住めないよ。だって、家賃が四百ポンドでしょう。私の予定では百八十ポンドがいいところ。でも、一人二百ポンドでマッカーサー家の家賃にはすでに光熱費込みだったもの。お得感あるよね。」

「確かに。私が日本で得た情報ではフラットのエアコンがコイン式だってあったんだよ。ということは本当に寒い季節になるとコイン切らしたら、生命の危機になるよね。良かった、セントラルヒーティングの設備があって。」

「そうだよね。それにベースメントの設備はみんな使っていいし、玄関も私たちの専用口があるのだから。マナーミ、条件としては相当な好条件よ。あと、学校にも歩いていける距離だものね。」

 話の内容は生活の快適さを得た感動の方が大きく、自分たちの共同生活での決めるべき事項は話題として上がらないまま、空っぽになったワンパイントグラスをカウンターに残して、ケイトが再びエールの杯を両手に抱えてきた。すでに二人で平らげたお皿がいくつか並んでいた。確か、さっきはキッシュパイも頬張ったはずだよねと、私は高揚した気持ちのまま、顔を赤らめていたに違いない。だって、頬がポカポカしている実感があったからだ。結局、ご機嫌にケイトと私が連泊するB&Bに戻ったのは午後八時を越えていた。帰り道で私は路側帯に転がっていた小石を踏んで、前方へ大きく体重が偏った。私は小石に乗り上げた瞬間に、もうこれは両手をざらざらした路面について体を守るしかないと思っていた。が、横に並んで歩いていたケイトが素早く私の前方に回り込んでくれて、両腕の前腕を掴んで支えてくれた。

「危ないよ、注意して歩こうね」と彼女は言うと、私の右手を握ってきた。彼女の大きな掌が私の指を包んだ。私の様々な思念の中にケイトの触手が伸びてきた印象があった。その私の心のいくつかの部位の中の深淵に彼女の触手が微かに触れたと思ったとき……。

「マナーミ、全く問題ないよ。あなたはずっとそれを抱えてきたんだよね」という優しい囁きが私は聞こえてきたような気がした。そうだ、ルールを作ろうと提案したのは私の他人には言えない秘密だけはどうしても守ろうとしたことが起因していた。

 ケイトと私は、翌日、各々の大型のキャリーバッグを石造りの路面にガタガタと音を立てながら、転がしてマッカーサー家への緩やかな坂を上っていった。


 その後、自宅でのケイトとの会話は短いながらも二日ほど成立していたので、少し安堵していた。

自宅の郵便受けにエアーメイルが投函されていた。

「ただいま、ケイト。この汚い字面はあなたのね。何か懐かしい香りがする」と言って、私は鼻先にその封筒を持ってきた。

「おかえり」と、微かな息遣いを伴ったケイトの呟くような小さな声を聞いたような気がした。私は慌てて、「ケイト、聞こえる?」と急いで尋ねた。

「うん」と、少しだけ力を入れた彼女の声がした。私はその返事を聞きながら封筒を開けた。

「今日、手紙が届いたことを確認したかったの。マナーミ、お願いね」と彼女は言うと、「またね」と言葉と一緒に息を吐いた。

 手紙には、ケイトが精密検査を受けるためにグラゴスウの大学病院に入院する旨が書かれ、私に何かあったら、後のことよろしくと綴られていた。彼女の病状の詳しいことは何も書かれていなかった。ただ、検査中はあなたとお喋りができない状態が続くかもしれないが、心配はしないようにと念押しをするかのような彼女の配慮の跡もみえた。私はケイトに声をかけるべく口を開けようとして、その行為に移るのを躊躇った。彼女は疲れているのだと、自分では珍しく相手の状況を想像しようとした。ケイトは私が帰国する時期、つまり彼女が三年生になる前であるが、彼女の祖母の体調がすぐれないということで大学を休学することを聞いた。彼女は地元に帰って、しばらく灯台守の真似事をするような生活をしなければならないと勉学を中断せざる負えない悔しさを滲ませた表情をしていたのを思い出す。ケイトは私をグラゴスウ空港で見送るとすぐに島へ向った。その後、しばらく音信不通の時期があったが、私の祖母が有料老人ホームへ入ったと同時くらいに彼女と私の音声通信ができるようになったのだ。

「ケイト、早く元気になって……」と、私は力の入らない呟きをした。


 前期大学定期試験の水曜日に私は出講すると、向笠先生と顔を合わせた。

「どうしたの? ちょっと表情が暗いように思うんだけど。」

「やっぱり分かりますか?」

「分かるわよ。分かり過ぎるくらいあなたの顔色は変化するんだから」と、向笠先生は私の頭に自分の掌を軽く当てた。

「さて、試験が終わったら今度は私たちだけで前期打ち上げをしよう。それに先週電話した内容をあなたに詳しく話したいから。ねえ、マナちゃん。」

 向笠先生は悪戯っぽく笑うと、試験用紙がどっさり入ったB4封筒を両手で抱えて講師室の階段を軽やかに降りて七号館の大教室へ向っていったみたい。私も急いで教務課の窓口に行って、今日の定期試験の問題用紙を取りに行かなくてはならないと、少し学校でのテンションを上げる努力をした。

 私の試験教室も規模としては中教室くらいの約百人ほどの受講生がいる。したがって、教室での試験には監督補助要員が付いた。白いYシャツを着で腕章をしている若々しい学生が辺りを見回していた。その彼が私を認めたようで、窓側の待機用の椅子に自分のカバンを置くと小走りに駆けてきた。

「内田先生、お久しぶりです。清水です。清水陽介です。」

「ああ、ようちゃん?」

「そうです。陽介こと、ようちゃんです。」

「どうしてここにいるの?」

「どうしてって、僕は今、修士課程の一年生ですよ。」

「そうか。そういえば、以前、言ってたよね。研究者になりたいとか何とか。本当に研究を続けていくつもり? 厳しい世界だよ。」

「あのう、……」という彼の言葉を遮って試験の準備段階に私は入ろうとした。私は学部生時代の塾の教え子に問題用紙を配るように促した。彼はまだ言いたそうな雰囲気であったが、自分でその気持ちを抑制したように私には思えた。彼は私が未だに勤めている個別指導塾の生徒であった。高校二年間ほど私が英語を教えていた。最初は中学英語もまともに出来ない子であったが、コツを掴むと、と言っても英語の場合は単語を知らなくてはお話にならないので、その点では私が覚えるべき受験単語は無理を承知で彼の頭に叩き込んだ。

「はい、教室の時計で三十分立ちましたので、これからは退室を認めます。提出する学生は自分の学籍番号と名前をもう一度確認してください」という試験マニュアルの文言を私は読み上げた。私は某先生が行っているように、授業最終講義で問題を学生たちに伝える。が、教科書やノートなどの持ち込みは認めないようにしてみた。学生たちは自分でまとめてきた記述内容を頭にドスンと入れ込んで、試験でその内容を脱兎のごとく書いていく。ただし、シラバスにも書いたのだが、授業中に触れた内容を生かすようにして書くという条件を付けている。となれば、ある種の参考図書とかネット上のまとめ文をそっくりそのまま書いていれば、当然減点とすることができる。先に某先生と言ったが、これは向笠先生からのアドバイスに従って試みた次第である。当然のことのように、多くの学生が三十分の間に答案を懸命に仕上げたようだ。約半数の学生の席がしばらくして空いてきた。

「先生、結構、学生たちは答案を仕上げてますね」とは、ようちゃん。

 私は教卓の上の答案をパラパラ捲って、「そうだね。まだしっかり読んでないけど、どこかの参考書からの写し見たいなものもあるね」と、さらりと応えてみた。

「答案って、ざっと見るとそんなことが分かっちゃうんですか?」

「まあね、だって研究者って、その道のプロだよ。超オタクだよ。」

「ああ、そうですね。その道の専門家ですもんね」と、彼は納得するように言うと、これまでに来た答案の枚数を確認する作業をし始めた。私は残って真面目に取り組んでいる学生の間をゆっくりと監督者然としてゆっくりと歩み出した。

 試験終了のチャイムが鳴った。「はい、やめてください」もマニュアル通りに通過して、最後に答案枚数と着席名簿を確認すると、回収枚数を記入して終了となる。

「内田先生、学生時代の先生はスレンダーだったのに、それと比べると、今の先生ってナイスバディですね。」

「こら、その発言はセクハラだよ」と、すぐさま昔の塾生に返したが、自分としては満更ではなかった。ようちゃんは百八十センチの目線を下に降ろす形で、私の淡いピンクのブラウスの胸元を見ているようだった。

「先生、今度暇なとき、僕に院生の勉強の仕方教えてください。」

「院生になっても個別指導するの? 今度は高くついちゃうよ、ようちゃん。」

 私たちは八号館の玄関で、手を振って別れた。彼はこれから指導教授とのゼミがあると言っていた。最近はとくに学究の途を志すこと自体、無謀なことだと思う私がいた。学生数はこの二十年間で激減するし、私のような思想史畑のマイナーな科目は実学という枠組みからは当の昔に弾かれていたから。私自身は、自分の科目が世間の言うようなマイナーな学問だとは思ってはいない。実学をする上で、さらに実社会を生き抜くためには必要な要素を持つ学問だと思っている。「考える」ということ。「想像する」ということ。その種子としての先人たちの英知を知り、それを自らのものにして活かす。それが自らの学問である社会思想史だと思っている。この学問が未来を造る学問だ確信している。どれだけの人がそれを認めてくれるのか? 世間は認めてくれないだろうけれども。

 講師室に戻ってくると、向笠先生が大きめのキャリーバッグに答案の詰まった二つの膨らんだ封筒を仕舞っていた。

「マナちゃん、待ってたんだよ。」

 とうとう千草先生以外にも私のことを「マナミちゃん」、「マナちゃん」と呼ぶ輩が出てきたかと、半ば諦め感覚で、私は返事を返した。

「向笠先生は、早く試験時間を終えることができたんですか?」

「そうだね。大体の学生が四十五分くらいで退室したからね。まあ、こんなもんでしょう。学生たちは試験が終わればパラダイスなのに、こっちはこの後が地獄なのにねえ。」

「そうですね」という私の言葉に同意を受ける気持ちが足りなかったのか?

「おーい、マナちゃんはアダム・スミスの研究者だよね。スミスの同感の原理を知っているよね。今、軽く聞き流そうとしたよね。他人事だという軽んじた言い方だったよね」と、向笠先生は私に突っかかりぎみに応じた。

 確かに彼女の言う通りだと、私自身もすぐに思い返した。できれば、独り静かに帰宅して無言で今日の試験の採点を早く進めたいと思っていた。

「ねえ、マナちゃん。やっぱり今日のあなたはいつものような落ち着きがないように思うんだけど。あの日なの?」

「違います。ちょっと研究のことで悩んでいて、少し睡眠不足気味っていう所です。」

「そうなのかな? 女の勘としてはそんな心配事ではなく、もっと人間がらみのよう苦しそうな感じがするなあ。そうでしょう。」

 私は少々の苛立ちを持って、応えようとしていた。どんな苛立ちか自分でも意味不明な心の不安。そうだ、自分では良く分かっている。ケイトの精密検査のことが気がかりで仕方がなかった。それは本当だった。

「向笠先生、今日は気分が……」と言葉を続けようとしたときだった。いつ向笠先生が私の背後に回り込んだのか全く気付かなかった。私の表情は険しいものだったと自覚していた。彼女は私の背後から両腕を回してギュッと抱き締めた。それも無言のまま私を包んでくれた。その瞬間、私は自分が以前感じた心の動きを再び体感したような気分になってきた。自分が外界からの攻撃備えて武装していた鎧を簡単に解かれていく感覚。私の声がくぐもるのを自分の頬を流れる一筋の涙で気付いた。

「お疲れ様。マナちゃん。講師としての初めての学期が終わったよ。お疲れ様でした。」

 向笠先生は私の髪の匂いを嗅いでいるように、私には思えた。まるで子犬の毛を鼻先で撫でるようなそんな仕草をしているのではないかと。小さいときに自分が寂しがる子犬にしていた光景を思い出しながら考えていた。

「マナちゃんや、この近辺で美味しいビールを飲ませてくれるお店はないのかな?」

 優しい彼女の顔が私の横から近づいてきた。その彼女の顔は私との距離を益々縮めてきた。「向笠先生、それ以上近づくと駄目だよ」と、私は内心で呟いていた。案の定、彼女は私との空間をさらに狭めてきた。私の左目の視界を覆うように彼女の髪が接近したかと思うと、私の頬を流れた涙の軌道を彼女の舌が舐め上げた。もう、講師室には私と向笠先生、それに入り口付近の受付カウンターに職員の女性がいるだけだった。私たちのテーブルは受付からは死角になっていた。私自身が抱えていた不安を彼女に見透かされたような気持になった。駄目だ。この状況では私は相手に甘えてしまう。私の中の強気な私が無理して起き上がろうとしていた。

「そうですね。じゃあ、向笠先生にギネスの美味しいビールを飲ませるお店を教えちゃいます」と、私は笑顔を取り繕って強い口調で提案した。私は自分の自宅に近い逗子のマッチポイントというお店に彼女を連れていくことにした。

「やっぱりマナちゃんは、お酒が好きな口だよね」と、お店のカウンターに向笠先生は腰を降ろすなり内装を見渡しながら発言した。私たちはしばらく講師室で各自の答案を採点していた。職員の方がコーヒーを出してくれたこともあり、また教師としての心情から全く採点を休止するのも後で後悔するという思いから、一時間半ほど赤ペンを握り、成績付けをできるところまで終えた後でだった。すでにお店のテーブル席はグループ客で埋まっていて、カウンター席が数席空いていた状態だった。

 早速、千七百五十九年アイルランドで操業を始めた世界でも有名銘柄のギネスビールを注文した。さらに近隣の佐島漁港直送のアジや蛸の刺身などから箸を進めた。ギネスのグラスが空くたびに向笠先生は元気よくマスターに声をかけていた。鎌倉野菜のサラダとガーリックアンチョビピザが私たちの前に置かれた。最初は大学の講義の意義について真剣にお互いの考えを語った。次に自分の学問と人生についてのあり方。向笠先生は実学領域の学問としての限界性と実利的エンターテインメントとしてのスポーツのあり方について熱を帯びながら語られた。彼女曰く。スポーツ選手の寿命の短命さと引退後の人生をどう関係性を持ってコネクトしていくのか。その中ではやはり人生を生きる意味をどう表現していくのか。スポーツ選手の中で引退後、恵まれた環境でTVレポーターなり、評論家やご意見番になれるキャパはメディア界では限られている。そこで自らの人生の中での目標を明確に持って実行し、継続していく意志と思考が必要であると。

「私ね、マナちゃん。自分のスポーツ経営学で、エンターテインメント性をさっき言った通り、実利面、すなわち経営運営的な側面から強調しているけど、本当に選手自身は単に自らが打ち込んでいる種目の魅力をもっと世間の皆さんのもとに浸透させたいだけなんだよね。だから、経営面と選手の精神性の相互関係ってどう捉えたらいいのかなって、悩んでいるんだ。」

「向笠先生、そんなこと言ったら研究者だって同じことですよね。本来なら自分の分野だけをより深く考察研究したいと思っている。でも、私たちは生活がありますよね。だから、教育サービスに携わり、日常の糧を得ている。生きるっていうことは現実の社会の中を泳ぐことが前提で、実利と理想の間を行ったり来たりしているようなものではないでしょうか。理想があるから歩めるし、実利という自分の生活があるから目標に向かって進んでいけるのかなって、思うんですけど。」

「うん、それは良く分かるよ。今、私たちはプロの研究者として生きていること自体、他の人からみれば羨望の対象かもしれないね。自分のしたいことをやっているという世間の見立てだもの。でもさあ、マナちゃん。心身ともにやりたいことを日常的にやっている人って稀だよね。野球選手くらいかな?」

「でも野球選手も感謝フェスやサイン会やトークショーで、世間にサービスしてませんか? 向笠先生は、『生きる』ことと『研究する』を分けているんじゃないですか?」

「そうじゃないけど……」と、向笠先生は言ってからしばらく沈黙していた。

 研究者とは自らの内に問う生き物だと私は思っている。とくに私の分野はそうなのだ。人間本性分析と社会形成原理を歴史の中で探っていく。すると、必ずと言っていいほど先人の思考が歴史的背景の影響を受けている。至極当然のことだと思うけど、世間様は実践に役立たないものを切り捨てようとしている。そのとき多くの人が忘れているのが、私たちの社会環境は彼らの歴史の延長線上にあるということだ。地続きに私たちの現実は歴史と密接に結びついているということだ。それを都合よく忘れてしまう生物だから同じことを繰り返す。私はそう思っている。熟慮すること、思索を巡らせることがより良い「生きる」を体現するのに必要なのに……、と私は考えていた。

「あのさ、マナちゃん日常が楽しい?」と、彼女の唐突な問い掛け。

「うーん、今は楽しくないです。楽しくないって言うのは向笠先生とこうして飲食をしていることが楽しくないのではなくて……。大切な人が検査入院していて……。あ、ごめんなさい。こんなところで零すような話題ではないですね。」

「やっとマナちゃんの陰のある表情の原因が分かったような気がする。アハハ、お酒っていいよね。心と身体のストレスを和らげてくれるものね。それと少しは私の前でマナちゃんが本性を現してくれるくらいの間柄になれたって解釈していいのかな。」

 そう言うと向笠先生は、「マスター、もう一杯くれる?」と声をかけて空いたグラスを持ち上げた。もう何杯目なのか見当がつかなくなっていた。彼女のペースは私よりも確実に二倍は早いかもしれない。あれ? 今、何時だっけ? 私が携帯の時計で確かめるとすでに十一時を過ぎていた。「ラストオーダーですけど」と声をかけられたとき、向笠先生は、「もう一杯ちょうだい」と宣った。さすがに体格が違うし、元競泳選手の酒豪ぶりに感嘆するだけだった。彼女は時間を忘れていると私は思った。

「向笠先生、お家はどこでしたっけ?」

「東京の五反田よ。今日はマナちゃんのお家にお泊りだよ。」

 その発言から彼女は確信犯だとすぐに分かった。それに日頃接している向笠先生とは異なる側面をあの講師室でジンジンと感じていた。私の頬の涙の跡を彼女は自分の舌先で舐め上げた。一瞬のことで、私自身が油断していたところはある。仕方ないかなあ。

「お家に何も用意してませんよ。こんな展開を想定していたら予め言ってください。」

 私は少々憤慨感情を表現するように、ほっぺたを膨らませてにらみつける表情を作ったつもりだった。

「えへへ。一度、内田御殿を見てみたいと思ってたの。夏だからどこでもゴロンと横になればいいの。合宿慣れしてるし。私、明日はお休みだらね。それにマナちゃんのキュートな寝顔を見てみたいなあと、思って。」

 やはり向笠先生は相当アルコールを摂取したのが分かるくらいの真っ赤な顔が街灯の下で確認できた。私に私が専攻しているスミス研究の「同感の原理」を指摘しておいて、つまり、想像力で相手の立場に立つということだが、それを彼女は完全に無視をしている。二度三度、向笠先生の身体コントロールが怪しくふらふらしていた。でも、私が彼女の身体を支えるようなことはなく、向笠先生はキャリーバッグを引っ張って彼女の言う内田御殿に到着した。開錠すると私はいつもの癖で「ただいま」と玄関の土間で声を出した。

「おかえり」小さな声が聞こえたかと思うと、向笠先生が私の背後から倒れ込むように私に凭れかかってきた。

「おかえり、マナちゃん。」

 今度ははっきりと向笠先生の酔っ払いにありがちな何も考えなしの条件反射的な呟きに思えた。私は彼女の体重に押しつぶされるのではないかと思いつつ、彼女を一度、上がり框に腰かけさせようとした。彼女は俯きかげんにそこに腰かけた。「ふー」と息を長く吐いた後、彼女のスニーカーを脱がせようとしてしゃがんだ私の上半身を逞しい腕が私から自由を奪った。

「おかえり、マナーミ。」

「えっ、ケイト?」

 私は自分の耳に届いた声を疑った。私の耳元で彼女の肉声が聞こえたような気がした。突然、向笠先生の腕から自分が解放されたかと思うと、彼女の眼が私の深部を見据えるように留まり、彼女の口が緩やかに開いた。

「良く見えるよ、マナーミ。心配かけちゃったね。益々、女に磨きがかかったね。」

 向笠先生の中に、ケイトが宿ったのが鮮明に私には感じられた。自分のネックレスのクリスタルと思しき原石が鈍く光り、向笠先生と私の顔を浮かび上がらせていた。彼女の顔とケイトの顔がシンクロしてきた。私の頬骨を彼女は両手でがっちりと固定すると彼女の唇が私の唇を塞いだ。懐かしい感触に私は浸っていった。目を閉じて幾ばくかの間、沈黙した空気が漂っていた。私は早くケイトに精密検査の結果を訊きたいという欲望とこのまま彼女の唇の温もりを永遠にも似た時間の中で保有しておきたいという衝動の板挟みになっていた。お酒の匂いが次第に濃くなってきた。私は未だに目を閉じていたが、ケイトの気配が薄れていくのを皮膚感覚で感じ始めていた。彼女の唇が離れたので、私もゆっくりと目を開けると、向笠先生が我に返ったように私に微笑みかけた。

「マナちゃん、ごめんなさい。私は昔からお酒を飲み過ぎると、どうもキス魔に変身するみたいなの。ああ、やっちゃった。」

 向笠先生の先程の私に向けた微笑みからすると、この行為自体も実際は疑わしいな、と私は思ったのだが。絶対にあの瞬間にはケイトが彼女の身体に侵入し、ケイトがこの現場に現れたのだと、私は確信していた。

 私は向笠先生に一階の客間で寝てもらおうと思っていた。一日の汗を流してもらおうと向笠先生にシャワーを使う様に促した。その後、私も浴びて爽やかに睡眠を取る予定でいた。そのように物事は運んでいたかに見えた。やはり向笠先生のバックの中にはお泊りセット用のポーチが入っていたようだ。化粧を落とし、髪を洗ってタオルを頭に巻いていた。

「さっぱりした。ありがとう、マナちゃん。それとこのTシャツと短パンもありがとうね。とっても楽だわあ。」

「それは良かったです。もう、先程の客間に布団を用意しておきましたから、ゆっくりとお休みください。私も明日は夕方までは時間が空いていますから。」

「本当にありがとう。合宿で大正ロマン風の高級旅館に泊まっているみたい。ワクワクするな。ねえ、冷えたビールがあったら頂いてもいいかな? ここでマナちゃんがシャワーから出るのを待ってていい? 小旅行の場所や日程をまだ話してなかったよね。いい?

飲んで待てて。」

「別にいいですけど」と、私は少々素っ気なく返事をしてシャワーを浴びに居間から出て行った。


 私は再びケイトとのルームメイトのスタート日を思い出した。二人の住処への入居を祝って、ささやかなパーティーをしてみた。この機会に彼女に伝えておくべきことはちゃんと伝えておきたいと意志を固めていた。

「ねえ、ケイト。私ね、あなたに言っておかなければならないことがあるの。」

「『何?』という私からの問かけを待っているのなら、必要ないよ。あなたがフェアリーだということはもう知っているから。安心して。私たちは上手くやっていけるよ。」

「えっ?」

「私ね、マナーミと出会ったのは必然だと思っている。マナーミの願いを叶えてあげたい。その代わりにあなたのうちに宿しているアメジストを輝かせてあげるから、その小さな欠片を私にくれないかな。」

 私は当たり前だが、ケイトが言っている内容を掴めないでいた。

「今日から一緒に寝よう」と、ケイトは言うと向かい合ったテーブル越しに手を伸ばしてきた。彼女の指が私の指に絡まると、再び、彼女の指先から見えない触手が私の身体と心の中に侵入してくる感覚を持った。その感覚は不思議な体感を私に植え付けるとともに、私の不安や恐れを融解していってくれるようだった。

「シャワーを浴びるとき、着替えるときはじろじろ見ないで。恥ずかしいから」と、私はケイトに懇願した。少し必要以上にお願いをした。自分の身体的性徴を隠しておきたかったからだ。そのためのルール作りを以前に提案したかったのだが。

 ケイトが先にシャワーを浴びて、私がその後にという順番で。

「先に寝ててもいいよ」と、私はケイトに告げたのだが、彼女は私を待っていた。高い天井に電球が一つ。だから、テーブル脇に背の高い電気スタンドが間接照明よろしく置いてあるのか? 私はこの異国の窓と照明があまり日本のように白っぽくないことにどこか安心していた。日本の照明文化と欧米のそれは瞳の色のせいだという情報は得ていたが、それだけではない。その照明がカーテンを開け放した窓から漏れることによって、街並みをオレンジ色という暖色に染めて、人の営みを誇示しているようにもみえる。日本のようにカーテンで屋内と戸外を遮るのではなく、緩く灯りが人々を繋げているように私は感じた。その環境こそが英国社会の個人主義を包み込んで、「共感」という漠然とした感情の交錯からの社会形成論の誕生に結びついたのかもしれないと、スコットランドの地に来てからぼんやりと思い始めていた。個人主義とは基本は孤独なのである。その個という存在を寂しさという共有する感情を基にして私たちは集団を作ってきたのかな、というのがこの数日間での私の小さな結論であった。

 私がシャワーを浴びて部屋に戻ってくると、部屋の電球は消されていて、布で覆われたスタンドライトの暖かみのある明りの下で、ソファーに座りながらケイトは赤毛にブラシを通していた。

「さあ、ここに座って」と、ケイトは私に声をかけた。私は無造作に自分の髪をバスタオルで拭っていた。私は首を振って、彼女が指定したソファーではなく、ベッドに腰かけた。

「怖がらなくてもいいよ。私はあなたを襲ったりしないから」と言って、ケイトはさも面白そうに笑った。そうなのだ。まさに今日は彼女との初夜なのだ。「変な言い方」と、私は心の中で呟いた。

「初夜だよ」というケイトの声掛け。それから彼女は私の脇に座ると、私のバスタオルを取り上げて優しく髪を拭いてくれた。ドライヤーも掛けてくれて、私が日本から持参したヘアオイルを髪に馴染ませてくれた。長期間の留学だからどこかドラッグストアのようなところで自分に合ったものを調達しなければならないとも私は考えていた。ケイトが指を私の髪に通すたびに私の身体が暖かく喜んでいる感覚を得ていった。変な気分。かつて姉に髪を触ってもらったときの情緒の平静をこのときも感じた。

「マナーミの長い黒髪が羨ましい。私の髪は天然だからもう大変!」と、ケイトはいうと自分の豊かな赤毛を搔きむしる仕草をした。私は彼女にやってもらったお礼として、自分のヘアオイルを彼女のウェーブ頭に通していった。彼女と私は会話をしていないのに手に取るように相手の心の言葉が交わるように思われてきた。

 ケイトが寝る前だというのに、美味しいミルクティーを入れて上げると言った。台所は部屋の外にあるが、電気ケトルはテーブルの上に置いてある。そのお湯が沸くと、ポットにティーバッグをポンという感じで浸した。私の内心が「そんな雑な淹れ方で美味しいミルクティーになるの?」と呟いたら、彼女がこう応えた。

「あのね、ちゃんと美味しいミルクティーになるよ」と、こちらに顔を振り返って大きな声を発した。案の定、紅茶は美味しかった。どうも英国の硬水がそうさせていることに後で気付いたのだが。

 ベッドではケイトが右を陣取り、私が左を選んだ。そして、スタンドランプの豆球だけの灯りを残した。私はケイトに背中を向けて、「おやすみ」と小さな声で伝えた。すると、彼女がそれには答えず、私を背後から一旦、両腕で包んできた。私の中の「襲われる」という呟き。

「襲わないから、マナーミ。こっち向いてくれる?」という彼女の声に呼応して、私は彼女の方を向くべく寝返りを打った。すると、ケイトの顔が私の顔に近づいてきた。私の唇の先端にケイトの広い唇が微かに触れた。「あ、あ……」と、私の内なる驚いた小さな叫びが微かに聞こえたような。ただ、怖くないと、私の身体が囁いていた。彼女の口が大きく開いたのを私は目前で見ていた。私は「食べられる」と、思った矢先に私も自分の口を「う」の字にした。その私の唇全体が彼女の唇に覆われていった。彼女の舌先が私の唇の輪郭をゆっくりなぞると、その後のことは私自身の記憶にははっきりと刻まれていない。私の身体全体にケイトの身体の体重が重なった思った瞬間に、彼女の実体が私の中に浸透してくる、と私の皮膚の中にケイトがいる異様な感覚が浮遊感を持って続いていた。襲われたのではなく、私は彼女と実体として一つになった感覚だった。本当に彼女の言う通り、私とケイトとの遭遇は必然的であった、とその夜素直に飲み込む私がいた。


 私が夏の汗を洗い流した後、向笠先生の様子を居間に覗きに行ったら、彼女はロングソファーに横になって静かに寝息を立てていた。彼女の表情は満足げに見えた。何かその顔はにこやかにも私には見えたので、私は彼女の顔を何気に覗き込んだ。ただ、向笠先生の高くて整った鼻をじっくりと拝みたかった。私がもう少し近づこうとしたとき、向笠先生の瞼が開いた。そこにはスカイブルーの瞳が私を見据えていた。先程と同様に私の頬骨を彼女の両手が包み込んだかと思うと、彼女の唇が……。向笠先生は口角を上げていた。笑みを湛えて私の瞳の奥を覗いていた。向笠先生の眼の色は私と同じだったはず。現在の彼女の瞳の色は、スカイブルーに変化していた。彼女の両手に私の顔は誘導されていった。私の唇が……、私は食べられる……。「あなたは、ケイト?なの」と思念の中で囁いた。彼女は少しだけ顎を引いて私の質問に答えると、私の唇は彼女の唇に上から柔らかく重なっていった。彼女の舌先が私の唇の形を確認して、再び、私を味わっていた。「ケイト!」と、私は歓喜の叫び声とともに、自分から幾度も唇を融かし合わせる行為を重ね、むしゃぶりついてしまった。あのケイトとのお互いの実体としての存在が一つになっていく感覚が蘇ってきた。

 翌朝、私は向笠先生に提供した布団の上に彼女と一緒にいる自分に気が付いた。私の身体にとっくに忘れていた充足感が漲り、現状のあられもない姿には未だ自分自身が気づかぬふりをしていた。私は、向笠先生の寝顔を昨晩のように覗き込んだ。今度は、彼女の中にケイトの証を探そうとして。すると、向笠先生の膝小僧が私の股間にピタリとくっ付いた。

「おはようございます」と、私は自分から彼女に声をかけた。向笠先生は自分の涎に気が付いたのか、あるいは、無意識なのか左手で口元を拭いながら目を開けた。彼女の第一声は普通に、「おはよう」だった。しばらくして、私の顔が自分の目の前の十センチほどにあるのを確認したのか?

「マナちゃん、私……」と言うと、しばらく口を閉ざして二人の現状を把握しようと必死になっているように見えた。

「マナちゃん、わ・た・し……」と、彼女が繰り返そうとしたので、私は自分の唇で向笠先生の唇を一瞬、蓋をした。

「向笠先生、ちゃんと責任を取ってくださいね。私を襲ったんですよ」と、彼女の反応を悪戯っぽく確かめる自分がいるのを私は楽しんでいた。二人ともタオルケットの下は全裸。

急いで向笠先生は起き上がろうとした。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」と言うと、彼女は自分の着ていたシャツを見つけようと、私に広い背中を見せていた。その背中は現役並みに練習をしているから肩甲骨に逞しい筋肉がスーツのように張り付いている。さらにくびれたウエストが彼女のプロポーションの良さを物語っていた。好きだ、この体!

「向笠先生、好き!」と私は言って、彼女の背中に飛びついた。自分の両掌を彼女の肩にのせ、しっかりと彼女が逃げないように力を込めた。その後、私は左の頬を彼女の筋肉質の肌にピタリと付け、彼女の汗の臭いを確かめた。

 向笠先生の言い訳は、分かりやすいものだった。自分はレスビアンなのだという。自分が水泳を始めたのも奇麗な先輩の姿が身近で見られるという特権を得るために、強化選手にまで努力したということ。合宿等で可愛がられたということ。一時期はパートナーとして契りを結んでいたが、先輩が引退と同時に、男性との結婚を決めたということ。向笠先生からすれば、自分は二股をかけられて捨てられたという傷心を抱えて、自分は競技人生を終えたという。それからは慣れない学究の途を志してこれまで来たが、最近は何をなすにも自分の限界性を自覚するゆえに、悶々とした日々をアルコールで誤魔化していたという。

「ごめんなさい。私、今はマナちゃんのような可愛い、それでいて芯の強そうな女子に心惹かれるの。実際……、白状するね、私はあなたを一目見たときから狙っていたのは確かなの。」

 私はどう答えたらいいのでしょうか? 私もケイトとの過去を持っている。私の場合はケイトが恋しくて、向笠先生の身体をケイトが乗っ取っていたなんて言っても彼女に信じてもらえない。でも、しがみついた向笠先生の体格とケイトのそれがよく似ているのは確か。まだ推測でしかないが、向笠先生の瞳の色がスカイブルーになったとき確信したことがある。ケイトは自分と背格好の似た人物の心身に入り込むことができるのかもしれないと。私は向笠先生とどう接していけばいいのか、ケイトの残像が残る頭で一つの結論を導き出そうとしていた。ケイトのことはまだ秘密にしていたい。

「私、向笠先生の彼女になってもいいですか?」

 そんな脅しともとれる言葉を自分でも信じられないくらい軽率に言葉にした。

「それは私にとって、とっても嬉しいこと。私のことを理解してくれる人が近くにいること。さらに私が愛し、愛される存在でいられるなら、どんなにこれからの人生が楽しくなることか。でも、私はマナちゃんを束縛するかもしれない。それが心配なの。私からもお願い聞いて。パートナーになってください。」

 向笠先生は朝食の席を立つと、私に深々と頭を下げた。私は彼女が上体を起こすのを待って、彼女にぶら下がるように飛びついてキスを要求した。私の中の狡猾さが自らの眼をギラリと輝かせていた。

「これから向笠先生のこと、けいちゃん、って呼んでいいですか?」

 ケイトとけいちゃん、近い呼び名。いつでもけいちゃんの中にケイトが入ってくれればこの上ない喜び。否、けいちゃんをケイトが支配してくれればさらに私には願ったり叶ったりかも。いつでもケイトと私は一緒になれる。

「これからは、いつでも遊びに来てください。もしよければ引っ越してきても良いですよ。」

 ああ、何と我ながら名案だ、と私の狡猾さの仮面が笑った。


 しかし、物事は自分の思惑通りには運ばないのがこの世の常。

 その日、昼食までけいちゃんと私は過ごした後、いつもの木曜日よろしく個別指導塾に行き、その夜のこと。玄関の上がり框で、「ただいま」とケイトとの会話を始めようとした。

「おかえり、マナーミ。」

 そのケイトの元気そうな声を聞いて、安堵しながらシャワーを浴びて今日の彼女との短時間の会話を楽しもうとしていた。

 私はご機嫌にエールの缶を開けた。

「マナーミ、あなたが想像しているように私は彼女の実体に入ることができれば、あなたとの関係を持てるけど、精密検査の結果はあまり良くない結果だったの。」

「どういう結果?」

「私のケイトという身体の心臓は弱くなっているの。機能的欠陥があるんだって。だから、いつか言っていたとおりで健康な肉体がなければ、現状のあなたとの通信は途絶えてしまう。これからは地理的、物理的距離を越えて語れる機会が少なくなるかもしれないけれど堪忍してね。」

「うん、最初から原因が分かっているなら私も無駄な心配はしなくてすむから。分かったよ、ケイト。」

「それにどうも近くにあなたを支えてくれる人ができたみたいだから、それはそれで私も安心できる。」

「そうだね、でも、私はケイトが一番大切な人だからね。もう少し将来像が描ける身分になったらあなたの所に私が行くから。待っててね。」

「ありがとう、マナーミ。」

 ケイトはそう言うと、私の髪を撫でる風の流れを感じるとともに彼女は去っていった。

 その夜の私の夢に病院のケイトの姿を見ることができた。何となく元気そうに見える。その眼はケイトに写真を渡され、その写真に写っている人物を見ていた。その数枚の写真に写っているのはケイトと私のツーショット。その一枚に私たち二人がウエディングドレスをお互いに身につけた写真があった。ああ、そんなこともあったな、とわずかばかり思い出し始めていた。その後、その映像を映し出しているレンズの前にケイトが手鏡を渡した。鏡に可愛い少女の丸い顔が映し出された。鏡の中に移る女児にケイトが声をかけたようだ。女児はケイトを写した。ケイトは女児に向かって手を振っていた。まるでその子の先に私がいるのを知っているかのように。いつも無声のまま夢の映像は突然途絶えるのだが。


 けいちゃんとの伊豆への小旅行計画の前の日曜日に予告通りに内田の祖母が終活の続きのために帰ってきた。祖母はまだ足腰は極めて良好そうだ。一階の一番奥まった一室が祖父母の寝室だ。その隣にいつも祖母が執務室的に使っていた部屋がある。それ以前は祖父の書斎だったらしい。その部屋の祖父の遺品とともに祖母は自らの品々も片付けると言っていた。

「おばあちゃん、手伝うから何でも言って。」

「ありがとう。だったら、デスクを片付けるよりも先に本棚の上の段ボール箱を降ろしてちょうだい。あの中におじいちゃんと私の若かりし思い出が詰まっているから。もう、マナミにお願いしておいた方がいいかな。私の棺の中におじいちゃんの写真も入れてほしいんだ。」

「こら、おばあちゃん。まだ先のことでしょう。」

「そうは言ってもねえ、神様はあとどれくらい私に時間をくれるか不確かでしょう。もしかすると、隕石が私を目がけて落ちてくることもあるかもしれないわよね。」

「ないよ、おばあちゃん」と言いながら、私は古ぼけた段ボール箱を床に置いた。私は知っているぞ。古ぼけた段ボールはゴキブリの食事になるということを。あるときゴキブリが屋敷奥の部屋に逃げ込んでしまったのを目撃している。私は、ゴキブリは嫌いだからそのまま放っておいたのだ。さらに言えば、屋敷が広くて自分のテリトリーとは距離があるのでゴキブリ退治までは率先して動いたことがなかった。

 祖母は懐かしそうに祖父との思い出だろうか、アルバムを捲っていた。目ぼしい写真を見つけると、アルバムから抜き取っていたようだ。私は祖母からの声がない時間は自分の作業場で研究論文のための資料を整理していた。すると、しばらくしてから祖母の声がした。

「これね、おじいちゃんの若かりし姿。よく似ているでしょう。あなたのパパと。」

確かにその二人はよく似ていると思った。私のくるりとした眼に二重瞼は内田家のDNAだ。さらに、祖母はもう一枚を私に手渡した。ああ、私はこの光景は知っているし、空気感も良く分かるという写真だった。

「これね、スカイ島におじいちゃんと一緒に行ったときの写真なのよ。」

 あれ?と私は思った。

「おばあちゃんがスコットランドに行ったことあるなんて、私、聞いてないかも。ただ、私の向こうの話をいつもおばあちゃんは懐かしそうに聞いてたよね。やっと、分かりました。おばあちゃんが私の留学を薦めたのもそのせいかな。」

 祖母は微笑みながら、「もともとおじいちゃんはスコッチが好きで、横浜で小さな貿易会社を立ち上げた時分は、まだおじいちゃんは直接交渉しに行ってたんだよ。それに同行したときの写真ね」と言うと、そばにおじいちゃんがいるかのように自分の右に視線を自然に移していた。スカイ島北部のユーウィグという場所の峠の上まで二人でマウンテンバイクで登ったという話。下界に緑の草原が広がり、いくつもの大きな池が点在している。私も似たような景色を目の当たりにした経験を持つ。

「ねえ、この女の子。可愛いと思わない? 現地でお世話になった醸造家の娘さんだったかしら」と言って、祖母はもう一枚の写真を私に見せた。祖母の話だと赤毛でブルーの瞳が典型的なスコットランド女子の特徴と言っていたが。この少女の顔はどこかで見たような……。そうだ、夢に見た女児とよく似ている。確かに典型的なスコティシュの容貌だと私も思った。

「ねえ、マナちゃんはケルトの妖精の話は知っている?」

「はい、留学中のルームメイトのケイトから聞いたことはあるよ」と言って、私は思い出した。

 ケイトに聞いたことがある。「どうして、すぐにマッカーサーさんの出身地を言い当てたの?」と彼女に尋ねた。彼女は少し呆れた顔をして私を見てから、次のように説明してくれた。

「マナーミ、知っておくべき事よ。まず、マッカーサーさんの綴りを郵便受けで見たでしょうエムシー(Mc)をね。そのシー(c)の位置が出身を顕著に表しているのよ。シー(c)が下にあれば、その人の出身地はスコットランド系。一方、シー(c)が上に浮かんでいればアイルランド系。彼らのお家はシー(c)が浮かんでいたでしょう(MC)。それにダグが娘さんの名前を紹介してくれたでしょう。ダナとディアナ。それぞれケルト神話の中に登場する女神であったり、妖精であったりの名前なのよ。ダナは、確か、女神の中で最強かな。地母神だったような。ディアナは狩猟や誕生の神。それに月の神だったはずよ」と。ケイトが彼らと御先祖様が元々近いということ。さらに、ケイトは島出身だがスコットランドネイティブに違いないのだ。したがって、彼女がそのようなケルト神話に慣れ親しんできたことは間違いない。一つ私が知っているのは、あの有名な『指輪物語』の中に登場する妖精の国の王女様が人間の王子と結婚する話くらいなもの。その話の内容がスカイ島のダンヴェイガン城の逸話にある。本当に中世において、妖精の王女と城主が婚姻を結んで、そのお祝いに妖精の国から贈られたという幅十メートル、縦二十メートルくらいのタペストり―があるそうだ。そのタペストリーの繊維は妖精が編んだもので、その布の切れ端を煎じて飲めば生きながらえるという話が実しやかに広まり、タペストリーの床に近い角から人々が切れ端を千切っていたそうな。それくらいは私も教養として知ってた。

「おばあちゃん。以前話した通り、ルームメイトの友人がスコットランドの島の子だよ。だから、その子から少し聞いたことはあるけどね。」

「なら、スカイ島が妖精の島なのも、知っているわね。おじいちゃんの醸造家の友人のトムさんから聞いた話だと、あなたも知っているダンヴェイガン城の丸い石橋の手前で、必ずガソリン車はエンジンが止まるそうよ。ある日、そのトムさんがレンタカーでその橋の手前まで来ると、今まで問題なく動いていたエンジンが止まり、何度もリスタートしようとしてもエンジンはかからないままだって。しかたなく、トムさんはエンジンの調子を点検するべく、ドアを開けて外へ歩み出したそうなの。するとね、前方のバンパーの上にちょこんとティンカーベルみたいな羽の生えた妖精さんが座っていて、トムさんにウィンクしたそうよ。もう一度、ちゃんと見ようとしたときにはもう消えていたって。トムさんは最後にこう付け加えたのよ。『私の話を信じるか信じないかは、あなたにお任せします』だって。」

「おばあちゃんは、そのトムさんのお話を信じたの?」

「もちろん。だからね、私もその後、妖精さんに会ったのよ。これも、マナちゃんが信じるか信じないかはあなた次第ね。」

 今日は頗るご機嫌なおばあちゃんだな、と私は強く思った。私は自分のスコットランド体験はおばあちゃんにほとんど話していないような気がする。ただ、ケイトという友人の話はいくらか伝えたはず。

「マナちゃんは、妖精はいると思う?」

「もちろん、いる派だよ。」

「となれば、あなたもむこうにいるとき不思議な体験をしてきたのね。」

「おばあちゃんは妖精に会ったって言ってたけど、どこで?」

「おじいちゃんと訪ねたそのスカイ島よ」と彼女は言うと、満面の笑みを湛えた。おばあちゃんは、不思議体験をこんな風に話してくれた。醸造家宅の一室に小さな作者不詳のアゲハチョウの小さな絵が額縁のなかに収められ、ベッドの頭の上の壁に掛けてあった。おばちゃんはそれ見るなり、驚いた。おばちゃんが眼を離すとその蝶は羽を動かしていた。おばあちゃんはおじいちゃんにそれを伝えると、「疲れたから、良く寝るように」と言われたらしい。深夜、月明かりがカーテンの隙間から入り込んでいた。おばあちゃんが目を覚ますと、自分の目の前を月光に照らされた蝶が羽音も立てずに、舞っていたという。おばあちゃんは蝶を目で追いかけ、上体をベッドの上に起こしてもなお、その蝶は舞っていた。その蝶が窓辺で強い灯りに照らされたと思うと、次の瞬間に可愛らしいサイズの妖精がおばあちゃんに気づいたという。

「こんばんわ。あなたは私が見えるのですね。」

 おばあちゃんは、その光景を知っていると思ったそうだ。英国に渡り、スコットランドのボーダーを越えたあたりから、誰かが耳元で話かけてきていた。その囁き声は自分の知らない言語だから、気味悪がっていたそうだ。しかし、しばらくすると言語の内容が聞き取れるようになった。他愛もない天候の話やこの通りのパブの酒は美味しくないなどなど。

よくおじいちゃんの発言かな?と、聞き返すことも多かったようだ。

「こんばんわ」と、おばあちゃんは勇気を出して声にしてみた。いえ、思念の中で喋ったかも。その妖精は微笑んで、「こんばんわ」とおばあちゃんに返したそうだ。それから、明後日は強く雨が降るからお出かけをするのは明日の方がいいなどと言われたそうだ。また、本土に帰るときはフェリーの船上では盗難に気を付ける旨も注意されたそうである。

「それでね、マナちゃんにだけ言うね」と、おばあちゃんは前置きをしたあとで、「その妖精さん、最後に私にこう言ったの。『彼との思い出をいっぱい作って。彼とあなたが一緒にいられる時間はあまりないのよ。ごめんなさい。』と、その意味が分かるまで私は寝付けないでいたはずなのだけど、翌朝、おじいちゃんに揺り起こされちゃった。ぐっすり眠っていたのね。私は起きるなり、おじいちゃんに抱きついちゃった。アハハ……」と。おばあちゃんが懐かしい情景を思い浮かべているのが分かったし、涙ぐんでいるのも私には感じ取れた。だから、いつ何が起こっても落ち着いていられるようにといつも肝に銘じていたとおばあちゃんは語った。

「マナちゃんに上げたいものがあるんだけど、この箱には入っていなかったみたい。」

「何なの?」と、私はちょっぴり後ろめたい感情を伴って尋ねた。私はおばあちゃんから生活のあらゆる支援を受けて育ってきたのだから。

「フェアリーストーンよ。私ね、あの時にスカイ島で拾って来たの。おじいちゃんと浜辺に遊びに行ったとき、妖精の声が聞こえたのね、姿は見せなかったけど。小さな丸っこい石が足元で輝いていたの。その石は、そうだなあ、直径三センチくらいで中央に棒状の茶色の結晶がまるで十字架のように重なっていたの。私は咄嗟に、『ありがとう』と声のする方に返事をしたわ。そしたら、おじいちゃんが私を呼んでいたの。これもマナちゃんなら信じる?」

「もちろんだよ、おばあちゃん。今でも妖精の声は聞こえるの?」と、少し興味本位に無邪気に訊いてみた。おばあちゃんはとぼけた表情を作った。

 私たちはランチを予約していたので、その後、鎌倉のフレンチビストロレストランへおばあちゃんの専用車で向かった。終始ご機嫌なおばあちゃんの笑顔だった。


 個別指導塾から帰ると、「ただいま」の掛け声。

「おかえり、マナーミ」という元気になったケイトの声。

「最近、体調はいいの?」

「お陰様で。今、マナーミは時間ある?」

「うん、いいよ」と、私が答えるや否や携帯が振動した。慌てて私は携帯を手に取ると知らない電話番号だと思ったが、自分の彼女への返事からすぐの動作だったので躊躇なくでた。すると、画面にケイトの笑顔があった。

「ケイト!」と、私は午後十時を過ぎた自分の家で叫んだ。彼女の輪郭は少しシャープになった気がしたが、彼女の瞳は相変わらずのスカイブルーに輝いていた。

「マナーミ、通信環境が整ったエリアに久しぶりに移ったから、あなたの顔をリアルタイムで見たくなったの。元気そうね。それに見ないうちに益々奇麗になった感じするな。」

「ありがとう。しっかりお世辞を言ってくれる人はあなたの他にいないよ。」

「アハハ、お世辞じゃないってば。いつも私はありのままを言ってるでしょう。」

「そこは病院のベッドの上?」

「ええ、そうよ。私ね、そろそろあなたに伝えておかなければならないことがあるから、こうやって電話したの。まず、今度、心臓の手術をします。」

「やっぱり悪いの? 命に関わるような手術なの?」

「うーん。こればっかりは神様の決めることだからね、何とも言えないな。もう一つあなたに黙っていたけど子供がいるの。」

「誰の子供? あなたと……」と言って、私は続く言葉を自身の内で探し出した。ケイトは誰と結婚したの? 私にずっと隠していたということになるの? ケイトは何て水臭いヤツなんだろうと、ちょっぴり画面に向かって私はムッとした表情をして見せた。ケイトが誰かを呼んでいた。「ジル」というように私には聞こえた。幼女の丸い顔、赤毛。えっ、目の色はオッドアイ? 虹彩異色症? つまりは右目と左目の虹彩の色が違っている目。右目はケイトと同じスカイブルーで、左目は深いブラウンに見えた。幼女の瞳が私を捉えた瞬間だった。私の頭の映像に私の顔が大写しになっていた。ああ、これは夢に見る映像に非常によく似ている。どういうこと? 私の夢は、夢ではなくて現実を写していたの?また、この子の眼を通した映像を私は受け取っていたの? もう一つ気づいたことがあった。ある日の映像の中のケイトの口の動きで「イ」、「ウ」の母音を私は思い浮かべたが、この「イ」、「ウ」こそが「ジ」、「ル」だったことに私の想像の中で行きついた結論だった。

「あなたと私の娘よ。さあ、パパに挨拶しなさい、ジル。」

「マナダッド、あなたがマナダッド?」

 幼女の瞳は想像を絶する喜びを湛えているように私には感じられた。

「私はマナミです」と答えながら、私の中に確信めいた感情が沸々と湧いてきた。ケイトと私の娘。なぜそう思ったのかって? シンプルな事。なぜなら、ケイトは人間の姿をしているが、その肉体の中味は別の生命体だから。単なる霊性の持ち主では済まされない生物。実は誰もがその存在を知っているにもかかわらず、押し黙って語らない存在。ケイトの顔が再び映った。

「ジルはね、あなたと私の娘。分かるわよね」という、彼女の念押しの明確な物言い。

「ええ、分かるよ。」

「もしだけど、もし私の手術がうまくいかなかったら、ということは九十パーセントないけど。もし何かあったら、ジルをよろしくね。」

「ケイト、分かったよ。あなた何かを予感しているということ?」

「大丈夫よ、絶対……」と彼女が続けた言葉には、私は少しばかりの違和感を持った。

「今、ジルの面倒は誰が見てるの?」

「ヒデーミ。あなたのすぐ上のお姉さん。」

 秀ネエ? 秀ネエ(秀美)。あの跳ねっかえり姉さんがどうしてケイトと一緒にいるの? 不思議なことが起こっていた。もう私は不思議な事や奇異な事には慣れっこになっていた。スコットランドの地、スコットランドの島ではすべてが異世界の出来事のように思えたことが多々あった。だから、私はおばあちゃんの昔ばなしも単なる作り話ではないと考えている。人間は経験したという下地の上に自らの生き様があるのだから。嘘はすぐに化けの皮が剥がれるのがオチだ。偽りのないおばあちゃんの澄んだ目がそれを語っていた。

「これから再検査の数が多くなって疲れちゃって、あなたの帰りを待てないかもしれないけど、心配しないで。また、掛けるから」と、ケイトの声の後ろで、久しぶりに聞く姉の声を確認した。


 秀ネエは、私のすぐ上の姉だ。年齢は私と二つ違い。もう彼女が日本を飛び出して何年になるのだろう。秀ネエの噂は昨年、帰省した折に、私たち姉妹の長女である優ネエ(優実)から聞いたことがあった。優ネエと私たち二人は歳が離れている。彼女は私と十五歳も離れているので、両親が亡くなってからは親代わりの存在だった。父の仕事の関係で落ち着いた先が松江だった。そこで父は老舗和菓子店の娘であった母と出会い、結婚したそうだ。私が五歳のときだから、秀ネエが七歳。優ネエが二十歳のとき、両親は海外赴任先での多重交通事故に巻き込まれ、この世を去ってしまった。だから、私の記憶に父母の面影は非常に薄い。ということは、私は愛情に飢えた人間に違いない。その裏返しとして、私は誰かに、とくに年齢の近い仲間に対しては自分の内面を見られたくない一心で、頑なに自己を主張するところがあった。

優ネエは地元の島根大学教育学部に進学したが、中途で公務員試験を受けて、市役所に入職した。現在は松江市役所勤務。私たち三人は、一度は母方の宮本家に引き取られた。その経緯の下で、父方の内田家との諍いがあったらしい。優ネエの就職とともに宮本家の和菓子店舗の近く賃貸物件を探して、三人で暮らすようになった。加えて、優ネエは影ながら祖父母の営む和菓子店を今も暇を見つけて手伝っている。とても優しい年長の姉である。

 一方、秀ネエは、私から見ると強靭な女性である。開拓精神が旺盛にあり、何でもオリジナリティとクリエイティヴィティを重要視する人だ。彼女と私は歳も近いせいもあり、小中高と同じ学校に進んだ。跳ねっかえりの片鱗は随所にあったが、一番分かりやすいのは学校校則、つまりブラック校則とは毅然と戦ったということだ。髪の色の問題、スカートの長さの問題、ジェンダー問題など学校関連の出来事には事欠かない。優ネエともかなりぶつかっていた。慣習的で保守的な優ネエと斬新で革新的な秀ネエ。彼女は高校を卒業すると、内田のおばあちゃんの誘いで、アメリカの大学へ進学していった。それからは自由気ままな性格も相俟って、あまり私は彼女の消息を知る機会に無かった。風の便りに彼女が大学っ卒業後、商社に勤務し、世界を股にかけて働いているビジネスウーマンになったのは知っていたが。どうして、どこで秀ネエとケイトとの接点ができてしまったのか、そのことに非常に興味がわいたのは確かだ。

 八月に入ってから、私が帰宅して、「ただいま」と声をかけてもケイトの返事が聞こえなくなっていた。一方、時折、私の夢? 否、現実に起こっていることだと思うが、あのジルの眼を通した映像が頭に映ってくる。ある日は、ケイトがネブライザーを取り付けて寝ている姿が。また、ある時はケイトが横になって少しにこやかにジルの顔をみているであろうような映像が浮かび上がってきた。しばらく時を置いて、ケイトから連絡があった。

手術の日程が決まったという内容だった。

 お盆休みには向笠先生こと、けいちゃんと伊豆への小旅行に行く約束があった。あの日以来、けいちゃんは私のラインによく連絡をしてくるようになった。絵文字の毎朝、毎晩の挨拶、通話が二日に一度は必ずあった。よっぽど私のことを気にかけてくれているのか、あるいは、本当に私のことを愛おしく思ってくれているのか。あの日、彼女は私を束縛するかもと言っていたことは覚えているが。その彼女の私に対する行動がケイトとチャットできない寂しさを紛らわしてくれていたのは確かだった。けいちゃんは大学と専門学校非常勤講師をしていた。さらに、その合間を縫って資格試験問題作成も行っていることを教えてくれた。さらに、専門学校に講師の空きがあれば推薦してくれるという、確約ではないが、私にとっては嬉しい約束もしてくれた。なかなか会えなかったが、久しぶりに彼女に会えることに私自身の心が弾んでいることに少し我ながら驚いていた。けいちゃんはケイトの代替なのだと、彼女に対して失礼な心情を持っている自分に許せない側面をも感じていた。

 旧盆の初日がけいちゃんとの小旅行の日。私たちは横浜駅の東海道線ホームで待ち合わせをした。すでに下田行きの踊り子五号の指定席を取っていたので、その乗車マークで私は彼女を待っていた。この日も暑い陽射しが照り付けていた。私は白を基調としたロゴTとボトムズはブルーのティアードスカートにメッシュサンダル履きで、大きめのリュックに着替えを入れていた。

「ごめんなさい、マナちゃん。ずいぶん待った?」と、けいちゃんが私の肩をポンと叩いて声をかけてきた。彼女はノースリーブの小花柄がプリントされたワンピースにストラップサンダルを履いて、試験日に転がしていたキャリーバッグを従えていた。

「いいえ、私もちょっと前に着いたばっかりです。もうすぐ電車が入線しますね。楽しみです。本当にこれから行くホテルは無理して取ったんじゃないでしょうね。」

「だから言ったでしょう。友人の日程が合わなくなって、譲ってもらったって。本当に疑い深いんだから」と、彼女らしい嘘のない笑い声を出した。

「なら、いいんですけど。だって、この間の話だと前から私を『狙っていた』って言ってたから、これもけいちゃんの事前の計画に入っていたことじゃないのかな、って思ったんです。」

「私自身は何を言われてもいいんですけど。こうして、マナちゃんが私と一緒に行ってくれるだけで幸せだな。」

 踊り子号は、一時間半ほどで伊東駅に到着した。私たちの宿泊するホテルは伊東パウエルらしい。けいちゃんも伊東は初めてらしい。けいちゃんはスマホのマップ機能を使い、本日の宿がここから徒歩七分くらいの海辺にあることを私に伝えた。その前に昼食を摂りに駅前商店街の食堂に入り、私はサクラエビのかき揚げ天ぷらそばを注文した。それに対してけいちゃんは海鮮丼を頼んだのだ。確かに体格差があるのは否めないが、彼女はそれに加えて、昼間にも関わらずグラスビールを注文した。

「マナちゃんも飲まない? 私たちにとって完全なオフなんてそうそうないじゃない。あ、そうだ。マナちゃんはちゃんと水着持ってきた? ホテルからオレンジビーチまですぐだっていうから泳ぎに行こう。」

「あのう、泳ぐなんて聞いてなかったですよ。」

「そうだっけ? でもホテルの売店にもきっと水着は売ってるよ。私があなたのために買ってあげるからさあ。」

「いいですよ。私全く体に自信ないから。これまでも水着はあまり着たことがなくて……」と、私は固辞したが、彼女は聞き入れてくれない。この人の言うことを聞かないのが、たぶん研究者各自が自分の専攻分野を突き進んでいける一つのポイントには間違いない。彼女が言っていたオフがないもの研究者の日常だ。自分の専攻以外は、彼らにとっては雑用の部類に入るのだ。したがって、雑用的な仕事が終わると、頭の中からむくむくと研究虫が顔を覗かせ、栄養となる材料を探し回る。それが日常的に脳内で行われていることは、多分、一般人の社会人には完全に理解されないところであろう。なので、よく社会人になると仕事と趣味の両立ということが話題となるが、その状況は逆に研究者にはあまり当てはまらないだろう。彼らにとっては、研究こそが趣味みたいなもの。つまり、趣味と研究がイコールの関係にあり、研究は仕事に違いないから、仕事と趣味は同じこととなる。私もご多分に漏れないと思うが。研究に勝る対象とは何か? それは……。これまでに私に起こっている不思議な事柄や場面、さらには人間関係について再考する時間が欲しいのは事実。とにかく、けいちゃんから提案された事案については、ほぼほぼ思考の領域には入っていなかった。

「私は知ってるよ。マナちゃんは自分で思っているよりも、均整がとれたボディしてるもの。あなたが素敵な美白肌を露出したら、普通の男性なら見逃さないし、絶対にあなたに声をかけないことはないから。もう、注目の的だと思うんだ。」

「馬鹿なこと言わないでください。私を材料にして、モニタリングでもするつもりですか?」

「うん、考えていなかったけれど、それありかも。ビーチにマナちゃんを独り残して隠れちゃおうかな。アハハ。」

「私で遊ばないでください。絶対、水着いりませんから。」

 私たちはお腹がこなれるまで、そのテーブルに陣取って他愛ないお喋りを続けていた。

 ホテルのチェックインまではまだ間があった。一度、駅のロッカーに大きな荷物は預けて、身軽になっていた。けいちゃんに言われるまま、ある衣料店の水着売り場に誘導された。でも、私は水着はいらないのだから。

「マナちゃん、これなんか良くない?」と、私にけいちゃんが手渡してくれたのはトロピカルブーケのプリントされたビキニだった。私はとんでもない!と感じて、無言で彼女に突っ返した。

「そんなにブスッとしなくてもいいじゃない。今日ぐらい楽しもうよ。お互いいい歳をした女子なんだからさあ。」

「じゃあ、けいちゃんはどんな水着を持ってきたんですか?」

 すると、先程自分のキャリーバッグからトートバッグに移し替えた袋を開けて見せた。

「これよ」と中身を指差して、ちょっと恥ずかしいのか、大人女子の顔が赤く染まったような気がした。それもビキニだ。その絵柄がアメリカの星条旗柄だということに私は気が付いた。

「ちょっと年のわりには派手かなって、思ったけど、これまで私は競技用ワンピースしか着たことなかったのね。だから、大冒険しようと思ってみたの。」

 確かに大大冒険だと彼女の所業を僅かばかり避難してみたかったが、彼女の可愛らしいポニーテールが十代の生娘の艶やかな髪毛のように輝いて、彼女の若さを証明しているように見えた。私の方が十も若いのに、もしかする私が彼女よりも年上に見えるのかな、などとちょっぴり不安になった。

「あのう、姉妹ですか? どのような水着をお探しですか?」と、品の良さそうな店員に掴まってしまった。そう、掴まったと言った方がいいと思う。なぜなら、けいちゃんは外見からも水泳ができるように見える。一方、私はどちらかという運動音痴に見えるかもしれない。したがって、女子二人旅の思い出作りの観光客であることは一目瞭然であろう。さらに、彼女がずいぶんと積極的に品定めをしていた姿をすでに観察していたからだ。

「どうですか、人目を気にせず着て遊べるこのビキニセットは如何ですか。きっとお似合いになりますよ」と言いながら、店員は私たちにレースキャミとデニムショートパンツがセットになった小花柄の青と赤のビキニを私たちに見せてくれた。私の印象では、確かにレースキャミとパンツを履いていれば、人目を気にしなくて済むし、思い切ってざぶんと海に入ってしまえば、そんなにビキニ姿を長時間人目に晒すことにもならないかな、と普段考えない思考回路を働かせていた。それがいけなかったのだと思う。

「いいわね、マナちゃん。」

「良さそう」と、私が言い終わらないうちに、けいちゃんは店員の後ろに付いて会計の方に向かっていた。私は、「良さそう」と感想を述べたまでで、着るとは言っていないし、海水浴をする気もなかったのだが……。そうこうしているうちに、けいちゃんはお店と話をつけて、私たちはここで着替えることとなった。私は内気な人間だが、世間からはどう見られているかは知らないが、私自身の気持ちが浮ついてきたように思えた。こんな事ではいけない、と考えている自分が空気を抜かれて萎んでいく風船のようになっていった。燥ぎたい自分がニヤリと目を輝かせながら、悪戯っぽくえくぼを作っていた。

「どうかなあ?」と私は試着室のカーテンを開けた。すでに着替え終わっていたけいちゃんが振り返った。

「ああ、良く似合っている。いいなあ、スレンダーな白くて長い美脚が羨ましい」と、彼女は言って、私の脚元から舐めまわすような目つきで見上げていった。

「あとは、もう少し胸の厚みがあったら完璧なのにね。」

 私はムッとする半面、然もあり何という表情の入り混じった複雑なこれまであまり感じたことのない精神の動揺に振り回されそうになっていた。帰国してから一人で地元の逗子海岸で海を眺めたり、波打ち際で戯れることがあったが、それ以上には海と接する機会を持たなかった。なぜなら、夏の逗子海岸は多くの海水浴客を集め、地元民はどちらかというと敬遠していたからだ。だから、水着を買おうと思ったことがなかった。その障壁がどうも今回の件で取り除かれたかも。私は、けいちゃんの粘着質な目と彼女から溢れ出る燥ぎたいオーラに囲まれながら、その場で身をターンさせてみた。完全に載せられた。

「マナちゃん、一端のモデルさん!」と、彼女は私に嬉しそうに声をかけ、彼女の隣にいたお店の女性にも同意を求めた。

「お二人とも、お美しい。まるでモデルさんみたい」と、最上級クラスのお世辞が飛び出してきた。

 ショップからその姿で一歩出ると、誰かの眼に触れたような肌感覚を持ったのは私だけだろうか。

「私たちは研究者の前に、女性であることをここで自覚しようか。」

「それも悪くないかもしれませんね。」

 私は日頃の自らの立ち位置から飛び降りた感覚だった。けいちゃんの策略にハマったかも知れない、こんなでは彼女の術中に完全に陥っていったような……。

 ホテルのチェックインを済ませ、日焼け止めを晒す肌に入念に塗った。すでに年齢を感じ始めている私たちはオレンジビーチに日傘を差して向かった。多くの海水浴客でにぎわいをみせている浜辺はそんなにスペースがないように見えたが、逗子海岸程の混み具合とは次元の違う余裕すら私には感じられた。またけいちゃんの感想も湘南と比べたら、まだ可愛いものだよねという感想を漏らしていた。私たちは海の家からパラソルを借りて場所を確保し、人生初のビキニ姿を世間様に披露したことになる。けいちゃんは筋肉が脂肪化して人様に見せられた肉体ではないと謙遜していたが、十分に色香を漂わせるバストとヒップの膨らみがビキニを身につけたことで強調された。私は? 自分では判断が出来ない。

「マナちゃん、どこかの箱入り娘みたい。白い花がビキニを纏っている」と、けいちゃんに言われて、自分の目線を自分の胸元に合わせ、足元まで見るとそんな先入観にとらわれた。自分は本当に可愛い女子になったんだと。

 私たちは手を繋いで、波間に体を漂わせた。昔、田舎の浜辺で父母に浮き輪を持ったまま、大きな波間に連れていかれた記憶が蘇ってきた。もう、その体験は一度きりで終わったような気がした。

 しばらく海で遊んだ後、パラソルの下まで戻ってきた。けいちゃんが飲み物を買ってくると言って売店に向かったすぐ後だった。私がバスタオルで体の水気を拭って、それを肩に掛けた。そのとき、誰かが私に声をかけてきた。

「お一人ですか?」

「いえ、友達と一緒です。」

 相手は大学生風の若者だった。見た目はそんなに派手ではなく、ワルではなさそう。

「もし良かったら、ビーチバレーの相手になってくれませんか?」

「私、下手くそなんです」と、彼らの誘いを断ろうとしていたところへけいちゃんがタイミングよく缶ビールを持って帰ってきた。私の目の前で彼女のポニテが甘く揺れた。

「どうかしたの? マナちゃん。」と言って、まず私に声をかけてから、彼女は彼ら若者をじっと見詰めてからこう言った。

「誘っているの? ナンパかな。」

「はい、ビーチバレーをお誘いしています。」

 彼らはがっちりした体つきのけいちゃんの迫力に押されているように見えた。

「お姉さんたちなら、バレーボール出来るかなと思って。」

 リーダー格の若者は、一歩も引きさがろうとしないように私には見えた。そのリーダー格の横顔は私の好きな若手俳優に似ているなというファーストインプレッションをもっていたのと、彼らの身だしなみから不埒さは私の感性では探知できなかったので、私の中では「誘いに乗ってもいいかな」などと自分の方が厭らしい感情を持っていたかも。

「そうねえ、じゃあ、ちょっと待ってくれる。私たちは泳いできたところだから、少し休ませてくれる。」

「はい、あの向こうのコートで待ってますから」と、元気よく彼は返事をすると仲間三人とボールをパスしながら海岸端にあるビーチバレーコートに小さくなっていった。

「けいちゃん、相手してあげるの?」と、私が彼女に尋ねると、けいちゃんは嬉しそうに言った。

「そういうマナちゃんこそ、嬉しそうな顔して彼らの誘いを聞いていたでしょう。」

 彼女の言う通り、図星だった。そんなに私は軽い女にみえるの? 自分の行動と表情を彼女はちゃんとモニタリングしていた。

「私が言った通りでしょう。マナちゃんがそんな恰好すると男どもはイチコロだよ。本当に私がいないとあなたは危ない目に合うかもよ。私が同伴していることに感謝しなさい。私が彼らの相手をしてあげるから、あなたは適当に遊んでなさい。」

 バレーコートに行くと、彼らの大歓迎を受けた。私たちは三対三に別れてチームを作り、数ゲームを消化した。けいちゃんは身長もあり、ブロックもできる。でも、私はと言えばやはり運動下手がビキニを着ている状態。砂粒が胸に入らないように注意しているのが精一杯。ショートパンツはけいちゃんの忠告通り身につけていた。すごく楽しい。生まれて初めての経験。男子とこんな形で遊んだことはなかったかもしれない。けいちゃんが自らの前歴を彼らに伝えると、彼女は彼らのレスペクトの対象となった。しかし、私たちの素性はすんなりとはオープンには出来ない。私たちは都心のOLというカモフラージュ。

 ホテルに戻ると、シャワーを浴びて浴衣に着替え、夕食の時間を待った。オーシャンビューのデラックスツインの部屋からは夕暮れて染まる海辺の光景が美しかった。けいちゃんと私は窓辺のソファーに並んで座っていた。

「もう体のあちこちが痛くなってきたよう。あいつら結構、真剣にビーチバレーに取り組んでいる連中みたいだね。さすがのお姉さんも歳には勝てないな。」

「だって、けいちゃんはムキになってやってるんだもの。びっくりしちゃった。あんなにブロックに飛び上がると、ビキニが捲れるんじゃないかと冷や冷やしてたんだよ、私。」

「うん、危なかった。何度もズレそうになっちゃった。あなただって、出来ないくせにボールを取ろうとして砂にめり込むんだもの。そっちの方が心配してたんだから。あなたの小さな胸の膨らみが削れるんじゃないかと思って。アハハ。」

 普段のけいちゃんと普段の私はこのオフで、確実に研究者を捨てていた。研究者以前に人間であり、女性として遅い青春を私たちが日常的に関わっている学生の年齢の若者とはしゃいでいた。そんなアラサーとアラフォーの世間では熟した女子と呼ばれる私たちがいた。

 夕食を終えると、子ども連れの客層と時間をずらして遅い時間に海の水平線の見える露天風呂にビーチバレーで悲鳴を上げた身体をゆっくりと沈めた。

「私ってモテるのかな?」と、私は謙遜気味にけいちゃんに問いかけた。

「何を今さら言ってるのよ。あなたは自分にもっと自信を持たなくっちゃ。それともっと周りに関心を持った方がいいかもしれない。世間のこと知らなさすぎるかも。」

「そうかな。けいちゃんは自分のことどう思う。いい女? それとも性悪な女?」

「あなたはどうなのよ? 先に答えなさい」と、そのまま自分に跳ね返ってきた。

「いい女かな?」と、私は戸惑った回答を彼女に返した。だって、小さいときから私は自分の思うような人生を過ごしていなかったような気がしたから。

「れっきとした今まさに熟している女だよね。マナちゃんは。」

「熟している?」

「そうだよ。もう男からみれば、あなたは色気に満ちていて、男どもは涎垂れまくりと言ってもいいよ。あの子たちのお世辞の裏を見抜けないでしょう。天然なマナちゃん。男どもはね、『やりたい』の単純細胞なんだから。それもこれも有性生殖の性だよね。もし、無性生殖が自然界の常識であれば、性差に付加価値は付かないよね。この付加価値って、社会のオスから見た付加価値でしょう。私たちにとっての欲望とオスの欲望は違うわけで。」

 私はそんなこと考えてもみなかった。幼少の頃、ちょっとだけ姉のことが羨ましかった。でも、秀ネエは秀ネエで、『あなたが羨ましい』と、目を吊り上げて怒鳴っていた記憶がある。どうして彼女は私に当たっていたのだろうか。

「そうですね。最初から性差がなければ、もっと生きやすい世の中になりますよね」と、一応の返事をけいちゃんにした後で、世間様の情勢に無頓着な自分の思考回路にちょっぴり嫌気がさしてきた。最近、米国大統領が性別は男と女だけだという発言をした。それは多様性を否定するものだという議論があった。さらに、米国内の公用語は英語だけだとした。それはやはり多文化社会のサラダボールにはお決まりのドレッシングをかけるようなものだと、私は思った覚えがある。見た目は違うけど味は一緒になっちゃう。かつてのアメリカという鋳型に多国籍の移民を流し込んだ、前近代的で保守的なアメリカに成り下がろうとしているとも思った。大統領は「アメリカンドリームの再生」という言葉を使っていたが、その発想の根底には「自由」と「平等」と「公平性」がなければドリームの実現可能性は途轍もなく低いものになってしまう。

「アメリカンドリームって、あると思う」が、けいちゃんに向かって出た私の質問になった。

「そうね、あるんじゃない。すくなくともスポーツ界においてはね。そもそも以前に話したよね。貧困から成り上がるのが、あるいは無名からメジャーになるのがアメリカンドリーム。その先に億万長者の生活。スポーツ界は弱肉強食で明らかに成果主義の世界。第一にその人の素質と才能が備わっているか。第二に強い意志を持って努力を継続できるか。第三に機会を逃さない「運」を持っているか否か。私たちの学究の世界も結構同じじゃない? あ、そうだ。もう一つあるとすれば、良縁かな。」

「良縁? どこか婚活アプリ的な意味も感じますけど。」

「アハハ、そうだね。婚活アプリも研究者求人サイトももしかすると同じ穴もムジナかもね。拡大解釈したら、就活も典型的な出会い系サイトと同じなのかもしれないよね。ただ、人間と出会うのか。あるいは、仕事と出会うのか。多くの情報を集め、自らの判断で仕事や相手を決めるわけだけれど、出会いのタイミングがやっぱり大事だよね。だから、先輩にもいるよ。優秀な業績をあげていらっしゃるけれども、今も予備校講師って人。何が足りないと思う? マナちゃん。」

「『運』ですか?」

「それは当然のこと。運がなければチャンスは転がってこない。加えて、その先輩に足りないのは努力。言い換えると、コミュニケーションとコネクション。もっと単純に言えば、コミュニケーション能力が貧弱で、つまりコミ障だから人との関係性を構築できないし、続かないわけよ。」

「私たちも、コミ障の部類に入りません? 研究者の生活は世間の生活と随分と異なった生き方だと思うんですが。会社勤めの方でしたら仕事が終わると、日常の生活へ戻るということがありますが、私たち研究者は、これはかつてお話したように、日常生活を送りながら、その一方で仕事はエンドレス。頭の中に自分の疑問を抱えながら、どこか夢遊病者のごとく現世を泳いでいる。こんな私たちと一般の人が真面な会話が成立すると思いますか? 世間は私たちにコミ障という烙印を押しますよね。」

 けいちゃんは湯船からちょこんとお尻を浮かせて、一段高くなっている場所に腰かけた。

膝から下だけをお湯に浸しながら、私にも隣に座るように促した。私も彼女との会話の最中に頭も体もポカポカしてオーバーヒート気味なのは確かだ。強い陽射しの空気とは異なる海からの風が心地よく上半身を撫でていった。

「この世の中では、私たちは有性生殖の片割れであるメスでしかないよね。私たちは女という現実を受け入れるか否か。どこかでそれを慣習的に受け入れてしまったこの日本という国。男のいない世界でのんびりと暮らしたいなあ。マナちゃんと一緒に……。」

 そう言うとけいちゃんは私の左肩に密着し、彼女の右腕が私の右肩を力強く押さえた。必然的に私は彼女に寄りかかる格好だ。左耳元で、「マナちゃん」という囁きが私の鼓膜に甘く響き、彼女の舌先が私の外耳の輪郭をなぞっていた。私の身体の熱は温泉の中で相当温まっていたと思う。それに加えて、次に私が感じたのはお臍の辺りから四方へ広がっていく別次元の熱の伝わり方だった。その伝わっていく熱は、散弾銃のように熱源を私の身体の部分部分に散らばりながら、到達した場所で居座ってさらに熱量を増してきたように思えた。けいちゃんの筋肉質の腕に巻かれ、私の身体は斜め四十五度になった。彼女の豊かな乳房に私の胸が圧し潰されそうになっていった。私の唇が中途半端に開いたのを私は自覚した。幅広のけいちゃんの口が大きく上下に開き、私の唇を食していった。私は彼女の強いハグを求めていたかもしれない。一度、私は彼女と自宅で触れ合い、浸透し合ったが、あの状況はけいちゃんの愛し方ではなかったはずだ。泥酔した彼女の身体をケイトが借りて、私の奥底へ久しぶりに侵入し、溶解、融合したのがこの前だ。きっと、この私が肌身で感じている艶めかしい愛し方がけいちゃんのものだ。私は、人間同士の肌の触れ方を知っているだろうか。すでに遅い時刻になって、周りに人がいなくなるのを彼女は虎視眈々と見計らっていたのかもしれない。自分のピンク色に染まった皮膚の上に彼女は自らの唇を押し当てていった。いつから私は両手を後ろ手について彼女の攻めを受けていたのだろう。けいちゃんの丸めた髪が私の顎先でグラインドしていた。私の硬く立った乳首が彼女の舌で弄られている。彼女の指先が私の内腿から股間に向けて滑らかに浮遊しながら襞を上下に愛撫しているようだ。どんどん彼女の唇が私の臍から下に移っていった。自分の上半身が解放されたのと引き換えに、けいちゃんのキスが、長い滑らかな彼女の舌が私の秘所を責め立てていった。私の身体を支えていた両腕は抵抗を止めたと同時に、私の上半身は弛緩し、私の背中は流れ出る温水に浸っていた。私の眼の上には星の瞬きがいくつも見えていた。それを隠すように彼女の淫靡な瞳が私を襲った。二人の裸体の肌が滑るように絡み合っていたことを私は覚えている。その余韻はベッドの上でもエンドレスだっだかも……。

 ズシリとした重い体の気怠さとは裏腹に、私の目覚めはいつになく晴れやかな爽快感を運んできた。私はけいちゃんの腕を枕にしていた。彼女の長い髪が私の目尻を擽っていた。

私が、「起きてる?」って彼女に声をかけると、昨日私を羽交い絞めにしたその腕は大蛇のように再び私に巻き付き、彼女の肉付きのいい太腿が私の脚に絡んできた。ああ、彼女の質量がこんなに私を圧迫する。彼女の皮膚の密着と圧力が私を我が物として、ずんずん私の心身を縛っていく感覚が強くなってきた。

「おはよう、私のマナちゃん。」

 そのけいちゃんの言葉は静かだった。落ち着いた音声は私の心まで振動させ、私を安心させた。何も考えさせない、何もできない自分が彼女の傍らで安らいでいた。その日はホテルの朝食を済ませると、伊豆急行に乗って伊豆高原駅で下車し、バスで大室山を目指した。その日は風が強かったが、登山リフトは営業していた。この伊豆半島ジオパークの一角をなすこの山は四千年前に火山として活動していたらしい。けいちゃんは他の大学では観光学も教えていて、観光地のスポットは熟知していることもこのとき私は知った。私はこの山肌を見たときに、ふっとスコットランドの情景を思い出した。思い出した途端、けいちゃんと手を繋いでいるのに、自分の内面がケイトを強く感じ始めた。大室山は植生として、山に生育している森林を持たない。そのグリーンの山肌が私にケイトとの日々をじわじわと思い出させてきた。

 どうして私はこの小旅行でケイトのことをすっかり忘れていたの? それに彼女と私の娘であるジルの存在。さらにはそこに自分のすぐ上の姉である秀ネエが関わっているという奇妙な偶然性。けいちゃんは私の新しい恋人になるの? もしそうであれば、私はケイトを捨てたことになるの? 私はそんな薄情な人間ではない……。けいちゃんが山頂の散策の途中、私をバックハグしてしばらく私に愛を囁いてくれたが、そのときの私の表情はきっと愛されることへの安堵ではなく、暴かれたくない過去と現在、そして未来へ繋がる歪んだ道を不安に見つめる眼をしていたに違いない。ネックレスの先の小さなクリスタルがちくりと光ったような気がした。

「また連絡するね」とけいちゃんは言いながら、立ち上がろうとする私の腕を引っ張って、私にシャロウキスをした。彼女の力強さは強引さの裏返しなのかな、と思う自分がいた。本当に彼女は私を愛してくれているが、その愛は支配欲の塊なのかもしれない。しかし、その彼女の有無を言わせない力に抱きしめられていく感触は自分がずっと留学から帰ってから求めていたものかもしれない。ケイトもけいちゃんと同じくらいの体格をしている。ケイトはケルトの血筋だから骨格は構造上しっかりしているし、骨そのものも太いに違いないが、脂肪の付き具合が彼女のボディを魅力的に見せていた。しばしば、私を御姫様抱っこをしてベッドに運んでくれるくらいの力持ちの彼女だ。一方、けいちゃんの身体は改めて述べると、元競泳選手で、引退後も練習だけは続けているから体内脂肪率は低い。ただ、筋肉に寄り添う脂肪分は女性らしさを引き立たせるのに十分な柔軟性を帯びているように感じた。でも、両者が力比べをするとどちらが勝つのだろう、などと全くの妄想が私の内部で繰り広げられていた。彼女たちの力加減でいうと、ケイトのハグは西欧の慣習の積み重ねの上にあり、心身を包み込む仕草が洗練されているし、無駄な力みがない。だから、非常に愛おしさを私に十分に注いでくれたように思う。けいちゃんのハグは彼女の心情がストレートに表出されているように私には思われた。「自分のもの」という所有欲が彼女のハグの全てだろう。「もう誰にもやらない」という迫力が私の心身に沁み、猛烈な力は私という存在を慈しんでいるようだ。

 けいちゃんの行為はシャロウキスだけでは終わらなかった。ぐいっと引っ張られて、彼女の懐へ私は押し込まれた。

「マナちゃん、私の本当の恋人になって」と、けいちゃんの懇願する囁きが私の体幹を狂わせた。私は彼女のワンピースの胸元に自分の鼻をつけて蠢かせていた。「離れたくない」という心の声が私を震わせた。「このままずっと、けいちゃんと過ごしたい」と切に思う自分の存在自体が弱々しい私の本質かも知れないとも考える自分がいた。日常の生活に戻ろうと決心する自分を奮い立たせるように、彼女から身を起こし離れると、私は大船駅で下車して横須賀線に乗り換えて帰宅した。


 玄関戸を開け、「ただいま」という習慣。

「おかえり、マナーミ」という返事を期待していたが、その代わりに自分のスマホがリュックの中でバイブしていた。ビデオ通話だ。

画面に秀ネエの化粧気のない、しかしながら、利発な整った顔が映し出された。

「お久しぶり、マナ」と、相手は私の顔を認めるとすぐに声をかけてきた。

「秀ネエ……」と、言ったはいいが私は続く言葉が出てこない。てっきり、私はケイトの笑顔が拝めるものと思っていた矢先だっだので。

「安心して。ケイトの手術は無事に終わったよ。あとは術後の経過を見ていかないといけないってお医者さんが言っていたの。」

「ありがとう、秀ネエ」と謝意を示した後、私の抱いていた疑問を尋ねた。

「秀ネエはどうしてケイトと知り合ったの? どうしてそこにいるの?」

「話せば長くなるけど、端的に言うと、私の相棒と彼女が同じ村の出身だということと、

ケイトは私があなたの姉であることを最初から知ってたみたいなの。その後は、グラスゴウのウェスタンインファーマリーに行かなくちゃいけないから同行してもらいたいという流れで、そうね、成り行きで現在に至るよ。私もマナに一つ訊きたいの。ジルはケイトとあなたの血の通った子供なの?」

 秀ネエの腑に落ちないという口をへの字にする表情を久々に見た私は、彼女に滑稽さを見つけて、「ウフフ」と笑顔を漏らしてしまった。

「何? そこ笑うところ? こっちはバカンスで、相棒の田舎でデジタルデトックスを期待して羽を伸ばしに来たんだよ。それがオジャンになったという気分。まあ、ジルが可愛くてしかたないけどね。」

 ちょうど画面の下からジルが赤毛とオッドアイを覗かせた。

「マナダッド!」

 ジルはカメラに移ろうとして、ピヨンピヨンと飛び上がっているみたいだ。一度、秀ネエからスマホを奪った。ジルは自分の顔を大写しにした。

「ジル、元気?」と、私はにこやかに彼女に声をかけた。

「元気。早くマナダッドに会いたい。」

「会えるよ、もうすぐ」と答えると、すぐに私は彼女にケイトのことを尋ねた。

「ケイトは大丈夫?」

「今、ママ寝てるよ。ほら……」と言うと、画面が揺れ始めた。彼女は病院の廊下をダッシュしたようだ。サアーっと扉が開く画面映像と、次に静かに寝ているケイトの横顔が映し出された。

「マナダッド、ママはダッドが大好きだって。」

 そのとき、秀ネエの手がジルに奪われたスマホを取り返したらしい。

「また、連絡するね。一度、切るね。」

 私の耳に「マナーミ」というケイトの声が微かに聞こえたような気がしたので、私は未だに自宅の玄関に立ったままの状態で、大声を出した。「ケイト!」と。だが、それ以上のケイトの反応はなかった。

 ラインを確認すると、ラインには次々にけいちゃんのメッセージが入ってきていた。既読スルーしている自分がそこにはいた。既読がつくと、改めて彼女のメッセージが追いかけてきた。「寂しいよう」という猫のイラストが涙を零していた。私はちゃんとけいちゃんにケイトのことを話さなくてはいけない。いつまでも隠しておけるものではない。ただ、まだけいちゃんとの親密な時間を十分に過ごしたわけではないと自分は思っている。誰が関係性の密度を正確に測れるというの。たぶん誰もその密度を測定できる人などいないはずだ。但し、時間が密度を濃くするものでもなく、関係性の密度がその質を示すものでもない。私は年上のけいちゃんに子供のように甘えたのは自覚している。私は誰にでも甘えているのかもしれない。非力な自分という弱い存在を甘えても許してもらえる相手に見せることで、相手の懐へ入っていこうとしている。それが出来ない場合は、刃金が貫通出来ないくらいの鎧を自ら武装することで、安心感を自分の中で醸成しようとしている。けいちゃんの生身の肉体が私を庇護してくれる存在だと小旅行での出来事は明らかにしてくれた。しかし、本当のところは、すでに自分の内心の声が指摘した通り、「彼女はケイトの代替」なのだと……。

 自分の心の内部で、ガタガタと震える小さな私を見つけた。次々に自分を襲う外部で発生したさざ波が陸に近づくにつれて波高は増長されて津波のように自分に迫って来る。自分に近づくにしたがって、波高は益々大きくなっていく。自分の身長の何十倍もある波が私の頭上からドドッと音を立てて崩れ落ちてくる。その後、海水は私を包み込んだかと思うと、凄まじいパワーで私の身体を海底へと引きずり込んでいく。

 夏期講習会の打ち上げで、講師の先生方と楽しく飲んだはずの愉快な気持ちは瞬時に薄れていき、目の前に突き出された難問題が牙をむいて私に襲い掛かる。居間のソファーに私は身を横たえると、無性に悲しくなっていった。情緒不安定の極みかもしれない。こんだけ精神バランスが崩れているということは女子の日の影響も少なからずあるのは否定できない。あらゆるマイナス要素が今の私を蝕んでいっている。「こんなことは初めて……」と、狂人寸前の私が思っている。明らかに私の精神は自身のコントローラーでは制御できないでいる。アーンアンと幼児のように泣き叫びながら無自覚に立ち上がる。私は屋敷の長い廊下を踏み鳴らしながら、こぼれる涙をそのままにして幾度となく往復を繰り返している。しばらくすると、私は、かつて祖父の書斎のあったこの間おばあちゃんと片付けをしていた奥の部屋のドアの前で蹲っていた。

「誰か、助けて……」と、喉から絞り出す声はただの嗚咽でしかなかった。誰かにしっかり受け止めてもらいたい。誰かに力強く抱きかかえてもらいたい。私は結局、幼少の頃より成長をしていないかもしれない。突然、スマホの着信音が鳴った。私はいまだに感情を自らの統治下に置けず、涙の粒はぼたぼたと床を濡らしていた。何かに縋る思いで、四つん這いのままスマホの呼ぶ方へ這っていった。バグパイプの着信音が延々と鳴っている錯覚に囚われている自分の耳鳴り?

「マナちゃん……」と聞こえてきた自分を呼ぶ声。間違いなくけいちゃんの狂おしいほど私が欲しがっていた声だ。けいちゃんの甘い声と逞しい肉体と肌に包まれたい。息苦しくなるほど自分の身体を羽交い絞めにしてもらいたい。自分の身体が音を立てて崩壊する前に、粉々に砕け散る前に、私の身体のパーツをぐるぐるに大蛇のような圧力で縛ってもらいたい。

「マナちゃん、どうしたの? 一体、どうしたのよ?」

 その彼女の繰り返す問いかけが、私の内側で増幅されていくほど私の喉は絞めつけられたまま言葉を発することはできず、嗚咽が止まらなくなってきた。心臓の鼓動が加速して、高鳴り、呼吸が浅くなっていくに伴って、自分の内部映像が真っ白な霧だけを映していた。「もう駄目……」、「もう限界……」と小さな私が声に出せない言葉に抗えず、倒れていったみたいだ。

 ジルの見ているもの。ケイトが寝たまま腕を伸ばし、彼女の手を握ったみたい。音声はないが、ケイトはジルの眼を見ながら、「大丈夫、愛してる」と優しく声をかけたみたい。米粒よりも小さいが、ケイトの意識が戻ったことが確認できた。不安要因の一つが霧消していった。私はそのまま眠ったみたい。

 玄関チャイムがけたたましくなっていた。夏の早朝は白んでいた。

誰かが私の名前を呼んでいた。

「マナちゃん、マナちゃん。マナちゃん。」

 その声は紛れもなくけいちゃんの声だった。床から私はゆっくりと立ち上がると、ふらふら重心が定まらず、揺れながら足を進めていた。建物をぐるっと庭に回ってきたらしくけいちゃんの姿がガラス戸越しに見えた。そうだ、私は漆黒のビッグバンに飲み込まそうになって、彼女に助けを求めた。その先を私は覚えていなかった。ジルの眼がケイトの目覚めを映してくれた。それだけでどす黒く固まっている自分の神経が僅かばかり緩んだ。その緩くなった隙間に睡魔が雪崩れ込んできた。その後は……。

「けいちゃん」と、小さく呟いた声が彼女に聞こえたみたい。ガラスに映る影が私の名前を再び読んだ。

「マナちゃん、大丈夫? 開けてくれる?」

 私は縁側のガラス戸を開錠した。まだ開き切らない人が半身にならないとすり抜けられないくらいの隙間から、けいちゃんの上半身が現れた。

「ああ、良かった。マナちゃん、生きていた。」

 私はしゃがみ込み彼女にしがみついて、彼女の爽やかな髪毛の匂いを嗅いだ。けいちゃんの両腕が私をぐっと引き寄せた。私が待ち望んでいたのは、この猛烈な圧力だ。私の身体を押し潰しそうな重量感だ。どれくらいの時間を私は彼女にしがみついていたのかよく覚えていないが、私の身体はお風呂場に運ばれていた。その前には一度ソファーに座らされ、メイク落としシートでけいちゃんは私の顔を舐めるように拭いていたことは知っている。私は駄々っ子が未だ自分の所業を責められるのではないかと、親と目を合わせないでいるそんな状況にいた。脱衣場で操り人形のように身に纏わり付いていたロングTシャツをはぎとられ、カーブパンツを降ろされ、下着を脱がされていった。「ちょっと先に入っていて」ということばに背中を押されて、タイルの床の感触を感じながらその場に立っていた。彼女の足先が俯き加減の私の床を見ていた視界に入ってきた。足首が細く締まっている。その上に少しづつ目線を移していくと、彼女の引き締まった脹脛が見えてきた。コックを開ける音がした。突然、私は水を頭部に浴びせられた。

「わあ!」と叫んで、掌で顔を防御しようと覆った。彼女?の笑い声が私の耳に入ってきた。私は、驚いて掌で顔を拭うと、彼女を睨みつけてやろうと思っていた。

「コラ! けいちゃ……」と勢い良く発しようとした言葉を飲み込んだ。

けいちゃんの瞳がスカイブルーに変化していた。その眼は悪戯っぽく笑っていた。グラスゴウのマッカーサー家のシャワールームに一緒に入って、よく体を洗いっこしていた。まだ英国の大学ゼミに慣れていないある日、私は精神的に落ち込んで帰宅した。そのときも私は俯いて独り言を呟いていた。外界とのコミュニケーションを遮断していたのだと思う。

そのとき何かをケイトから言われていたのは確かだけど、それに私は反応しなかった。私の脚元をすくい上げると、彼女は私をシャワールームに連れていた。相手の為すがままの状態で、裸にされ、突然、冷水を顔に掛けられた。ちょうど、その情景をうっすらと思い出していたところだ。ケイトのスカイブルーの瞳が笑っていた。

「ケイト?」と、彼女に尋ねると、首を縦に振って頷いた。けいちゃんの身体にケイトが再び降臨したのだ。

「私のマナーミ。」

「私のケイト。」

 ルームメイトになって瞬く間に親しくなった。だからかもしれないが、私たちはお互いを愛おしい存在として受け入れた。私は鼻先を彼女の胸元に宛てがう。犬よろしくクンクンと嗅ぐ。彼女は私の頭を優しく撫でてくれる。私は彼女のお臍を、彼女の陰毛を嗅ぐ。私の姿勢は次第に屈みこむようになる。ケイトは私の両脇を抱えて自分の前に立たせる。今度は温水がドバーと、私の顔面を襲う。彼女の掌でボディソープが泡立てられ、私の首筋から胸元や背中からVゾーンに分け入ってくる。「あはは、擽ったい」と、私は体を捻ってその触手から逃れようとする。でも、逃れられない定め。私は全身にソープの泡を付けられて、さらに彼女が私に密着しようとする。お互いの肌がソープで滑らかに滑っていく。もう理性という障壁は砕かれ、本能と本能が木霊し、私たちは一つの生命体のように絡み身をくねらせていく。シャワーノズルから勢いよく流れ出た水玉はお互いの肌の上をスムーズに転げていく。同じボディソープ。同じシャンプー。同じリンス。ケイトと私は姉妹のように同じ時間を過ごしてきた。また、ケイトと暮らしたい。

 私はケイトの髪をタオルドライして、ヘアオイルを塗る。ドライヤーで乾かす。この髪質と色は彼女のものではない。目の前の髪の色は確かに長い黒髪だ。彼女が振り返るとスカイブルーの瞳が私を見つめていた。

「ケイト、本当に大丈夫?」と、自然に私はあたかもケイトがいるかのように声をかけた。

「大丈夫だよ。以前言った通り、けいちゃんの身体のサイズは私に近いよね。」

「うん、そう思う。でも、ケイトの方が胸はもっと大きかったね。ウフフ。」

 お互いが髪を整えると、私たちは居間のソファーに隣同士で腰掛けた。首にかけているネックレス全体が輝きだした。それと同時に、居間のテレビを設置してある台に連結している時代物のサイドボードのガラス扉の中で光を放っている物体があることに私は気付いた。ケイトは今なお、けいちゃんの身体を支配していた。ケイトと私の肌感覚が共鳴していく。彼女が私の上に覆い被さってきた。私は彼女の重みを感じないまま、彼女自身と浸透圧的感覚を同時に持つ。浸透圧とは濃い液体から薄い液体の方に水が移動することを言うのだが、ケイトの体液がいつも私の体液の方に移動する感覚を持つ。その液体の移動完了が、私の意識を悦楽へと導いていく。その感覚を味わった後、体液が音を立てるかのようにグルグルと逆流をし始めるように感じる。私の肌が首筋から胸元にかけてぐっと紅に色づくそうだが、イってしまった後、気が付くとケイトが私に微笑みながらキスをしてくれる。ある日、ケイトに尋ねたことがある。

「私たちはセックスしているの?」

「これが私たちのセックス。」

「私がイクとき、ケイトもイっている?」

「いつも一緒にイってるよ。安心して。」

 私は気が付くと、けいちゃんの寝顔が目の前にあった。いつ私の部屋のベッドに入ったんだろうか。私の記憶は判然としない。時刻はすでに午前九時を過ぎていた。私がけいちゃんの平たくて広い唇の先に自分のプルンとした唇を合わせた。彼女の眼が開いた。彼女の黒い瞳が状況を掴めずに、私の眼を覗き込んだ。

「私、マナちゃんをまた襲った?」と彼女は口にすると、自分のこれまでの行動を思い出そうとする少し困惑した表情を作った。

「私、あなたに助けてもらいました。ありがとうございます。」

 そう言いながら、私はけいちゃんの身の上に起こっている現象をどう説明したら納得してもらえるか思案していた。私はけいちゃんに、というよりも久々にケイトに朝食を作ってあげようと思い立った。学生時代から時間に追われて、慌てて身支度をするので朝食を抜くことが多かった。とくに学部生の頃はとくにその頻度が多かったのだが。留学を機に、つまりケイトとルームメイトになったことをきっかけとして、交互に簡単な朝食を用意するようになった。やはり、B&Bでのスコティッシュブレックファストに端を発しているようだった。ケイトから聞いたところによると、スコットランドの天候は厳しい。とくに冬の寒さは身に応える。その地理的条件のマイナスを自ら補うために、そのことは朝からしっかり体が動くようにと、朝から一杯食べるのだと。まあ、理にかなっている。

「けいちゃん、私、あなたに話さなければいけない秘密があるの」と、真剣な眼差しを私は彼女に向けた。

「マナちゃん、秘密は話したら秘密じゃなくなるよ。秘密は秘密にしておいても一向にかまわないわよ。わたしこそ、あなたの切ない声を聞いて居ても立っても居られなくなって、タクシー飛ばして来ちゃった。酷い格好で来ちゃったね。」

 そう言うとけいちゃんは、自分が着てきたシャツワンピを入れた紙袋を指差した。

「これ借りるね、ちゃんと洗って返すからね。」

 けいちゃんは私のチェック柄ノースリーブワンピースを、私から見れば少々丈が短めかなと思えるが、気に入っているようだった。

「後で、お化粧道具も借りていい?」

「もちろん」と、私はベーコンを頬張って返事をした。私は素直にうれしかった。けいちゃんが私と同じ匂いがする。そのことがとてもうれしくて堪らなかった。


 まだ大学後期はスタートしない九月の上旬にカレンダーは移行していた。論文の進捗状況は芳しくない。研究者は最低年に一本は論文を書きなさいというのが、教授になられた先輩の発破である。そのアドバイスを達成するためにも前進しなければならない。論文数が就職先の門戸を開くのであるから。だが、時間だけが過ぎていく。ケイトの容態は良いらしいが、入院は継続とのこと。ジルはいまだに秀ネエと一緒にいるらしい。「らしい」ではなく、ケイトが面倒を見れない以上は誰かがジルの世話をしなくてはならない。ジルが私の娘である以上、秀ネエは彼女にとっての伯母に当たるのだから、当然と言えば当然の責任を負うているのかもしれない。私はどこかでジルの出生について疑っている自分がいることも否めない。でも、彼女が私にかなえてくれた見返りに、ケイトは私の中にあるアメジストの欠片を持っていった。その欠片から、ジルは生を受けたことも私は受け入れるが……。そうだ。私が帰国するときにすでにジルはケイトのお腹の中にいて、四歳になる。どうしてケイトはジルの存在をいままで隠していたのだろうか。どこかで釈然としない自分がいることも確か。でも、私自身が不思議な世界の住人なのだから。

 論文執筆に専念出来ないので、私はこの間目に止めた情景を思い出そうとしていた。ああ、居間のテレビ台、その隣のサイドボードで光るもの。階段を下りて、階下に足を進めていった。居間への襖を開ける瞬間、私の首元のネックレスが熱を帯びてきた。襖を開けて、サイドボードのガラス扉に目を向けた。やはり何ものかが光を発している。今まで私はテレビを見るときにも気が付きはしなかった。というのも、ガラス戸が部屋の照明に反射しているものと考えていたから。そこに光るものがあるとは思ってもみなかった。

 居間のソファーに誰かのシルエットが浮かび上がってきた。光るものの明かりが強くなった。私のネックレスも輝いてきた。目の前のシルエットが実体を伴ってきた。赤毛の頭が私の方に振り向いた。

「マナーミ、元気?」

 間違いようがないくらいケイトだった。私はその存在が幻か否かなど関係なかった。とにかく本物のケイトの存在を自分のものにしたかった。私は立ち上がった彼女の身体に勢いよく飛びついた。がっしりと私を受け止めた実物の彼女。ケイトはこの場にいるのだ。

「ケイト! このケイトは本物?」

「本物であり、偽物でもあり。」

「どうだっていいの。あなたがここにいることが大事。すべて。でも、どうしてここにいるの?」

 ケイトの真顔は、私にも分かった。

「そこで光っているもの。それはあなたのおばあちゃんが探していたフェアリーストーンだよ。そのフェアリーストーンは次のマスターを見つけたの。あなたなの。ストーンは自ら主人を探し、従う。いままでおばあちゃんを支えてきたのはこの石よ。おばあちゃんはこの石をあなたに譲るためにこの前は戻ってらした。」

「主人が変わるということは、おばあちゃんは近いうちに召されるの?」

「その点は心配しなくていいわ。あなたのおばあちゃんは天寿を全うするだけだから。召されるときは自然にやって来るものよ。私はあなたが思っている通り、妖精の仲間。」

「それはもう分り切っていることよ。ケイトと接していれば、愛し合っていれば分かること。でもどうして、今回は実体として私の許に現れたの?」

「マナーミ、私の心臓は持ちそうにないの。」

「ええっ、あんなに回復して、元気そうになっているじゃない。ジルも喜んでいるのに。もちろん、私が一番安心したのよ。」

「ありがとう、マナーミ。そろそろ生まれ持った姿に、フェアリーの姿に変身するときが来ただけだよ。私はケイトという肉体から脱皮するだけだよ。私たちフェアリーには正確な寿命はないけれど、時折、人間という実体からエネルギーを貰わないと存続できない生き物なの。私たちの生命エネルギーは自然と人間からの頂き物。太古の昔から私たちは共生していたのに、いつの頃からか人間は贅沢を求め、慎ましさを失い利便性と効率性を求めて自然を支配しよう暴走を始めた。そんな欲望に駆られた人間たちからはフェアリーはエネルギーを貰えないの。ピュアさ、つまり、心根の優しい澄んだ気持ちを持って、自然と人間を愛してくれる人の中に入ることが私たち種族の生き残る道。今、自然保護を、持続可能な社会環境整備をしている多くの人々の中に私たちは静かに住まわっているの。私自身もその一人だったの。ケイトという名は実在する人の名前で、この社会に結びつくこと、出会った人々の記憶の中で生き続けるという使命を帯びているの。本当の私の名は違う名前かも知れないけど、あなたがケイトと呼べば私はいつでもあなたに寄り添える存在。私をあなたはずっと愛し続けてくれるから。そんなにも思われたら本望というもの。あなたのおばあ様も私たちの一人を愛してくれた。だから、私たちはそのようなピュアな人の願いを叶えてあげる。そして、いつか分からないけれども、私たちの世界でしばらく共に暮らし、新しい肉体を授かって再生していく。フェアリーという種族はピュアな人たちを裏切ったりしないよ。いつも寄り添って生きていくよ。」

 私はただケイトの話す内容をそっくりと飲み込むだけだった。

「マナーミ、私たちは愛し合い、結婚したよね。私の故郷の小さな教会を覚えてる? 婚姻届けに署名して、職員の方と祖母に立ち会ってもらったよね。そして、僅かな心暖かいメンバーに祝ってもらったよね。覚えてる?」

 私はいつの頃からか分からないが、頬を伝ってる涙が止まらなくなっていた。ケイトと過ごした日々がまるで走馬灯のように鮮やかな影を部屋中に映し出していた。私はジルの映像の中のケイトと私のウェディングドレス姿の写真を見たときに鮮明に思い出していた。

彼女のルイス島の南端部のとても小さな地区から車でもおおよそ一時間で、港町に着く。その漁港だって、とても小さい街にある。その港にはケイトのドナルド家所有の漁船もかつては停泊していたというが、すでに北海に消えたという。ケイトの父と兄はコッド漁の操業途中で嵐に出くわし、沈没したという。彼女の母はその後、心労が堪って病になり、長患いの末に命を落としたそうだ。可哀そうなケイト。私自身も両親を失っていたので、最初から彼女の醸し出すオーラに同調していたのは確か。同調していたというのは私の驕りだ、多分。ケイトは私を救ってくれた存在なのだから。二人で身につけた純白でレース刺繍のウェディングドレスは、彼女の祖母の知り合いの老齢のご婦人が貸してくれたものだ。私はアイデンティティを確立してから、そう思っているのがまさに驕りなのだが、一生涯、結婚できない身の上だと思っていた。それも素敵なドレスを着て皆に祝福される光景は夢のまた夢でしかなかった。その上、彼ら数名が教会での挙式の後に地元のパブでささやかな宴を催してくれた。私は皆に祝福の声をかけられるとともに彼らの暖かい腕の中に幾度も抱かれた。私は嬉しすぎて笑顔でずっと泣きべそをかいていたことを思い出す。そして、スマホにその画像を納めていた。でも、その祝福された映像を私は振り返る余裕すらない日本での日常に忙殺されていた。博士課程の課題と研究会や学会での発表に追われていた。それとともに査読論文を完成させて学会誌に掲載されるために、日々、頭をフル回転させていた。ただ、家に帰って、「ただいま」という瞬間に私はケイトの声で自分は独りではないことを確認し、彼女との声だけの接触が、つかの間の充実した時間になっていたのは事実だ。ケイトは私に気を使っていたのは確か。いつだって私の愚痴に相槌を打つように優しく応えてくれていた。その行為に私は完全に甘えていたのだ。本当は、ケイトが自らの能力を使って、私にちゃんと愛を伝えるために思念に直接働きかけてくれたら簡単に気づけたのに。正確に言葉にして、私に大声で叱責するかのように、強く語りかけてくたらもっと良かったのに……。私は距離的に離れた彼女の存在を、彼女の愛を自覚して彼女と接していなかった? 私は愚かにも今の今までケイトの確かな意図を汲めない出来損ないの女なのだ。

私たちはグラスゴウにいるときには、いつでもちゃんと結婚リングをしていた。でも、私は旅客機の機内で、そのリングを外してポーチの中に仕舞い込んだ。「なぜそうしたするの?」と、そのときもう一人の私はいつもリアルな私に尋ねていた気がする。それも執拗に何度も尋ねていた。「なぜ、ケイトと契りを結んだリングを外すの?」と。指輪をポーチに入れた一つの答えは、もうすぐ日本だということ。ただそれだけの理由で……。息苦しい日本の風土がそうさせたのだと、言い訳をする小賢しい私がいた。男女共同参画社会、男女機会均等雇用法、ジェンダー平等など切りがないくらいの性差解消の法制度の整備を行ってきた国。その見かけ上の制度整備が機能しているかと言えば、あまり行き渡ってないのが実情というものだろう。地方創生という言葉も建前だけで、便利な首都圏に人口が集中している現状は変わらない。地方の因習的大気の中で女性たちは高飛車的な強固で保守的な男性社会を打ち崩すには至っていない。その壁を打破する前に、身を翻して居心地のいい生活環境を見つけて地方を見捨てていくのが関の山だ。もし地方に残ろうものなら、古めかしい空気を微かにかき回して、自分という存在を目立たなくするだけだ。

私は大学進学とともに首都圏に出てきた。そして自由になったなどと思ってみたことはない。この都会でもやはり女性には性的役割分業を押し付ける透明なプレッシャーがある。すべての女性はきっとそれを感じて生きている。女性を型に押し込める圧力は未だに消えないでいる。「女性らしさって、何?」という問いかけは十九世紀以降、大きく論じられてきた。二十世紀半ばの『女性らしさの神話』の著者ベティ・フリーダンは、男女が自由になり、「新しい人間の可能性」が広がるという希望を述べるに至ったが。私はその性を選んだ人間なのだ。独りよがりの人生を歩んできた生物なのだ。自分に素直になることは、この社会ではいけないこと? これまでにも多くの人を巻き込むとともに、ある程度の人の協力を得て私は呼吸をしてきた。留学してディプロマ論文修了証を取得し、自らの経歴に一つの箔をつけたつもり。でもでも、研究者としては未熟者。もっと、もっと専攻分野で業績を残していかないと常勤専門職に就けない。まだ、多くの雑用を排除して、突き進まなくてはならない。その重圧が私にケイトとの契りの証明であるリングを外そうとした真意? そうではない? 帰国するにあたって、再び、自らの人生をリセットしたかった? これも明確な解答には至っていないはず。もう、私の思考回路はあらゆる情報と知識を材料とする機能を失って、解へのプロセスを読み込もうという動作を停止していた。

私はここに実体としてのケイトの柔らかな胸元にしがみついて涙を溢していた。

「ケイト、ごめんなさい。ごめんなさい。私はあなたの言うようなピュアな人間じゃないよ。薄汚れた女になっちゃたよ。あなたと離れたくなかった……。」

「分かってよ、マナーミ。あなたのことは全部分かってるよ。全部分かったうえで、あなたのアメジストの欠片を貰ったの。素敵な未来を築いてくれるあなたと私の子供を、私自身が生みたかったの。本当はもっとジルと一緒にいたかったんだけど……。」

 私の頭皮にポタポタという雰囲気で、暖かい液体が落ちてくる感覚を私は持った。ケイトが私を抱えたまま涙しているのが伝わってきた。その涙が私のお腹を熱くしてきた。ケイトと抱き合っている隙間がなくなってきた。「この感覚は」と、思った瞬間からケイトが私の身体に液状になって雪崩れ込んでくるかつて体験した愛し方を、私の脳に、私の肌に、私の身体全体に思い出させてくれた。私の心身はジェットコースターの線路を離脱し、永遠に帰ってこれない無限の愉楽を与え続けてくれていた。私はどこにいるの?

 スマホが着信を告げる直前に、私はジルの言葉にならない深い悲しみを受け取っていた。電話の相手は、秀ネエだった。

「今、ケイトが天に召されたよ」と、喉を振り絞る一言が私に告げられた。

 もう分かっていたこと。もう知っていたこと。もう、もう、呼吸ができない。自分では息ができない。私は自分の感情を言葉に出来ないまま、ケイトに抱きついて涙を溢していたその軌跡の上に、さらにエンドレスな涙を流し始めていた。すぐにでもケイトの所へ駆けつけたかった。ヨーロッパ大陸の西の端の英国へ、ブリテン島の中のスコットランド北西に位置する島へ。自分の全てのこれからのスケジュールを放り投げてでも、彼女の許に行きたかった。すぐにでも……。中高生の新学期が始まる。彼らの新学期が始まると担当の生徒の学習を助ける責任がある。また、研究会の報告者としての務めがある。学会誌への論文提出の締め切りが差し迫っている、などなど。時間の進行が分からなくなってきた私。留学時に使っていたポーチは自室の書棚の下に設置してある引き出しの中にあるはずだ。

「こんばんは」と、玄関の上がり框の方から聞き慣れた声がしてきた。私は誰にも会いたくなかった。だって、泣きはらしたあまりにもひどい顔だ。しかし、すでに声の主は私の所在を知っていたようだ。「マナちゃん」と私の名前を優しく呼ぶ声が届いた。

「けいちゃん……、なの?」

「そう、私よ。おせっかいで強引で我が儘なあなたの恋人だよ。『マナちゃんを助けてあげて』という誰か外国女性の声が私の耳に聞こえてきたの。だから、ここまで来ちゃたの。迷惑だった?」

 私は廊下をドタドタという不格好な音を立てて、彼女の許に駆けった。

「けいちゃん」と言うなり、私は彼女の乳房に顔を擦りつけていた。筋肉質の両腕が私を庇護するように囲い込んだ。もう私が秘密にしていた全てのことをけいちゃんに告白しなければいけないと決心する自分がそこにはいた。でも、何から話したらいいか? どう説明したらよいのか。全く見当がつかない私は、ただただ嗚咽を繰り返していた。

「今日は、ずっと一緒にいてあげるね」というけいちゃんの優しい言葉が乾ききった砂に水が吸い込まれるように私の心に入っていった。その日、私の涙と嗚咽が鎮まるまでけいちゃんはソファーに並んで座って、ずっと私を親鳥がヒナを外界の敵から守るように彼女の身体が私を懐に抱いてくれていた。

「大切な人を亡くしたの……」と、やっと私はぽつりと呟いた。

「そう」と、けいちゃんが相槌を打ってくれたときに彼女の胸の鼓動の響きを感じていた。ドク、ドクと規則正しく刻まれていく彼女の心音は時間の経過を否応なく私に告げていた。彼女にケイトのことを話さなくてはいけない。けいちゃんに彼女のことを話さなくてはいけない。悲しみの沼で体を捩っている自分を感じていた。

「私の大切な人。ケイトって言うの。」

「じゃあ、その人に私はあなたを託されたということ? そうじゃないよね。あなたにとって大切な人はケイトさんなんだから、私はマナちゃんの恋人じゃないよね。私だけがあなたを独占したいという欲望だけで、独りよがりにあなたを『恋人』だと思い込んでいただけだよね。私は道化師の役回りだよね。」

 けいちゃんの言葉が、彼女自身を非難しているように私に聞こえてきた。私は確かにけいちゃんに乗り移るケイトと愛し合ったことがある。それは確かにけいちゃんではなかった。でも、私はこのけいちゃんに狂おしく愛情を注がれたという事実があり、私は彼女の泉に溺れたという現実もある。私にとってケイトは世界で一番大切な愛おしい人。それを恋人と呼ぶのであればその通りだ。私が恋人と認識しなくても、けいちゃんは私を『恋人』と呼んでくれている。私はけいちゃんの恋人に相応しい人間なのか?

「けいちゃん。けいちゃんは私の『恋人』だよ。」

「ありがとう、マナちゃん。マナちゃんは優しいね。だから、誰からも好かれるんだよ。」

「私は好かれた経験なんてないよ。いつもお味噌だったんだから……」と私は口に出した瞬間に昔のことを思い出していた。お味噌の私は小学生の私だ。自分の存在がクラスに認知されていなかった。男子からも女子からも。私はどちらのグループにも加わらず、独りで早く時間の過ぎ去ることだけを自分の机の板盤を見ながらじっと固まっていた。授業の内容は頭の中を素通りしていた。授業終了のチャイムの音だけが私を澱んだ水の中からすくい上げてくれた。

「けいちゃんの方が、私より優しいよ。私より何倍も、何十倍も優しいし、こんな私に温かく手を差し伸べてくれたんだよ。私は自分のことしか考えられない半端ものだよ。」

 私は秀ネエのおかげで中学校からは自分を表現できるようになった。この点では、秀ネエがいなかったら私という実体はすでにこの世に留まることはなかっただろう。秀ネエの功績は計り知れない。高校では、私自身が私の居場所を曲がりなりにも確保できた。だから、彼女がいなければ私は『私』でいられなかった。私をいつも怒鳴っていた秀ネエは、私を自分の力で立てるように促していたのだから。それが分かるまでは、非常に怖い姉であった。今度、秀ネエに会ったらしっかりと言葉に出して「ありがとうございます」と伝えようと思う。今は、けいちゃんがいなかったら私はケイトのいる場所へすぐにでも旅立ち、悲しみの時空を超えて逝ってしまっただろう、と。

私は顔を持ち上げて、けいちゃんの表情を確認した。彼女は目に涙を湛えていた。彼女が一度瞼を閉じたとき、彼女の涙が、彼女の心許なさが彼女の目頭から流れ落ちたのを私は目撃した。どう表現すればいい衝動だろう。私は人差し指の先でその跡をなぞった。その筋状の後は唇に伸びていた。私は彼女の唇に自分の唇を合わせたくなった。唇を合わせることで、けいちゃんの怯えと自分の悲しみが湧き出そうとするヒビを塞ごうとした。合わせた唇が数えきれないほどの交わりの端緒となった。永遠に繋がる肉体の淫靡な生々しさが私たちを一つにしていった。ある瞬間に私の体内にケイトの体液に満たされる自分もいたのを覚えている。

数日後、私はおばあちゃんに電話した。その結果、けいちゃんは私のおばあちゃんの許しを得て、私の住まう屋敷に引越してきた。また、私はおばあちゃんにフェアリーストーンが居間のサイドボードのガラス扉の棚に置いてあったことを伝えた。おばあちゃんは嬉しそうな声で、「じゃあ、それはあなたのものよ」と安心したような様子だった。

「そうだ、私ね、マナちゃん。やっと曾孫の顔を拝むことが出来るわけね。」

「えっ……」

「あなたの娘よ。」

 私はドキッと心臓が慌てた感覚を持った。まだ、ジルのことはおばあちゃんに伝えていないし、この事実を知っている人間は秀ネエぐらいだ。

「秀ネエからおばあちゃんに何か連絡があったの?」

「おや、珍しいね。ヒデちゃんの名前が出るなんて。ヒデちゃんから連絡あったの?」

 私はこれまでのことを掻い摘んで話した。大切な人、留学中のルームメイトを失ったこと。彼女と私は結婚したこと。結婚したということも日本にいる縁者、友人や知人にも話したことはなかった。おばあちゃんは途中を端折って、「曾孫」という言葉を使ったことに私は驚きを隠せないでいた。

「私はね、マナちゃん。聞こえるんだよ、妖精の話し声がね。こんな御伽噺のようなこと、誰が信じると思う? 誰も信じないよね。あなただって誰かにルームメイトとの不思議な生活を話したことがあるの? ちょっと世間様を相手に話せる内容じゃあないよね。」

「おばあちゃんは妖精とお友達なの?」

 私は、一度、自分の心を落ち着つかせようと思って尋ねた。

「ええ、スカイ島を訪れてからね。それから長い人生の間にあった出来事すべては、天からの思し召しよ。私たち人間はそれに抗えないよね。マナちゃんなら分かるよね。だからね、おじいちゃんのときも、あなたのお父さんとお母さんが亡くなることも、自分の興した会社のこと、起こるあらゆることを妖精が教えてくれたのよ。あなたが尊敬してくれるおばあちゃん像は、そうやってできたのよ。何事にも動じないように見せること。それは予め知っていればこそ、内面の心情をコントロールできるようになれるのよね。出来事は突然やって来るものではなく、必然なのよ。神様がお決めになった通りに物事は進んでいくの。私たちはその自然の成り行きの中で生きているもの。」

 内田家はキリスト教の家だ。だから、私は田舎ではカトリック系の幼稚園に通っていた。その園の空気は田舎には珍しく大らかで、そこは私に私らしくいることを許していた。母方の実家、宮本家は仏教の曹洞宗なのだが。とはいえ、昔から私の周りにはヨーロッパ的な雰囲気があったかもしれない。私が専攻している経済学史の源泉であるアダム・スミス自身がスコットランド出身である。そして、スコットランドこそが経済学誕生の地であることを多くの人は知らないかもしれない。おばあちゃんの話を聞いていて、自分の内面のあるものがカタッと動いたような気がした。私の中の何かが腑に落ちたような気持だった。

「今、おばあちゃんが言った『自然の成り行き』っていう言葉は、スミスも使っているよ。」

「どこのスミスさん?」

「いいの、気にしなくても。おばあちゃんの血を私が受け継いだということかな。実はルームメイトの……」と私が続けようとすると、おばあちゃんが彼女の名前を知っていた。

「ケイトさんでしょう。それにあなたたちの娘さんはジルでしょう。」

「いつから知っていたの?」と、先程の驚きよりももっと刺激的な衝撃が私の胸を打った。

「そうね、あなたが留学から帰ってきたときからかな。妖精が教えてくれたのよ。マナちゃんが良く知っている通り、私は結構おせっかいばあちゃんだよね。あなたが自立するのを私は妨げる危険性が増したように思ったの。それにね、妖精はジルが生まれたときに祝福してくれたのよ。」

「どうしてケイトは私に知らせてくれなかったの? 酷いと思わない? それにおばあちゃんも分かっていて教えてくれないなんて、もう、おばあちゃんと絶交するんだから。」

 私は少し声を荒げてしまった。もう三十にもなろうとしている大人?が、感情に天秤を傾けそうになりながら。

「もう分っているでしょう。あなたに心配をかけたくなかったのよ。それに科学の常識と想定では考えられないような方法で、ジルは生まれてきたのだから。でも、その方法は彼らにとっては在り来たりのことだ、って。面白いね、生きていると本当に珍しくも楽しい体験に遭遇するものね。」

 やっぱり私のことをケイトはいつも気にかけていたんだ。そのことが私の独断的生活を責め立てる。

「マナちゃん、ちゃんとフェアリーストーンを受け取ってね。」

 そう言うと、おばあちゃんとの通話は予期せず終了した。


 けいちゃんとの共同生活が始まった。ケイトが天に召されてからも、私には彼女の声が時折聞こえていたが、未だにけいちゃんにはそのことが言えず仕舞いだった。彼女は毎日、私をハグしてくれる。毎日幾度もキスしてくれる。毎夜、私を優しく、愛おしく慰めてくれる。私も彼女に与えてもらった愛を返しているつもり。でも、未だに彼女に諸々の秘密を告白できずにいた。私の精神は揺らぎ、ブレることが極端に少なくなった。落ち着いて日々の生活と業務を送れるようになった。つまり、生計の資を得るための仕事と研究活動が滞りなくこなせる様になってきた。そんな大学の後期日程が迫っているある日。おばあちゃんから私に電話があり、終活の続きをやりたいのでそっちに行く旨の連絡があったその日、秀ネエがジルを連れて、逗子の屋敷に現れた。その日は日曜日で、午前中にけいちゃんと二人でおばあちゃんが気持ち良く過ごせるように、久しぶりに屋敷の各部屋も含めて大掛かりな掃除をしていた最中だった。玄関のチャイムがなった。私は、「はあい」と返事をしながら、床にかけていたモップを壁に立てかけて急いだ。玄関のすりガラスを通して、女性と幼児のシルエットが見えていた。私の心がザワザワと波立った。と同時に、自分の鼓動が次第次第に早く打つ音さえ自分の耳に聞こえてきた。

「ジル!」と、私は叫んで扉を開けた。私の視線は娘に釘付けになったまま。開けた途端に、その娘は私と目が合った。彼女の形相が崩れていくのが分かった。丸い目をもっと見開いて、その眼には一杯の涙がじわじわと湧き出していた。私の視界も潤んでいた。

「マナダッド!」と言って、愛娘が私に飛びついてきた。私は大きく胸を突き出して両腕を開いて、彼女の小さな身体を自分のものとした。ジルを抱きかかえてた状態で、私はブルブルと自分の上半身を左右に振っていた。もうこの世のものとは思えない可愛い生き物を私は捕まえたのだ。否、私が彼女に捕獲されたと言った方がいいかもしれない。

「おい、コラ。マナ! 姉の存在は無視かよ。この出来損ないが」と、久しぶりの姉の肉声。耳に心地よい怒鳴り声を懐かしく私は受け入れていた。ジルを抱いたまま、私はやっと秀ネエに挨拶をした。

「おかえりなさい、秀ネエ。帰国したのは何年ぶり? それにありがとう。ジルをここまで連れてきてくれて。」

「分かっているの? あなたの子供だということは、あなたにはそれなりの覚悟というものがあるのか、ということを私は最初に訊きたい。」

 私は秀ネエに言われるまでもなく、覚悟は持っている。おばあちゃんが言っていたように、すでに運命が決まっているのなら、それを見据えて自分の気持ちのコントロールもできるというもの。とはいえ、秀ネエからケイトの葬儀の話を聞いたのはまだ一週間前のことだった。さらに、ジルを連れてここに帰って来ると聞いていたが、正確な日時は教えてもらっていなかった。ただ、おばあちゃんが終活の続きをしたいと連絡してきたのが、その日ではないかと察していた。

 この前日に、私はけいちゃんに簡単に自分の留学先での出来事の中で重要なことを掻い摘んで話をした。留学中に私はケイトとルームメイトになったこと。彼女は不思議な能力の持ち主であったこと。私は一年目が終わった後に彼女の故郷の島を訪れたこと。彼女と私は愛し合ったこと。その延長線上で、彼女と田舎の教会でささやかな式を挙げて、結婚したこと。けいちゃん曰く、「そうだよね、あなたの大切な人だったものね。スコットランドは同性婚も認められているものね。本当に結婚してたんだね」と言うと、私をけいちゃんはぐっと抱きしめると、「羨ましいな」と呟いた。私は、「黙っていてごめんね」と、彼女に小さな声で謝った後、本棚に放っておいたボーチの中から結婚指輪を取り出して、左手の薬指に嵌めた。シルバーの指輪がキラキラと輝きだした。最初は部屋の明かりが反射して光っているのかと思っていたが、部屋灯の白い色ではなく、少し赤みを帯びて輝いていた。けいちゃんはにこやかにその指輪を覗き込んでいた。

「不思議な色だね」と、けいちゃんは私の左手を優しく自分の両手の中に取ってしばらく眺めていた。彼女の口が、「マナーミ」と私を呼んだ。私は慌ててけいちゃんの名前を大きな声で読んでみた。

「けいちゃん、大丈夫?」

「ええ、大丈夫。大丈夫だけど、私、ケイトさんのことを身近で感じたことがあると思うの。ケイトさんが私をあなたに引き合わせてくれたような気がするのね。」

 私はケイトがけいちゃんの身体に降りて来ることを期待している心情と、すでに亡くなったケイトへの悲しみの心情、さらには今を生きている目の前にいるけいちゃんへの負い目を感じていた。複雑な心境が私の中でグルグルと不規則な大気の流れを作っていた。

「私のおばあちゃんね、勘が鋭いのよね。きっと、明日に私の姉貴と娘が来ると思うからけいちゃんなりに覚悟しておいて。」

「一つ訊いていい? ケイトとあなたは養子を貰ったの? ジルのことだけど。」

「うん、それについては今度話すね。けいちゃん、私の周りはバグる話が多いんだ。」

「何か、マナちゃんが専攻している道徳哲学の難解で有名な思想家の話になる感じかな。」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。えへへ……」と言うより仕方ないように私には思えた。

 秀ネエとジルを居間に通し、姉貴にけいちゃんを簡単に紹介し、おばあちゃんの許しを得て共同生活をしている旨を姉貴に説明した。説明を終えると間髪を置かず、再びチャイムが静かに鳴った。案の定、おばあちゃんがやって来た。

「ジル、お顔を良く見せて」と、おばあちゃんは家に上がるなりジルに呼びかけた。

「グランマ、会いたかったよう」と言って、ジルはゆっくりした動作で近づいて行って、立っているおばあちゃんの太腿辺りにしがみついた。おばあちゃんはソファーに腰を降ろすと、隣に座ったジルをむぎゅッと抱きしめた。それに応えるようにジルもおばあちゃんの懐へ潜り込んでいった。

「可愛いねえ。妖精が見せてくれた通りの子だね。小さい頃のあなたによく似てる。お顔の輪郭はマナちゃんに似ている。このツンとしたお鼻はお母さん譲りだね。それにお目眼は二人から貰ったね」と、おばあちゃんは納得したように、ジルに話しかけていた。

 すると、けいちゃんが不思議そうに秀ネエと私の顔を見回していた。「妖精?」と、けいちゃんは一言口にすると、すぐにそのワードを否定すべく、「ないない」というように掌を横に数度振った。

 「やることが一杯あるよ」と言う秀ネエの号令で、私たちは様々な今後の段取りを考えるべく話し合いの時間を持とうということになり、まずは昼食を摂ろうということになった。お寿司屋さんから大皿を取り寄せた。私の膝にジルが座っている。私は色々訊いてくるジルに寿司ネタを説明しながら、ジルが私の娘であることを実感していた。ジルとの会話は思念と同時に成立する。質問を受ける前には、すでに答えを自身が発信しているのだけれど、周りの時間経緯に合わせて言葉に出してみるという感覚だ。だから、「これは?」とジルが考えると、私はすでに「サーモン」というように答えてしまっている。なので、二人の間に会話のセリフは台本よろしく決まっているのだが、改めて、私たちは順次自分に振り当てられたセリフを読み上げるという寸法だ。でも、肝心な事、つまり、ケイトのことについて突っ込んで聞けない雰囲気を持っている様に私には感じ取れた。今、ジルにケイトママのことを聞くことは幼子に相当な感情の動揺を与えることになるのではないかと、私は考えた。

「そうだ、マナ。ジルって本当に物分かりがいいんだよね。それにさあ、こっちの気持ちを察してくれる勘のいいところがあるんだよね」と、秀ネエはテーブルの対角線から私に声をかけた。私の隣におばあちゃん。けいちゃんは私の向かい側に座っていた。おばあちゃんはニコニコしながら、ジルがテーブル上に食べこぼしたご飯粒を拾い集めていた。

「ダッド、今度、このつぶつぶ食べたい」と、ジルが指差したのはイクラだった。ジルはそれを食べ終わると、ウトウトし始めた。そりゃそうだ。多分、朝着いた旅客機で秀ネエに気を使って楽しそうに、文句も言わず手を繋いでここまでやって来たのだから。大人だって十二時間も搭乗していれば、その空間に飽きてしまう。秀ネエ曰く。駄々をこねずに異国に突然連れてこられるだけでも困惑する。ジルは私の膝からストンと降りると迷わずけいちゃんのそばに行って、彼女の手首を引っ張った。ジルは睡魔からか首をブルブルふって寝苦情を言っているようだった

「ジル、眠いんだよね」と、けいちゃんが少し屈んで、優しい目をして彼女に尋ねた。

「うん」

「ママ、ベッドに行きたい」と、ジルは初めて会ったけいちゃんに遠慮なく言うと、彼女とともに二階の私の部屋に行ったようだ。しばらくすると、けいちゃんの階段を下りてくる音がした。けいちゃんが帰って来たとき、私は彼女の瞳がスカイブルーに変光していることに気づいた。

「あっ……」と、私が気づくのと同時に、秀ネエがけいちゃんに声をかけた。

「けいちゃん、ご苦労様。」

「ええ、ほんの数十秒でジルは寝息を立てました。可愛いですね。それにさっきは驚いたんですよ。私の許に来て、『ママ』って言うものだから。」

 けいちゃんはそのことが満更でもないような微笑みを湛えているみたいに私には見えた。

「これから話すことは、皆に不思議がられると思うけどちょっと聞いてくれるかな」と、秀ネエは断った上で、次のようにケイトとジルに会った出来事を話し始めた。姉貴が相棒と呼ぶ男性は、私は婚約者だと思うが、ケイトと同じルイス島の南端に近い村の出身らしい。彼女と相棒のヘンリーはアメリカの大学で知り合ったそうだ。姉貴の一目ぼれだということだが、最初から意気投合して卒業後も同じ証券会社に入社し、現在に至るとのこと。

今回、二人で長期休暇を取得したので、彼のド田舎に赴き、インターネット社会から隔絶された空間に身を置こうということになった。デジタルデトックスへ突入。彼と村のパブに行くと、ケイトがヘンリーに声をかけてきた。彼の説明では、彼女の兄とヘンリーは幼馴染みで、よく皆で遊んでいたそうだ。その出会いも姉貴曰く。「予定されていたようだ」と。その日の夕刻、ヘンリーは突然、秀ネエに言ったそうだ。「これから人に会わなくちゃいけないんだ」と。でも、四六時中一緒にいてネットも繋がらない場所で、どうやって約束をしたというの? 彼は、「勘かな」と言って、彼は両親に、「これからケイトに会ってくるね。それにヒデの姪も来るから」と告げて、私を連れ出した。「私の姪?」って、彼に尋ねたら、彼は、「そうだよね。君にマナーミという妹がいるだろう。彼女たちは、五年くらい前にここの教会で結婚式を挙げたらしいよ。そのときにね、俺の祖母が伝統のウェディングドレスを二人に貸してあげたらしいんだ」と。もちろん姉貴はそんなことを知らなかった。(私は日本の誰にも話してないのだから。)パブに着いて、カウンター席でラガーを注文しているとジルを伴ったケイトがやって来た。ヘンリーに彼女を紹介されて、握手した瞬間、彼女と私の様々な映像が自分の頭の中に怒涛の如く入ってきたという。だから、姉貴はすべてを知って、理解しているというふうに自分を納得させたらしい。ジルはジルで、すぐに姉貴に懐き、その後は、ケイトの容態が悪くグラスゴウの大病院での検査と治療に付き合って、現在のこの状況に及んだそうだ。

「ヘンリーはどうしたの?」と、私は首を傾けて尋ねた。

「彼は島の用事があるって言って、今も島に滞在してるよ。何でも十数年に一度の大きなお祭りの実行委員だって。だから、責任があるからだって。失礼しちゃうよね。最初からそのことを言ってくれれば彼にのこのこ付いていかなかったかも、だけどね。」

 秀ネエの表情は言葉とは裏腹に楽しく島生活をしていたらしい様子だった。

「そうそう、ケイトに頼まれたこと伝えるね」と、秀ネエは切り出した。

「ケイトから預かったもの」と言って、私は見覚えのあるスコットランド国旗の刺繍入りポーチをスーツケースから取り出した。それをけいちゃんが興味津々で見ていた。

「あっ、マナちゃんが上の部屋に置いていたポーチと一緒だ」と、けいちゃんが叫んだ。

「ケイトがね、心臓の手術が成功した後にね、こう言ったのよ。『私の命はそんなに長くないの、お姉さん。だから、これをマナーミの恋人に渡してほしいの。それもマナーミが直接、相手の指に嵌めること』って。ケイトはそう言って自分の結婚指輪を外してこのポーチに入れたの。」

 秀ネエは私の開いた掌にその指輪をそっと置いた。私は姉貴が喋り出してから、身体は固まったまま動かなかったし、口も開けなかった。私を抱きしめるケイトの気配をずっと私の上半身は感じていた。その指輪を見て、私は心の中で呟いていた。「ケイトはずっと私と一緒にいてくれるってこと」と。私のケイトを思う気持ち以上に、ケイトは私のことを思ってくれているんだ。私を愛し続けてくれているんだ、と。まず、私の腹筋辺りが締め付けられた。次に私の思考回路が熱を帯びてきた。鼻の奥がムズムズとし始めた。その指輪を受け取った瞬間に、涙腺が全開になった。

「うわあーん」と、私は大声を上げた。天井の片隅からもう一人の私はケイトと笑いながら、その私を眺めていた。泣き始めた私の肩を抱き寄せたのは、おばあちゃんだった。

「ヒデちゃんは薄々勘づいているはずね。でも、けいちゃんは混乱してるよね。そろそろあなたの疑問に答える時期かな。それに、あなたがマナちゃんのお相手だから、話しておいた方がいいよね」と、おばあちゃんは口を開いた。

「ちょっとスピリチュアルな話になるから、聞き流すところは聞き流してもらっていいわよ」と、おばあちゃんはけいちゃんの落ち着いた表情を確認すると、白髪のショートレイヤーの髪を左手で耳に掛けるように指で流した。

「あなたたちにも話たことないかもしれないな」と、秀ネエと私に向けて言った言葉。

「おばあちゃんの実家は横浜山手の外国人墓地の坂の途中だったてことは知っているでしょう。私のおじいさんが英国人だってことは一言も言ったことなかったよね。おじいさんは明治期に横浜にやって来たマーチャント銀行の支店長代理だったのね。日本の国立銀行の会計簿記を日本行員に教えていたという話よ。そうね、マナちゃんが修士の院生時代に指導教授や先輩方と『港都横浜の近代』という本を出版したじゃない? あなたが担当した「近代日本に貢献したスコットランド人」という論文。多分その中に出てくる一人じゃないかな。私も詳しいことは知らなかったから、ちょっと嬉しくなっちゃった。でも、私はマナちゃんにそのことを知らせなかったのね。分かっちゃうと、きっとあなたは天狗になっちゃうんじゃないかって心配したの。そのときのマナちゃんは自分の前だけを見詰め、競走馬みたいにパドックの中でスタートを待っている感じだったから。他の人より早く教授職を掴みたいという野心かな。話を元に戻すね。私の元の姓は『三好』でしょう。」

「初めて聞いたかも」と、間に入ってきたのは秀ネエ。

「おじいちゃんに学生時代会って、三好から内田に姓が変わったのね。まず、あなたたちにはスコットランドのDNAが流れているということでしょう。それに三人とも知っている通り、スコットランドとアイルランドはケルト神話で有名な場所でしょう。女神から妖精から数々の精霊も出てくる場所。ケイトからマナちゃんは聞いたかもしれないけど、スカイ島のダンヴェイガン城主は妖精の王女と結婚してたわよね。それだけ人間と妖精や精霊との距離が近いってことよね。日本だってそうじゃない? 明治時代にやって来た小泉八雲はアイルランド人でしょう。当時の松江の師範学校で英語を教えつつ、ムジナや雪女を書いていたでしょう。きっと八百万の神を彼は感じていたんでしょうね。人と精霊が一緒に暮らしていたでしょうね。もっと大きく眺めると、私たちは自然の中で暮らしていると言っても良いよね。」

 私は椅子に座ったまま背後からけいちゃんに抱きしめられていた。いつ彼女は私の後ろに回ってきたのか。私が嗚咽を繰り返しているうちに彼女は来たのだろう。いつ自分の涙が止んだことも知らなかった。おばあちゃんの話を聞いているうちに自分の心の極度の動揺が納まったのだろうと。だから、私の口が自然に開いた。

「私、ケイトから聞いたことある。ピュアな人間の中には妖精が宿っているっていう話。宿って人間という形となって妖精はエネルギーを貰って、次に誕生する妖精を送り出しているという話。ずーっと半信半疑だったの。ケイトと会ってからも、帰国して彼女とファーウエストとファーイーストに離れて会話ができるようになっても。私は元々、ピュアな人間じゃないから。でも、ジルの存在が私の薄ぼんやりした視界を晴らしてくれたみたい。」

 おばあちゃんはけいちゃんに包まれている私を見詰めていた。

「けいちゃん、ジルは本当にケイトとマナちゃんの娘なんだよ。男と女を対にして考えるのは生物学上のことでしょう。自然界にはまだまだ知らないことが一杯よ。解答は一つじゃないわね。人間が自然とともに暮らしていたことを忘れてしまっただけなのよね。実体として存在するもの、それ以外の状態で存在するもの様々だよね。だからというのはおかしな話だけど、女性同士のカップルが子供を儲けるでしょう。人間世界では精子を貰って妊娠したとか、養子を貰って育てているとか言われるけれど。確かにその方が、私たちが接している科学的見方だけれども、実際そうではない方法もあるのよね。そうでしょう? マナちゃん。」

 おばあちゃんは私にはっきりとした同意を求めてきた。おばあちゃんは確信を持って、私にこの話の真実性への回答を求めた、と私は思った。私の眼にはもう涙はない。私はけいちゃんに抱かれた彼女の腕に自分の手を持ってきて、その握る力を掌から彼女に伝えた。

「けいちゃんは私の恋人だよ」と、私は彼女を安心させる意味合いを込めて言ってから、「おばあちゃんの言う通り、ケイトと私は愛し合っていたの。その愛の交換は、確かにセックスかもしれないけど、人と人との結びつきとは違う。それは感じたし、実際、ジルが生まれたから人と精霊や妖精との契りもあると私も思う。」

「そうね。だから、同性カップルに子供ができるということも不思議な事じゃないわね。あとね、ヒデちゃんの相棒、ヘンリーだったかしら? 彼が島の実行委員になっているってあなた言ってたわよね。」

「ええ、そうよ。おばあちゃん。」

「そのお祭りこそ、私たち人間が精霊や妖精と交わるお祭りよ。何か懐かしくなってきた。

マナちゃんには少し話したと思うけど、おじいちゃんと島に行ったとき、ウィスキー醸造者との契約も取れたので、すぐに帰国するはずだったの。でも、ゲールと言ったかしら、向こう特有の嵐が襲ってきて足止めを喰らって、お祭りの日まで現地にいたの。おじいちゃんったら、日本での商社との商談があったので、独りでバタバタしてたのよ。私はお暇ちゃんしてたから、地元の方々について行ったのよ。」

 私たちは階段をトントンと降りて来る足音を耳にした。その足音は途中で止まった。

「ママ、どこに行ったの? ママ。」

 それは寝ていたジルの声だった。私は早く彼女の許に行ってやらなくてはと思っている間に、私を背後から抱いていたけいちゃんの方が、素早く動き出した。私は腰を浮かした状態で、聞き耳を立てていた。

「ジル、起きたの?」とは、けいちゃんのとても優しそうな声。

「うん、ママ。おやつある?」が、けいちゃんにジルがかけた言葉。

「あれ、けいちゃんのことを『ママ』って呼んでるよ。それはそうと、マナのことは『マナダッド』っていうよね」と確認したのは、秀ネエ。

 私は、『ダッド』だから、パパだよね。うーん、これでいいのかな? けいちゃんはジルにママと呼ばれていることに気が付かないのだろうか、と思っているのは秀ネエと私だけだろうか? おばあちゃんはその会話を聞いて、「そうだね、ママと連れ立ってジルのおやつでも買いに行こうかしら」などと悠長なことを言っている様に私に思えた。おばあちゃんは、今回も自らの終活をしようとやって来たはずなのに……。きっと、ジルの顔を、そうだ、ジルはおばあちゃんにとっては曾孫となる、彼女を見に来ただけなのだ、今回は、たぶん。

 その日は夕刻までジルを中心に皆でワイワイとはしゃいでいた。おばあちゃんは施設の夕食の時間があると言って社用車で帰っていった。また、秀ネエはジルを私の元に送り届けるのが役目で、「自分の仕事はここまでだから、あとの手続き等はちゃんと君たちでやってね」と言い残して、横浜のホテルを取ったから今日一泊してから、自分の次の予定を立てる旨を告げて内田家を後にした。姉貴は、「そうだなあ、まだ十日ほど休みがあるからヘンリーの手伝いでもするか」とも言っていた。そう言えば、おばあちゃんから島の祭りの様子を聞くのを忘れていたことを後で思い出した。

 二人が帰ると、ジルとけいちゃんと私の三人がこの屋敷に残った。ジルはとても喜んだ明るい顔をして私たちに纏わり付いていた。

「ここがマナダッドのお家? 広いねえ。」

「そうだよ。これからはここがジルのお家だよ。」

 ジルはけいちゃんのミディのワンピの裾を引っ張って、彼女の顔を見上げた。

「ママのお家よりここはすごっく広いね。木で出来ているね。大丈夫? ママ。」

 けいちゃんは『ママ』という呼称に全く反応しないのか、無視しているのか、ジルの顔を正面から見るために屈んだ。

「そうだね、マナダッドのお家は広いね。木で出来ているね。でも、大丈夫だよ」と言うと、ジルを持ち上げた。彼らを抱くように私は二人に手を伸ばして包んだ。大きな幸せがここにあるという実感を私は持ったのは確かだった。一方で、秀ネエから貰った公的な手続き書類を後期授業が始まるまでに一定程度は処理することと、ジルを私たちが世話をできないときはいかなる措置を取らねばならないかを市役所等に尋ねてみなければならない。今まで考えても見なかった状況が将来にわたって展開する慌ただしさをも意識せざるおえなかった。

 けいちゃんは自然にジルに言葉をかけていた。

「ジル、一杯汗かいたね。シャワー浴びてお寝んねしよう。明日はね、海に遊びに行こう。」

「うん。私ね、ヒデに下着とお洋服買ってもらったんだ。明日は、ママとお揃いの服で遊びに行きたいなあ。」

 どこにでもいる母子の会話のように私には違和感なく聞こえた。秀ネエが買ってくれたジルのものはすでに受け取ってある。これまでのものと新品とごちゃ混ぜにバッグの中にあったので、私の部屋の空いている整理ダンスの数段をジル用にすることに決めた。どうしようかな、どうやってジルと寝るのかな?

 私は様々な算段を考えながら、二階の部屋を整理していると、階下からシャワーを終えた二人の楽しそうな弾んだ声が聞こえてきた。

「ママはいつから髪の毛を黒にしたの? 私も黒がいいなあ。そういえば、日本に来てから黒い髪の人多かったよ。」

「そうね。ジルも今度は黒にする? でも、ジルは今のままで奇麗だよ」と、けいちゃんはジルの赤毛の頭をクシュクシュとバスタオルで拭いていた。時折、どちらからともなくキスをする。

「ジル、今日は誰と寝る?」

「ママとマナダッド。皆で一緒に寝よう。ジルはママとダッドと一緒に寝るの。」

 私たちは一先ず、私の部屋のセミダブルベッドに川の字になった。壁側にけいちゃんが横になり、中央にジルを寝かせて、私はドアに背を向ける形になった。私とけいちゃんの指を小さな掌がギュッと握っていた。かと思うと、数秒でその手から力が抜けてきた。私は一度、目を閉じていた。すぐにジルが寝たのに気付くと、目を覚まして、私はけいちゃんの顔を眺めていた。彼女は眠ってしまったらしい。私はそれを確認して、人生で一番慌ただしかったであろう今日一日を自分の中で振り返ろうと、階下の居間へ移動を始めた。

「ケイト、ジルをちゃんと受け取ったよ」と、私は言葉に出した。サイドボードのガラス戸のフェアリーストーンが白く光った。その光源はしだいに明るくなってきた。私はその灯りに懐かしさを持った。

「マナーミ、ありがとう」という囁きを私は聞いたように思った。

「ジルはちゃんと育てるね。もう、私は虚勢を張ったり、傲慢になったりしない生き方をしないといけないよね。でも、不思議だよ。どうしてけいちゃんをママと呼ぶの?」

 小さな笑い声が、今度は、空間に微振動を与えたみたい。私は再び、ケイトと会話ができないものかと期待したのだが……。エール缶を冷蔵庫から取り出し、タブを静かに空けて口を付けた。「これからどうなるのだろう」と、自分の心の声が聞こえてきた。私はソファーに寝そべっていた。フゥと眠気が襲って来た。こんなところで寝ては駄目だと自分に言い聞かせていたが。ケイトのスカイブルーの瞳が私を見詰めている。彼女の広い唇が私の小さなプルンとした口先に当たる。私はケイトに襲われる。ケイトが私の体内に侵入してくる。私の身体の敏感な部分に彼女の触手が伸びてきた。深く深く彼女のものが私のアメジストを愛撫していく。彼女に襲われるたびに私の身体は変化していく。その変化は私を私が望んだものに変えていった。私は「出来損ない」などではない。私はちゃんと望んだとおりの身体と性を得たのだから。そうして、ジルはケイトの体内から生まれたのだから。

 私は揺り起こされた。ハッと思って目を開けた。スカイブルーの瞳が私の至近距離にあった。広い唇が私の唇に押し当てられた。

「マナちゃん、こんなところで何も掛けずに寝るとお腹壊すよ」とは、けいちゃんだった。

 やはりけいちゃんの眼の色がブルーになっている。

「けいちゃん、あなたの眼の色が変わっているんだけど。」

「そうなのよね。ジルに会ってから目の色が変わってきたのは分かっているの。鏡を見て自分で確認したの。」

「けいちゃんはジルに『ママ』って呼ばれてるのに違和感を持たないの?」

「えっ? ジルが私に『ママ』って言ってるの? 全然、気が付かなかったなあ。」

「やっぱりそうなの?」

「やっぱりって? 私ね、ここに初めて泊ったときあったでしょう。あのときの身体の不思議な感触がずっと残っているの。自分のはずが自分ではないような……。説明できないなあ。でも、私はいつものように私のはずなんだけど。」

「けいちゃん、それはケイトだよ」と私は伝えて、スマホにケイトの容姿が分かる映像を

出した。長いウェーブのかかった艶やかな赤毛で、目は丸く大きく二重瞼、瞳はスカイブルー。鼻は高く、唇はワイドで薄い。

「あ、この瞳の色。今の私の色に近い。唇の形も私と似ている。」

 私はケイトとのツーショット画像をけいちゃんに初めて見せた。

「留学した当初、マナちゃんは色気あまりなかったんだね。でも、いい顔してる。」

「色気については余計なお世話よ、けいちゃん。変なこと言わないで。今見てほしかったのは、ほら」と、私はケイトとの身長差と彼女の体格をけいちゃんに見てほしかった。

「えー、ケイトは私よりちょっと大きいかも。競泳してた私よりがっしりしてる感じ。」

「まあ、スコットランドの人は体格的には当然のことだけど、日本人より大きいよね。ねえ、けいちゃんはケイトにちょっと似ていませんか?」

「どうだろう。私は私なので、何とも言えないなあ。でも、マナちゃんがそう言うならそうかもしれないなあ。」

 また研究者肌の発言。肯定から始まるのではなく、疑義からスタートしている。私はジルのことを思い出した。

「けいちゃん、ジルは?」

「良く寝てるよ。よっぽど疲れていたと見えて、深い眠りについてるみたい。当分、起きないと思うよ。でも、もしかしたらお漏らしするかもしれないかも、よ。」

「お漏らし?」と私は繰り返した。私はそんなことに考えもおよびがつかない。

「私には、甥っ子や姪っ子がいるから、ある意味経験済みだから安心して。」

「話を元に戻すね。けいちゃんが感じている奇妙な感覚の原因。実はケイトが亡くなる前から、ケイトの思念と言っていいのか、霊性と言っていいのか。それがね、けいちゃんの身体を操ったことがあったのよ。」

「またまた御冗談でしょう、と言いたいところだけど。あなたのおばあ様の話や自身の体験からそのような現象が起こる可能性はあるかもって、そう思う様になっちゃった。」

「あるときケイトが、あなたには入りやすいようなことを言っていたこともあったのよ。あなたの瞳の色が変化しているのもそのことが一因なのかも。」

「マナちゃん、ちょっと変なこと言っていい? 私ね、ジルを見た瞬間から「この子は私の娘だ」って思ってしまったの。もしかしたら、そんな自分のスイッチが作動して、『ママ』って呼ばれても全く抵抗なかったのかもしれない。」

 私は複雑な気持ちでいた。大切な人だったケイトがけいちゃんと共にあるのは良いが、私はけいちゃんに失礼なことをしているのではないかと。この感情は彼女と付き合い、現在に至るまで持ち続けている。

「私はけいちゃんを恋人だと思っているの、心の底から。確かに始めは、ケイトの代わりという風に思ったこともあるけど、もう違うの。ごめんね。」

「どうしてマナちゃんが『ごめんね』と言うの? 今、私がマナちゃんを独占しているのは事実でしょう。亡くなった人には申し訳ないけど、あなたは私のモノ。少しぐらいはケイトに分けてやってもいいけどね。ウフフ。」

 やっぱりけいちゃんは負けてないなあ。自分が思ったこと、実行したいことへ向っていく強引さは研究者にぴったりだ。私もその類の人間だ。だから、自分では妖精が言うようなピュアな人間ではないはずだけど。私たちが話をしている間中、フェアリーストーンは白く光り続けていた。けいちゃんはそれに気づかないはずはない。私のネックレスの先端の小さなクリスタルの結晶もキラキラ光っていた。

「けいちゃん。サイドボードのガラスの向こうに光っているものがあるのは分かる? この小さなクリスタルがキラキラしているのは確認できる?」

「ウーン、サイドボードのガラス戸が蛍光灯に照らされているのは分かるわよ。それにね、マナちゃんのクリスタルはキラキラ見えるのは部屋の光とあなたの肌が透き通るように白いからそう見えるのかなって、思う。」

 けいちゃんにはそう見えているのか。私は秀ネエから預かった指輪をサイドボードのそのフェアリーストーンの脇に置いていた。彼女に渡したいものがあると告げて、私はケイトの指輪を、ケイトの遺言の通り自分の恋人の左手薬指に嵌めようと目論んでいた。私はもう誰も失いたくないし、私は強い人間ではないので一人では一生涯生きてないけない。しっかりとパートナーを繋ぎとめておきたいという一心だった。

「けいちゃんの指のサイズに合わなかったら、また作るね」と私は言いつつ、彼女に左手を出すように促した。彼女は意外な行動に出た私の所業に驚いているように見えた。私は彼女の薬指にリングをゆっくりと確実に指の付け根に向けて嵌めてみた。私の思いは当たっていた。けいちゃんの薬指にぴったりっだった。その指輪を嵌めた直後だった。リングから閃光が一瞬だが、一筋部屋の中を走った。

「ああ、……」とけいちゃんは息と同時に口から漏らしたまま私の眼の奥を見据えている様に、凝視した姿勢でいた。次に彼女は私に抱きついてきた。その抱く仕草がケイトのようでもあり、肌を締め付ける圧力はけいちゃんのようでもあった。

「分かるよう、分かるよう。マナちゃんに出会えてよかったよ。」

 けいちゃんはそう言うと、私を抱いた腕を解くどころか、そのままソファーに押し倒すと馬乗りになった。じっと彼女は私の顔を覗き込むと、悲しみを飲み込むような笑顔を作ってから私に酸っぱいキスをした。彼女の唇は私の首筋に宛がわれていった。あの感覚だと細胞が覚醒すると、けいちゃんは私の中に滑り込んでいった。あのお互いの体液が混じる合う、融解していく感覚の先に……。

 翌朝、ジルは早く目覚めると、私たちを起こしにかかったみたい。ジルは各々の頬にキスを繰り返す。「ママ」とけいちゃんを呼ぶ声。「ダッド」と私を呼ぶ声。ジルとずっと一緒に暮らしていた私たちのいつもの朝がやって来たそんな錯覚に囚われていた。


 翌日の午前、ジルと約束していた逗子の浜辺にみんなで赴いた。まだ残暑の陽光が良く晴れた青空から降り注いでいた。けいちゃんと私の間にジルがぶら下がって、もっと高い高いをしろとおねだりをしていた。ふわっとジルの手を引っ張って私たちは彼女を持ち上げた。浜辺で何か見つけたと見えて、ジルは波打ち際に駆けって行った。もうすぐ五歳の誕生日を迎える。私たちは彼女から遠くない場所で砂の上に並んで座った。

「マナちゃん、私ね」と、けいちゃんは私の方を向いて喋り出した。

「私ね、ジルをあなたと一緒に育てたいな。」

 私はその申し出に半分驚いていた。私は世間からはバツイチの子持ちというレッテルを張られるだろう。さらに、いつあなたはその子供を産んだのとも詮索されるだろう。また、どうして結婚していたということを今まで隠していたのか、などと自身にとっては痛くない腹を探られるだろう。否、痛くない腹? 確かに私は産んでいないのだから、自分の腹は痛めていない。ケイトがジルを儲けたのだから。その半分の責任を私は背負っている。ただ、最初にけいちゃんが疑問を持った通り、養子扱いに普通はなるだろうなとも思った。さて、秀ネエから渡された書類と手続きをガンガンやっていくしかない。ケイトとの婚姻証明、彼女の身分証明、彼女の死亡診断証明、ジルとの家族関係書類等々。数え上げればきりがない。その作業の膨大さに辟易しそうな自分がここに歴然といる。ああ、私の研究活動に支障が伴う。そんな邪悪で邪慳で極めて薄情な自分の存在にも気づく。このことこそがピュアな人間でない証拠の数々である。自らの我欲の塊が自分自身の本性なのだ。生まれたときから自分の卑屈さはよく分かっている。その自分勝手で傲慢な自分がどうして古典経済学の父であるアダム・スミス先生の「同感の原理」を研究しているのか。指導教授の社会思想史の講義を受講したのが発端だ。その経済学者が近代において『道徳哲学』という学問を担当していた。その学問が今でいう包括的社会科学といってもいいもの。なぜなら、その領域には自然神学、倫理学、法学、そして政治経済学の四科目があった。その最後の科目から分岐して「経済学」が生まれたのだ。多分、多くの社会人や学生さえもとくには学んでいないはず。多くの経済学者は人間の行動原理から独自目線で人間の欲望と感情を解明し、自らの経済理論を構築していったプロセスが専攻してみて初めて分かった。近代社会形成には何が起因しているのか。その社会をどのように人間が認識し、理解し、行動に移してこの法治社会を造っていったのか。その延長線上に現在の経済社会が成立している。歴史は古いものではなく、現在と未来の方向性を決定づける先達の思想と政策と施行の連続ものとにあることを私たちはもっと理解しなければならない。その近代社会の原形はスミスが言う「同感の原理」からスタートしている。彼は言う。「私たちは利己的だけれども、他者の動向も気に留める。なぜだろうか。それは同胞と思っていて、彼らの喜怒哀楽を感じることによって、私たちも共に感情を同じくする。私たちは利他心も持ち合わせている。したがって、他者の境遇に自らの身を置くことによって、それは決して同じではないが、似ている感情の創出を感じるのである。」そうなのだ。私は小さなときから世間から、ある人々から疎外されてきた。疎外とは私と同じ感情を決して持ってくれない。持つ気もないと言った方がいいかもしれない。しかし、スミスが言った通り、ちょっとでも私に寄り添って考えてくれる類の人もいた。その中では相手を少しでも知ろうとか、理解しようと試みてくださる。その方々の存在がまさに社会形成の発端なんだなってことを大学に入ってから気づかされた。スミス研究者はそのような人物のことを「公平なる観察者」と表現している。実は未だに私はその観察者をどこかで信用していないのだが。信用しないことこそ、ピュアな人間ではない決定的な証拠?

「私、ジルを育てなきゃ」と、口を突いて出た。私の頭の中では整理のつかない状況が延々続いて出口のない袋小路の中にいたことは確か。

「私ね、マナちゃん。ケイトから頼まれた気がするの。それにね、私はあなたより十歳は人生を多く経験しているし、自分の器も知れるようになったの。私ね、ちょっと清々しいの。こんな気持ち生まれて初めてかも」と、けいちゃんは一度言葉を切った。一旦、深呼吸をしてからこう言った。

「私ね、『ママ』になりたいの。それも本物のママになりたいの。もうなっているかもしれないけど。でも、今朝起きたときに私の心は固まったの。」

 私は自分の思考回路の薄汚さに恥ずかしくなっていた。ジルは私の娘。なのに、なのに、私の気持ちの片隅にその子を排除しようという獣が住んでいたことを。

「ママ! ダッド!」とジルの呼ぶ声が聞こえてきた。私たちが話している間に彼女は少し離れたところで、同い年くらいの子供と戯れていた。もう、彼女の可愛い空色の服は海水で体にへばりついているのが見て分かった。私たちは彼女の許に駆け寄った。彼女たちが水をかけ合っている脇に一人の女性がしゃがんでニコニコしていた。

「ジル」と、私は彼女を呼んだ。彼女はけいちゃんと私のことを「ママとダッド」と、一人の女の子の母親だと思われる女性に紹介していたみたい。

「こんにちは」と、その女性に先に挨拶をしたのはけいちゃんだった。私もその背後から頭だけをちょこんと下げた。私はやはりコミ障の部類に区分されるかもしれない? けいちゃんはジルと一緒に遊んでいる娘ともども水遊びの相手をし始めた。残されたその女性と私は所在なく隣り合わせに浜辺に腰を落とした。

「娘さんのお名前、ジルというのですか。可愛いですね。」

「はい、私たちの娘です。」

「今、『ママとダッド』というようにジルが読んでいたと思いますが……」と彼女は私に不思議そうに尋ねてきた。

「ええ、一度そのように覚えてしまったので、しようがありません。いいんです、私がジルのダッドで、けいちゃんがママなんです。」

 自分でもどう表現すればよいのか迷いながら口に出した言葉だった。

「面白いですね。私の娘はリズです。二人とも赤毛ですね」と、彼女は笑顔を私に向けた。

 私はなぜか彼女に話したくなってきた。誰か、第三者に、私の心情を吐露することで自分の気持ちを軽くしたかったという正直な気持ちあったのと、彼女の娘さんも赤毛だという共通項を持っていたことで、少しだけ勇気を振り絞って言ってみたくなった。

「今、彼女たちと遊んでいるのは私の友人です。正確には今の私の恋人です。本当のママではありません。」

「あなたは正直な方なんですね」と、リズの母親は感心したように目を見開いた。

「本当のママは亡くなりました。ですから、私が引き取ったんです。まだ、ジルはこちらに来て日が浅くて、これから日本社会に解けこまなくてはいけません。どうしたらいいか分からないのです。」

「私も同じようなものです。私は夫と別れてアイルランドから両親のいるこちらに帰ってきました。もしかすると、夫に訴えられるかもしれません。そう、幼児誘拐罪に問われるかもしれませんが……」と、彼女は少し恥じらいを隠して寂しそうに教えてくれた。そして、言葉を続けた。

「でも、私自身、後悔はしてません。すべては決まっていた順序だと考えれば、これからのことも山あり谷ありで面白いかもって。アハハ」

 彼女の笑い声は悲しみを乾かした軽さを持っている様に私には感じ取れた。

「私、駅近の塾で小中高生を教えていますが、逗子や葉山の子供たちって、色々な事情からご両親が揃っていない子供たちも結構いるみたいですね。私自身、子どもの頃に両親を交通事故で亡くして、歳の離れた姉が親代わりみたいなものです。」

「そうですか? それはお辛かったでしょうね。それに比べれば、私はまだ幸せですね。もしよければ、ジルがリズの友達になってくださると嬉しいです」と彼女は言うと、「私も水遊びしてきますね。あなたも行きませんか?」と続けてから、子供たちとけいちゃんの水かけごっこの中に裸足で彼女は入っていった。もう彼らの服からは水粒が滴っていた。手招きをするけいちゃんもタンクトップの胸元を随分と濡らしていた。私も恐る恐る彼らの騒ぎの中に身を投じた。

 その日、けいちゃんは家での仕事をするということで、ジルの世話を完全に任せて、すでに二学期が始まった小中高生のための指導のために塾へ急いだ。本当に心底、けいちゃんにおんぶにだっこ状態である自分が情けなくも思えた。もし、一人でジルにかかりっきりになると、私自身の身が持たなくなるばかりか、多分、プレッシャーから躁鬱的な心境になって的確な判断が出来なくなってしまうばかりか、DVよろしくジルに容赦なく自分の激情をぶつけるかもしれない。けいちゃんを信頼して、私は安心して塾での業務をこなしていった。

「ただいま」と、私は玄関を開けるなり廊下の先に声を投げかけた。ケイトと会話ができたときは、「おかえり、マナーミ」という声が帰って来ていたことを如実に思い出していた。

「おかえり、マナちゃん」と同時に、「おかえり、ダッド」という声が重なり合いながらの返事とともに、ジルを抱えたけいちゃんが居間の方からニコニコしながら現れた。が、私は一瞬、ケイトが姿を現したのかなと自分の眼を疑った。ジルが私に手を伸ばし、抱っこを催促していた。そのジルを彼女から受け取った。

「けいちゃん。その髪の色、どうしたの?」

 自分の目を疑ったのも無理はなかった。けいちゃんの黒髪がオレンジベージュ風になっていたからだ。

「どう? ジルが私はこっちの方が似合うって褒めてくれたんだよ」と、けいちゃんはいかにも嬉しそうに私に報告した。それに付け加えるように、彼女は私にとって嬉しい報告をくれた。それは彼女が非常勤で教えている経理専門学校で経済学担当の先生に欠員が生じたということ。その後任に私をけいちゃんが推してくれたことだった。

「ぬか喜びにならないように、ある程度詰めてからマナちゃんに伝えたかったんだ。一コマ七千円だけど週二コマだから、授業がある月は6万円くらいにはなるんじゃないかな。だって、今の塾は七十分一コマで二千円くらいでしょう。で、マナちゃんは三日間で六コマやってたっけ? すると、週一万八千円。月で七万円くらい。うーん、ちょっと負けてるかな。でもね、時間的に専門学校は明るいうちには授業終わるから、時間的余裕は出来ると思うんだ。それにね、私も一緒だからジルとの時間も取れるでしょう。」

「ありがとう、けいちゃん」と言うのが、私の目一杯の気持ちの表し方だった。

「ダッド、泣いてるの? ママ、ダッドを虐めちゃダメ」と、ジルはけいちゃんの顔を睨みつけていた。

「ジル、ありがとう」と、私は嬉しさで声を詰まらせていた。私はスニーカーを脱ぐためにけいちゃんにジルを渡して、シャワーを浴びて部屋着に着替えてみたら、すでに彼女たちの姿は階下にはなかった。そっと部屋を覗きに行くと二人ともベッドに横たわっていた。私に気づいたけいちゃんが、そっとジルの脇から移動して、私にシャロウキスをしてくれた。私たちのリングが共鳴するかのように銀色がちかちかしたようだった。

 忙しい日常の中で、ある日、一番上の優ネエから電話をもらった。

「マナちゃん、あなたは結婚していたの? それに子供もいたって本当? ヒデちゃんからこの間聞いて腰抜かしかけたんよ。意地はらずにジルちゃんだっけ、私の方があなたよりは子供に慣れているから預かろうか。でないと、あなたは定職を見つけられないわよ。研究論文の数が業績になるでしょう」と、一方的に話を始めた。「一度、ジルちゃんを連れて松江に帰ってらっしゃい」とも、姉貴は申し出た。

「優ネエ、ごめんね。優ネエにはこれまで本当に感謝してもしきれないほどお世話になっています。でも、もう優ネエも自分なりに生きてほしいというのが、我が儘放題の私の願いなの。」

「何を偉そうなこと言っているの。私の願いはあなたたちが、あなたとヒデちゃんが自分らしく人生を送ることに尽きるのよ。それにこっちの、宮本のおじいちゃんとおばあちゃんは誰が見るのよ。私以外にいないよね。」

「うん……」と、単発に返事をすることしかできなかったが。

「でも、来週から大学の授業が始まるから帰省できないよ。それに、パートナーもいるから何とかなると思うの。」

「ああ、あなたの恋人ね。『けいちゃん』って言ったかしら。そうだなあ、その人にも私は挨拶しなくちゃね。そうだ、いいこと考えついちゃった。私がしばらくそっちへ行こうか。それがいいかも。」

「いえいえ、それには及びません」と、言ったはいいが……。その後、私は優ネエのリクエストでけいちゃんにスマホを手渡した。何やら細かいことをはなしているようにも漏れ聞こえてきた。

 すでにリングを通して、私たちの意思疎通は滞りなく日常的には行われていた。当然、ジルに関することも。でも、田舎から電話がかかってきたこの機会にちゃんとお互いの抱えていた問題を出し合ってスッキリした気持ちでこれからのことに向き合いたいということになった。ジルを寝かしつけた。これはすでにママの仕事になっていた。私もいるのにである。それに少し寂しさを感じていた。役割は分担した方がいいに決まっているのだが。性的役割分業は私たちには無縁のはず。

 けいちゃんが最初に話し始めた。いきなりの宣言であった。「私は、絶対、ジルのママになる」と。もう、ジルにとってはけいちゃんはママであるのだが。私とケイトの死別による婚姻の解消を待ったうえで、皆に祝福されて私と正式な結婚をしたいと彼女は主張した。

それから自分の生い立ちに触れ始めた。彼女は両親と姉との四人暮らしだった。典型的な核家族だ。しかし、彼女が幼いとき父親は賭け事にハマって、つまりギャンブル依存症を病んで、それが原因の一つというが、元々男尊女卑的な保守的な考えを持ち、暴力的だったので彼女の母は離婚したという。彼女の姉はすでに二人の子供を持つ母親だという。その姉の連れ合いはよく出来た人物で、彼女の母は同居して平穏に暮らしているそうだ。けいちゃんは中学校時分から競泳の才能を見出されて、多くの競技会で優秀な成績を収めて体育大学に特待生で入学し、オリンピックの強化選手になったが、その後、伸び悩んだことと先輩への失恋から競技人生を終えたとのこと。この間に、選手人生の裏で家庭との接点が希薄なり、家族との暖かみを育てることを忘れてしまったという。さらに、自分は父親のこともあり、異性に対する嫌悪とともに、男性の力強さに憧れていたこともあって、男性になりたいという秘かな願望も持っていたという。ただし、非常勤でも研究職に就いてから、周りの男性の先生方から暖かい目で指導を受けて、学会はどこでも男性優位社会であるのが現実だが、女性であることのメリットも感じてそれを有効に使っていきたいとも考える様になったらしい。男性への憧れは自分より弱いものを庇護すると同時に支配したいという下世話な欲求だと気づいたとき、かつての女性先輩から頂いた愛おしさと優しさを思い出すに従い、また芯の強い女性への尊敬がマナちゃんを見つける一つの要因となった旨、彼女は率直に私に話してくれた。だから、けいちゃんは家庭的暖かみを自分で作りたい、ジルという愛情を注げる存在がいること、さらに愛おしいあなたとともに人生を過ごしたいとも付け加えた。彼女は、私を強く抱きしめ私のスクエアネックの胸元にキスをした。

 私は、どこから話そうかと迷っていた。

私の身体は元々DSD、性分化疾患だったことを最初に彼女に伝えた。私の幼いころからの性自認は女子であったこと。でも、最初は戸籍上では男性であったことも初めて彼女に告白した。「マナちゃん、嘘はいけないよ」とけいちゃんは私を窘めると、彼女の指が私のショートパンツの隙間から股間に侵入し、Iラインを確かめる動作をした。私は、「感じるから、やめて」と、彼女の手首を掴んで制止して話を続けた。私の性自認は女子であったが、五歳のとき私は藍色の着物と羽織りと袴を着せられた。一方、二歳年上の秀ネエは艶やかな花柄の振袖に、ぴったりと帯を結んだ姿だった。私はどうして自分がこんなに地味な、みすぼらしい着物しか宛がわれないのか困惑していた。すでに、私の両親は外国での交通事故に遭って亡くなった後だった。だから、姉と二人では自分にお金をかけられなかったのかなと思ったこともあった。もう少し、両親の話をすると、父方の内田家はこの逗子在住だった。父も幼い頃父親を亡くし、気丈な母親、つまり今の内田のおばあちゃんの起業が順調に行き、さらに父は地元の逗子開成から東大へ、さらに国家公務員キャリアという出世街道を走っていた。その間に総務省勤務だったので地方県庁、それで島根県庁に出向し、母に出会い結婚した。父は松江が心底気に入り、しばらく松江の母方の宮本家にお世話になり、最初に生まれたのが優ネエ。穏やかに暮らしていたが、中央からのたっての要望によりアメリカに赴任する下見に母親と出かけた際に、高速道路でのトラックが絡む多重事故に遭遇した。私は五歳で、ぼんやりとしか覚えていないので、愛情を注いてくれていた大人がぱっといなくなったことだけしか分かっていなかったと思う。だから、その点で、けいちゃんのいう家族の温かい雰囲気に憧れを持っているのは同じだ。私の身体のこと。私はDSDで、生まれたときチンチンみたいなものが認められたということ。しかし、歳を重ねても小さなチンチン。ペニスらしい突起はそのままで、陰嚢は形成されず、女性の股間の大陰部のような外見をしていた。さきに言った通り、私の幼少の頃からの性自認は女子なので、小学生の頃、とくに入学式など男児の服装をさせられ、黒いランドセルを持たされて、小学校に行くのを拒否していたそうだ。私自身、あまり記憶にとどめていない。母方は待望の男子が生まれたということで期待していたらしい。私の性自認に気づいた姉たちが、当時、大学生であった優ネエが大学を中退し、市役所の職員試験に合格したのをきっかけとして、宮本の家からほど近い場所に引越して姉とともに生活をするようになった。その後、自分の性自認に従って生活できるようになった。とく二つ上に秀ネエの過激性は私が作り上げたかもしれないと思っている。というのも、私と秀ネエは同じ小学校、中学校、高校と進学した。その学校のブラック校則や性差問題を時代的時流にも乗り、ジェンダーレスの環境を田舎には珍しく解決していていった開拓者と言ってもいい。だから、優ネエは秀ネエの行動で幾度となく学校に呼び出されては、姉同士対立したり、共闘し合ったりと逞しい活動をしていたのを覚えている。その環境が整った状況で、私は性自認通りの女子という身分を獲得し、中高とセーラー服を着て学校生活を謳歌し、日常でも女子としての生活をしていた。その生活の中で田舎での女子への見えない圧力や因習を肌で感じて暮らしていた。大学特待生試験を受けて合格し、横浜の関東学院大学への進学を機に、父方の内田のおばあちゃんの家にお世話になり、それからホルモン治療を行うことで本物の女性に近づく努力をしてきたことをけいちゃんに告白した。

「マナちゃんは、女子だよ」と、けいちゃんは念を押すように言いながら、どさくさに紛れて私の頬に唇を寄せた。

「うん、帰国して病院に行って検査を受けて、生殖的に女性であることが証明されて、性別変更の法手続きが完了したの。今の私は正真正銘の女子だよ。けいちゃんの目の前にいるよ。」

「では、」と話をケイトに移していった。「ケイトは本物の妖精かな。ルイス島の南端のネット環境の整っていないエリアに住んでいたよ。この現代に信じられないでしょう。そのような土地だから、人間と精霊や妖精が共生しているといってもいいかもしれない。ケイト曰く。『マナーミと私は出会うべくして出会った』らしいの。彼女と同じB&Bに泊まったのが縁かな。節約生活をするためにルームメイトになったの。そして、彼女に触れた瞬間に私の全てを知ったらしいの。『あなたの願いを叶えてあげる』と彼女は言ったわ。ケイトと体を合わせるたびに私の身体は少しずつ変化していったの。身長は変らないのに肉体と骨格がどんどん女性らしくなっていったの。そしてある日、初めての経験をしてしまった。分かる?」

「そうよね、生理がやってきたってこと?」

「その通り。これまではホルモン錠剤が中心で、中性的身体が大学入学から数年かけてほぼほぼ女性になってきたけれども、性未分化だから生殖器までは変化はなかったの。それがケイトのおかげでちゃんと女性になれたってわけ。その代わり、彼女は『マナーミのアメジストの欠片をちょうだい』って、たったそれだけの条件を付けていたの。けいちゃんも知っている通り私たちに誕生石があるけど、私たちは誕生石を体の中に持っているっていうことよね。今、考えると、その欠片がケイトの子宮に入っていて、ジルが生まれたのかなって思っちゃう。そういうことなら、ケイトが『ママ』で、私が『ダッド』というのも頷けるでしょう。」

「うん、確かに」と、けいちゃんは言ったまま納得する表情でニンマリとしていた。

「もし、それが本当に人間と精霊や妖精の交わりだとしたら、セックス行為だとしたら、そしてそれが医学的、科学的に実証されようものなら人間界の常識がひっくり返るということね」と、けいちゃんは付け加えて私に語りかけた。

「そうだね。それにおばあちゃんが言っていたように同性同士の間の子供はとくに女性同士の場合は、精子提供者がいてどちらかのお腹を痛めて赤ちゃんが出てくるというのが当たり前の考えだけど、本当はどちらかが妖精で、人間と交わることによって欠片を自分の体内に取り込むことによって受精が完了するというカップルがいるということも私たちは知ってしまったということかな」と、私もけいちゃんの説に引きずられる格好で推論を口にした。

「ならは、よ。マナちゃんと私の間にもジルの弟か妹を儲けることも可能っていうことかな?」

「そうかもしれないわよ。だって、最近のあなたと結びつく感触がケイトのときの感覚を呼び覚ますの。」

「私は今までの肉体的快楽からイクっていう感覚から、マナちゃんが言っていたように、お互いの『体液』と『感情』と悦楽というよりも『愉楽』が融解して一つになっていく不思議な体感を得るんだもの。もう私は癖になっちゃうくらいマナちゃんをいつでも抱きたいの。」

 そういうとけいちゃんの指が私の太腿の上をゆっくりとしたスピードで敏感な秘所へ移動していった。今日も私はけいちゃんと融解してくのかな……。


 大学の後期日程がスタートした。現状ではジルを預ける施設はなかった。水曜日は前期から同様にけいちゃんと同じ時限に講義が入っている。事前にスケジュール表をお互いに付き合わせて、ヘルプを求めることにしていた。というのも、土地柄、葉山にインターナショナルスクールがあるが、問い合わせをしたときには定員に達しており、しばらく待ってほしいという回答を頂いた。また、そこの学費を伺ってみると結構な額がかかるという経費的な負担が多いということが正直、けいちゃんと私の困惑した要因だ。

「どうしよう。お互いが時間を融通してジルの面倒をみることができない日があるよね。困ったなあ」と、私はけいちゃんに眉間に皺を寄せて零していたときだった。

「グランマがね、『来るよ』って言ってたよ」と、突然、私たち二人の足元でジルが独り言のように呟いた。私は急いでおばあちゃんに電話をした。

「ええ、ジルから聞いてるよ。安心して、私はあなたのパパを育てました。こう見えても子育て経験者ですよ。でも、心配は体力かな。そう、歳をとるとシャキシャキ動けなくなるから、その点だけ自分で注意して動かなくちゃね。」

「そのう、おばあちゃんとジルは離れていてもお話しできるの?」と、私は素朴な質問をおばあちゃんにしていた。実際、私はケイトと対話をしていたという経験がある。

「そうね、お互いの能力によるみたいだけど、愛しい人や特別な人に思念を送るのは容易みたいよ。この場合、受ける人がやはりその能力を少しでも発動できるということが必須みたいなのだけど」と、おばあちゃんは事も無げに私に説明をした。

「ということはよ、おばあちゃんはジルに話かけられたということ?」

「そうね、とっても簡単な事よね」と、再び、おばあちゃんは常識の範囲内だというように穏やかに私に話した。

 水曜日の午後から二コマの時限、つまり、午後一時十五分から二時五十五分と三時十分から四時五十分の二コマの時間は完全にけいちゃんと私は大学の授業に取られてしまうし、出講するための移動時間も考慮に入れなければいけないので、お昼過ぎから午後六時まではおばあちゃんに頼らざる負えなかった。まだ、第一回目の授業は講義内容のガイダンスが主になるので決められた百分授業を丸々使うことはせず、早めに終わるのであるが。

 けいちゃんと私は時間をずらして講師控室に入っていった。多くの資料プリントを印刷するのがルーティーンとなっているけいちゃんが先に入っていた。私が入室すると、すぐに印刷機の前で話をしている千草先生とけいちゃんの姿を認めた。私はいつも座ると決めているデスクに荷物を置いた。私はお茶を飲むために給茶機へ向った。学校近くのコンビニで、ハムサンドを買って来たので、それを食べて授業に備えようと考えていた。給茶機はコピー機とともに印刷機の近くにあるので、千草先生が、私が来たことに気づいた。

「ねえ、マナちゃん。けいちゃんが髪の毛を染めてイメチェンしているから、驚いちゃった。それにね、けいちゃんの眼の色が変なのよ。と、まずあなたに正直に伝えたかったの。彼女に一体何があったのか、あなた知ってる?」と、千草先生は興味津々で私に尋ねてきた。さらに、「けいちゃんの左指にリングがあるのよ」と、彼女は言って私の左手に視線を移した。私たち、けいちゃんと私は千草先生と安藤先生には事情を話さなくてはいけないと事前に話し合っていた。ただ、そのタイミングをいつにするかは詰めていなかった。

「ちょっと待って、その指輪は?」と、千草先生に見つかってしまった。

「千草先生と安藤先生にはちゃんとお話するつもりです。先生、今日はガイダンス中心ですから私も早く授業を終わらせますから、私たちの……」と私は口にして、ここは「私」のと表現しておいた方がいいのかなと考えていた。

「うん、分かった」と、千草先生は言うと、けいちゃんのプリント印刷が終わると自分のガイダンス用の資料の印刷に取り掛かった。私の向かいがけいちゃんの席。

「いらっしゃい、けいちゃん」と彼女は言うと、スカイブルーになった瞳を私に向けた。

彼女の髪毛はオレンジベージュで、瞳がスカイブルーとなっていたので、講師室はその話題で最初は持ちきりになったそうだ。その後、目敏い先生に「あれ、向笠先生は結婚したの」と、突っ込まれたそうだ。

「だからね、『そうです』って答えておいたの。さすがにお相手はという質問には答えてないんだけど」とけいちゃんは言うと、私に悪戯っぽい笑顔を見せた。

「けいちゃん、ちゃんと先生方には言わないとね」と、私は真剣な顔をして彼女に答えた。

 この間も自分の意識の中に、おばあちゃんの優しそうな姿が写っていた。この映像はジルの見ている光景なのだ。今でもしばしばジルの見ている情景は私の脳内ヴィジョンに送られてくる。

「ジルはね、ご機嫌でおばあちゃんと遊んでるみたい」と、けいちゃんに伝えた。

「以前、あなたから聞いたように、ジルの見ている映像が時折なんだけど、私の頭に入ってくるようになったの」と、彼女は私に話してくれた。さらに、「マナちゃん」と彼女は私の名を呼んでから、「ジルが私に話かけてきたの。『ママ、グランマとお絵描きしてるよ』、『ママ。グランマがね、チョコケーキ買ってくれたんだよ』って、報告してくれるの。だから、私も頭の中で、『良かったね』と返しらた、『ママとお話しできるようになった』って言って嬉しそうだったの」と。

 私はちょっぴり羨ましかった。私はジルの見ている映像を受け取ることはこれまでも出来ていたが、ジルと思念で対話したことはまだないように記憶していた。ケイトは本当にけいちゃんに乗り移ったのだろうか。それともけいちゃんがあまりにもジルを愛おしむ気持ちが強くなって、彼女自ら自分の能力を高めたのだろうか。それにしても、けいちゃんとジルの絆だけが強くなって、私自身が置き去りにされている感覚を持ってしまった。そのとき、「ダッド。大好き」というジルの甘えた声が聞こえてきた。けいちゃんと私は彼女の親なのだから。とくに私は法的にジルの親であることに間違いはない。けいちゃんとジルの間柄は法的な意味合いを未だ持っていない。

 私の担当科目である社会思想史のガイダンスを終えたところに、前期によく質問をしてくれた男子学生に呼び止められた。

「先生、後期も近代社会思想史を履修しますので、よろしくお願いします。」

「ええ、こちらこそ前期後期続けて取ってくれるのは嬉しいわ。」

「あれ、先生。もしかして結婚されたのですか?」と、その学生はじろじろと私の薬指を見ていた。

「そう。私ね、留学中のスコットランドで結婚していたの。日本に帰るときにどこかに仕舞って忘れていたのだけれど、最近見つけたの。私も親としての自覚をしっかり持たなくちゃねと思って、夏から嵌めているの。」

「先生、『親としての自覚』ってことは」と、その学生は言い始めて、「先生、お子さんがいるのですか?」と、尋ねた。

 私にとって、ジルのことはもう隠すようなことではないと判断した。

「ええ、いるわよ。娘がね」と、応えると学生は驚いた表情をしたが、「そうですね。先生は若く見えますが、もう三十を越えているのでしょう」と、痛いところを彼は突いてきた。それは大雑把すぎる計算だぞ、と私は自分の感情を抑えた。さらに、「お子さんがいらっしゃるのなら、お母さんは大変ですね。旦那さんは先生に協力的なんですか? それに旦那さんは英国人の方ですか?」とも尋ねだした。お母さん、とは私のことかな。旦那さんとは誰のこと? その旦那さんは外国人?

「そこはプライベートだから」と、私ははぐらかそうとした。大方の学生が私を見て、結婚した、子どもがいるとくれば、学問ではなく日常を探られるようになることは織り込み済みだったが、いざ、このように尋ねられると私はどのような回答を用意しておかなくてはならないか迷っていたのは確かだった。なぜなら、私は留学を終えて戸籍上で女性となり、ジルはケイトから生まれてきたのだから。お母さんはケイトで、私はジルの言う通りダッドなのだ。したがって、私はお腹を痛めていない。

 その日の四時限が終了して、講師室に帰ってみると、前期女子会メンバーの私を除く三人の先生が同じデスクを囲んでいた。入ってきた私を見つけた千草先生がすぐにおいでおいでをしていた。私は遠慮がちに彼らに近づいていくと、千草先生が私のために椅子を用意してくれた。

「あらましは、けいちゃんから聞いたけど。マナちゃんとけいちゃんはパートナーになったの?」

「さっき言った通り、マナちゃんのお相手が亡くなられているので、その結婚解消手続きが終わってから、私たちも逗子のパートナーシップ制度を利用しようと思っています」と、けいちゃんが話を続けそうになった。

「どこまで、先生方に話したの? けいちゃん。」

「そうか、もうお互いに『ちゃん』付で名前呼び合っているのね。あの前期に別れたときの雰囲気とはがらりと、二人とも変わっちゃったね。それはいいとして、あのときマナちゃんは私たちに話してくれなかったシークレットが一杯あったわけね」と、千草先生は少々憤慨気味に語気を強めた。また、安藤先生も、「ねえ、マナちゃん。あなたは水臭いよね。留学中に結婚してたんだって。おまけに『ジル』ちゃんだっけ。子供までいたとは驚きね」とお二方の矛先は当然のように私に批判的口調で集中してきた。

「あまり大きな声で話さないでください。非常に恥ずかしいです。」

「恥ずかしいって、そんなことないじゃない。当たり前のことよ。ただ、マナちゃんがスコットランドですでに結婚していたということは初耳だし、子供までいたとはびっくり仰天だよね。」

 千草先生はニコニコスマイルを絶やさずに、私の顔を覗き込んだ。また、はす向かいの安藤先生も唇を結んで、私の次の発言を待っているみたいだった。

「ごめんなさい、先生方。嘘をつくつもりは毛頭ありませんでした。私自身、どこかで自分が生まれた国の中では穏便に平穏に生活していきたい。変な詮索をされたくない、と心のどこかで思っていました。先生方もご承知の通り、日本にはアンコンシャスバイアスがあって、そのことは一橋大学の相沢先生が『日本版アンシャンレジーム(旧体制)の未精算』という言葉でおしゃっていますが、家制度の確立から垂直型身分制度、さらには性的役割分業などなどの弊害に私たちは、とくに女性はそのような環境に閉じ込められていたように思うんですけど。そんな自分を縛る歴史的社会環境の中で、自国の同調圧力の重圧を避けたく思っていたのです。だから、……、ごめんなさい。」

「うーん、女性活躍推進法が二千十五年に十年間の時限立法で成立したけど、女性活躍推進などという謳い文句を付けること自体がチャンチャラ可笑しいよね。いままで一体、男性社会だったことを男どもが認めて、その罪滅ぼしよろしく、女性を担ぐなんてバカバカしいにもほどがあるよね。やっと意識が変わってきたのは確かだけど、女性を担げば何も考えない男どもは逆差別だという始末だよね。だいたい誰がそんな差別を付けてきたと思っているのよ。現代では数としては減少してきたと思うけど、男性の陰に隠れて事なかれ主義を通してきた女性陣にも原因があるのははっきりしているよね。ところで、マナちゃんのスコットランドの旦那さんはどんな人だったの? さっき、けいちゃんを詰問したところ、旦那さんじゃないとのこと。それは同性婚っていうことでいいのかな?」

「はい、その通りです。今、日本でも同性婚を法的に認めるかどうか裁判所で合憲か違憲かでもめていますが、スコットランドでは二千十四年から合法化されています。私自身、そんな気はなかったかと言えば嘘になりますが、留学中にルームメイトになった彼女と恋に落ちて、彼女の故郷の小さな教会で立会人を立てて婚姻を結んだのは事実です。」

「本当にそうなんだ。で、けいちゃんによるとあなたのお相手が亡くなって、その人の子供を引き取ったというけど、本当なの? それでその子はあなたの子供なの? マナちゃんとそのお相手は養子を取ったということ?」

千草先生の問は終わるところを知らない様子だった。さらに、私が真っ当に答えていくと世間の常識から逸脱し、どこまでを相手に信じてもらえるかも疑わしかったので、現状での千草先生と安藤先生が納得する結論で落ち着こうと私は考えていた。が、けいちゃんの身に起こっていることについては否定できない事実なので、常識に適合できないように思われた。

「マナちゃんは結婚していたんだね。」

「はい、今、結婚証明書、家族関係証明書、相手の死亡診断書などなどを揃えて、役所に提出する用意をしています。あっ、ジルを私の籍へ入れて健康保険証も出して貰わないといけないこと忘れてた。もう、日常の平穏にいつ帰れるかいま精神的に手一杯です。」

「分かるわ。夫婦別姓というだけでも世間の風当たりは凄いからね」とは、安藤先生。

「で、マナちゃんとけいちゃんの馴れ初めもじっくり聞かないといけないから、といってもあなた方には可愛いジルちゃんが待っているんだっけ? 軽くビール一杯だけ引っかけて解散しましょうか」と、千草先生の強引な提案で場所を移した。私はおばあちゃんに電話をして、もうすぐ帰る旨を伝えた。

 けいちゃんと私のリングが同じ仕様であることは先生方から見ればたやすく識別できるものだったらしい。簡単に夏の出来事やけいちゃんに私が苦しいときに助けられたことなどを話した。しかし、けいちゃんの瞳がスカイブルーに変わったことだけは、説明のしようがなかった。

「変な話をしてもいいですか?」と、私はちょっとだけ妖精の話を出そうとした。

「実は私のパートナーは妖精だったんです」と、私は多分眼を見開いていたのだと思う。

それに釣られて、けいちゃんが、「先生方は信じないと思いますが、どうも本当らしいですよ」と、助け船を出してくれた。助け船にはならないことは百も承知で彼女は言ったのだ。

「ちょっと待ちなさいよ。妖精って、西洋のあの妖精かな、ティンカーベルみたいな。」

「まあそんなもんです。先生方は知ってますか? 妖精は私たち人間と共生していたのを。」

「うーん、もうついていけないかも」とは、安藤先生の苦しい表情。一方、千草先生は喜び勇んで、「ゴ―オン」と話の続きを催促していた。でも、私自身も自分の身に起こったことをすべて理解しているのではない。

「ジルは私の娘で、間違いありません」と、私はきっぱりと先生方に宣言した。私たちに誕生石がありますよね。私は2月生まれですからアメジストですが。」

「私は、9月生まれだからサファイアかな。ああ、だから私の瞳が突然ブルーに変わったのかな」と、なんとなく合点がいった様子で応えたのはけいちゃん。

「普通さあ、突然に生まれ持った瞳の色が変わるかな?」

「でも、千草先生。私の眼は正真正銘スカイブルーでしょう。カラコンはいれてませんからね。」

「それに付け加えると、ケイトの眼の色がスカイブルーだったんです。私が帰国してからも姿は見えませんが会話を短時間なら出来てましたし、私は思うんです。ケイトとけいちゃんの体格がよく似ているんです。あるときにはけいちゃんの身体にケイトが入ったことあるんですよ。信じてもらえないと思うんですが。それで、ジルは私の娘に間違いがないと言ったのは、ケイトが言うんです。『あなたのアメジストの欠片をちょうだい』と、その代わりに『あなたの望みを叶えてあげる』と。ですから、私の生まれてからの悩みは解消されました。私はDSDでした。性未分化症で、男子でも女子でもない状態っだったのです。生まれたとき突起物があることから男子だと烙印を押されましたが、男性ホルモンが分泌されず、その代わりに女性ホルモンの影響が僅かにあり、中性的な容姿で中高大と過ごしてきました。性自認はもちろん小さい頃から私は女子です。大学に入りホルモン治療を本格的にやり出して、女子になったのですが、生殖器は未発達でした。だから、生理はもちろんやってきませんでした。しかし、ケイトとの交わりを重ねていくと、いつの間にか完全な女子になっていたのです。これも信じてもらえませんよね。ジルはケイトから生まれてきました。私の欠片が、そうですね、もし私がりっぱな男性なら私の精子が彼女の卵子に受精したということになるのでしょうが。ケイトはケルト系で、赤毛でスカイブルーの瞳だったのです。ですから、けいちゃんはジルに会わせて髪は染めた次第です。」

「うーん、うーん、そんなことがこの生成AI全盛期にあっていいのか?」とは、訳が分からなくなっている安藤先生。

 私の隣のけいちゃんはスマホ画面にジルと私たちが写っている画像を探し出して、お二方に見せた。

「ああ、これがジルちゃん。可愛いね。確かに彼女は赤毛だ。あれ? 眼の色は左右違うの?」と、千草先生がその点に気づいたらしく指摘した。

「オッドアイです」と私は応えて、ヨーロッパ系でアイルランドやスコットランドでは誕生比率が他の地方よりも高いことを説明した。

「もう帰らないくちゃ」と、けいちゃんがジョッキに残っていたビールを飲み干すと、私に帰るように促した。とてつもない御伽噺を聞かされた千草先生は、「今度、ジルちゃんに会わせて」と言い、一方、安藤先生は、「もう一度、改めて分かるように説明してくれるかな」と言いながら自分自身を落ち着かせているようだった。

 私たちのヴィジョンに疲れを抱えたおばちゃんの表情が浮かんできた。やはりおばあちゃんには相当な負担になることだけは確かな事だった。

 家に辿り着くや否や、ジルは「ママ。ダッド」と言って玄関に飛び出してきた。先に飛びついたのはけいちゃんの方にだった。ジルにとって、ママは絶大な安心なのだと私は今更ながら思った。けいちゃんの能力が覚醒してケイトと融合したのだろう、と私は思わざるを得なかった。また、おばあちゃんは疲れた様子だったが、また、私たちには理解不明な言葉を残した。

「フェアリーストーンの妖精と一緒に頑張ったのよ。また、来週来るね」と。おばあちゃんは満足した顔でタクシーに盛り込むと、施設に帰っていった。私たちは家族三人で、夕食のテーブルを囲んだ。ママがテキパキとジルと私のために立ちまわるのがやはり羨ましかった。私は授業の疲れを体に貯め込んで帰ってきただけで、そんなに手伝っていないことを反省していた。でも、ジルの見詰める瞳の奥に自分の姿が写り、その私に小さな希望をジルが齎してくれているようだった。

 しばらくして、ジルと私の親子関係は認められた。そこには、私は望んでいなかったDNA親子関係資料も加えられていた。スコットランドでは、私の容姿も手伝って誰が見てもケイトとの同性婚だったが、日本視点で見れば、当時私の性別は男子だったので、日本流にいえば適正で常識的男女の結婚ということになる。ジルの日本国籍も程なく取得できた。しかし、未だケイトとの死別証明書が手元に届かないので、けいちゃんとのパートナーシップ制度利用まではまだ時間的な経過が必要だった。とはいえ、けいちゃんがジルのママであることに違いはなかった。私はけいちゃんが講義がある曜日を避けて、紹介してもらった専門学校の二コマをこなすことで塾の夜の時間帯を家族のために使うことにした。けいちゃんはこれまでにも様々な仕事をこなしていたが、資格試験の問題作成を私が手伝うことで、これまでの仕事量を維持した。ママは非常によくジルのお世話をしてくれていた。どちらが本当の親か疑いたくなるほどけいちゃんの献身ぶりは半端なかった。海辺で遊んでいたリズの母親ともけいちゃんは連絡を取り合い、ジルはリズと遊ぶのを楽しみにしていた。私たちはジルを寝かしつけてから日頃の仕事の準備と自分の研究を続けていった。


 妖精はいつでも私たちの周りにいるんだと、私は思いつつ、私自身がそれら妖精と話ができないものかと本気で思い始めた。ケイトと話は出来たが。姿なき精霊は人間に深く侵入し、住処となる人間を定め、人間の成長とともに擬態しつつ、妖精になるということ。擬態した精霊は妖精に姿を具現化し、擬態した人間の寿命が終えると、妖精となってその人の霊性を自らの国に招き、共に暮らし、その人の霊性に神からお呼びがかかれば人間は再び旅立っていく。どうも、そうらしい。精霊と妖精はピュアな人間を選ぶという。ここまで、私の妖精と人間の関係性の認識できたつもりだった。


 けいちゃんとジルと私の生活は始まったばかりだ。やはり問題は私たち二人が同時に家を空けるときにジルを見てくれる人物なり施設を探すことだった。内田のおばあちゃんの力添えばかりに甘えてはならないことは分かっているが、現状での生活環境では致し方ない。とはいえ、何か新しい打開策を見つけなければならないことは歴然としていた。

 とにかくジルはお散歩が好きだ。それも海をみるのが大変好きだ。とくに私たち二人が揃うと、「ママ、ダッド。海、行こう」とすぐに提案する。それは彼女がケイトと島のから見えるヘブリデスの海をいつも眺めていたからかもしれない。それとお友達に会えることを知っているからだ。あのリズと仲良くなり、私がいないときでもジルとけいちゃんは彼女とその母親に会っているみたいだ。あるとき、けいちゃんがリズの母親、クミ・ミッドフォードさんに尋ねてみたという。

「ねえ、クミ。あなたはずっとここにいるの。?」

「ええ、そのつもり。両親に迷惑かけて外国行っちゃったし、可愛いリズもいるし、孫の顔を見て親はご満悦だし、今はのんびりと過ごすかな。結構、アイルランドだけじゃないと思うけど、私たちが思っているよりもヨーロッパって、階級社会じゃない? だからそれ相応の社会的立場を守らなくてはならないの。私の嫁いだ御家は元上流貴族のお家なんだ。」

「いいじゃない。それならどうして離婚しようと思ったの?」

「どうしても向こうの生活環境に慣れなくて。とっても息苦しくなって……。子供とのコミュニケーションが取りづらくて……。一緒にいるのに孤独を感じてしまって……。私自身も日本では結構ハイソだと思っていたけど……」と、クミは最後の方では小声で呟くように言うと、自嘲気味な口調だったそうだ。

「井の中の蛙とは、私のことでした。アハハ。文化がまるきり違うし、広い世界には上には上がいるんだよね。」

「そりゃそうでしょう。現代ならネット成金やAI成金なんてワンサカいるでしょう。この辺も昔ながらの旧華族とかや資産家の方も多いでしょう」と、けいちゃんは自分とは別世界の様子を思い浮かべて、彼女を眺めていたみたい。

「で、クミはこれからどうするの?」

「私ね、芸大卒業後、元々商業デザインの会社で働いていて、そのときにスコットランド人の十九世紀の芸術運動をしていたチャールズ・レニー・マッキントッシュの薔薇のデザインに魅せられて仕事を止めたの。もう一度、デザインの勉強をしようと思って留学したの。だから、改めて家具や調度品の新しい形を提案したいなって、思ってみてるところ。あなたは?」

 けいちゃんはクミに聞き返されたらしい。

「まだ話してなかった? 私はいろんな学校で非常勤講師してるよ。パートナーも同じ職業。だから、ジルの面倒をみるスケジュール調整で現在は四苦八苦してるところ。こんな時期にジルが日本に来たから、どこも受け入れてくれなくて困ってしまっているところなの。」

「じゃあ、プー太郎している私がジルちゃんを見てあげようか?」

「ええ? それって本気で言っているの?」

「うん、いいよ。リズも喜ぶしね。」

 私たちは彼ら、リズとクミを内田家に招待することにした。その招待の意味は、彼女から提案のあったジルを彼女に預けても良いのかを判断するのが目的であった。こちらに非常に利己的な意図を持っていることは否めないしなあ、と私は少々気が引けるところもあったが、けいちゃんとクミはすでに打ち解けているようで、私だけが少し彼らから距離がるように感じていた。

 日曜日のお昼を一緒に食べようということになって、クミ親子の到着を待っていた。けいちゃんは、美味しい唐揚げを作るために早起きをしていた。それに釣られてジルはいつものようにママのお手伝いをしようとママの腰にぶら下がっていた。生姜のきいた醤油の出汁の中から取り出して鶏肉の余分な水分をキッチンペーパーで吸い取り、片栗粉をまぶすのは私の作業だ。ちゃんと油の温度の様子を見て、けいちゃんは肉片を投入した。その後、軽快な包丁さばきでキュウリやトマトが、私がむいだレタスの上に並べられてサラダが完成していった。やっぱり、けいちゃんとの料理経験の差は歴然としていると思って、私は脱帽状態を暗に宣言し、その間はジルと遊んでいるのが私の務めだ。ジルはいつもケイトの料理を手伝っていたのだろうか。ジルはお皿を並べるのが得意だ。最初は、ジルが「お皿、お皿」と言って騒ぐものだから、早く食べたいものと思っていた。ところが、ある日のこと、ママが「お皿並べようか」と声をかけると、ママはジルにお皿を手渡した。すると、その小さな手がしっかりとお皿の縁を持つと、一度、テーブルの上に置いてからジルは椅子の上に上がって、テーブルを見渡すようにして各自の座る前にそのお皿を配置するのであった。ケイトと一緒に過ごした日々がそこから垣間見れたような気がした。私は思い出したことがあった。私がゼミの発表を控えて英文のレジメづくりに四苦八苦しているときは、ケイトは、「簡単な料理でいいよね」と言ってはキッチンに出ていき、料理をし終ると、スープ皿や大皿を備え付けのテーブルの上に楽しそうに置いていたことを思い出した。何気ないケイトと過ごした光景が鮮やかに飛び出してきた。

 門戸を開くキィーという音。油を付けないといけないと思いつつ、まだ処置していない。

その門戸の音とともに、玄関戸の開く音。ジルが長い廊下を駆け出していった。

「ハーイ、リズ!」

「ハーイ、ジル!」

 赤毛の女の子二人はとても仲良しだと、誰が見ても分かるくらい彼らの表情が明るく輝いていた。クミが私たち二人に笑顔を振りまいてくれた。

「ハーイ」と。私たちもそれに軽く応えた。すでに、幼女たちは長い廊下を駆け回っていた。

「内田さんでしたか。早く言ってくださいよ」と、クミはダイニングキッチンに移動する間に私に声をかけてきた。けいちゃんは自分が昼食の段取りを完成させると言って、クミと私を向かい合わせにテーブルに座らせた。

「ここのお家は、元町や渋谷に婦人服やアクセサリーを扱っているアパレル業界のブランド『オイファ』の創業者の内田さんですよね。」

「ええ、まあ」と、私は応えるしかなかった。はっきり言って、おばあちゃんの業種さえ私の頭には記憶していなかったといってもいい。

「オイファは、アイルランドの、つまりはケルト神話に出てくる女神の名前ですよね。ネーミングはセンスいいと私は思います。ですから、本当に気楽に着られる質の高い普段着と言っていい、今でいうとユニクロさんのライフウェア的な先駆けの女性に特化した衣類を提供されてきた会社ですよね。でも、マナミさんは知っていますか? オイファは嫉妬深い母親なんですよ。先妻の子供たちを王様が可愛がるのを見て、彼らを白鳥の姿に変えたという魔女なんですって。最後には彼女は追放されて姿を見せなくなった言うことだけれども、私は、彼女は母親としてではなく、一人の女として王様の気持ちを自分だけのものにしたかった、と。その彼女の独占欲を私は肯定したいんです。誰でもそうだと思います。それは愛する人には自分だけをずっと見詰めてほしいという純粋な感情ですよね。創業者の方はきっと相当な野心家だと思うんです。きっと嫉妬深い方。なぜなら、自分の作ったウェアを見てほしい、着てほしい。私の服だけを見詰めてほしい。もし浮気をするならこの世から他社の服を消したいと思うほど、自分に自信があるからこそ、他のものへの嫉妬心が燃え上がる。これって経営者の競争心ともいえると思いませんか。」

 彼女はここまで喋ると、今度はあなたの番ですという様に私の唇辺りに焦点を当てた。

しかし、私にはおばあちゃんの会社の詳細は実はよく知らない。おばあちゃんはいつでも私に洋服を持ってきてくれた。「これは良く似合うよ」とか、「絶対、マナちゃんはこれを着るとモテるよ」などなど。おばあちゃんは私に自信を持った女性になりなさいと言っていたかもしれないと、今さら思う私がいた。

「ごめんなさい。私はおばあちゃんの会社のことはあまり知らないんだ。いつも洋服を一杯持ってきて、『好きなものを選んで』と言って、私が、『これいいな』というのを聞いて喜んでる人。そういうイメージしかないですよ。それに私自身、自分の着る服にあまり興味がなくて。」

「そうだね、マナちゃん。あなたはそういうものに関心がなさ過ぎるよね」と、脇で聞いていたけいちゃん。

「いえいえ、服のセンスとかの話じゃなくて、オイファの創業者理念って、経営理念ってどんなものだったかしらと気になったものですから。」

「あれ? けいちゃんの専門は経営学だったよね。ということ、これについてはけいちゃんに語ってもらった方がいいんじゃないかな。」

「ああ、そうやってマナちゃんは逃げようとする。あなたのおばあ様の会社よ。そんな話したことないの? あの優しいおばあ様と。」

「だったら、今度、けいちゃんがおばあちゃんにインタヴューしたらいいんじゃないかなあ。実践的経営の何たるかを学べるんじゃない。」

「そうか、じゃあ今度、あなたのおばあ様にレクチャーしてもらえるようにお願いするかな。もちろんあなたの口添えで。」

 にこやかにクミは私たちの他愛もない掛け合いを聞いて、嬉しそうな雰囲気を醸し出していた。

「いいですね、パートナーがいるということは……」と、その後にまだ言いたそうな口ぶりだった。よく見るとクミの眼から一滴の涙が頬を伝っていた。その間、幼女たちは屋敷の中を大冒険していたようだった。どこからともなくジルが私のロンTを引っ張った。

「どうしたの?」と、私はジルに静かな口調で尋ねた。ジルは私の耳を貸してというように、私に前屈みになるように促した。

「クミはね、寂しいの」とぽつりと私の耳元で囁いた。ジルの思念がじんと伝わってきた。そうなんだ。クミは帰国してから独りぼっちなのだと。「ダッド、クミとお友達になってね」とも付け加えた。私はテーブルの陰で、「うん」とジルに小さく返事をして頷いた。ジルの手元を見ると、彼女はフェアリーストーンを携えていた。どうもサイドボードのガラス戸を開けて持ってきたらしい。私の思念の中に、ジルの言葉が聞こえてきた。

「クミに石を触らせてあげて。元気になるから」と。私はもう一度頷くと、次の行動に自分を持っていった。

「クミ、これ幸せの石なの。握ってみて」と私は言ってから、クミの開いた掌の上に優しく置いた。クミは不思議そうに私を一瞥すると、私の指示に従って、自分の指でその石の全体を覆った。彼女は目を閉じた。しばらく目を閉じていた。リズはジルと手を結んで、自分の母親の顔を覗いていた。支度を終えたけいちゃんがゆっくりした動作で、クミの背後に回って自分の手を彼女の肩に軽く置いた。クミは大きく深呼吸をすると、長く息を吐き続けた。その後、クミの眼が開かれた。

「不思議……」とクミは漏らすと、彼女の顔は一つの影もない明るい表情になった。彼女の知らない場所が彼女を緊張させていたのは事実。いつもリズの相手をしていることしかなかったクミの疲れがそうさせていたのか、確かに玄関を上がったときには、私にはクミのいささかの疲れた顔が見えたような気がしていた。晴れやかなクミの顔を見て、リズが楽しそうに自分の母親に甘えるように膝に纏わり付き、「お腹すいたよう」と自然な欲求を口にしたものだから、その場は大きな笑いに包まれていった。私は自分たちがささやかな素敵な時間を提供できるのなら、彼女の憩いや癒しになるのなら繋がりを持っていこうと思い始めた。私に利他心はあったのかな。

 ジルとリズはそれぞれママの隣に座って、お皿に盛られた唐揚げやサラダを口に頬張っていた。けいちゃんがママで良かった、と思う自分はやはりどこかで彼女に嫉妬してるみたい。私のジルなのに……。でも、けいちゃんとならジルを育てていけるという確信ももちろん持っていた。二組の母子はとても楽しそう。それが私自身にとっては過去の自分の姿を思うと自分の母も私たちにもっと愛情を注ぎたかったのではと考えてしまう。私はあまり母に食べさせてもらってないのでは? 喪った人を思っても戻ってはこないのだが。

子供たちは十分に食欲を満たしたのか、二人して居間に移動した。私が彼らの様子を見に行くと、長いソファーに仲良く座って、お互いを支え合う様にすでに眠っていた。その様子をキッチンに戻って私はクミに伝えた。

「眠ったよ、二人とも。」

「本当? 普通はお昼寝も愚図るんです。だから、なかなか自分のことが出来なくて困っていたんです。でも、ジルと会った日は遊び疲れるのか良く寝るんですよ。」

「それはジルも一緒だよ」と、すぐに対応したのはけいちゃんだった。やっぱり私はジルのことをしっかり把握していないのかな、と自分の不甲斐なさを感じてしまう。

「私、ジルママにもお話しましたけど、お二人が忙しいときはジルちゃんをお預かりしますよ」と、クミは私の方を向いて声をかけた。

「本当ですか? 本当なら助かります」と、どうして私は素直に「ありがとう」と言えないのかな。私は他人のことをあまり信じない性癖があるのかな。もう少し他者を信じることも学ばなくちゃ、などと思った。

「クミ、ありがとう。もしあなたさえ良ければ、内田家を使ってもらうのはどうかな?」と、けいちゃんが提案した。さらに、「クミは実家にいると結構気を遣うでしょう。それもリズは感じているのよね。子供ながら親のストレスは敏感に感じ取るものよ」と、この家を使う理由もけいちゃんが添えた。

「ありがとうございます、マナミさん。」

「リズママ。『マナミさん』は止めて。マナかマナちゃんでいいよ。私たちの娘は同じケルト系の血を引いているんだもの。それにね、実はおばあちゃんの血にはスコットランド人の血がクオーター入っているんだ。私もこの間知ったんだけど。」

「そうですか? 本当にありがとうございます。私はなんだかこの家にお邪魔したときから、多分お二人の空気感が素敵な事もあるんですけど、お家が私に『寛いでいらしゃい』と声をかけてくれたような気がするんです。それに、さっきの幸福の石ですか、その石を握ったときに、『安心しなさい』と優しい声も聞こえてきた気がするんです。本当にありがとうございます。」

 私は自分のスコットランドで経験したことやおばあちゃんの経験を、つまり、妖精の話をこの人にしてもいいのか迷っていた。すると、クミは変な話ですがと前置きをしてからこのようにジルとリズの不思議な様子を話してくれた。

「時折ですが、ジルママと私は浜辺で彼女たちが遊んでいるのを離れてみているのですが、

彼女たち二人が同じ方向を見て、笑い合っていることがあるんです。それがとっても不思議で。だから、ジルママにも尋ねたんです。『彼女たちは何を見ているんでしょうね』と。

すると、ジルママはおもしろい話をするんですよ。『二人に見える何か……、そう、妖精みたいなものが見えるんでしょう』って言われました。

「けいちゃん、そんなこともお話したの?」と、私は少し呆れた様子で言った。

「クミなら、大丈夫かと思って。えへへ」と、けいちゃんは笑うと、私に目配せをしてきた。おおよそこれまでにけいちゃんが私と私の周囲から経験した摩訶不思議な世界をクミになら話しても私たちに損はないのではないか、と。私は全部を彼女に話す必要はないと思っていたが、「妖精」という言葉が出たので、娘たちにはケルトの歴史的血が流れているから本当に妖精の姿が見えるのかもという話と、ダンヴェイガン城で知人が妖精に遭遇した話を伝えた。

「わあ、興味がわきますね。私も妖精を見てみたいなあ」とは、明るい表情のクミ。

「もう会ってませんか。私たちの子供こそが、私たちの『妖精』ですよね」と、私はにこやかに声をかけた。

「マナちゃん、良いこと言うね。じゃあ、ジルを預かってもらうという件はこれで決定かな。けいちゃんのスカイブルーの眼差しが、ケイトの眼差しと重なっていた。心の中で、私は「ケイト、ありがとう」と呟いていた。でも、今、私を支えてくれているのは間違いなくけいちゃんという存在なのだ、と肝に銘じた。まだ、クミに全容を伝えることは憚られたし、ケイトのことを話すのは、今度は、けいちゃんに大変失礼だと思われた。

「あのう、マナさん」と、そのような事を考えていた矢先にクミが聞いてきた。

「あのう、こんなことを聞いて気を悪くされるのであれば、お答えされなくてもいいのですが、ジルの本当のお母さんは誰なんですか? けいさんに失礼に当たるとも思いますし……」と、質問された。やはり気になることですよねと、私の中のもう一人が納得していた。私が答える用意をしようかなと思っているしばらくの間に、けいちゃんが答えた。

「ごめんね、マナちゃん。やはりクミとは縁があるのよ、私たちは。だから、言っていい?」

 私は小さく頷いた。「いいよ」とけいちゃんに思念を送った。けいちゃんも軽く頷いた。

「ジルの母親はケイトというの。マナちゃんはケイトの旦那だよね。だから、『ダッド』な訳だし。おもしろいでしょう。それにね、日本ではまだ同性婚は認められていないけど、多くの国で同性婚も合法化されているでしょう。スコットランドでも合法化されていて、留学中にマナちゃんとケイトはルームメイトになったのがきっかけだったんだって。それでね、愛を深め合ったらしいの。それで産まれたのがジルだよ。もっと詳しい内容はマナちゃんに訊いてもらえるかな。で、クミは私を初めて見たときどう思った?」

「どうって、日本人ではないな、と思ったのは確かな。」

「そうでしょう。私は元々こんな瞳の色じゃなかったの。日本人だから黒い瞳だったのよ。それがね、ジルがやって来てから、私の眼の色がガラッと今のスカイブルーになっちゃった。私自身は何が起こったか全くわからなかった。指摘されるまではね。マナちゃんの驚いた眼差しをよく覚えている。ぎょっとして半分驚いて、半分は懐かしい人を、愛おしい人を見る眼の様子だったの。私は私で、ジルが『ママ』と呼ぶのに何の抵抗もなっかた。私は、あなたたちよりも十歳は年上でアラフォーでしょう。私自身、もう私は結婚も子供も無理かなって諦めの境地が芽生え始めていたころなの。そのときにマナちゃんに恋して。それから不思議なことにどんどん巻き込まれて今の状態があるの。私は親の離婚で途中から片親に育てられたから、どこかで将来は幸せな家族を持ちたいと思っていたのは事実。でも、自分の思い描く未来が実現するとは限らないでしょう。未来は思い描いたようにはいかないのが常だよね。だからかな、ジルがママって呼んでくれることが全く気にならなくて、むしろ自然な事かな。それでマナちゃんとともに新しい家族を作りたくて。それにケイトが私をマナちゃんに会わせてくれたんだと思うと、もっと私はケイトママに近づかなくっちゃと思って、それですぐにジルの赤毛まではいかないけど黒髪をオレンジベージュに染めてみたの。そしたら、ジルが『ママ、似合っている』て言ってくれたの。物凄く嬉しくて、涙が出ちゃった。」

 私はずっとけいちゃんの真の覚悟を知らなかったかもしれないと、自省した。


 クミは週に二日ほど日中にジルを見てくることになった。おばあちゃんはそのクミの手伝いをするという名目で、ジルの顔とそのお友達になったリズの顔を見るためだけにしばしば家に帰って来るようになった。幼女たちが遊んでいる間、クミはおばあちゃんに何を吹き込まれたか知らないが、ケルト神話により一層関心を持ったと同時に、子どもたちに妖精が見えるように、自分も見てみたいと言い始めた。もうこの家にいれば妖精と会っていると同じことなのにと、私自身は思っていた。また、会えずとも、クミは優しい誰かに声をかけられているのを感じ取っていた。おばあちゃんが訪問しないときは、クミは娘たちがお昼寝をしている時間を自分のデザインを描くことに費やし始めた。けいちゃんと私は安心して大学や専門学校での授業をこなせる日々を送っていた。


 未だけいちゃんとのパートナーシップ制度を利用する手続きには至っていなかったが、私たちの家族としての認知を身近な人たちに周知する手筈を整えていった。秋の大学等の学園祭の時期は授業が休校になる。まずはけいちゃんの実家にお邪魔して、ジルと私を知ってもらおうと考えた。その次は、優ネエのいる田舎への挨拶だと計画していた。

 けいちゃんのお母さんは彼女の姉と同居しており、中学生と小学生の孫二人とともに穏やかに暮らされていた。彼女の姉の連れ合いは農業に従事しており、夫婦二人で生計を立てていた。栃木県小山市の郊外にけいちゃんとともにジルと私は付いていった。渡良瀬遊水地や田園環境が広がっていて、伸びやかな自然環境に囲まれていた。

「おかえり、恵子。あなたにも家族ができたんだね。お母さんは嬉しいよ」と、けいちゃんの母は私たちを快く迎い入れてくれた。とくにジルを見て、「また一人私の孫が増えたんだね」と言って、ジルを膝に乗せてご満悦だった。

「初めまして、私、内田学美(まなみ)といいます」と自己紹介すると、彼女の母は、「あなたが旦那さんなんだね」と口に出して、それから笑いが込み上げる口元を隠した。また、彼女の母は、「本当に可愛い旦那さんだこと。恵子には勿体ないかもしれないね」とも言われた。相変わらず、ジルはけいちゃんのことを「ママ」と呼び、私のことを「ダッド」と呼ぶのは依然として変化なかった。

「お母さん、私はジルとマナちゃんと一緒に生きていくからね。日本の法律は同性婚を未だ認めていないけど、私たちは結婚してるんだからね。分かってくれる?」と、けいちゃんは意を決して言葉を発していたが、彼女の母は終始ニコニコしていた。

「お母さん、もうボケたのと違う?」

「ボケてません。いいんじゃないの。だって、人様の子でもあなたに娘ができたということはあなたも親の気持ちが分かるってことでしょう。それだけでも人生は豊かになるよ。ちょっと世間の結婚と違うだけでしょう。あなたが幸せになり、そのあなたが家族を幸せにすることができれば一番いいことよ。」

 拍子抜けしたようにけいちゃんは、「うん、そうだと思うけど」と返しただけだった。私には、「ジルはあなたの娘よね。あなたによく似ている。でも、恵子にも似ている。あなたたちの子に間違いないみたいね」と言うと、ジルと手を繋いで、けいちゃんの姉夫婦が畑で作業しているから呼んでくると言ってその場を去った。しばらくして彼女の母は姉夫婦と帰ってきて、「ジルがね、ダッドはママを愛しているんだよ」って言ってたことを私に教えてくれた。

和やかに姉夫婦家族と夕食をともにした。すでにジルは姉夫婦の子供たちと打ち解けた様子で翌日は、中学生の男の子と小学生の女の子と一緒に河原で赤とんぼを追いかけていた。

「けいちゃん、いいお母さんとお姉ちゃんだね」と、私が彼女に声をかけると、けいちゃんは、「私自身、思春期から競泳中心の生活をしていたから、あまりお母さんとお姉ちゃんと会話がなっかたから」とポツリと言って、自分が被害を受けなかった分、彼女たちに昔の父親は暴力を振るうなどしていた旨を話してくれた。彼女は、自分の母親は父親を愛していなかったのではないかとも漏らしていた。私はそれ以上のことを知ろうとも考えなかった。

「ジルちゃん、また遊びにいらっしゃいよ」と、彼女の母は姉夫婦の子供たちに向けた目で、新しく自分の孫になった幼女に声をかけてくれたと、私はけいちゃんのお母さんから暖かいものを感じた。

 私にとって、問題は自分の田舎である松江の祖父母の方が難敵ではないかと思っていた。彼らに加えて、優ネエも自分にとって厄介な存在に思えていた。私にとっての母親的存在だからだ。だから、私は田舎から首都圏に脱出した田舎人の一人なのだから。田舎には田舎の時の流れがあり、どう足掻いても変更不可能な因習が未だに土地と空気に沁みついている。年末には一度、帰省して私自身も自らの家族と田舎の親族に対峙しなければならないと考えていた。

 ジルの体力も考慮して、飛行機のチケットを取っていたが、案の定といってもいいかもしれないが、冬将軍が猛威を振るい、キャンセルとなって新幹線と在来線での帰省となった。実は、横浜に出てから私は一度たりとも田舎に帰っていなかった。いつも塾の冬期講習や夏期講習に当たり、休日が取れないと口実を付けて逃げていたのだ。すでにそのときには秀ネエはアメリカに行って、やはり一度も帰国してなかった。良識のある優ネエ。過激な秀ネエ。そして出来損ないだった私。良識を何に置くかが論点を絞る必要はあるが。

 積雪が多いことにびっくりするジルの姿だけが、私の救いだった。私はけいちゃんとジルを駅近のホテルに残して、一人で商店街の宮本和菓子店を目指した。すでに店頭で腕組みをしている祖父の姿を見つけた。始めに思ったのは、大きな怒鳴り声が商店街中に響く光景だった。昔気質の和菓子職人が祖父である。それに亭主関白的に祖母のことを虐げる仕草も働き盛りの頃の祖父のイメージだった。祖父が私の姿を認めたらしい。祖父に似合わず、片手を上げて私に向かって?手を振っていた。そして一旦、祖父の姿が店の中に消えると、祖母を伴って再び姿を現した。祖母の背丈は小さい。その小さな体を背伸びするかのように両手を上に上げて、私に手を振っていた。この両者のジェスチャーだけでも私にとっては想定外の事が起こっていた。距離が縮まり、声の通るエリアに入ったと判断し、私は彼らに挨拶しようと身構えた。

「おじいちゃん、おばあちゃん。只今、帰りました。本当にお久しぶりです。申し訳ありません。出来損ないが帰ってきました。」

 私は祖父の怒鳴り声を再び想像していた。

「ああ、お帰り。この天候の中大変だったろう。そう言えば、学美(まなみ)のお連れはどげした? お前の子供は?」という意外な返事だった。祖父は私一人だけだと分かると、「そうか」と言ってお店の奥へ寂しそうに消えていった。

「お帰り、学美。ずーっと心配していたんよ」と祖母は言うと、私の肩に付着していた雪の欠片を手ではたき落してくれた。

「ごめんね、学美。おじいちゃんは、昔ほどじゃないが。少しは変ったけんね。やっぱし、歳をとって孫の顔を拝めないのが懲りたらしくて、少しはまるくなったんよ。」

「おばあちゃんは元気だった?」

「うん、元気だけん」と、懐かしい方言混じりのおばあちゃんの声にやっと田舎での安堵感が湧いてきた。

 私たちが、つまり優ネエと秀ネエと私がこの祖父母の家を出たのが、祖父の家長的雰囲気と保守的な男尊女卑的なオーラをこっ酷く感じてのことだった。私が生まれたとき、祖父は待望の男子が生まれたと言って燥いでいたらしい。DSDであった私は小さい頃のことはあまり覚えていない。ただ、その頃、祖父は小さい私を母から奪い、あちらこちら連れまわしていたらしい。「これが、わしの孫だで」と言っては嬉しそうに素行を崩していたらしい。私の父は中央からの出向で県庁勤務になったことが、母との馴れ初めだった。父は松江がえらく気に入ってしまい、中央からの転勤の話を蹴ってそれからもこの地で母とともに、加えて祖父母とも折り合いをつけて生活していたらしい。しかし、どうも私の両親はいつかそのような祖父の振る舞いに堪忍袋の緒が切れたみたい。また、折よく中央からの要請があり、中央省庁への父の復帰が決まると同時に、海外赴任を命じられてその下見に両親はアメリカに渡った。その現地の高速道路で多重事故に巻き込まれて、二人同時にこの世を去ったのだ。優ネエ二十歳、秀ネエ七歳、私は五歳のときだ。母は一人娘だったので、祖父母にとっては私たち三人が孫。その中に男子と誤認された?私がいたものだから。私への祖父の期待は膨らむばかりだったらしい。その後、内田家ともめたらしい。私たち三人を父方の内田家、つまり、内田のおばあちゃんが引き取ると言い張った。「私の孫を返していただきたい」と主張し、宮本家の祖父は、「こちらで生活をしているから、こちらで成人するまでお預かりをする」という対立関係に陥ったそうだ。小さな私にはあずかり知らないところで、両家は険悪になっていったらしい。そこにも土地と空気、そして考え方の違いが影響していたかもしれないが。私は男の子として小学生まで育てられていたが、性自認は女子。そのことにいち早く秀ネエは気付いて、私を尊重してくれて秀ネエはいつも祖父にたてついていたらしい。また、優ネエも私の心身的変調に気づいたらしく、祖父に意見をする日々もあったらしい。優ネエは当時通っていた島根大学を中途退学し、地方公務員試験を受けて合格し、入職した。その行為に祖父は激怒したらしい。十分に経済的支援をしていたにもかかわらず、大学を止めた姉の所業にキレたのであった。優ネエからすれば、祖父からの金銭的生活支援を、自分が公務員になったという経済的口実を設けて断ち切り、姉弟三人での生活を始めたかったというのが本心だ。また、私のジェンダーアイデンティティについての配慮のできる場所を自分たちで作りたかったらしい。もちろん祖父は大反対。その裏で支えてくれたのが内田のおばあちゃんだったことは後で知ることになった。お店からそう遠くないアパートでの三人の生活の中では、姉たちは私のために立ちまわってくれたのをよく覚えている。優ネエは親代わりの立場で、秀ネエは子ども目線、生徒の生活環境の改善のために田舎の学校風土と戦ってくれた。そのおかげで、確かに日本におけるジェンダー論の隆盛という時代的背景も手伝ったことはあるとして、私は中学生になったとき女子として生きる場を与えられた。でも、公立中学校しか周りになく、ジェンダー議論を許容しない同級生には虐められた当時のことは忘れたいが、簡単には忘れられない心の傷も抱えている。その虐めが私の人間への不信感を助長したことは確かだった。社会の中に馴染まないもの、異質なものへの嫌悪と排除の論理が未だ漂っていた中学校時代。私はほとんど友人を作らず、部活にも所属せず、ひたすら地元の名門高校の扉を開くべく、勉強に励んだ。その甲斐あって、無事に進学校の門をくぐることができた。もう私は虐められることはなくなった。但し、一部の生徒には珍獣を見る眼でいつも観察されている様に感じたこともあった。でも、進学校ゆえに個人主義的な校風も手伝って思いの外、楽しい高校生活を送れた記憶が私の中にある。もしそれがなければ、私は当の昔に自分の存在をこの世から抹殺していたかもしれない。白状しよう。私は高校のとき付き合っていた彼氏がいた。一線を越える勇気が私にはなくて。出来損ないの女子だから、その淡い恋は大山の雪のように溶けて日野川を流れ下り、日本海に流れていった。

 高校への登校は祖父の和菓子店の商店街通りを通らないといけなかったので、店前で祖父に待ち伏せされてお店の中に引っ張り込まれ、説教されたことがあった。「お前は男だろう。なぜそんな恰好をしてどげするだ」や「ちゃんと本来の自分を見つめ直さんといかん」などなど。私は女子なのだ。自分を見詰めれば見詰めるほど、私は意固地になっていく自分を当時感じていた。田舎の祖父が大嫌いだった。

 私は祖母に促されて、久々にお店の作業場の奥の生活圏に足を踏み入れた。懐かしい居間の仏壇の上の欄窓には数代前のご先祖と並んで父と母の遺景が並べられていた。「お帰り」という二人の温かい囁きが聞こえてきたように思った。

「学実ちゃん、もうすぐ優ちゃんもやって来るけん。そうそう、優お姉ちゃんね、今度、結婚するんよ。」

「えっ?」と私は単純に驚いた。もう優ネエは四十五になるからだ。

「優ネエのお相手はどげな人?」と、祖母につられるように方言を私は口にした。

「どげな、と言っても……。お相手はここにおるが、家に。」

 家にいる? お店にいる?ってこと。私は当てずっぽうに一人昔から知っているの職人さんの名前を出してみた。「遠藤さん、しか思い出せんよ」と、まだ私は驚きで目を見開いたまま祖母の顔を見て言った。

「そげそげ。当たっちょうが。」

 あの遠藤さん? 祖父が若いのに呑み込みの早い一番目をかけていた人物で、ただし、やはり職人気質で頑固な面も持ってはいるが、大変優しい思いやりのある人だったと記憶していた。私が祖父からのお説教で辟易して、疲労困憊でお店から出ていくとき、小さな包みをしばしばくれた。その中には祖父が店に出せないと言った彼の美味しい心の籠った季節の和菓子が入っていた。それも姉たちの分まで。そんな素敵な人だった。たぶん、年齢は優ネエよりも五歳程度上のはずだ。ほんのちょっとその話題が私の心を軽くした。

「そう、そう、学美ちゃんのお連れは? あなたの子供はどこにおるの? 一緒に来るはずだったが」と、祖母は悲しそうな目で私に語りかけた。私も祖母に悪いと思って彼らの居場所を伝えた。

「今、駅前のエクセルホテルにおるよ。じゃあ、優ネエが来たら携帯に電話して。出直してくるけん。」

 祖母は安心したように、席を立って、「今日はカニ鍋にするけん。久しぶりで美味しさに感動してあんたのほっぺが落ちるかもしれんよ」と、祖母にしては珍しくとても楽しそうな口ぶりだった。私だけがそんな嬉しそうな祖母を見たことがないのかもしれないと、少しばかり田舎の人々を毛嫌いする過去の殻に閉じこもっていた自分の姿を反省した。

 ホテルのロビーまで私は帰って来ると、すでに身支度を整えたジルとけいちゃんがゆったりしたソファーに座って黄色いダウンコートを羽織った後ろ向きの女性と何か楽しそうにお喋りしている様子がすぐに目に留まった。「あれは、……」と、すぐにその女性が優ネエだと気付いた。

「どうしたの? 優ネエ。もう仕事は終わったの?」とは、私が姉に掛けた最初の言葉。確かに宿泊するホテルの名前は知らせていたので、彼女が顔を出しても不思議ではないのだが。

「久し振りだねえ、マナちゃん。今、恵子さんとジルに松江の美味しい食材の話をしていたのよ。冬だから松葉ガニが美味しいが、って薦めたところだが。」

 ジルは目を輝かせていた。大方、ジルは優ネエのイメージを受け取ったのだろう。「マツバガニ」の映像を頭に思い浮かべていたみたい。けいちゃんは少し彼処ばったときには椅子に軽くかけるだけで背筋をピンと伸ばす。そのように姉に対面していた。

「今、おじいちゃんとおばあちゃんの顔を見てきたよ。」

「そげなの。おじいちゃんが、『あいつにびしっと言ってやらんといかん』って息巻いとったから、何言うか分からんけん、私がマナちゃんとおじいちゃんの仲立ちをしようと思っとたけどなあ。もう、あんたも大人だもんねえ。そげな必要なかったということかな。」

「優ネエ、ありがとう。そうそう、おばあちゃんが今日はカニ鍋だって言うとったよ。」

「じゃあ、行かか。」と言って、優ネエはソファーから立ち上がった。ジルはフードの付いたモッズコートを翻しながらソファーからポンと降りると、何を思ったのか優ネエの手を取った。

「アハハ。ジルちゃんはおばちゃん好き?」と、姉は嬉しそうにジルの顔を見降ろした。ジルは姉の顔を見上げて頷き、「おばちゃんヒデに似てるね。好き!」と楽しそうに握った手をロビー玄関の方へ引っ張っていった。その後をけいちゃんが従った。私は休む暇なく戻った道を引き返すことになった。

 私たちがお店に着いたときには、お店のシャッターは半分降ろされていた。一旦、ジルとけいちゃんは店主である祖父に簡単な挨拶を済ませてから上がらせてもらった。奥の畳敷きの広間のテーブルに二つの鍋、今日の主役である松葉ガニが六杯も用意されていた。おばあちゃんの差配で各々が各自の座布団に座り、後はお店仕舞いをした祖父と遠藤さんの着席を待った。おばあちゃんにもジルは抱っこを要求していたが、「ごめんね、ジルちゃん。もう腰が痛いわ。齢だけんね」と断って、ここに座りなさいと言われた祖母の真横にコバンザメがくっ付くように纏わり付いていた。優ネエが祖母からバトンを渡されて夕食の用意をテキパキとこなしていった。けいちゃんは、「お手伝いします」と申し出たが、姉は、「お客さんにそげなこと頼めんわ。座ってて。あっ、マナちゃんは冷蔵庫からビールでも出してもらえると助かるが」と、私に当然のように声がかかった。さて、ゆっくりした威厳を漂わせた雰囲気を醸し出して、私はその家長然とした態度は嫌いだが、祖父が障子を開けて入ってきた。それに続いて、最古参の職人である遠藤さんが入ってきた。総勢、七名が食卓を囲んだ。私は姉に頼まれた用事を済ませると、すくっと立ち上がった。それに釣られるようにというのか、私のパートナーであるけいちゃんも立ち上がり、彼女は祖母に張り付いていたジルにこちらに来るように声をかけた。三人並んで、私たちはこの家の主に改めて挨拶するつもりだった。

 ジルは祖母から軽く手を振って離れると、祖父の方に向かって歩き出した。

「ジル!」とけいちゃんと私は慌てて同時に彼女の名前を呼んで、手招きしたが。ジルは祖父に笑顔のまま近づくと、胡坐をかいている彼の太腿の上に座った。一同、祖父の機嫌を伺う様に成り行きをしばらく黙って見守った。その瞬間を心配していたのは私だけなのだろうか。優ネエが最初に大笑いをし始めた。次に遠藤さんも自分の膝を叩いて喜んでいた。祖母も釣られるようにニコニコしていた。けいちゃんはというと、彼女はジルを回収すべく足を一歩進めたところだったが、どっしりジルが私の祖父の上に座ったものだから、可笑しそうに口元を隠したところだった。私だけが蒼ざめていたかもしれなかった。半端な出来損ないの孫の子供だから粗相があったらどうしようかなどと思っていた私がいた。私は、祖父の表情をまじまじと見た。祖父は満面の笑みを浮かべ、「ジルちゃん」と呼んでいるではないか!

「グランパ、食べよう」が、ジルの祖父に掛けた言葉だった。

「よし、食べらか。といってもジルちゃん、まだ鍋が煮えとらんが」と、いままで見たことのない祖父の顔がそこにはあった。私が今まで会ったことのない祖父の姿がとても新鮮だった。変な話だが、生鮮食品は時間が命だが、漬物やお酒は熟成すればするほど、つまりは時間が経てばたつほど味が良くなる。時間が人の中味を熟成させるのかな、という例えとしてはぴったり来ないかもしれないが、そのような感想を私は持った。ただ、小さなジルの洞察力が祖父の心の内を見透かしたのだろうと、けいちゃんと私は思った。

優ネエと遠藤さんも仲は非常に良さそうだった。姉からはこんな話をされた。

「マナちゃんが外国で結婚しちょったなんて知らんかったわ。それに子供までおるなんて。恵子さんは日本人には見えんが」と切り出されて、あらましは秀ネエから聞いたことを確認したかったこと、ジルの本当の母親が亡くなっているけど、本当にジルをあなたは自分で育てることができるのかということ、あなたには子供を育てた経験がないのに。もしそれが無理なら、優ネエが引き取りたかったことなどなど、姉の気持ちが痛いほどわかる内容が私に浴びせられた。その脇で、遠藤さんは私に姉との婚約報告をしながら、自分たちはもう子供を儲ける年齢ではないので、ジルを自分たちの子供として迎え入れられたら良かったのに、という彼らの願望があったことも伝えられた。

 ジルはと言えば、祖父に蟹の足を取ってもらい、殻から抜けたカニの身を頬張って食べていた。あの祖父が曾孫の頬を拭ってやったり、食べこぼしをニコニコ拭き取っているではないか! 

「そろそろ、あんたに可愛いジルちゃんを返すか」と祖父は言うと、けいちゃんを傍に呼んで、彼女に日本酒を進めているではないか。私はジルを自分の方に引っ張て来て、祖母と姉、そのフィアンセで食事の続きを再開した。ジルが私に思念を送ってきた。「グランパは、いい人。好き」って。その後、ジルは声に出して、「ダッド、お腹いっぱい」って言って、私の胸元でうつらうつらし始めた。

 私はスコットランドでのケイトとの学生生活を中心に田舎の彼らに話した。しかし、ジルの出生についてどうも優ネエも祖母も腑に落ちない点があるようだ。私でさえ、ケイトと帰国するために別れる時分も、彼女が妊娠していたことも知らなかったのであるから。でも、確かに『マナーミのアメジストの小さな小さな欠片を貰ったよ。ありがとう』と何度も言っていたことは覚えている。小さな欠片。最近、私はちょっとだけけいちゃんの鳩尾辺りに彼女の誕生石であるサファイアの青い輝きを感じ取れるようになった。それは見ることはできないが、けいちゃんと身体的に重なり、お互いがお互いに浸透してくると、私の身体から出てきた触手的な毛細血管に似た網状の広がりとともに感覚としてその存在に触れるのだ。非常に説明し難い状況を私は愉楽の浮遊感と一緒な融解状態の間に。もしかすると、ケイトも私の中にその石を探り出し、私の石の欠片、つまりは私自身の何ものかを自らの子宮に取り込んだその結果が、生物学的に言う受精となってジルは生まれたのかもしれないと根拠のない結論に私は達していた。

「そうだね、マナちゃんが帰国後に身体的検査を受けて、出生時の性別の誤りから女性に変わったことを考えると、やっぱりあなたの性自認が特異的ではなく、生殖の奇形によるもので最初から女子として生まれてきていた言うことやね。ケイトはあなたと結ばれたとき、あなたはまだ日本の戸籍上は男性だったでしょう。そこは男性としての生殖機能を持っていたということ? そこらへんがよう分からんが。ヒデちゃんの勧めでDNA親子鑑定もさせられたでしょう。九十九パーセントの確立であなたとジルは親子だって証明されたでしょう。」

 優ネエは頭がこんがらがると言って、思考を放棄したみたいに開き直った。

「ええが、ええが。ジルちゃんは私の姪っ子で間違いないんだから」と言うと、姉は手を伸ばしてジルの赤毛を優しく撫でていた。祖母はそれをいかにも嬉しそうにずっと眺めていた。祖母の「可愛いが」という言い方に、あらゆる障害を乗り越えてきた忍耐の先にある自然な愛情が含まれているのではないかと私には想像された。

 けいちゃんと祖父はじっくりと話していたようだ。ホテルに帰ってから、けいちゃんは祖父と話していた内容を少し教えてくれた。祖父は、マナちゃんが小さい頃は将来を大いに心配していたこと。マナちゃんが女性として、研究者としてこれから大成するのかということ。あなたは孫と法的結婚できないのにどうしてそこまで面倒を見てくれるのかなどなど。

数え上げればきりのない心配を祖父は未だにしている姿を見るのが心苦しく思えた。私たちの両親が亡くなってから、祖父はいつも姉弟三人の行く末を思案していた姿が今になって耐え難くなってきた。そこまで祖父は孫たちに思いを募らせ、自身で苦悩していたのだ。しかし、私たち三人姉弟は祖父の庇護の下を出ていった。その選択に誤りはなかった。優ネエは、秀ネエは私を守ってくれたのだ。否、姉貴たちも自らを守ろうとしたのだ。形に嵌めようとする画一的因習、つまり多様性を認めない旧態然とした思考に対して革命を起こしたのだ。歴史は教えてくれたはずだ。独裁者の意図通りには国民は、市民は、一個人は動かないということを。スミスも『道徳感情論』の中で言っていたはずだ。国民はチェス盤の上の駒のようには動かせないと。でも、祖父と私たちの場合は、血縁の繋がりの下にある。いかに血縁であろうとも、一個人を縛ることはできない。それは家族も一緒だ。さらに日本版アンシャンレジームが強固に地方に残存し、その残留物はいつまでたっても依然として払拭されていない。だから、女性たちは首都圏を目指す。自分たちにとって過ごしやすい生活環境を求めて、旅立つのだ。それが地方創生が進まない根幹でもある。私の思考も迷走を始めたようだ。祖父は肉親として素直に私たちの身を案じてくれていた。ただそれだけなのだと。真意は、本当にそれだけのことなのだ。そのことも私自身が経験してきたことからもようやっと理解し始めていた。

「『学美をよろしく』って、最後に言われちゃった。」

 そう言って、けいちゃんはにっこりと微笑んでくれた。私はけいちゃんに支えられてこそ、今の私がある。重々承知していた。彼女への感謝の気持ちは目一杯持っている。

「私ね、マナちゃん。私ね、支えられているのは私なんだよね。あなたを放っておけなかったのは本当だけど。愛しくてたまらないから、ね。私の次の途をあなたは示してくれたのよ。」

「次の途って?」

「私たちの愛の中に、ジルがいるっていうこと。ジルが私たちを強く結び付けてくれているということ。」

「ジルを育てるのは、私の責任だから」と、私は少し語気を強めた。

「何言っているの? 『責任』という言葉を使って自分だけの問題だと思っていないでしょうね。それだけは大間違いなんだから。ジルが私たちを選んでくれたんだから。私たちは家族でしょう。ジルが大きくなっても私たちだって、ジルの将来を心配するでしょう。それはあなたのおじいさまとあなたとの関係と一緒よ。関りがあるから、私たちはそこで格闘する訳でしょう。それぞれの世界で各々の関りを持つから、私たちは苦悩する訳でしょう。その苦悩や格闘の問題は違えど、人々は社会の中で生きていくわけでしょう。社会というカテゴリーの思想的背景は、マナちゃんの方がより詳しく知っているはずよ。『責任』という言葉は、その背後にその事物を思う気持ちがあるから出てくる言葉でしょう。難しく考えなくても、いいじゃない。思う気持ちを少しでも持つことは愛着と同じでしょう。」

「……、自然的愛着順序論が、スミスの書物にあったよ。」

「馬鹿なこと言ってるよ、この子は。私たちはジルという実物、私たちの娘を愛しているでしょう。それだけで、まずはいいじゃないの。一緒に生きていくということ。それに尽きないかなあ。マナちゃんの石頭!」

 松江のホテルで、私はこっ酷くけいちゃんに説教されている自分をどこかで面白おかしく、さらにはじんじんと心に沁みる言葉のシャワーの中で心身を洗われている感覚を持った。私たちの相互の思念交換だけでは本当の相手の心情を汲みだせるものではないことも良く分かっていた。ジルはすでにすやすやとベッドで熟睡していた。


 運よくジルとリズが同じ幼稚園に入ってからは、けいちゃんと私、それにリズの母であるクミの各自三人の自分へ向かう時間も増えてきた。私たちにとっても、娘たちが一緒にいることに安心していた。二人とも日本では未だにマイノリティには違いない。最近では多くのハーフやクオーターが芸能界でも、一般社会でも活躍するご時世になってはきたが。彼女たちはマイノリティなのに、幼稚園では勢力的には強かったらしい。さらに、彼女たちが公立の小学校に入る日がやって来た。その時分には、けいちゃんは四月から東京都内の私立大学の専任講師の職をゲットし、様々な用意をしていた。

「マナちゃん、最近、私、太った?」と、けいちゃんが私に自分のウェスト周りを見せながら、フォーマルスーツのスカートの留め具を見ていた。すでに私は、自分のスーツに身を包み、バッグの中身を点検している最中だった。

「そうかな? 変わってないように見えるけど。」

「実は、生理が遅れているんだよね。もう私は閉経の時期なのかなあ。」

「えっ? それは早すぎるんじゃない」と、私は叫んでしまった。


 ジルが幼稚園に通う様になって、私たちは確かに非常勤講師をこなしながら忙しい日々を送ってはいたが、何とか二人の時間を取り戻すこともできるようになった。ある日、私たちはジルを幼稚園に送った後、同じ休養日を得られたので、朝から羽目を外したくなってお互いにうずうずしていた。精神的なストレスを発散したいという大きなエネルギーを体内に蓄積していた。

「ねえ、エールを飲んでいい?」と、私からけいちゃんに切り出した。

「うん、いいと思う。今日はお休みだし、飲もう、飲もう」と、賺さずけいちゃんもその誘いに乗ってきた。私たちは曲がりなりにも逗子市のパートナーシップ制度を利用して、やっと家族という形態を整えたといえる。つまり、私は事実上、ケイトとの死別により、バツイチの子持ちという待遇を獲得して、次のステップであるけいちゃんとの関係を確かなものにしたのだ。そのお祝いもまだ済ませていなかったので、このような展開になっていった。ちゃんと娘のお迎えは、今日はクミに頼んでおいた。この日はクミを交えてのランチ会を開くということにもなっていた。実は、けいちゃんと私はハンバーグの下ごしらえを始めながら、飲酒をしていた。私がまずタマネギをみじん切りして、フライパンで炒めた。それをけいちゃんが用意していたボウルの中のひき肉と捏ねる作業に移っていった。けいちゃんは肉の雑菌がリングに付着しないようにと、私に自分のリングを預けてくれた。私はそのリングを左手の中指に嵌めて、彼女が肉を練り混ぜていく行程を覗き込んでいた。そのとき、私の左手のリングがカチッと音を立てた。すでにリング同士の側面は密着しているので、そのような音はならないはずだった。カチッという音は一度きり鳴っただけだったので、あまり気にも留めなかった。当然、けいちゃんの耳には届いていないはずだ。けいちゃんの掌の上で、楕円形をしたハンバーグの形が出来ていく光景は頼もしかった。やっぱり私より彼女の方が料理の腕前が数段上なのだ。私ができるといえば、ポットで美味しい紅茶を彼女に入れて上げるという行為だけが誇れるもだった。

「これで下準備ができたね。後は、皆がそろってから焼こうね」と、けいちゃんは手を洗いながら私に声をかけた。私は、彼女の手洗いが終わると、「ハイ」と言って、自分の中指に通していた彼女のリングを手渡した。すでにエール缶は二缶目のプルが開いていた。二人で居間に移動して、ソファーに隣り合わせで寄り添って座っていた。久しぶりに私はけいちゃんの胸元の匂いを嗅いでいた。私は自然に自分の鼻をけいちゃんの肌の上を滑らせていた。今日のけいちゃんの服装は部屋着の胸元が丸く開いたワンピだった。私の鼻は首に這って行った。

「マナちゃん、くすぐったいよう」と、私の頭の上で彼女の甘える声がしたように思った。

「ちょっと聞いてくれる?」

 私は彼女の首筋に自分の唇を付けていた。その動きを一度、私は止めた。

「何?」と言って、私はけいちゃんの正面に自分の顔を持っていった。それも相当な至近距離に。

「あのね、ジルはお姉ちゃんになるんだよって言うの。」

「ジルがお姉ちゃんになる?」

「変なこと言うから、私ね、『どういうこと?』って聞いてみたんだ。そうすると、『ママとダッドは愛し合っているでしょう。だからだよ』って言うのよ。でも、ジルが言うから満更嘘でもないじゃない。私たちの間に、ケイトとあなたの間にあったようなことが起こるのかな、って考えちゃった。」

 私は彼女の言葉をなぜか真に受け取らず、私は自分の為すがままの感情に押されていったように思う。私は、けいちゃんの減らず口を自分の唇で閉じた。私は自分で彼女の唇をこじ開けたはずが、もう彼女の餌食になっていた。私は私の意識が速いスピードで砕けていくのを感じていた。けいちゃんと自分が素肌を重ねていると実感したときだった。いつもの体液の融解の中にけいちゃんの鳩尾のサファイアが輝きだした。と同時に、私自身の鳩尾にあるアメジストが光ったということを、私はけいちゃんに後になって聞いたが。私の触手がけいちゃんの石に伸びていった。「カチッ」という音が大きく体内で木霊した。私の石にも彼女の触手が伸びていた。石同士がひき合っていた。その後、接触したのか? 私たちはそれを直に見るのでなく、感触として実感しているにすぎないと思う。お互いが体を重ね、両手は恋人むすびのまま、股間の襞はお互いの温もりを交換したまま……。

「マナちゃん、やっちゃったみたい」というけいちゃんの囁きで、私は現実の下に帰ってきた。しばらく私たち二人のリングが共鳴し合っていた。ボワーンという低い音を立てていた。そんなことがあった。

「それにね、最近やたらと眠くなったりするんだよね。うーん、ちょっと熱っぽい感じもあるかな。これ症状は春だからかなあ?」

 私との会話の後、けいちゃんは自分の姉に電話をしてみると言っていた。人生の先輩に聞くのが一番の早道だというようなことを言っていた。


けいちゃんと私は入学式が終わると、リズとクミの親子とともに近くのレストランで食事をしてから別れた。逗子の小学校には複数のハーフがおり、学校側の彼らに対するノウハウは持っていることは事前に承知していた。ジルとリズはクラス数も少ないせいもあって同じクラスに宛がわれたらしい。彼女たちは大いに喜んでいたが、もちろん親同士もホッと胸を撫で下ろしていたことは白状しなければならない。マイノリティは自らの存在を主張しなければならないし、自らの居場所を確保しなければならないことは、私自身の経験からも良く知っていた。ジルはリズという友達が日本に来てから早い段階で出来たので本当に運がいいと思ったが、これも小さなジルの中ではすでに了解済みだったのかな? 夕食の材料をオーケーストアで買い物をした後、途中のドラッグストアにけいちゃんは寄るというので、私はジルと共に先にお家に帰って夕食の用意を始めた。ジルはよっぽど小学生になって学校へ行けるのが嬉しいのか、内田のおばあちゃんに買ってもらったスカイブルーのランドセルに貰ったばかりの教科書を一杯詰めて、私に見せびらかしていた。

「ジル、嬉しい?」

「とっても嬉しい。ダッド、私ね。もう一つ嬉しいことがあると思うんだ」と口にすると、重いランドセルがやはり重たかったと見えて、彼女は夕食の準備をしている私の脚元にランドセルを置くと、私の腰に柔らかく手を回した。

「ジルね、お姉ちゃんになるの。」

「『ジルはお姉ちゃんになる』んだね」と、私はただジルの発言を繰り返しただけのつもりだった。私はそう言いながら、半ば本気で受け止める自分もいることにうすうす気づいていた。

「ただいま」と言うけいちゃんの声に、ジルと私は反応し、「お帰りなさい」と言って玄関に迎えに行った。ジルはスリッパを履いたけいちゃんの身体の前から腹部に手を伸ばし、腕を私にしたように柔らかく回してから、ぺったりと彼女のお腹に口をつけた。

「私があなたのお姉ちゃんだよ。」

 けいちゃんと私はすぐに回答を得たように思ったのは確かだった。しかし、まだ確証はなかった。私は恐る恐るけいちゃんに尋ねた。

「ドラッグストアで、何を買ったの?」

「うん、無くなりかけたキッチンペーパーでしょう。トイレのお掃除シートでしょう。それと……」と彼女は一旦区切ると、「妊娠検査薬も買ってみたんだ」と付け加えた。けいちゃんは私に目配せをしてから、「そうだね、ジルの言う通りママに赤ちゃんができたみたいだね」と言ってから、ジルの手を解いてトイレに向かった。彼女は検査薬を試してみるためだった。私はジルに念のために訊いてみた。

「ママに赤ちゃんができたって、本当?」

「うん、ダッド。ダッドは嬉しくないの?」

「もちろん、嬉しいよ。だって、ジルの妹? 弟?」

「うーん、……」と、ジルが珍しく腕組みをして考えていた。そのジルの首を少し傾げたポーズがとても可愛らしく見えた。そう言えば、ケイトもパッと回答が頭の中で閃かないときはこのような仕草をしていたなと、私は思い出した。

「妹!」と、ジルはオッドアイの両眼を目一杯広げて叫んだ。

「アハハ、ジルはお姉ちゃんだ。りっぱなお姉ちゃんになれますか?」

「なるよ」と、ジルは自慢げに私に答えて、屈んだ私の頬にキスをしてくれた。しばらくして、けいちゃんが小走りするようなスピードで廊下をこちらに向かってくる足音がした。

ジルが身構えていた。それに釣られて屈んだままの私はそのジルを抱いて身構えていた。

「ジル、マナちゃん。ママはおめでたです!」と、けいちゃんは自分の興奮を抑えるかのように呼吸を整えながら、私たちに伝えた。本当だったんだと、私は思うと同時に、どうして若い私が妊娠しないのと考え、けいちゃんの妊娠を羨ましく思う私に気づいた。

「おめでとう! けいちゃん」と彼女への祝福の雄たけびを上げながら、私はジルを抱き上げた。けいちゃんは私たち二人を優しく包み込むように長い腕を巻き付けてきた。

「明日、病院に行ってくるね。」

 そう言うけいちゃんが涙を流していた。私も胸に熱いものが込み上げ、目頭も刺激されて涙が溢れてきた。私の涙はどんな意味の涙なんだろう。けいちゃんは本当のママになるというオーラが体全体から発せられていた。けいちゃんにとってはもう四十歳での出産になる。三十五歳以上での初産は高齢出産だ。完全にそのカテゴリーに分類される。けいちゃんには怖いものはないのだろうか? 彼女はスポーツピープルなのだから体力はあるといってもいいのかな。女性の幸せの一つが自分の子供を持つことだと世間は言っていたが、本当のところどうなのか? 私はそれを疑っていたことは確かだ。なぜなら、姉貴二人も未だに子供を儲けていない。私自身も自ら妊娠し、出産の経験はない。身近な人間で妊娠し、出産した人としてケイトはいるが、私自身がケイトの状況を知ったのは随分あとの話だ。したがって、私がこのように妊娠の報告を受けたのは初めてだ。さらに、このように愛する人の妊娠を知り、彼女の体温を感じていることが素直に嬉しいのだ。どうして、ケイトは自分の妊娠を包み隠さず知らせてくれなかったのだろうか、という疑問も沸いてくる。複雑な諸感情の交錯が私の中でパラパラとコマ送りの映像となって映し出されていく。私が女として身ごもりたかった。そのどこかで悔しい気持ちも彼女の妊娠の喜びの渦の周りで絡み合っていた。ジルは私の子。けいちゃんとの子供ではない? 不可解な思考も加味されて、自分の感情のコントロールが思うに任せなくなった。

「どうしたの? マナちゃん」とけいちゃんは呼びかけてくれた。次にジルが、「ダッド、嬉しいね」と、私の気持ちの揺れを落ち着かせてくれるように私の背中をポンポンと叩いていた。そうだ、私たちは妖精と暮らしているのだから、当たり前のことが起こった。ただそれだけのことなんだ。でも、けいちゃんの子供は法律上では、「婚外子」というレッテルを貼られるのは必至だ。こんなことを考える私自身が日本版アンシャンレジームにどっぷりと浸かり込んだ常識人なのだ。反発を繰り返してきた私。私の反面教師とは、半面を映し出すとともにもう半面の存在を誇張する。その誇張が今度は全体像を映し出し、さらに反動となって帰って来る。もっと簡単に解釈すれば、時計の振り子やブランコと同じだと、私は考えた。多様化の反動が個々の存在を脅かし、共生と言う言葉がむなしく響く諍いを世界に蔓延らせてきた。もともと自然は複雑で多様性を包括していた世界なのだ。その世界を人間に都合のいい環境に変えてきた。温暖化はその結果だ。私たち人類こそが自然との共生を忘れ、暴走を幾度も繰り返してきたのだ。精霊も妖精も、鳥も爬虫類も昆虫も、あらゆる存在と共に私たちは生きてきたはずなのだ。けいちゃんの妊娠だって、自然の一つの現れなのだ。それを人間社会と言う物差しで切り刻んでいく。果たして人間の所業は真の道理に沿って動いているのだろうか。

「マナちゃん、険しい顔してる」とベッドに横になったとき、けいちゃんが心配して声をかけてくれた。横になると寝付きのいいジルさえも、まだ睡魔に打ち勝っているようだ。

「ダッド、大丈夫」と言って、ジルは私の口にキスをしてくれた。彼女の手は私の頬を挟んでいた。ジルを覆う様にけいちゃんのリーチの長い腕は私の上半身を包み込んでくれた。

「私たちは家族だよね」と言う彼女の途轍もない柔和な声が私のとげとげしてしまった心の冷たさを癒してくれるように感じていた。私はジルとけいちゃんが一緒に歌っていた子守唄を聞きながら、深い眠りについたようだ。けいちゃんは確か、ジルのために歌っていたはずなのだが。


「さあ大変!」という私の気持ちは変わらない。

この現代社会で考えることは、膨大な分量に当たる。けいちゃんは幸いにも新学期から自分の専門分野である「スポーツ経営学」で専任講師に就くので、身分的には保証されている。けいちゃんは自分には研究の才能がないと言って悩んでいたが、コツコツと論文を書きため、自分の所属学会の年報に発表したのがチャンスを掴むきっかけとなった。さらに、昨今の女性研究者の登用機会の増加による流れも幸いしていたようだ。しかし、彼女が産休に入った瞬間から給料は支払われなくなる。とはいえ、専任であれば現場復帰はすんなりと出来るし、完全退官するまでは教授職と研究職は続けられる。ということは、当面、私も頑張ってけいちゃんを支えていかなくてはという意気込みが膨らんできた。ただ、私の場合、その決意が大きすぎて空回りをした挙句、身体の変調をきたすこともあるので要注意だと、自分に言い聞かせなければならない。もう私は独りではない。私の娘のジルもいる。ジルはもともとおませで頭の回転がいい。その頭の回転と言うところでは、彼女に備わっている特殊な能力によるものだが、自然と人を和ませる能力を併せ持っているので仲間を集めやすい。加えて、同じような境遇のリズがいることでジルは随分と助けられている、と私には感じられた。さらに、この出産に関わる援軍は当然のようにリズの母であるクミが妊婦への心配りを行ってくれるのも、私自身が未経験の身であるから、本当に助かる。私も、けいちゃんと分野が違うが、少しずつでもけいちゃんとジルを支えるために、教育サービスと自分の研究を両立させなければいけない。その思いが私の中で益々募ってきた。

 けいちゃんの出産予定日は十二月三十日となった。えー、年末年始に思いっ切り被っている。自分たちの都合で子供の誕生する時間が変わるわけはない。自然の流れの中にいることを、私は改めて意識しなければならばい。一方、九十歳を超えた内田のおばあちゃんの容態があまり良くないことが、私の気持ちを曇らせているのは確かだった。でも、おばあちゃんはジルとよく交信しているみたいで、ジルが、「今度、グランマの顔、見に行こう」と、私にしばしば声をかけてくれるので、そのたびに自分の仕事を調整したり、多忙な教育と論文執筆でストレスを溜めこんでいる私に休息の必要性を教えてくれた。

「ねえ、マナちゃん。ごめんね、私ができないことが多くなって。」

「何言っているの、けいちゃん。本当なら私がその任を背負わなくちゃいけないのに。辛くない?」

「今さら何言ってるの。あなたがいるだけで、私は幸せなんだから。それにいつもジルが私を励まし、手伝ってくれるのよ。」

 私の後悔の念があるとすれば、私は度々ここに戻ってくるのだが、ケイトがジルを身ごもったときや出産に立ち会っていないこと。すべてをケイト自身が背負っていたこと。このことに大きな自省の念が私をザワザワと動揺させる。私の性格を知っているからこそ、私の未熟さを知っているからこそ、彼女はずっとジルの存在を伏せていたのだろう。さらに言えば、私という異邦人と交わることを知った日からケイトは覚悟していたのかもしれない。確かに事実を知ったときは、私の中の心の地盤は長周期波動の地震の揺れに見舞われ、いつ何時その揺れによって船酔いよろしく嘔吐する気分になってしまったことは正直にここで改めて告白しなければならない。でも、ジルが自身の能力を働かせられるようになったときからケイトの様子を映像として、私の脳内ヴィジョンに映し出してくれていたのだから、ケイトとの交信対話を随分と補ってくれた。ジルには感謝の言葉しかない。ジルの顔を見たとき、何度も何度も、「ジル、生まれてきてくれてありがとう。私の許に来てくれてありがとう」と繰り返し心の声を上げていた。すると、「ダッド、会いたかった。嬉しい」と、ジルも何度も何度も答えてくれていた。私はケイトにしてあげられなかった分、けいちゃんのため、生まれてくる子のために自分のできることすべてとはいかないが、自分にできる可能なことはしていくつもり。私は、少しずつ大きくなってきたけいちゃんのお腹をTシャツの上から撫でていた。

「もうマナちゃんに、話したかな?」

「何を?」

「とても不思議なの。」

「不思議って?」

「大袈裟かもしれないけど。自分が生きているんだなって。自分のお腹の中に愛する人の、あなたマナちゃんのことだよ、子どもがいるんだなって。それだけでも不思議なんだけれど、私の中に自分とは異なった生命が育まれていることがとても不思議なの。でもね、この子が形を持って、動き出したでしょう。ほら、今も私を蹴っている、うふふ。そうしたら最初の感動とは違う喜びがどんどん湧き水のように噴き出してきたの。私、お母さんになるんだっていう実感かな。こんなこというと、またマナちゃんは泣き出すから……。」

 私はけいちゃんの話の途中から涙腺が緩んでいた。私はもう嗚咽していた。

「マナちゃん、本当にありがとう。マナちゃんの心の中でいろんな葛藤があったり、喜びがあったりするのは、ほら、こうやって手を取るだけで分かるもの。」

 すでに夏休みに入り、お互いの担当科目の採点や成績付けをして学校業務が落ち着いたところだった。もうすぐジルが午前中の市主催の小学生陸上教室から元気よく帰ってくるはず。その陸上教室の指導コーチは私の大先輩の矢崎さんが催していた。矢崎さんは実は関東学院大学教授で、大学陸上部の部長もやってらっしゃる。彼の目標は大学駅伝に出る選手を育てることなのだ。将来の駅伝選手をこの逗子市から誕生させるという情熱で、市の陸上競技副会長も請け負われていた。また、リズのお母さんであるクミは、中高で美術部と並行して短距離選手をしていたことから、私が仲介する形で、陸上教室を手伝っていた。彼女はコーチという肩書を持っている。クミはその教室を手伝う様になってから明るくなったのは確か。おまけに本人曰く、「どう、最近、プロポーションが良くなってきたとは思わない? マナちゃんも一緒にやろう」などと宣うのであった。しかし、あまり運動は得意な方ではなかったので、再三の依頼に私は丁重にお断りを繰り返していた。

「ただいま!」という大きな声が、玄関を開ける音とともに廊下で増幅されて私たちの耳元まで届いてきた。一人の音量ではなかった。ジルとともにリズの声も重なっていた。その後から、静かにクミの「お邪魔しまーす」という爽やかな響きが床を伝わってきた。


 内田のおばあちゃんは気分がいいと言って、施設から久々にお家に帰ってきた。何度かの終活では、その度ごとに私たちにスコットランドの妖精の話をしてくれた。

「マナちゃんとけいちゃんは精霊に形を与えてくれたね。あなたたちの子供であり、私たちみんなの子供。そうだよ、自然が選んでくれた子だよ。そしてあなたたちもこうして選ばれたパートナー同士。有難い話だね」と言いながら、おばあちゃんは大きくなったけいちゃんのお腹に掌を当て、そのお腹の上に自分の息を吹きかけた。

「あっ、動いた」とけいちゃんがにこにこしながら胎動を私たちに伝えた。ジルは喜んで、おばあちゃんがやった様にけいちゃんのお腹に手をそっと当ててから、「ふう」と口をすぼめた。彼女のお腹がボコッという感覚で波打った。

「赤ちゃん、みんながいて嬉しそうだよ」と、ジルが自分の手を通して赤ちゃんと話をしているみたい。

「そうだね、いつも島の祭りの話をすると言って、伝え損ねていたね。そろそろちゃんと話をしておかなくちゃね。もうすぐ私も逝っちゃうからね。やっぱり最近は心臓の動きがあまり良くないみたい」と、若干であるが声に張りがないのを私は心配していた。

「もう知っている通りスカイ島は妖精の島だね。ジルはよく知っているね。」

「うん、グランマ。私ね、住んでた島から見えてたよ。それでね、スカイ島からルイス島に遊びに来るんだよ。それと同じようにルイス島からスカイ島にも遊びに来るんだよ。面白いよ。ケイトママがね、いつも言ってたの。『新月の夜、フェアリーたちは、どこに行ったら島に着けるか分からないから、灯台の灯りを付けてあげるんだよ』って。それでね、その『灯台守がダグラスのお家のお仕事だって』って、言ってたよ。」

「そうかい、ジル偉いね。今までジルはそんなこと話してくれなかったね。」

「グランマと会って、スコットランドのお話をよくしてるから、ちょっとずつケイトママがお話してくれたこと思い出してきたの。」

 私は、ジルの口が「ケイトママ」と発したことにハッとした。私の脳裏にケイトと島の灯台に行ったときのことを少し覚えている。私の記憶容量から零れ落ちていたものが、下に重ねてある桝の中にあったのだろう。その在処を私は偶然にも見つけたのだ。

 ケイトと小さなボートで、彼女の家の持ち物だと当時は聞いていたその灯台に幾度か渡った。その日の夏の夜は曇り空だったように記憶している。星は見えないくらいの厚い雲だったはず。

「マナーミ、こんな風が強く、星や月が輝かないときは灯台の灯りがないと困るでしょう。」

「そうだよね、航行に不便だよね」と、私は在り来たりの返事をしたはずだ。

「そうだね、私たちの生活に欠かせない灯りだよね。マナーミも知っていると思うけど、幕末から明治政府に代わって、日本では多くの港を開港したでしょう。その一つが、あなたが住んでいる横浜ね。まだ一杯日本の港が開かれていくけど、日本にはグローバルスタンダードな灯台がなかったのよね、当時は。そこで明治政府がお雇い外国人第一号を雇ったわよね。あなた、覚えてる?」

「もちろん、だって私、横浜開港を記念して企画された書物で近代スコットランド人を調査したもの。確か、リチャード・ヘンリー・ブラントンでしょう。それに彼の進言で新橋と横浜間の鉄道も敷設されたのよ。」

「そうだね、さすがスコットランド通だね。」

「エヘン、私、物知りでしょう」と、両手を腰に当ててケイトに威張って見せた。

「うふふ」と、ケイトは笑顔を作ると、「そうだね、私たち人間は私たちの生活を便利にしようと思って、様々なインフラを整備してきたよね。その中の一つが灯台だよね。まだ飛行機のない時代は航海が唯一の大海原を渡る手段だったものね。それに灯台は必須だったでしょう。まずは灯台の灯りが船と陸地の距離を教えてくれるし、もし岩礁や浅瀬があれば、灯台からの位置でその場所も把握できるから船が座礁しなくてすむしね。安全な航海を約束してくれる大切な装置だよね。でもね、ここにある灯台はその役目だけではないのよ。とくにスコットランドの島々においては。」

「どんな役目がこの灯台にあるの?」

「私の言いたいのは、灯台は人間のためにその役割を果たしているということだけではないということよ。私たちは自然と共に生きているから。」

「人間のためだけではない? じゃあ、……」と私は考える時間を貰ったように少々沈黙していた。すると、ケイトが私の手を握ってきた。彼女の手から私の手を通して頭の中に一つの映像が届けられた。それは無数の小さな光輝く粒が高速で島々を行き来する光景だった。私は未だ答えを言葉に出来ないでいた。でも、ケイトに返事をしなくてはいけないと思い、「……、フェアリー?」と自信のない小さな声で呟いた。彼女は首を縦に振り、私を力一杯抱きしめてくれた。あのダグラス家の灯台はあれから自治体の財政の改善で、自動点灯されるようになったのだろうか?

「ジル、『ケイトママ』って言ったよね」と、私は声を震わせてジルの肩を揺すぶっていた。

 ジルは私をじっと見つめていた。それから私の手を取って、けいちゃんの手の上にゆっくりと置いた。

「ほら、ママの中にケイトママはいつでもいるよ。」

 私の口からは言葉は出てこなかった。けいちゃんのスカイブルーになった瞳だけが、「ここにいるよ」って語っていた。けいちゃんはけいちゃんで、「ジルの言う通り、私の中にケイトはいつもいるよ。そのことはケイトが私に『言うな』ってずーっと口止めをしていたんだよ。ごめんね、マナちゃん。ケイトは言ってたの。『マナーミは泣き虫で、すぐに人に頼ろうとする弱い生き物のくせに、鋼鉄のように自分の内側を見せないように必要以上に偽装するの。頑固、意固地だよね。だから半端な愛し方は無用』だとも言っていたよ。ケイトとあなたの関係ってどんなだったかしっかり私に話してくれないから、彼女からちょっとずつ聞き出してはいたけどね。」

「バカ、ケイトの馬鹿……。けいちゃんの馬鹿……」と、私は幾度か同じ言葉を繰り返すたびに自分の涙が溢れて、目の前の視界がゆらゆらとブレていた。

「ダッド。ジル、ここにいるよ」とジルは言って、私の膝小僧の上に顔を埋めた。けいちゃんは大きなお腹を少し圧迫するかのように私に寄り掛かりながら私の肩に腕を伸ばしてきた。

「良い光景だね。家族だね」と、おばあちゃんも目頭にハンカチを、いつ取り出したのだろうか、押し当てていた。

 私を縛っていた得体のしれない大蛇が、少し力を緩めたのではないかと思うほど私の身体の稼働領域が広がった感覚を持った。

「いいかい。私の話を続けても」と、おばあちゃんは話を始めた。フェアリーにまつわるフェスティバルは一年に一度は島々で持ち回りで開かれているということ。その会場はブリテン島ではなく、スコットランド北西部の島嶼で。そのお祭りを島々が開催年度を待っていると、十数年に一度の間隔で島々を回るとのこと。秀ネエの相棒のヘンリー、つまりルイス島でのお祭りにちょうど彼が呼び戻されたということ。そのおかげでジルをちゃんを引き取ることができたこと。彼らの、そして私たちの中に僅かでもケルトの血が流れていれば、私たちはフェアリーと自然と共生できる道を選んでいくということ。自然の精霊が私たちを選び、私たちにその子孫を残すように伝えていること。精霊が人間という形を取り、人間から脱皮するとき、その人はフェアリーの仲間入りをして、改めて自然の中に帰っていくこと、などなど。だから、イエスキリストを私たち人間は「神」だというが、自然が、精霊が姿を変えて、私たち人間が認識できるように現れた使者だったということ。ならば、聖母マリアの処女受胎の説明はもうあなたがたに説明しなくても、と。内田家はキリスト教徒であるが、おばあちゃんに言わせれば、「イエスよりもフェアリー」が格上だということなのだ。おばあちゃんはジルにも分かるようにゆっくりと時間をかけてかみ砕いて私たちに話かけてくれた。実は、その場でおばあちゃんは遺言についても内容を披露した。

「マナちゃん。私を愛してくれるようになってから、クリスタルの付いたネックレスしなくなったでしょう。あれは私への愛の証だったんでしょう。そんなことしなくても良かったのに。それに、ケイトからの伝言です。『あれはクリスタルではなくて、私の誕生石のダイヤモンドだって、正確な情報を伝えておいて』だって。もう一つ、『あのネックレスを身につけたらジルと私同様、ケイトの声も聞こえるよ』だって。うふふ。」

 独り相撲を取っていたのは私?!

 おばあちゃんは、その日の帰り際にぽつりと私たちに残した。

「本当にあなたたちが私の家族で良かった」と。それに付け足して、「もうすぐ、あのバンシーがやってくるかもね」とも漏らしていた。バンシーって、一体、誰?

 

 けいちゃんが産休に入り、家に彼女を残して私は仕事をすることが多くなった。ジルはお家に帰るといつもママがいる生活で喜んでいた。喜ぶと同時に、ママのお腹の中に妹がいるという確信を持っているジルは、ママのために家事に関することがらを積極的に挑戦し、成功と失敗を繰り返していた。私はけいちゃんの収入を補うためにしばらく休んでいた個別指導塾を再開させた。

「内田先生、やっと会えましたね」と声をかけてくれたのは、ようちゃんだった。院生のようちゃんとは、大学に出講したときにときどき構内で挨拶をする程度だ。何か話したげなポーズだったが、私自身が校舎間の移動中だったり、教務課に呼び出されたりして忙しかったので、たぶん取りつく島がなかったと言った方が正しい。

「あれ? いつから始めたの。」

「そうですね。ちょうど先生に隠し子がいるという噂が出た時分ですね。ちょっと院生の間で話題になりましたよ。だから、先生にその真相を聞こうと思ったということ、僕は中学時代から先生のファンだったんですよ。今だから言いますが、僕も立派な教育者になってそのときに先生が独身だったら結婚を申し込もうとまで決意してたんですよ。何てね。」

 ようちゃんの話は半分冗談で半分本気だったのかなって、私は軽く受け流した。

「やっぱり噂になっていたの? 本人は全然周囲の人のことが眼に入らないくらい忙しかったからね。全く気にならなかったな。そんな噂が流れていたなんて。噂ではなくて、本当に私は結婚していて、娘がいたわけだけれどもね。アハハ。」

「これも噂ですが、今はパートナーさんと暮らしてらっしゃると聞いているのですが。」

「そうだよ。」

「その方は外国の方と聞いてますが……」とようちゃんは言ってから、「先生は同性愛者ですか?」と尋ねてきた。彼の質問が私には少々奇異に感じられた。ネット社会、情報化社会、男女同権社会、ジェンダーフリー社会と言われているにも関わらず、そのような質問をする一学生がいるのかというのが私の素直な感想となった。

「ようちゃんは、好きな俳優さんとかいるの?」

「えっ? そりゃいますけど……」と、彼にとっては話をはぐらかされたという怪訝な表情が浮かんだように私には見えた。

「例えば、しぶいところでは阿部寛とか、役所広司は良いですよね。」

 ようちゃんは私が予想したような返答を返してくれた。

「ということはだよ、ようちゃん。もしその好きと言う感情が、愛しているという感情に代わったら、あなたは同性愛者になるの?」

「いやあ、それは……。」

「真実の愛は、あっ、ようちゃん覚えてる? あなたに以前話したことあるよね、アリストテレスの真実の愛のこと。」

「ええ、覚えてますよ。真実の愛は、相手の幸福を願い、お互いが同じ時空を共有するという環境の中で成立する。だから、遠距離恋愛はアリストテレスに言わせれば、愛の要素は極めて薄い。」

「まあそんなところでいいかな。で、私の場合、愛する人が女性であったということだけです。」

「でも、先生。アリストテレスは性的役割分業の先達ですよね。男女は対となるのが正しい。夫婦は役割をそれぞれ持っている。ジェンダーフリーに反する思想家と言ってもいいですよね。」

「そう来ましたか。そうだよね、ここはようちゃんに一歩譲るとしても……」と、しばし自分の考えをまとめていた。

「先生はもしかすると『同性愛』という表現が気に入らないのですか?」

「そうそう、それ。ありきたりのこと言うね。多様性の時代と言われているにもかかわらず、個人主義の成熟した時代と言われながら、どうして性差を口にするのかな?」

「そりゃあ、男女は生物学的に構造が違いますからね。」

「それは認めるけど、それに自然が私たちを作ったにしても、それだけが真実の全てではないよね。」

「まあ、分からないでもないですが……」とようちゃんが話を続けようとしたときに、塾の始業のチャイムが鳴った。私にはこのチャイムが、日本版アンシャンレジームの未精算と言うだけではなく、常識と呼ばれているアンシャンレジームの未精算が人類全体に歴然と浸透しているのだということを思い知らされるもののように感じられた。私は研究者の端くれだけれども、本当の真実を検分していないのだと。なら、一人前の研究者は真実を知っているのか? 研究者は真実を知りたいがゆえに、自分の領域で四苦八苦している生き物なのだ。ただ、スミスは分業論の中で、何もしていないように見える哲学者にも存在理由があると言っていた。彼らは普通の結びつきが感じられないものを結び付けてくれるのだと。そうだ、この哲学者こそ多くの研究者の生き様を映し出してくれているし、存在理由を明確にしてくれている。ただし、その付加価値のヒエラルキー構造の中で、この世では社会的利便性の順に並べられているのだ。私の専門分野は経済学の領域だが、社会思想史はすでに御用済みの扱いを受けている。それこそ失礼な扱いだと、私はいつも腹立たしく思っている。一方、けいちゃんの「スポーツ経営学」は、現代にマッチし、エンターテインメント性も加味され、社会的需要も付加価値も高く評価されている。今の学問だと言えるし、利益追求の現実性さえ兼ね備えている。それはよく分かっているが……。一言だけ、私の心の声を届けるとすると、社会思想史は未来を造る学問なのだと主張したい。先人たちの思想的地層の上に私たちがいるのだから、その中で役立つ種子を見つけて自分の人生を豊かにしたい。温故知新ではないが、思索のタネを多く持つことが一人一人の人生を豊かにしてくれるのだと、私は信じている。

 大晦日の除夜の鐘の音が厳かな大気の中で波打っているころ、私はけいちゃんの手を力の限り握っていた。けいちゃんは自分の命をかけて必死に私の掌を握りしめていた。けいちゃんの呼吸は荒かった。私の呼吸も乱れてきた。医師と看護師は冷静に経過を見ていた。適切な処置をするのに情熱はいらない。使命感があればいい。私は冷静に現状を見詰める余裕は持ち合わせていない。私は分娩室の中でけいちゃんの出産に立ち会っていた。

「おぎゃあ~」という産声が衝撃的に部屋に響き渡った。

「おめでとう、マナーミ。おめでとう、けいちゃん」と、ケイトの声が暖かみのある生声が私の鼓膜に届いた。

 けいちゃんが苦しさの峠を越したばかりなのに、もう微笑んでいた。もちろん、私はボロボロと感情に任せて涙を溢していた。

「女の子さんです。おめでとうございます。」と、看護師さんの優しい声かけがどれほど私の心を落ち着かせてくれたことか。看護師さんが赤ちゃんの顔を見せに、けいちゃんの脇に立った。私もその横でその子の顔を覗き込んだ。分からない説明のつかない初めての感情の大波に揺れて、実は私の眼はその子を認識していなかった。ただ、ただ、嬉しすぎてお漏らししそうな感覚に私はなっていた。

「ありがとう、けいちゃん。」

「ありがとう、マナちゃん。」

 ありがとうの言葉って、こんなにも心地よく身体に染みわたるものなのかと感動を通り越したところに私はいたような気がした。

 待合所の長椅子では、内田のおばあちゃんが、「ご苦労様。おめでとう」と声をかけてくれた。私は別段、何もしていないが。ジルは淑女のように穏やかに待っていたことをおばあちゃんは私に話してくれた。ジルは持ち前の明るさがさらに輝くような笑みを作って、私に駆け寄ってきた。

「私、お姉ちゃんになったんだね。」

「うん、そうだよ。あなたはお姉ちゃんだよ」と、私も溢れる喜びの高まりをジルの頭上から注いだ。これから家族が増えて我が家は四人になる。あれ? 私は生まれてくる子の名前を考えていなかったことに愕然としていた。えー、と言う大文字が頭の映像に映し出され、汗をかく自分の姿が劇画調に添えてある、そんな感じだった。

「『フィオナ』がいいわね。ケルト由来の言葉よ。白い花とか、明るいという意味もあるらしいわよ。マナちゃん、どうかな? 私のネーミングセンスは。」

 おばあちゃんがなぜスコットランドにこだわるのかは、すでに了解済みだ。本当に私は内田家のおばあちゃんがクオーターだと知らなかった。でも、おばあちゃんの話をこの歳になって知ると、自分のこれまでの半生の道のりもすでに決められていたような気さえした。私は中途半端な生き物として産み落とされた。私は自分で自分のなりたいものへと変化した。フェアリーに男女の別があるという説もあるが、彼らは自分で成りたいものになれるし、相手に会わせて自らの姿も変えられる。だから、実体としての多様性を元々備えている生物なのだ。人間も自らの意思で、自分の未来を想像し、それを現実のものとする術を持っている。確かにそこには様々な困難な状況や環境に身を置くこともあるが、想像を具現化できるのが人間の能力には備わっている。その想像が具現化、具体化されることこそが、「創造」と呼ぶものなのだ。私はそのように理解している。フェアリーは精霊が想像し、自らを具現化して誕生したのだ。その誕生する手段が、人間という媒介を通してなのだ。私たち人間はフェアリーを生み出したことで、自然との大いなる関係性を築いてきたことは明らかだ。その媒介者たる役割を私たちは持っていることをやっと私は自覚してきていた。もっと多くの人間がその役割を担わなければいけない現代なのだ。

「おばあちゃん、ありがとう。『フィオナ』、いい名前ね」と私は呟くように口にして、少し細くなったおばあちゃんの身体を愛情をこめて抱擁した。フィオナの眼が見開いたとき、彼女もまたジルと同様にオッドアイだったことに、私は驚いた。彼女の髪の色はレッドブラウン。

新年は、まさにフィオナとともにやって来た。

 けいちゃんとフィオナは六日程して、お家に帰ってきた。病院から私たち四人はタクシーに乗って帰宅した。柔らかい赤ちゃんの感触は初めてだった。それを思うと、どうしても悔やまれるのが、ジルのことだ。私とジルが初めて会ったときには、もうその期間をとっくに過ぎていた。そのことが頭の中に思い浮かぶと、ジルをギュッと抱き締めるのが最近の私の日課に組み入れられた。ジルはそんな私を温かい目をして、いつでも背中を擦ってくれた。「よしよし、ダッド」と耳元で何度も繰り返してくれるたびに、また私の涙腺の蛇口が開いていた。けいちゃんのお乳を頬張るフィオナは目を瞑って無心に口をモグモグして飲んでいた。また、ジルもママとフィオナを覗き込んでニコニコしている。その情景を見ているだけでも、私はこれが家族だという実感が大きく膨らんでくることを体全体で受け止めていた。

 おばあちゃんと私たちがお正月を一緒に過ごすのはこれが最後となった。おばあちゃんはスカイ島の盛大な祭りが三年後に開催されると教えてくれた。私に役目があることをおばあちゃんは初めて明かしてくれた。

「マナちゃん、これはケイトの役目でもあったことだよ。ケイトのお家が管理している灯台がね、ケイトが体調を崩してから別の方が行っていたけど、いつもとはいかなかったみたい。」

「おばあちゃんは、どうしてそんな細かいこと知っているの?」

「言ったでしょう、フェアリーが囁いてくれるって。今だから言うね。私はフェアリーをずっと昔から知っているからね。子供の頃からなんだよ、本当は。でも、そんなこと人には言えないでしょう。あなたはあなたの経験したことすべてを人に伝えられる? できる訳ないでしょう。どこかで人間世界との整合性を考えないとね。」

「ええ、おばあちゃん分かったわ。私の役目って何なの?」

「お祭りの夜にルイス島でケイトの灯台の灯りを点すことよ。そうしないと、ルイス島のフェアリーたちはスカイ島で行われるフェスティバルにいけないのよ。スカイ島のフェアリーはプールを囲んで、数日間は毎夜毎夜、彼らは燥ぐのよ。彼らが燥いだ分だけスコットランドが、英国が、ヨーロッパが、そして世界が平和になっていくの。今の紛争も今度のフェアリーたちのフェスティバルが思う存分盛り上がれば世界もより良くなると思うわ。確かに希望的観測だけどね。さて、マナちゃんに伝えることは伝えたので、今度、バンシーがやって来たときは、彼女の手を取って微笑んであげるの。いつもバンシーは悲しそうな顔をしてやって来るけど、それは相手が死を前にして悲しみを醸し出しているオーラを彼女が真面に受け取るからよ。バンシーだって自分のお務めをしているだけだもの。」

「おばあちゃん、逝ってしまうの?」

 おばあちゃんはゆっくりと立ち上がると、杖を突いてお迎えの車に乗り込もうとした。

「頼んだよ」と、おばあちゃんは言うと、お見送りをする皆の一人一人の瞳を覗き込んで、思念を送った。

「仲良く幸せに過ごすんだよ」と。


 三年という年月は瞬く間に過ぎていった。ジルも小学校の高学年になり、身長は男子の六年生平均である百四十五センチを越えて、百五十センチ近くになっていた。私との身長差はあと十三センチくらいだ。けいちゃんママと私の差は十センチ。遅かれ早かれ私は娘に身長で抜かれることは覚悟しておかなければいけない。でも、そのジルの成長が嬉しいことに変わりはない。ジルの明るい性格と積極性から学校では学級委員長をやることもしばしばで、私としては鼻高々であった。自分ができなかったことを子供に託そうとする親の気持ちとはこういうものなのかと思てみたりした。フィオナは活発な姉を持ったがゆえに、姉が行くところには付いていきたがり、ジルの参加している陸上教室には親子三人で通う羽目にもなってしまった。その上、市の陸上教室が開催する親子駅伝にはボランティアでお手伝いをし、あるときは同じ教室の参加するはずだった親が仕事の都合上欠席となったときには、足の遅い私までもが代わりにコースを走る羽目になった。けいちゃんは、その代役をしたことに味を占め、クミと一緒にコーチ業を買って出る始末だ。おかげで、ジルとけいちゃんが走っているときには、私は広いグランドの片隅の芝生の上でフィオナを追っかけるのが土曜日の午前中のスケジュールとなっていた。

 この夏休みは特別な夏休みだった。私たちは春に一通のエアーメイルを受け取った。さらに、自分が学校とのやり取りをしているパソコンのメルアド宛てにも招待状を頂いた。けいちゃん宛てにも来たそうだ。内容はざっとこんなもんだった。

 関係者各位と記されており、フェアリーフェスティバル(FF)へのご招待とタイトルが冠されていた。八月十五日より標記のフェスティバルを開催いたします。つきましては貴殿におかれましては、担当部署のお役目を果たされたくお願い申し上げます。担当部署:ルイス島灯台。スカイ島への道案内。家族皆様も揃って参加されること。あなたの娘ジル様におかれましては重要なお務めを当地で果たされますことお願い申し上げます。主催:フェアリーフェスティバル実行委員会会長:リチャード・マッキントッシュ。

「マナちゃん、FFの招待状が私の許にも届いたよ。これは内田のおばあ様が言ってらっしゃったお祭りのことだよね。私たちは絶対参加みたいだよね。」

「そうらしいよ。私はケイトの受け持ちの灯台を稼働させろっていうことかな。おばちゃんが言いていた通り、フェアリーの誘導役ってことかな。本当はケイトの役目だったのかも。私、けいちゃんにお願いがあるの。と言っても、あなたの中にケイトがいるから二人に言うね。けいちゃん、ケイトのお墓参りに行っていいですか(『もちろん』と、けいちゃんが思念で送りながら頷いた)。ケイト、会いに行くね(『もう私はいないのよ。お墓には人間ケイトの亡骸だけよ。いつもあなたのそばに私はいるじゃない』と、けいちゃんの眼の中の彼女が笑って語りかけていた)。けいちゃん、ジルとフィオナを連れてスコットランドへ行くぞ!」

「もちろん、フェスティバルに参加するよ。」

 夕食をけいちゃんと一緒に準備しながら、フィオナにも私は語りかけた。

「フィオナ、スコットランドへ行くぞ。」

「うん」と言い、フィオナは私たちの言いたいことがすべて分かったような顔つきをした。ジルはリズが私立女子中学校を受験することを聞き、この春からリズの通う受験塾に彼女と連れ立っていき始めた。もともと私たちには甘えん坊で生意気なジルだが、学校ではうまく立ち回っているみたい。その点は私とは違うみたい。そのジルが玄関を開け、物凄い勢いで帰って来るなり、「行くんでしょう!」と話し始めた。

「行くんでしょう! フェアリーフェスティバルに行くんだよね」と、すでに知っていたかのように。やはり、彼女の耳には妖精がやって来て、吹き込んだものに違いない。けいちゃんと私はもう慣れっこになっていた。

「私ね、ステージでお歌を歌わなくちゃいけないのよ。」

 けいちゃんと私は不思議そうな顔をして、そう言ったジルの顔に自分たちの顔を近づけた。

「本当だよ、ママアンドダッド。私ね、フェアリーの女王様役なの。」

 私たちは少々困惑気味で、「誰が決めたのよ」と私はジルを諭すような口調で言った。

「本当だよ。お姉ちゃんは女王様だから、お歌でお祭りのお祝いをするの」と、フィオナはさも当然の顔つきで、ジルの脇に立ってジルを援護した。けいちゃんは大笑いをし出した。あまりにも娘たちの表情とポーズが自信満々に見えて、嘘偽りのない姿だったからだ。

私も威張って立っているフィオナの真剣な瞳を見て、けいちゃんの方に振り返りながらぷっと吹き出してしまった。けいちゃんは高々と軽くフィオナを持ち上げ、私は自分とあまり変わらなくなった体格の彼女を抱きしめた。

 フライトは順調だった。私は二度目の訪問で、けいちゃんは初めてのスコットランド行き。と、思っていたら、彼女は現役時代の学生世界選手権で開催地としてのグラスゴウを一度訪れたことがあったそうだ。そのときは観光でシェットランド諸島にも足を伸ばしたこともあったそうだ。これまでに一度も彼女の口から聞いたことがなかった。ならば、私たちはどこかでスコットランドという土地と関係しているのだ。だからこそ、私たちの心はワクワク感を押さえきれない状態だった。ヒースロー空港から国内線でグラスゴウ空港まで飛び、そこで一泊。翌日の早くにグラスゴウでは私の当時の指導教官と再会し、こちらでドクターの学位を取得しろと誘われた。その間、けいちゃんと子供たちは大学の中庭の青々した芝生の上で鬼ごっこをして待っていた。グラスゴウからフェリーに乗り最初の目的地カイラキンを目指した。その後、島の大きな街ポートリーのFFの事務所に主催者であるリチャード・マッキントッシュ氏に挨拶するために立ち寄った。

 現地では珍しくない石造りの町並みがどこに行っても懐かしさの対象だった。私たち家族は疲れも忘れて、興奮しすぎていたかも、グングンと歩き回っていた。事務所の建物を見つけて受付に立ち寄った。ジルがすぐに大きな声で、「ヒデ!」と黒髪でショートボブの夫人の後姿に叫んだ。えー、私の内なる声は驚きを隠さなかった。

「アハハ、ジルに見つかっちゃたか」と振り向いたその女性は、まごうことなき私の姉である秀ネエだった。

「秀ネエ、どうしてこんなところにいるのよ。」

「それならヘンリーに訊いてくれる」と、どうも忙しそうに立ち働いている赤茶の短髪男性を指して言った。

「ヘンリー、これが出来損ないの妹、マナミだよ。」

 出来損ないの肩書はそろそろやめてほしいと私は姉貴に抗議したかったのだが、そこはぐっと押さえて、彼と挨拶をしようとした。

「さて、マナーミ。初めまして、ケイトの旦那さんだね。」

 そんな呼ばれ方をされたのは、私は初めてで、自分が発すべき次の言葉を失っていた。その間に彼はけいちゃんに声をかけたようだ。

「ケイ、ケイトによく似てる。ケイは日本では外国人でしょう?」と、彼はけいちゃんと握手をしてから、彼女にハグまでしてしまった。けいちゃんが抱えていたフィオナをヘンリーは取り上げるとあやし始めた。それを見たジルは、「今度は私の番」と言って、彼にしがみついた。その間に、私は秀ネエと話す時間を持てた。いつものことで、秀ネエはあの日から、つまりジルを逗子の家へ連れてきてくれたときから連絡を寄越さなかった。現在は、ロンドンにヘンリーと住まい、アメリカ証券会社から英国資本の商社で二人とも働いているという。ヘンリーはあの日のルイス島のフェスティバル以降、FF協会と地方自治体との連携業にも精力的関わっていたそうだ。確かにフェアリーフェスティバルは、日本でいうところの地方創生事業の一環みたいなものか、というのが私の率直な感想だ。日本でも多くのお祭りが認知され、外国観光客のファンも多くなってきている。

「私もこの土地にいると何か感じるよ」と、現実主義的な秀ネエの口から一言漏れた。「内田のおばあちゃんから会社の後継者に指名されたでしょう。おばちゃんの息のあるうちに返事するつもりだけど」と、姉貴は続けた。多分、秀ネエは快諾するつもりだと私には憶測が付いた。その後、秀ネエはヘンリーを手伝っていたら、巻き込まれて休暇を取ってはFF協会の経理を任される羽目になったと、嬉しそうに嘆いて見せた。リチャードを姉貴は呼んで来てくれた。

「マナーミのことはケイトから、あなたのお姉さんからよく聞いてました。見るからにピュアでチャーミングな人だ」と、私は声をかけられたのだが、日本流にいえば、持ち上げるだけ持ち上げて後で梯子を外されるのではないかと心配するほどの物言いだったように私には感じられた。

「マナーミには、これからケイトやヘンリーの故郷であるルイス島に行ってもらって、フェアリーたちのスカイ島への案内役をやってもらいます。一方、ケイにはジルとフィオナをつれて本会場であるフェアリープールの舞台に立ってもらいます。」

「そうなんですか?」

「そうですよ。ごめんなさい、それぞれの仕事がありますから、そこは家族がほんの数日間離れ離れになりますが辛抱してくれますか。家族のことはこちらでバックアップしますから、あなたはルイス島に向かってください。前回はあなたの代わりにヘンリーが灯台の灯りを操作してくれましたが、今回はFFのメイン会場がスカイ島に戻ってきたこともあって、妖精の血の濃いあなたにその役目をお願いすることになったのです。」

「本当にジルがお祝いの歌を舞台の上で歌うんですか?」と、横で聞いていたけいちゃんがびっくりした表情で目を丸くして尋ねた。

「そうですよ。ジルがクイーンの役ですから、というよりもジルがフェアリーのまとめ役なので、将来的にはジルをケイトやマナーミが学んだグラスゴウ大学に入学させてくださいね。アハハ、私もそこの卒業生ですがね。」

 ジルがフェアリーのまとめ役? どういう意味? 「……」が私の頭のヴィジョンに刻まれていくだけだった。

 その日、私たち家族はFF協会の関係者らと歓迎の夕食会に招かれ、楽しいひと時を過ごした。ジルと共に壇上に上がる子供たちも夕食会にいて、すぐにジルは彼らと仲良くなったみたいだった。私だけが明日にルイス島に向けて旅立つ。孤独の旅になるのかな? その日の夜、家族は寝つきがよくてすでにすやすやと各々が寝息を立てていた。私は別行動となるということと、ルイス島のダグラス家の灯台守の大役を一人でこなせるかどうか内心で不安に駆られていた。寝付けなかったが、瞼を閉じてベッドに横になっていた。

「マナーミ、頼んだよ。」

「その声はケイト? ケイトでしょう。」

「これでやっと二人きりになれるね。一緒にお家に帰るよと言っても、もうあの小さな家には誰もいないけどね。でも、ちゃんと片付けておいたから、安心して。それに港で係りの人が待っているから安心して。」

「うん」と、私は返事をしたのを覚えている。眠ったみたい。

 翌日、二日後の役目を遂行するために、私はジルとフィオナをけいちゃんに託し、独りで旅立った。少しミンチ海峡は波立っていた。フェリーは珍しく定刻通りに島に着いた。かつてケイトと私が渡ったときは半日ほど運休の憂き目にあい、半ばしょ気ていたことを思い出した。

「いつものことだよ。だって、大自然が相手だよ。目くじら立ててたら神様に笑われちゃうよ。人間が生きていること自体が奇跡なんだから」と、ケイトはサバサバとした表情で言った。

「でもさあ、それだからかなあ。私たちってそうやって、協力して自然に立ち向かおうとするじゃない。」

「バカみたいだね、人間って……」と、私がまだ拗ねた物言いをしていると、ケイトは風の強いターミナルのベランダへ出ていった。私はこんなところで迷子になりたくないから、自然と彼女の後を追うことになった。しまった、鞄はターミナル内のベンチに置いたままだった。心配性の私。

「マナーミ、気持ちいでしょう。もっと、身体全体で、肌でいろんなものを感じて。あなたが私を体全体で感じて、愛する様に」と彼女は大声で言うと、渋々飛び出してきた私の上半身をムギュッと両腕で抱えると、口角を上げて彼女は笑顔を作った。

「スマイル」という彼女の呪文は私の心にするりと侵入し、身体の内側から私の心を擽ってきた。私は拗ねる自分の中心の意気地のない自分自身に気づいて、恥ずかしさと滑稽さを綯い交ぜにした感情の渦に巻き込まれていった。

「アハハ!」と、私は大きな声で笑った。本当に私の脇腹にケイトは指を忍ばせて、擽っていた。ケイトは私の意気地なしの虫を追い払うために戦っていた?

 港に着くと、懐かしい顔が私を出迎えてくれた。

「やあ、マナーミ。ケイトを連れて帰ってきてくれたんだ」と、島のロイヤルポストの局長さんが声をかけてくれた。彼は私から少し離れた場所で、誰かと話をしている風に見受けられた。彼の目の前には何もない空間があるだけだった。が、少しずつ私の視界にケイトの姿が浮かび上がってきた。水蒸気がガラス窓に付着して水滴を発生させるかのような彼女の登場シーンだった。その後、急速に粒子が光体の核に向かって集まって、一旦停止すると、パンとその核となる光の球が弾けた。

「マナーミ、帰ってきたね」と、実体を持った彼女の唇が私の名前を呼んだ。

「じゃあ、マナーミ。後はケイトの言うことを聞くんだよ」と局長さんは言うと、郵便局のドアを、彼は鼻歌を奏でながら開閉して行ってしまった。

私はケイトの身体に飛びついた。彼女の肉体が私をボンと受け止めた。

「本当に、本物のケイトなの?」

「まあ、そうかな。人間の身体の三分の二は水分でしょう。でも、お祭りの日にはフェアリーの姿になるよ。それまでだよ、この体はね。ジルは元気そうで安心したよ。それにフィオナもできて、あなたは憧れていた家族を手に入れられたね。」

「でも、あなたがいないのよ」と言う私の発言にはケイトはスルーしたみたいだった。

 ケイトと私は、地元の漁師さんの車に乗せてもらって、南端のケイトのお家の前で降ろされた。食料品が入った大きなバックを手渡された。

「じゃあ、フェスティバルの終わる三日後に迎えに来るからね」と、しわくちゃの年老いた漁師の小父さんは港の方角へ向って車を発進させた。

 鍵を開けてケイトとお家の中に入った。確かに誰かが掃除をしたらしい形跡があった。

「マナーミ、私のお墓を見に行く?」

「あなたはここにいるのにお墓に行くの?」

「ええ、私の本当の肉体はもう朽ち果てているのよ。その現実も知ってほしいかな。」

「相変わらずのストレートな発言だね」と言って、グラスゴウ生活をしていた部屋での忌憚のない会話を思い出している自分がいた。

 数分ほど港町の方へ引き返すことになるが、小さな丘を登っていくとこじんまりした教会が見えてきた。見覚えのある景色だ。この小さな教会にケイトと私の結婚式に彼女の祖母と近隣の老人の方々がお祝い事だと言って当時集まってくれた。そして、私たち二人のウェディングドレス姿を見て彼らは感動して、うれし涙を流してくれていた。しっかりと自分たちの式の情景が私の頭の中で展開し始めた。ケイトが、「今日はフェスティバルのまえだから、非常勤の牧師さんが来ているから挨拶しておこう」と私を誘ったので、その誘い通りに教会の扉を開けた。その瞬間だった。

「おめでとう!」という幾人かの年老いた年期の入った声が耳に入ってきた。ケイトと私は当時の時空に吸い込まれたようだった。

 盛装をした牧師の良く通る声がした。

「ケイト、あなたはマナーミをパートナーとし

健やかなる時も 病める時も

喜びの時も 悲しみの時も

富める時も 貧しい時も

これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い

その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

「はい、誓います」と、ケイトがしっかりした口調で返事をした。

「マナーミ、あなたはケイトをパートナーとし

健やかなる時も 病める時も

喜びの時も 悲しみの時も 

富める時も 貧しい時も

これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い

その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

「はい、誓います」と、私も即座に返事をした。

 参列者の拍手が小さな空間を愛情で満たしていった。

 次の瞬間だった。今までの祝賀の映像がすっとデリートされて、悲しみがその場に現出した。

「ケイト、後は任せてね。しっかりとジルをマナちゃんのところへ送り届けるからね。」

 それは間違いなく秀ネエの言葉だった。棺の中にはケイトの遺体が……。私はケイトの葬式に立ち会っていた。私は見ているだけで声さえ出ない。思い切り声を発しようとするが、喉に異物が詰まった様に息さえもままならない状態だ。どっと自分の頬を伝って滝のように流れだす涙。

 私は誰かに肩を叩かれて、正気を取り戻した。

「では、マナーミ。ケイトとともにお役目を果たしてくださいね」という牧師さんの声を聞いた。その後、ケイトは自分が眠っているお墓に私を案内した。また自分の思考が、心情が心許なく揺れ動いていた。でも、そんなにはもう私は取り乱したりはしない、ともう一人の落ち着いた私は誓っていた。これまでにあまりにも不可思議な事ばかりが起こる自分の人生に慣れてきたせいだろうか。私は実体を持ったケイトの脇で、お墓に行く途中で季節外れのマーガレットの花を見つけたので、それを彼女の石板の前に屈んで一輪手向けた。

「ありがとう、マナーミ」と、彼女は私に声をかけて、私の肩を彼女の掌が包んでくれた。

「ありがとう、ケイト」というのが、私にできる精一杯の表現方法だった。ケイトへの愛は私の心の中でこれからも生き続けている。いつも彼女と一緒なのだ。

 突風が私の身を包み込むように過ぎていった。私の肩の重みが消えたような気がしてケイトの顔を確かめるために、首を後ろに回した。

「あとはあの夏のように灯台の灯りを付けてくれたら、大成功。」

 その言葉を残して、目の前にいたケイトの姿は霧のように風景をしばらく水滴の中に隠していた。

「話が違うじゃない、ケイト。お祭りが終わるまで一緒にいるっていたじゃないかあ!」

 叫んだ言葉は再びの突風で地上から曇った天へ向っていったような気がした。

 本当に独りなんだ、という意識の下でもどこかで安心し切った自分がいることに気づいた。いつもケイトと一緒なのだと。

 前日の荒れ模様が嘘のように収まってきた。今日は新月だ。

 前日、ケイトのお墓参りから帰ってから、私はあの夏に彼女と一通りの点灯の手順を確認した。まずはケイトの家の前のこれも今にも崩れ落ちそうな桟橋から手漕ぎボートを数分漕いで岩礁の島に渡る。帰りのためにボートの係留を確かめて、灯台に食料品を持って向かう。これは急変した際の灯台での宿泊用だ。ドアの鍵を開け、一階にある電気系統を簡単にチェックする。これがメイン電源だったはず、と思い出しながら大きなレバーを上げる。モーターの作動する機械音。発電は順調だ。その次にライトが点灯するか確認する。よし、オーケーだ。自分がその動作の全てを行ってるかというとそうでもない。ケイトに操られているような気分だった。

 もうメイン会場では、FF協会の人間中心の、人間に化けた?フェアリーたちのお祭りは盛大に行われているはずだ。ジルのお祝いの歌はちゃんとできるかな。そう言えば、春先から彼女は鼻歌を口ずさむ様になった。それが日を追うごとに声を出して歌い始めた。最初はジルが何語を使っているか分からなかったが、それがケルト語であることが、後に判明した。すでにその頃から、ジルはスコットランドのフェアリーから依頼を受けていたのだろうとしか想像できない。その歌を披露するのは、本物のフェアリーが集う深夜のはずだ。

けいちゃんと、FF協会と連絡を取れる術はこのエリアにはない。私は静かに自分の役目を日が落ちる頃から始めなくてはならない。ただ、緯度の高いスコットランドの夏の深夜はとても短いのだ。経験上、午前十二時でも昼間のように明るい。その後、薄暗くなり午前二時を過ぎないと完全に日は暮れない。夏の新月の夜は短い。その短い夜にフェアリーが交流を結ぶ。私は浜辺で日がな一日、ぼーと海風に当たっていた。まず、日本にいるとこんなことは微塵も望めない。私の心身が透明性を増してくる。そんな感覚だ。私はゆっくりと腰を上げて、前日におさらいをした工程を粛々と行っていこう、と決意して灯台のある岩礁へ漕ぎだした。自分の前にケイトが乗っていた。

「もうすぐだよ」って、彼女が私に優しく声がけしてくれた。私は、ただ頷いてオールを進めた。ケイトが先導して、灯台までの短い坂道を登っていった。私は待っていたケイトのためにドアを開錠した。今度は、ケイトが最初に入った私の後について入ってきた。「懐かしいなあ」と、ケイトが口にした。私たちはあの夏の結婚式の後、ここまでやって来た。そして、突然の天気急変で身動きできなくなって、一晩、くっ付いて過ごした。私の方は最初は恐怖からケイトにしがみ付いたが、その先は彼女と一緒になっていく快感が私を彼女と一体化、融解していく感覚の中で眠りについた。

「できたよ、ケイト。準備完了」と、ケイトに告げた。外は静かな闇のベールに包まれようとしていた。

「スイッチオン」と、私は呟いた。

「それじゃあ、聞こえないよ。今日はフェスティバルだよ。マナーミ、楽しそうに大きな声で点灯しよう」と、ケイトは微笑みながら私に注文を付けた。気を取り直して、楽しそうな大きな声で、「スイッチオン」と、ケイトの声とハモった。小さな灯台のライトに灯がともり、回転し始めたことを私は確認した。ケイトの姿はすでに消えていた。私はもう悲しみの涙は流さないと決めていた。今日は、フェアリーフェスティバルなのだから。


 新月の夜。水面が鏡のように天空の星々を映し出した。私の目線の先、どこかの小さな島か、はたまた水平線の向こうか、キラキラと光る小さな群れが湧き出した。その群光は蚊柱のように上空へ一度盛り上がると、大きな光球となって音もなく水面に波紋を立てずに動き出した。

「あっ、……」と、私は声にならない息を吐いた。

 こちらに向かって来た。灯台のライトの光が彼らの球体に当たると、その光の群れが弾けた。弾けて、灯台の光をその光の群れが取り囲んだ。

「あっ」と、再び私は叫ぼうとして、それを飲み込んだ。どんどん光の群れが私の方へ近づいてきた。灯台のライトが百八十度反転していった。

「じゃあ、マナーミ。私、ジルに会ってくるね」と言った一つの輝く球体が自分の胸元から現れると、ふっと私の頭上で漂っていた。発光体の群れが無音で私を取り囲むと、様々な会話が聞こえてきた。うまく聞き取れない。古英語か? ケルト語か? そんなどうでもいいことを考えている間に、その群れはスカイ島を目指して、灯台のライトの灯りを取り囲むようにして向かっていった。ジルの歌声らしき響きを聞いたような気がした。夜空のスクリーンにジルが歌っている映像が映し出されていた。

「ありがとう、ケイト。ありがとう、フェアリー。」


 新月の夜の盛大なフェアリーフェスティバル。日常では今の生活にはあまりにも明かりが多すぎる。フェアリーたちが一斉に集まるためには目標は一つでいい。スカイ島のフェアリープールでの集まりに行くための小さな島々の小さな灯り。それが小さな灯台の重要な役割なのだ。その灯りの周囲にフェアリーたちの発光体が取り囲む。それはケイトがあの夏に教えてくれた「アイルの瞳」なのだ。私は島の名称は留学するまで、「アイランド」しか知らなかったが、こちらに来てから小さな島のことを「アイル」と呼ぶことを知った。

灯台はアイルの瞳なのだ。そのことがこのフェアリーフェスティバルで判明した。


 けいちゃん、ジル、フィオナと合流したのはそれから二日後だった。

「ケイトがジルの歌を聞きに来てたんだよ。ケイトのそばに立って一緒に歌ってたんだよ」と、そのとき知らされた。「ジルに会ってくるね」と言ったケイトは本当にフェアリーになったんだと、実感した。

「私はマナちゃんに願いを叶えてもらったよ。この歳であなたと家族を持てたでしょう。ジルという娘を頂いたでしょう。さらに、フィオナを授かったでしょう。今度はあなたの願いを私が叶えてあげる番だよ。」

「もう、私の願いは叶っているよ。そんなことどうして言うの?」

「あなたは出来損ないの女じゃないんだから、ね。」

 今さらけいちゃんは何を言っているんだろうか、という思いの方が私には強かった。もう出来損ないではない自分に私は自信さえ持っていたから。


 帰国してしばらくしてから、ジルが私の隣に立って私の耳元で囁いた。

「今度は、ダッドがママになるよ」って。





                  了

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アイルの瞳ーフェアリーフェスティバルへの招待状- 稲子 東(トウゴ ハル) @tougo-haru

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