風の始まりの色

いとうみこと

若葉色の風

 天守閣を右手にお掘を回り込むと、ほとんど人が来ない私の秘密基地がある。本当は単なる東屋だけど、ここで本を読んだり編み物をしたり、時には昼寝をするのが私のお気に入りの時間だ。辛いこと、悲しいことがあった日も、ここへ来れば誰に気兼ねすることなく落ち込むことも泣くことも出来る。入口からいちばん遠い行き止まりに東屋を作ったここの担当者は、余程の変人か私と同じコミュ障だろうと思う。まあ、そのお陰で休日のひと時を穏やかに過ごせるのだから感謝しなければいけない。


 今日もまた、やりきれない思いを抱えてここへやってきた。足元の砂利を見つめながら歩を進めていると、お堀の水が跳ねる音がして足を止めた。空の青や木々の緑が映る水面に波紋が拡がっていく様は、モネの絵のように美しく、葉を揺らして吹く風は春の匂いがする。その数分間で、私の心は随分と軽くなった気がした。


 今朝、親戚のおばあさんが見合い話を持ってきた。相手は四十を超えた子持ちの男性。

「静香ちゃんは家政学部を出て、栄養士の資格を持ってるじゃない? 子どもを産んだことなくても母親業はお手のものだろうって向こうの親御さんが。私もその通りだと思うのよねえ」


 隣で聞いていた母は曖昧に笑いながら「娘次第なので」と私に話し相手を押し付けて早々に奥へ引っ込んだ。父もまた用事があるからと逃げ出した。彼女はこれまでまとめ上げた縁談話を昼過ぎまで延々と喋り続けた挙句、このままじゃ手遅れになるからよく考えるようにと言い放って帰って行った。


 私はお世辞にも可愛いとは言えない。ネコ型ロボットのような体型にあんこが詰まったパンのヒーローみたいな顔が付いている。そんな自分に自信が持てなくて恋愛はずっと避けてきた。だからといってひとりが好きなわけでもなくて、人並みに片思いだってしたことはある。でもそれは、鏡を見れば我に返る程度のものだった。


 この見た目で三十路となれば、世間的には気の毒な存在なのだろう。おばあさんも言外にそれをチラつかせていた。だからと言ってバカにされるのも同情されるのもまっぴらだ。恋も愛も必要不可欠なものじゃない。私は私の生きたいように生きていくんだ。


 私は再び歩き出した。力を込めてザックザックと。そして目的の東屋のすぐそばまで来た時、長椅子に寝そべっている人を見つけた。


 今日に限って、なんで⋯⋯


 私はその場で回れ右をしたが、すぐさま呼び止められた。


「あの、先週ここに本を忘れていきませんでしたか?」


 振り向くと一万円札の肖像画によく似た男性が、半ば立ち上がって一冊の本を差し出していた。手にしているのは私が失くしたと思っていた単行本だ。でも、なぜそれを彼が持っていて、どうしてこのタイミングで差し出したのか? まさか、私を待っていてくれた?


「あ、ここにあったんですね。探していました。でも、どうして⋯⋯」


「やはりそうでしたか。あなたが時々ここで本を読んでいるのを知っていたのでそうじゃないかと。雨の予報が出ていたので持ち帰りました。勝手なことをしてすみません」


 男は申し訳なさそうに頭を下げた。


「とんでもない。大切な本なので見つかって良かったです。ありがとうございます」


 私は彼から本を受け取ると、気になっていたことを尋ねた。


「もしかして、ここで待っていてくださったんですか?」


「ええ、まあ。僕もここが好きで時々来るんです。その時あなたを何度かお見かけして」


「でも、私は一度も⋯⋯」


「あなたがいる時は遠慮したんです。その、ひとりでいたいのかと思って」


 彼はそう言うと俯いた。多分、彼は私と同じタイプの人間だ。


「だから、遠目からは分からないように寝そべってました。きっとあなたも僕を見たら引き返してしまうだろうと思って」


 この人も、私が同じタイプの人間だとわかっているんだ。私は何だか可笑しくなって笑ってしまった。


「笑ったりしてごめんなさい。何だか似たもの同士だなって」


「僕もそう思ってました」


 私たちは暫くくすくすと笑いあった。淡い若葉の匂いが風に乗って私の髪を揺らした。

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風の始まりの色 いとうみこと @Ito-Mikoto

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