はじまりの日

槙野 光

はじまりの日

 もしわたしの瞳に世界の色が映ったのなら、あなたと出逢ったあの日の風はいったい何色だったのだろう。


「――コバルトブルーの色だ」


 風が吹き、さやさやと葉が揺れる。鼓膜に触れた涼やかな声と右隣にできた大きな影に視線を移すと、あなたと目が合った。

 右の目尻にできた稲妻形の擦過傷、熊みたいながっちりとした体躯。瞬きの間に緩んでいくあなたの優しい眼差しに、わたしの涙腺が大きく揺れ動く。


 たったひとりの家族が――。祖母が、亡くなった。


 子どもみたいに泣き噦ってしまいたかった。泣き疲れて眠ってしまいたかった。でもわたしは、会社勤めの良い大人だ。幾日もしない内にまた電車に揺られて働きに行くし、くたくたな姿で眠りに就く。そしてまた目覚めて――。


 わたしはいつの間にか、大人になった。


 ただそれだけで、わたしは背筋を伸ばし立っていなければならない。笑っていなければならない。


 ただ、それだけで。


「――大人だって、たまには泣いたっていいさ」


 あなたの声に、目の奥が熱を持つ。ひとつ、またひとつ。小さな影が地面にできる。わたしは声を出さずに涙をこぼし、あなたはわたしに寄り添うように立っていた。


 あなただけが、わたしの側にいてくれた。

 

 あなたは祖母の友人で、あなたには世界の色が見えた。でも、わたしは本当のあなたを知らなかった。だから、あなたがわたしの悲しみに触れたように、わたしもあなたのことを知りたかった。


 あなたの全てを知りたいと、そう思った。


 空っぽになった祖母の家で、わたしはあなたと庭に並び立ち、桜の新緑を眺めていた。


「あなたの声は、どうしてそんなに透き通っているのかしら」


 わたしが言うと、あなたはからからと笑い、大きな手で、わたしの髪をくしゃりと撫でてくれた。


「そんな風に言うのは、きみだけだ」

「どうして?」

「みんな、知ろうとしないからさ。でも、そうか……。きみには、分かるんだな」


 わたしが小首を傾げると、あなたは世界の優しさをひとつに集めたような瞳にわたしを映し出した。


「はじまりの色さ」


 祖母が煙となったあの日、風が吹いた。揺れる葉を前にコバルトブルーの色だと言ったあなたの瞳は、とても澄んだ色をしていた。

 空のようなその瞳の奥にはきっと七色の虹が掛かっていて、あなたの瞳は太陽に翳したビー玉のようにとても美しかった。

 

「人によっては、私は星や月に見えるだろう。だが、私は何者でもない。私はきみや、きみのおばあさんのように『誰かの宝石』になることはできない」

「……わたしだって、誰かの宝石になんてなれやしないわ」

「いいや。きみは、きみのおばあさんの宝石だった。きみの声は彼女の声を癒し、きみの瞳は彼女の瞳を守っていた。声は、おわりの色。そして、はじまりの色。きみもきっと、彼女と同じだ。きみも、世界の産声が分かるんだ」


 あなたはそう言って、わたしの髪をまたくしゃりと撫でてくれた。あなたの手は硝子細工のように繊細で、とても心地が良かった。


「……ああ、緑の色だ」


 風が吹き、葉がさやさやと揺れる。


 あなたと過ごした時間は、半年にも満たない。

 でもあの時。


 わたしの心は、確かにここにあった。


 あなたと別れて、わたしは日常に戻った。電車に乗り、働き、ご飯を食べ、眠りに就いた。そして――。


「こ、高坂こうさかさん!」

高見たかみくん? どうしたの?」

「あ、あの! 今度の土曜、ご飯に行きませんか?」

「えっ……」

「だ、だめ、ですか?」

「ううん。――だめじゃない」


 わたしはまた、誰かの宝石になった。


 新たな命を育み、わたしじゃないわたしを見つけて。


 そうやって、わたしは精一杯生きた。


「……あなたを初めて見たのは、祖母の病室だったわね」

 

 窓越しに咲く桜の新緑。窓辺に佇む大きなあなた。歳を取り皺だらけになったわたしとは違い、あなたはあの頃のまま。

 緑葉が、さやさやと揺れる。

 風音までは聞こえないその色は、あなたの瞳にどんな風に映っているのだろう。


「ドア越しに鼓膜を揺らした祖母の笑い声はとても楽しそうで、ドアを引いて瞳に映したその顔はとても和やかだった。どうしてそんな風に笑えるのか、あの時のわたしには分からなかった。……でも、やっと分かったわ」

 

 わたしが言うと、あなたは眩しそうに目を細めた。そしてわたしの白くなった髪に手を伸ばし、優しい手つきで私に触れた。大きな手。暖かい手。


 命の手。

 

「あなたは、おわり。そして、はじまり。あなたは、わたしたちの宝石。……だから、ちっとも怖くないわ」


 あなたがわたしを見て、瞬きをする。


「……きみは、変わったな」


 返事の代わりにわたしが目元を緩めると、あなたは大地の母のような優しさを湛え、ゆっくりと音を連ねた。


「――友音ともね


 あなたがわたしを呼び、わたしもあなたを呼ぶ。


 あなたが微笑み、わたしの瞼が落ちていく。暗闇に差し込む白日。涼やかな調べを運ぶ柔らかな風。


 そして世界が、七色に染まる。


 ほらね、怖くないのよ。

 だってこんなにも――。


 あなたは、美しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はじまりの日 槙野 光 @makino_hikari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ