針の骸
水埜青磁
第1話 風の鳴る音
「あなたはナイフとフォークで食事をするのが上手ね。とても綺麗。私以外の人とデートをするとき、ナイフとフォークを使う料理を頼むといいわ。きっと相手はあなたのことを好ましく思うから」
サンドイッチのきゅうりをぼどぼど落としながら
「ね、もう出ましょっか。次の講義、入ってるんでしょう」
ああ、まあ。絞り出した言葉は案外自然に響いた。あと20分ほどで講義が始まる。顔を上げると玻璃戸さんは窓の外を見ていた。隣の家のコンクリの壁が窓の向こうにそびえ立ち、窓は鏡のようになっている。玻璃戸さんの表情を見ないまま僕は椅子を引いた。何も見なくてもわかるよ。やたらといい耳が玻璃戸さんの息の震えを拾う。こういうとき、僕は玻璃戸さんの特別だと錯覚する。
◇◇◇
僕には友達といえる人間がいない、なんてことはない。そこそこノートを貸す人がいる、それを友達と数えると惨めだろうか。一人が好きだから、やるべきことを優先したから、そんなきっぱりとした理由があるわけではなく、ただすべてのタイミングを逃し、ただすべてにぼーっとしていたらこうなっていた。それだけである。寂しくはない。僕は人間と密接に交流することと同等の、もしくはそれ以上に楽しいと感じることを知っている。本があれば退屈しないし、ラジオが拾う音楽はたまにおもしろい。古い花屋のバイトも性に合っていて、店主の樋口さんとは軽口を叩きあうくらいに気安い関係を築いている。気楽な生活。気安い毎日。滞りなく、それなりに。
「今日はもう先に上がりなさいや」
寒なるうて朝ニュースで言いよったわ。樋口さんが奥からのっそりと声を出す。はーい、とのっそり返す。エプロンの腰紐をほどきながら空を伺うと、ちらちら雪が舞っている。先週読み終えた小説で、都会の雪は汚いから嫌い、と登場人物は口にした。僕は都会を知らないけれど、汚い雪を見てみたい。雪が降るとなんだかそわそわとして踵が浮くような気持ちが僕から離れてゆくならば、その瞬間を、僕が失うそのたったひとつを僕ははじめて手にすることができる。そういうことにちょっとだけ出会ってみたいのだ。くるくるエプロンを巻きながら畳むと、裾がいつもよりずっしりと冷たい気がした。シャッターを下ろすために少し背伸びをすると、背後を些細な風が横切った。
「死んでる」
風。あまりにも唐突な、意味のわからない風。掠れたその声は感情をすべて削ぎ落としたような、ただその単語を発音するためのAIのような、そんな無機質な声だった。後ろ姿が遠のく。長い、切り揃えられた髪。歩くたびに跳ねるのに、同じ揃い方で跳ねる髪は濡れるように黒い。ふと、足音がしないことに気がつく。ワンピースの膝から下が濡れており、サンダルを指に引っ掛けて裸足で歩いているのにぎょっとする。整備もろくにされていないような雑な道を、しかもこんな真冬に。樋口さんにちょっと待っていてくださいと一声かけて駆け出す。
「あのっ」
振り向いた瞳と視線がかちあう。目が来るなと言っている。
「危ないです、足。それに寒いですし、店で」
「結構です」
言い切る前に遮られる。目の前の人は既に踵を返していた。また風。少し苛つきを感じながら、息を吸う。丁寧にいく。
「どんな事情があるのかお訊きするつもりはありません。でも風邪ひきます。靴下はそこのコンビニで買いましょう。靴はなんとかしま」
「結構ですと言っているわ」
その人と僕との間を切るように髪が靡く。一斉に、揃って。迷惑そうに思いっきり顔を顰めている。腹が立つな。こういう、自分だけが特別やるせない思いでいるような。
「可哀想な目で見られるのがお好きですか?」
「は」
僅かに濡れた前髪から覗く眉がひく、と引き攣っている。それをしっかり見て、続ける。この様子では他にも冷えている箇所がありそうだ。
「それなら構いません。そのままアピールしながら楽しくランウェイ歩いてください。雑なコンクリの道ですけど。観客なら、まあちらほらいますしね」
では失礼しますと頭を下げてさっさと店へ戻る。樋口さんが縮こまりながら店から半身を覗かせていた。心配ないですよと軽く手を挙げると、
「心外なんやけど?」
声がまっすぐに後ろから飛んでくる。引っ掛かってくれる単純な人でよかった。
「店まで、ゆっくり歩いてこられますか。血が出ているでしょう」
唇を噛んで、顔を固めている。サンダルを握る指先が白い。沈黙を肯定と捉え、微笑む。今にも舌打ちをしそうなイガイガとした気が背中に突き刺さるのを感じながら、二人で店へと向かった。
「なんね、裸足で薄着で、寒いやろうに……ちょい待ちや、ストーブとお湯持ってくるわ」
「そんな、あの」
空中を彷徨わせている手に開封して振っていたカイロを握らせる。
「何が『そんな、あの』ですか。店主と僕とでは随分と対応が違うんですね」
「妙な真似っこせんといてください。気色わるい」
意地もわるいわ、ほんまに。目の前の人は吐き捨てるように言う。拗ねている猫みたいで思わずふっと口元が緩んでしまう。睨み付けられている気がするが、カイロを揉む音は聞こえているからいい。樋口さんがちゃかぽこと音を立てながら洗面器を持ってきてくれる。
「先にお湯、持ってきたで。足浸けとき」
「あー、樋口さんすみません、消毒液と何か押さえられるものありませんか」
「なんね、この子怪我しとるんかね」
なんでもあるんよ〜と得意げにドタバタ奥に樋口さんが消えていく。ありがとうございまーすと首を伸ばしながら言うと、ええんよ〜と機嫌良さげな声が返ってくる。
「そんな、してもらわなくていいわ」
つんとした声は変わらず掠れている。いつまでこの調子なんだ。もう店に入って椅子に腰掛けている時点で諦めてほしい。
「でも痛いでしょうよ」
僕は痛いの嫌いなので。見たくないんです。床に腰を下ろす。ジーンズの後ろでスマホが一瞬鳴った気がした。湯加減をみる。指先が熱で一瞬痒くなる。じんわりと、じっくり痒い。顔を上げる。
「あんた、今すごい痛そう」
目が揺れていた。寂れた公園のぶらんこ。電信柱から居なくなる瞬間の鳥。晴れ間からちょうど外れた水溜り。そんな感じ。そんな感じの目。張られた水の膜に溢れる気配はないものの、そこで留まっていることは確かだった。
「別に、心配をかけたくてやっているわけじゃないわ。アピールなんかじゃ、ないわ」
せっかく温まって赤みを取り戻した指先が、力を入れることでまた白くなる。
「そんなこと思ってないですよ。誘導したかっただけです」
「誘導?」
怪訝な顔。表情が豊かで隙だらけだ。
「なんとか店に入ってもらって、手当をして暖をとってもらうためです。そのためにわざとあなたの逆鱗に触れそうなワードを選びました。手荒でしたし、申し訳ないと思っています」
深く頭を下げる。ちゃぷ、と頭の先で湯が揺れる。
「可哀想なアピールだとか、そんなレベルじゃないことは訊かなくてもわかります。もっといいやり方がありました。すみません」
本心だ。ちゃんと、悪いことをしていた。自分が満足に後悔を避けるための誘導だったことは自覚している。それに、この目尻の赤いひとにこれ以上意地の悪い真似をしたくなかった。ここで区切りを入れたかったのだ。
「変なの」
「あつっ」
ぢっ、と頬がやけた。熱い。今、この人、湯を蹴ったのか。
「ちょっ、あんた、なにすんですか」
顔を上げると、澄ました顔で当然の如く口が開く。
「これでおあいこよ。これくらいしないと、割に合わない」
ね。そうしてはじめて口元を緩めた。僕はただ美しく、コマ送りのように唇が動くのをただ見ることしかできなかった。呆気に取られた。思わず乾いた笑いが出る。視界の端で樋口さんが柱から恐る恐るこちらを覗き込んでいた。救急箱とタオルを手に居た堪れない様子でいる。
「け、ケンカかね……?」
口を開く前に、目の前の人が声を放つ。
「いえ、今仲直りしたところです。そうでしょう?」
なんて強かな。ため息を軽くついて腰を上げる。ああ、樋口さんから消毒液を貰わなければ。
「そうですね。樋口さん、心配かけてすみません」
「でも遠野くん、前髪もちょっと濡れちょるし、さっきまでわーわー言い合いしよったし……」
樋口さんが可哀想になってくる。ただでさえ弱い胃をこれ以上痛めつけたくはない。胃カメラを飲んだ苦しみとそれに伴う謎の喪失感を克明に語られたのは、つい先週のことだったか。大丈夫ですと嗜めていると、後ろからまたとんでもない矢が飛んでくる。
「あら、挨拶みたいなものよ」
「こんな挨拶がこの国にあるかよ」
思わず振り返って切り返す。くふくふと笑っていた。さっきの態度が嘘みたいだ。
「ま、まあ仲はええみたいやな」
樋口さんがやっと肩を丸くする。一月のおわり、二月のはじまり。これが、
針の骸 水埜青磁 @tohmindempa
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