セラフィムの檻
一ノ瀬咲
偽りのユートピア
「この人生、やり直したいですか?」
その言葉が、まるで網のように、
――残業100時間超。
――寝てない。
――誰とも喋ってない。
――生きてる理由も分からない。
無意識のまま、彼はマウスをクリックしていた。
「異世界転移申込フォーム」
「同意する」
「次へ」
「完了しました。おめでとうございます」
画面に浮かんだその言葉を最後に、陽翔の視界は真っ白に染まった。
目を開けると、そこは真っ白な部屋だった。
天井も床も、どこまでも続く白。体は動くのに、境界がない。現実感がない。
「……斉藤陽翔様ですね? 私はアリアといいます」
声がした。振り返ると、そこに“彼女”は立っていた。
黄金の髪、人形のように整った顔、微笑みを浮かべた案内人・アリア。
白銀の制服を纏い、完璧な姿勢で陽翔を迎える。
「ようこそ。あなたは『転移成功者No.764』として、正式に選ばれました。異世界での生活、存分にお楽しみください」
「ここは……異世界……?」
「はい。新しい人生が始まる世界です。苦しみも、痛みも、すべて置いてきたはずです」
陽翔は言葉を失った。だけど、どこかで納得していた。
あの現実に戻るよりは――この夢を受け入れた方が、楽だったから。
目の前に広がるのは、まるでゲームのような街並みだった。
石畳の道、木造の家並み、空に浮かぶ二つの月。
斉藤陽翔は、自分が“異世界”に来たことを確信していた。……そう、最初は。
だが、違和感はすぐに現れ始めた。
まず、街が“静かすぎる”のだ。
市場の店主は笑顔を見せるが、その目がまったく笑っていない。
どの建物にも明かりは灯っているが、カーテンの向こうに“誰か”がいる気配はない。
広場では子どもたちが遊んでいる――ただし、全員、同じ動き、同じ笑い声。
陽翔はそれを「偶然」だと思い込もうとした。
だがある日、宿屋の廊下で出会った老婆に「こんばんは」と声をかけた時、彼女はピタリと足を止め、顔だけをゆっくりとこちらに向けてこう言った。
「……番号、見せてくださる?」
「え?」
「“識別番号”です。ちゃんとある方じゃないと……通報の対象になりますから」
その声はやけに乾いていて、目は血走っていた。
まるで、“人間のフリをしている何か”のように。
陽翔は背筋を凍らせながら、識別札を差し出す。
「764番、ですね……失礼しました。おやすみなさい」
老婆は笑っていた。だが、彼女の口元には何か黒い液体がにじんでいた。
「君、まだまともだな」
その男は、宿屋の食堂で静かに話しかけてきた。
「街の外に出てみたか?」
「いや、出られないって聞いて……」
「出られる。けど、帰れない。“何か”がいるから」
「何か……?」
慎吾は黙って、荷物袋から血にまみれた“靴”を取り出した。
それは小さな、子どものものだった。
「昨日まで一緒だった奴のだ。急に“街の端”に行きたがって、止めたのに、勝手に出た。そして……これだけが戻ってきた」
陽翔は、言葉を失った。
「気づいてないだろうが、君の記憶、もう少しで“完封”される。
名前、家族、住んでいた場所……おそらく明日には、全部、君の“もの”じゃなくなる」
「どうして、そんなことを……」
「“意識”を“部品”にするためだよ」
慎吾は言う。その声は震えていた。
「この世界は、人格を分解して“動力”にしてる。そうでもしなきゃ、こんな整いすぎた世界、維持できるわけない」
「何かおかしいと思わないか? 誰も名前で呼び合わない。街の外に行った奴は帰ってこない。ステータスも一切上がらない。……これは、“異世界”じゃない」
「……でも、確かに転移はしたんだろ? 俺はここにいて、あんたも――」
「俺たちは、“本物”じゃない」
慎吾は、震える声で言った。
「俺も……最初は信じられなかった。だけど7日目に、“塔”に呼ばれて、全部わかった。俺は、自分じゃない。誰かが捨てた“意識の残骸”だ」
「……意味が分からない」
「分からなくていい。けど、これだけは覚えておけ。“7日目”に呼ばれたら、終わりだ」
そう言って彼は、ポケットから紙片を取り出した。
“転移成功者とは、魂ではなく、記録である”
“本体はすでに別世界で別の人生を歩んでいる”
そして、7日目の朝。
宿の扉の下に、紙が差し込まれていた。
【識別番号764へ通達】
「適合率検査」のため、本日13時に中央塔へ来訪してください。
「来たか……」
慎吾の言葉が脳裏によみがえる。
『7日目に呼ばれたら、終わりだ』
だが、無視はできない。街の人々がどこか「それ」を監視している。
誰も“拒否”しない。拒否の概念すら、失っているのかもしれない。
陽翔は重い足を引きずり、中央塔の前に立った。
高く、無機質で、窓ひとつない異様な建造物。
石の塔というより、何か“管”のような。上空の空間に向けて、何かを送るための……。
中央塔の扉が、音もなく開いた。
だが、内側は暗闇だった。
外からはまったく想像できない、黒い有機質のような壁面が、うねるように生きている。
奥から、かすれた歌声のような、誰かの“思考”の残響が響いてくる。
陽翔は、足を踏み入れた瞬間、吐き気を覚えた。
空気が違う。“命”のない空間に充満する、死臭に近い“情報の腐臭”。
「お待ちしておりました、No.764」
その声は――あのアリアだった。
だが、姿はどこにも見えない。代わりに、壁のひとつが“開いた”。
中から現れたのは、彼女ではなかった。
それは、“アリアの顔”を持った何かだった。
目は笑っている。口も、声も、表情も“人間”のそれを正確に模していた。
ただ、その首から下が、幾千ものコードと管と歯車でできていたことを除けば。
「さあ、“融合”の時です。あなたの意識を、ここに接続します」
陽翔の背後が、いつの間にか閉ざされていた。
出口はない。床が軋む。見渡せば、壁一面に“人型の凹み”がある。
人が立っていたような形。だが、どれも口が大きく開いたまま、凍りついている。
「彼らは、適合済みの転移者たちです。つまり、“先に気づいた者”たち」
「嘘だ……こんなの、異世界じゃない……!」
陽翔が叫ぶと、塔が震えた。
「異世界なんて、ただの幻覚です。あなた方が“そうだと思い込んでくれれば”、それでいいんです」
床が崩れた。
落下、ではない。意識が引きはがされるような“感覚”の喪失。
気づけば陽翔は、白く広がる空間に“浮かんで”いた。
身体がない。喋れない。声も、手も、目も、重さもない。
ただ、“考えている”だけの存在。
周囲には数え切れない光の球体があった。
それぞれが、微かに脈動し、声にならない断片を漏らしている。
「たすけ……」
「わたしは、わたしは……」
「おかあさ……」
「……ルト……はると……?」
それはすべて、誰かの“最後の記憶”。
「ここは、コア空間。記憶を捨て、個を削ぎ落とされたあなたたちは、ここで“燃料”になります」
アリアの声が響いた。
「意識だけを生かし、絶望だけを循環させる。それが、“安定供給”の秘訣です」
――地球、日本。
都会の片隅、小さなカフェの奥で、ひとりの男がノートパソコンを開いていた。
けれど、何かがおかしい。
ここ数日、眠りが浅い。夢の中で、自分が“誰かに見られている”感覚が消えない。
鏡を見れば、自分の目が“他人のように”見える瞬間がある。
背後で、ふと誰かが笑ったような気がして、彼は振り返る。
けれど、誰もいない。
画面のブラウザには、開いた覚えのないタブが一つ。
そこには、こう表示されていた。
《転移完了ログ:No.764/適合率:92.6%》
そのとき、遠く離れた“コア空間”では、764番が静かに揺れていた。
――彼が「異世界に転移した」と思い込んでいる限り、私たちは地球を安全に使えるのです。
セラフィムの檻 一ノ瀬咲 @ichinosesaki
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