それは互いの「日常」になるような

寺音

それは互いの「日常」になるような

『挨拶は本当に大切よ。どんな時でも、必ずするようにしなさい』


 母が、私によく言い聞かせていた言葉だ。

 けれど今朝は、朝の挨拶を交わす相手は隣にいない。少し腕を動かしただけで、全身がひきつったような痛みを覚える。喧嘩をして腹を立てたからと言って、リビングのソファーで寝るんじゃなかった。


 私は起き上がり、きしむ体を揉んだり伸ばしたりする。カーテンからさし込む光はいつもより暗い。確か今日の天気は曇り、午後から雨も降る予報だ。

 憂鬱ゆううつな気持ちになりながら、顔を洗いに洗面所へ向かう。長い黒髪の覇気のない私は、どこかのホラー映画の幽霊にそっくりだ。まさか、一緒に暮らし始めてたった数ヶ月で、こんなことになるなんて思わなかった。幽霊わたしは誰かを呪いそうな目つきで、深いため息を吐いた。


 言葉を選ばず言うと、彼はだらしない人だ。洗濯は着るものがなくなるまでしないし、食器洗いも全ての食器を使いきるまでためておく。掃除もギリギリまで粘る。挨拶もいい加減で、「いただきます」も言わずにご飯を食べ始めた時には唖然とした。それは長年、で暮らしてきた彼にとっては当たり前のことだった。

 けれど私は、彼の色々なことがどうしても我慢できなくて、事ある毎に口を酸っぱくして彼を注意した。そんな生活が数ヶ月続いて、昨夜、彼は「もうウンザリだ」と言ったのだ。


 顔を洗っても気分は晴れず、私は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。やけに軽い。中を覗けば、底の方にほんの少ししか残っていなかった。これくらいならいっそ全部飲みきってくれれば良いのに。犯人の顔が思い浮かび、またイライラしてきてしまう。腹いせに、彼が買ってきたクリームパンを開けて、「いただきます」とかじりつく。


 朝食をしっかり食べること。これも母からの教えだ。母は毎朝、民宿みたいな朝食を出してくれていたけれど、私には無理だった。母のようにやらねばと、頑張りすぎていた私を救ったのは、「朝メシがあるだけで俺にとっては百点だ」そう言ってくれた彼だったっけ。

 カスタードクリームのまったりとした甘みが口の中に広がる。甘いパンはあまり好きではなかったけど、彼と生活をする内に慣れてしまった。そう、こんな風に慣れていけると思ったのに。


 クリームパンを半分以上残し、私は手を止める。「食べ物を残すな」、なんてよく他人に言えたものだ。自己嫌悪で目頭が熱くなる。

 私は一方的に、自分の常識や価値観を押しつけていただけだったんだろうか。それとも私たちは、根本的に合わなかったんだろうか、もう駄目なのかもしれない。

 とうとう視界が滲んできてしまって、私は手の甲で目をこすった。


「おはよう」

 予想外の言葉に驚き、振り返る。寝癖のついた髪の毛をそのままに、よれよれのスウェット姿で彼がリビングの入り口に立っていた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。なんで、そっちが驚いた顔をしているのだろう。

「あー! 駄目だぁ。降参、俺の負け!」

 よく分からないことを言い、彼が頭を抱えて座り込む。


「昨日の今日だしさ、絶対にお前に挨拶なんかしてやるもんかって思ってたんだよ。それがお前の顔を見た途端、口が勝手に動いたのかってくらい自然に『おはよう』だよ。……悔しいけど、どんな時でも挨拶はするって、お前に教えられたことが、とっくに当たり前になってたんだな」

 彼は髪の毛の隙間から私を見上げ、弱弱しい声で言った。

「悪かった。疲れてるところになんだかんだ言われて、ついカッとなった。本当に、ごめん。お前のそう言うしっかりしたトコ、俺、割りと好きなんだよ。だから、その……あんまり育ちがよくない俺だけど、見捨てずにこれからも一緒にいてくれると嬉しい」


 私は、口を半開きにして固まった。口元がムズムズしてきて、咄嗟に手で唇を押さえる。それでも我慢できなくて、ついに大声で笑いだしてしまった。

 すっかり忘れていた。

 彼のこういう所が私に、「一緒にいたい」と思わせたのだ。

「『おはよう』。私、あなたのそう言う、駄目だけど素直なところ大好きだよ」

「駄目は余計だろ」

 いつの間にか、カーテンの隙間から明るい日の光がさしていた。

 なるほど。やはり、挨拶は「大切」なのだ。

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