透明な鏡の中のアキラ
@88101103
透明な檻の中のアキラ
透明な檻の中のアキラ
第一章 記憶の断片と葛藤
夜のUFOキャッチャーの中、蛍光灯の光は弱々しく、ハリネズミのアキラは透明なプラスチックの檻に滲んでいた。
共に閉じ込められた仲間たちの影は、ざらついた壁に歪んで映り、彼らの囁きは狭い空間に反響する。
アキラは自分の体を覆う透明な檻を見下ろしながら、仲間たちの語る外の世界への夢に、どこか遠い目をしていた。
「外の世界は、きっと私たちを優しく包んでくれるんだ。」
淡いピンク色のウサギのぬいぐるみ、リリが目を輝かせながら言った。その声は、まだ見ぬ温もりを求めるように震えている。
アキラはゆっくりと頷いた。ガラス越しにぼやけて見える玩具店の賑わいは、彼にとって遠い絵画のようだった。
「ふわふわの毛布に埋もれて、毎日誰かの腕の中で眠る…。そんな温かい日々が待っているんだろうな。」
彼の言葉は、願望というよりも、消え入りそうな独り言のようだった。
しかし、一角で丸くなっていた濃い灰色のクマのぬいぐるみ、トルは、その楽観を鼻で笑うように低い声で言った。
「幻想だ。人間なんて、すぐに飽きる生き物だぞ。」
彼の目は、長年の滞在で染み付いた諦念の色をしていた。
アキラの心には、小さな棘が刺さった。彼もまた、この透明な檻の中で、何度も期待と失望を繰り返してきたのだ。
外の世界への憧憬は確かにあったが、同時に、トルが語る現実の冷たさも、心のどこかで感じていた。
第二章 - 先に拾われる仲間たち
ガチャン。
機械の冷たい音が響くたびに、誰かが透明な檻の中から消えていった。
ある日、深い青色のクマのぬいぐるみ、カイがゆっくりとアームに掴まれた。
「カイ…!」
リリの声が震えた。
カイは自分の体が浮き上がる感覚に戸惑いながら、かすかに笑った。
「やっと、外に出られるんだな。」
その瞬間、アキラは彼と視線を交わした。その黒いボタンの瞳は、期待と不安の両方を宿していた。
「行ってらっしゃい…」
リリは震える声で言った。しかし、アキラはそれがリリ自身に言い聞かせるような言葉に聞こえた。
「次は誰が消えるかって話か。」
トルが低く言う。
アキラの胸の奥に冷たい感覚が広がる。この場所にいる限り、誰かが次々に消え、檻の中が広くなっていく。
外の世界へと旅立つことが「逃れられること」なのか、
それとも「忘れられること」なのか
——その答えは、まだ誰にもわからなかった。
第三章 - 別れの痛みと希望
ガチャン。
――ぼく?
重力がふっと消えて、宙に浮いた。
無慈悲な機械の音が響き、アキラの体が持ち上がる。視界が揺れ、透明な壁の向こうでリリが身を乗り出し、叫んだ。
「アキラ…!行かないで!」
視界が揺れ、透明な壁の向こうでリリが身を乗り出し、叫んだ。
アキラは何か言おうとしたが、声にならなかった。
ただ、トルの視線が鋭く彼を捉えた。
「夢だと思うなよ。」
低く、冷たい声。
しかし、その奥には微かな痛みが滲んでいた。
アキラの胸に、熱いものが広がった。
本当にこれは夢なのか?
本当に、温もりを得られるのか?
彼がアームに運ばれ、檻の外の空気を初めて感じた瞬間、恐れと期待が交錯した。
そして、少年の小さな両手に、アキラは包まれた。
「とれた!」と少年が笑った。
その声は、アキラの綿の奥に染み込んだ。
「かわいい名前、つけなきゃな……アキラ、とかどう?」
そう言って少年は、アキラを胸にぎゅっと抱きしめた。
そのぬくもりの中で、アキラは初めて“意味”を持った気がした。
透明だった檻の外に、自分だけの物語が生まれた瞬間だった。
第四章 -新しい生活と新しい孤独
少年の温かい手に包まれ、アキラは初めて「選ばれた」ことを実感した。ふわりとした毛布の上で寝息を聞きながら過ごす日々は、透明な檻では味わえなかった幸福だった。
しかし、それは長くは続かなかった。
新しいぬいぐるみたちが次々に部屋に現れ、アキラの存在は次第に薄れていった。
「僕はもう、この家にとって、たった一つの特別な存在じゃないのかもしれない。」
埃をかぶり、部屋の隅に置かれ日々。
少年の目は、新しいぬいぐるみへと向かい、アキラはただ静かにそれを見つめていた。
記憶の綻び - 少年との日々
埃にまみれた視界の奥、アキラはふと、柔らかな記憶の裂け目に引き込まれた。
それはまだ、新しい場所の匂いが残る頃のことだった。
少年の手は小さくて、けれど優しかった。不器用な指先がアキラの頭を撫で、何度もその名を呟いてくれた。
「アキラ」という音が、ぬいぐるみの心に初めて“自分”という輪郭を与えた瞬間だった。
夜になると、彼はアキラを抱えてベッドへ向かった。
「今日ね、学校でね——」
少年の声は眠気に滲みながら、昼間の出来事を一つ一つ紡いでいく。
アキラはただ黙って、それを聞いていた。けれど不思議と、それだけでよかった。
話し相手ではないかもしれない。でも、誰よりも近くで彼の一日を受け止められる存在だった。
ときどき、少年が涙をこぼす夜もあった。
「友達に…怒られたんだ。」
声は震え、手が強くアキラを握った。
その圧に込められた孤独と寂しさを、アキラは確かに感じていた。
言葉はなかったけれど、アキラはその夜、ぬいぐるみなりのやさしさで彼の隣に寄り添い続けた。
——あの時の体温、まだ覚えてる。
季節が過ぎて、棚に新しいぬいぐるみたちが並び始めた。
アキラは静かに居場所を譲ったけれど、それでも時折、少年の視線がふと自分に向けられる瞬間があった。
それは、どこか申し訳なさそうで、でも懐かしむような眼差し。
「アキラ…まだそこにいるんだね。」
少年がそう呟いたある日、アキラは自分がまだここにいてもいいのだと、ほんの少しだけ救われた気がした。
第五章 -忘れ去られたものたちの国
ある夜、アキラは夢を見た。
それは、「忘れられたものたちの国」。
薄暗い光の中で、リリとトルが静かに佇んでいた。
「ここが、私たちの新しい居場所になったの。」
リリが寂しげに微笑む。
トルは、古びた木箱に寄りかかりながら呟いた。
「意外と…悪くない場所だ。」
しかし、その目は遠くを見つめている。彼らは、記憶の中でしか生きられないものとなっていた。
アキラは夢を見ていた。
柔らかな光に包まれた野原で、リリとトルがこちらを向いて微笑んでいた。
「また会えたね、アキラ」
リリがそう言うと、風が優しくアキラの縫い目を撫でた。
「夢だと思うなよ」
とトルが言った。
「これはお前の中にある、確かな記憶だ。誰にも奪えない」
その言葉は、あの日と同じようにまっすぐで、けれど少しだけやさしかった。
「アキラ、覚えていてくれてありがとう」
リリがそっと手を差し伸べた。その手に触れた瞬間、アキラの胸の奥に、かすかな温もりが灯った。
失われたはずの時間が、また脈打ち始めるようだった。
「私たち、もう選ばれなくてもいいのかもしれない」
リリがそう呟いたとき、アキラは初めて、檻の外にある“自由”というものの輪郭を知った気がした。
第六章 -別れの箱
ある晴れた午後、部屋に差し込む光がやけに眩しく感じられた。
アキラは、棚の隅で静かに座っていた。
長い年月の中で、彼の毛並みは少し色褪せ、左耳には少年がつけた小さな縫い目が残っている。
少年は、もう“少年”ではなかった。
制服を脱ぎ、段ボール箱を床に並べている。部屋を片付け、新しい生活に向けて旅立つ準備をしているのだ。
「いらないものは、全部まとめて…」
彼は独り言のように呟いた。
古びた教科書、使わなくなったゲームソフト、埃をかぶったおもちゃたち。ひとつひとつ手に取り、ためらいながらも箱へと収めていく。
そして——
その手が、アキラに触れた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
「あ…」
彼は少し笑った。
懐かしさと、どこか遠い記憶を辿るような、そんな微笑だった。
「…覚えてるよ。アキラ。」
その名前を呼ばれたとき、アキラの胸の奥で、なにかが微かに震えた。もう何年も、誰にも呼ばれていなかったはずの、その名前。
「たくさん話しかけてたよな。あの頃は…」
彼の手が、アキラの頭を撫でる。あの頃と違ってずっと大きく、でもどこかぎこちない手。
「ごめんな、ずっと放ってて。」
そして——彼はアキラを、箱の縁にそっと置いた。
「でも、もう…手放してもいいのかもしれない。過去は過去だし。」
その言葉に、アキラの心が少しだけ軋んだ。
けれど次の瞬間、彼はしばらく黙ったままアキラを見つめていた。
そして、ふと、微笑んだ。
「…いや、やっぱり、まだちょっと無理だな。」
彼はアキラを再び手に取り、棚の上に戻した。
「持ってく。……一人暮らしの部屋に。」
そして静かに呟いた。
「きっとまだ、いてくれていいんだよな。」
アキラは、言葉を持たないぬいぐるみだった。
でもそのとき、確かに心の奥で、何かが柔らかくほどける音がした。
彼は、忘れていなかった。
アキラはただのモノではなく、誰かの寂しさと喜びを受け止めた、小さな記憶の守り手なのだ。
そして——新たな生活が、アキラと共に再び始まろうとしていた。
しかし、その生活は長くは続かなかった。
第六章 - 静かに忍び寄る影
一人暮らしの部屋の隅で、アキラは静かに時を重ねていた。
以前のように毎日抱きしめられることはなくなったが、それでも時折、疲れて帰ってきた彼が、ふとアキラの存在に気づき、優しく微笑んでくれることがあった。
ある夜、彼は珍しく早く帰宅し、アキラを手に取った。その表情はどこか憂いを帯びていた。
「最近、少し体がだるいんだ。」
彼はそう呟き、アキラを膝の上に置いた。その手は、以前よりも少し熱を持っているように感じた。
それからというもの、彼の体調は徐々に悪化していった。
最初はただの風邪だと思っていたようだが、咳は長引き、顔色も優れなくなっていった。
アキラはただ、彼のそばで静かに見守ることしかできなかった。
第七章 -病室の窓際で
少年は病室の窓辺で、青い空をぼんやりと見つめていた。
診断の瞬間から心に巣食った恐怖と絶望は、今も彼を締め付けている。
「あと少ししかない」
という医師の言葉は、彼の未来を閉ざす鍵のようだった。
少年が部屋に戻ると、いつものようにアキラが棚の隅で埃をまとっていた。
その姿を見た少年の胸には、言葉にならない思いがこみ上げた。
子供の頃、何度もアキラに話しかけ、温かい布団の中で抱きしめていた日々——
それは、遠い記憶の中に埋もれているようだった。
「アキラ…。」
少年はそっと彼を手に取った。
その触れ方には、かつてのような無邪気さはなく、どこかためらいがあった。
けれど、その小さなぬいぐるみを胸に抱いた瞬間、少年は不思議と心が少しだけ軽くなるのを感じた。
「最後くらい、一緒にいてくれないか。」
彼はアキラを胸元に抱き寄せ、ベッドに横たわった。
心音の静かなリズムの中、遠くで誰かが話す声や、モニターの電子音が微かに響いている。
窓の外には春の気配が漂っていた。花の匂い。優しい風。
生きている世界のすべてが、彼にはまぶしくて、そして少し切なかった。
アキラは何も言わない。ただ、そっと寄り添っているだけだった。
でもそれで、よかった。
「覚えてるか? あの頃、夜になるたびにさ、話しかけてたんだ。」
少年の声は少しかすれていた。
「君はいつも、黙って聞いてくれてた。……誰にも言えないことも、いっぱいあったのに。」
アキラの縫い目には、あの頃の涙と体温が、まだ残っていた。
やがて、少年のまぶたがゆっくりと閉じていく。
「ありがとう、アキラ……」
その声は、春風のように柔らかく、静かに空へと溶けていった。
第八章 - 永遠の光
少年の部屋に戻ると、そこにはかつてと変わらぬ静けさがあった。
だが、棚の上のアキラは、まるで彼の帰りを待っていたかのように、ほんのわずかに身体を傾けていた。
少年はそっと彼を手に取る。
「ただいま、アキラ。」
その声はかすれていたが、確かにそこには懐かしさと安らぎがあった。
ベッドに横たわりながら、少年はアキラを胸に抱いた。
「もう、たくさんのことを忘れてしまったけど……君のことだけは、忘れられなかったよ。」
アキラは何も答えない。ただ、綿の奥で彼の心臓の鼓動を聞きながら、そっと寄り添う。
窓の外には夕暮れの光が滲み、ゆっくりと部屋を黄金色に染めていく。
「アキラ、また一緒に夢を見てくれる?」
そう言って、少年は目を閉じた。
——そしてその夜、彼は夢の中で、かつての仲間たちと再会する。
広がる野原。淡い光。風に揺れる草。
リリが手を振り、トルが黙って頷いた。
アキラは少年の手を引きながら、静かに言った。
「さあ、行こう。檻の外には、まだ物語の続きがある。」
そして彼らは、透明な檻の外へ、永遠の記憶の地平へと歩き出した。
エピローグ -夢の檻の中で
風の音が、どこからか聞こえてくる。
懐かしい香りと、あたたかな光。
そこは世界のどこでもなく、ただ、誰かの心の奥にそっと浮かぶ景色だった。
アキラは、檻の中にいた。
けれどもう、ガラスはない。
鍵も、音も、影もない。 ただ光と、静けさと、ひとりの少年がいた。
「…アキラ。」
少年は、あの日のままの姿でそこに立っていた。
手にはぬいぐるみを抱え、柔らかく微笑んでいる。
アキラもまた、ゆっくりと少年に近づいていく。
歩けるはずのない足で、一歩一歩、音も立てずに。
「迎えにきたよ。」
その声に、アキラは頷いた気がした。
もう寒くも、痛くも、寂しくもなかった。
ここには、忘れ去られることも、選ばれることもない。
光の中、二人の影が、やがて一つに重なっていく。
世界は静かに回る。 命は過ぎ去り、記憶は風となり、想いだけが輪のように巡る。
これは夢か、幻か。
それとも――ふたたび出会うための、小さな輪廻のはじまりか。
ひととき、透明な檻の中で交わされた
「さようなら」が、
「またね」
と変わる。
そして誰も知らぬその場所で、 アキラと少年は、静かに眠りながら、新たな夢を見ていた。
そして彼らは、透明な檻の外へ、永遠の記憶の地平へと歩き出した。
少年は病室の窓辺で、青い空をぼんやりと見つめていた。
診断の瞬間から心に巣食った恐怖と絶望は、今も彼を締め付けていた。
けれど、その手の中には、柔らかな毛並みのぬいぐるみ——アキラがいた。
「ずっと、そばにいてくれたな…」
彼はそっと、アキラの頭を撫でた。指先に伝わる感触は、幼い頃の記憶そのままだった。
話しかけ、泣きながら抱きしめた夜。
笑顔で一緒に眠った日々。
アキラは一度も何も言わなかったけれど、彼のすべてを受け止めてくれていた。
「ありがとう、アキラ」
その声は、震えていた。けれど、それは悲しみではなく、何かを手放す決意のようだった。
彼は静かに、アキラを自分の胸元に抱いた。
「これから先、どうなるか分からない。でも、君がいたことだけは、絶対に忘れないよ。」
病室の光は優しく、淡く差し込んでいた。アキラのボタンの目は、その光を映し込んで、どこか遠くを見ているようだった。
——そして、夢の中で。
アキラは、再びあの野原に立っていた。リリが、トルが、優しく微笑んでいる。
「よく、ここまで来たね」
リリの声は、風に溶けるように優しい。 トルは何も言わなかったが、その目には、どこか誇らしげな光が宿っていた。
「君は、誰かの心にちゃんと生きたんだよ」
アキラの縫い目が、風に揺れた。胸の奥に灯るものがあった。
それは「存在した証」だった。
忘れられることも、手放されることも、きっと怖くない。
なぜなら、愛された記憶が、確かにここにあるから。
アキラは微笑んだ。言葉にならないほどの感謝を、心の奥で何度も繰り返しながら。
そして、静かに目を閉じた。
——透明な檻は、もうどこにもなかった。
そこには、ただ、やわらかな光の中を歩いていく、小さなぬいぐるみの姿があった。
——夢の檻は、もう誰の手にも届かない。けれど、想いだけが、いつまでもそこに在る。
完
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