本編
その日は、僕の十歳の誕生日だった。
王宮の大広間に鳴り響く音楽と、途切れぬ祝辞と、耳に心地よい拍手の波。
久々に揃った両親。静かでつまらない兄。そして僕。
列をなすのは、国の重鎮や他国の貴族たち。彼らは一人ずつ進み出ては、膝を折り、礼を尽くしていく。
僕は、豪奢な椅子に深く腰をかけていた。
頬杖をつき、つまらなさを隠す気もなく、わざと視線を逸らす。
挨拶なんて退屈だ。王子としてそこに“いるだけ”で十分だと、そう思っていた。
どれだけ時間が経ったのか。
退屈さえも通り越した頃、父の声が聞こえた。
「クラウス。お前に、これをやろう」
ふと顔を上げれば、父の足元に二人の男が跪いていた。
一人は、いつも父の傍にいる側近――グレイ・ヘルマン卿。
そしてもう一人は、見知らぬ少年。僕とそう年の変わらない年頃で、うつむいたまま顔は見えなかった。
「クラウス様。十歳の御誕辰、誠におめでとうございます。
些少ではございますが、心ばかりの品をお納めいたします――」
グレイ卿は淡々とそう告げた。
その“品”とは、今まさに頭を垂れている、彼――少年のことだった。
「……何それ?」
「お前の従者だ。今日からお前の側につかせる。グレイ家の長男、レオン。しっかり使うといい」
言葉が出なかった。
“プレゼント”と聞いていたのに、それが人?
「……おもちゃがよかった」
ぽつりと漏らした僕の言葉に、母が静かに視線を伏せた。
兄はただ、微かに息を吐いたようだった。
「レオン、顔を上げろ」
父の命で、少年が顔を上げた。
灰がかった銀髪。湖面のように澄んだ碧の瞳。
表情は静かすぎるほどに整っていて、その目には子どもらしさがなかった。
「……はじめまして、クラウス様」
年は、僕より三つ上――あとでそう聞いた。
その第一印象は、ただ一言。
なんて、つまらなそうなおもちゃ。
「僕の従者なら、命令が聞けるよね?」
「ご命令とあらば」
「じゃあ、今すぐ何か芸でも見せてよ。あと、そこにある僕が好きなケーキ。取ってきて」
わざと無茶を言った。
どうせこいつも僕の言いなりだ。自分の出世を考えるなら僕の命令を聞くしかないだろう。
でも彼は、まっすぐに僕を見据えて、静かに首を振った。
「……申し訳ありません。それは出来かねます」
「なんでっ?!」
僕が声を荒げたその瞬間、彼はぴたりと微動だにせず、こう言った。
「王子の品位を落とす命令には、従わないよう教育されています」
その場の空気が、一瞬にして張り詰めた。
音楽が遠くなった気がした。
「クラウス」
父の声が、わずかに低くなる。
「レオンはお前の“おもちゃ”ではない。よく考えて命令しろ」
お父様は一体僕の何を知っているって言うんだ。
悔しかった。言い返せなかった。
それよりも何も言わず、ただ見返してくる彼に、負けた気がした。
僕が睨んでも、彼はびくともしなかった。
彼の態度には、逆らう気配も、媚びる気配もなかった。
ただそこにいて、ただ僕を見る。まるで、それが当然のことのように。
こんなやつが“従者”なんて呼ばれてこの先、僕の側に置かれる。
それが、すごく、嫌だった。
そして――その嫌な予感は、残念なくらいよく当たった。
この日を境に、何もかもが自分の思い通りになると信じていた世界は、
彼の存在によって、少しずつ、確かに、崩れていくことになる。
あれから、世界は変わった。
3歳しか歳の違わない“従者”が、僕の一日をびっしりと管理してくる。
朝になれば勝手にカーテンを開け、夜になれば日記帳を閉じさせる。
ケーキは「一日一個まで」と言って奪っていくし、勉強をサボろうとすれば「今は学習の時間です」と机に戻される。
逃げ出そうとしたって無駄だ。
あいつは足が速いし、力も強い。バレないようにドアから出ても、廊下の角で待っている。
僕の世界は、間違いなく彼によって壊された。
だからって、誰かがそれを取り戻してくれるわけでもない。
皆、こう言うのだ。「レオン様に任せておけば安心です」と。
最悪だ。
僕には、従者なんて必要ないのに。
あんなの、従者じゃなくて監視役じゃないか。
やっぱりお父様は、僕のことをわかっていない。
僕はオルディナス王家の次男として生まれた。
兄であるアデルの“予備”としてこの世に出てきた存在。けれど、予備であることすら、誰も僕に求めていなかった。
周囲の大人たちは、何でも僕の言うことを聞いた。僕の機嫌をとって自分たちの出世につなげたいからだ。
大人たちは僕に甘く、優しく、しかし僕には興味を持たない。
だから僕は、わがままを言い続けた。
好き勝手をすれば、誰かが僕を特別扱いしてくれるかもしれないと――
そう思ってた。
でもレオンは、違った。
僕の言うことを聞かず、僕のすることを否定してくる。
今まで許されていたことを、あいつは決して許さない。
従者なんて、いらない。
そう思えば思うほど、彼の存在は強く、否応なく僕の目の前に現れる。
その日も、僕はレオンから逃げていた。
今日はどうしても、勉強なんかしたくない気分だったのに、あいつは涼しい顔で「やりましょう」とか言って、机に僕を縛り付けようとしてくるのだ。
――冗談じゃない。
逃げ回る王宮に、怒声が響き渡った。
「クラウスぼっちゃま――!!」
メイド長の怒鳴り声が、まるで雷のように大階段を震わせる。
どうやら今、僕は“大階段の花瓶を割った犯人”にされているらしい。
けれど身に覚えはない。僕じゃない。断じて違う。
だがそんなの、どうせ信じてもらえるはずがなかった。
メイド長の声は怒気に満ち、使用人たちを引き連れて僕を探していた。
僕は廊下のカーテンの影に隠れ、息を潜める。
これまで何度か逃げおおせたことがある。今回も、うまくやれば――
「坊ちゃんはいらっしゃいましたか、メイド長」
衛兵の声が聞こえる。どうやら合流してきたようだ。
「いいえ。まったくもう、まさか花瓶を割られるなんて。
アデル様が同じ年の時はもっと大人でしたのに」
使用人たちの僕の前では見せない本音をよそに隠れていた。
そのときだった。
まさかあいつが現れた。
「クラウス様は、そのようなことをなさるお方ではありません」
静かな声だった。けれど、それだけで空気が変わるのがわかった。
「……貴方は、グレイ卿の……」
「レオン・グレイと申します。先日よりクラウス様の従者を務めております」
「ああ、そうでしたわね……」
メイド長の視線がわずかに泳ぐ。
さっきまでの勢いは、どこかへ引っ込んでしまったようだった。
「とはいえ、坊ちゃまのことです。何かの拍子に花瓶に――」
「花瓶が割られたというその時間、クラウス様は私と共に書庫におられました。
第三閲覧室の帳簿にも、その記録があります」
ぴたりと、言葉が止まった。
「それに、クラウス様は、自らの非を認め、謝罪できるお方です。
罪のないことに責任を被るような真似は、決してなさいません。」
「……従者であるあなたが言うなら………随分とクラウス様のことをお知りなのですね?」
「従者として当然の務めです」
さらりと、静かに。けれどその一言は、何より重たく響いた。
メイド長はぎこちなく頭を下げ、衛兵を伴って足早に去っていった。
カーテンの陰で、僕は小さく息をついた。
――なんなんだよ、あいつ。
僕が何をどうしてきたかなんて、知らないくせに。
でも、少しだけ。
少しだけ、胸の奥があたたかくなったのは確かだった。
「……クラウス様。そろそろ、そこから出ていただけますか?」
ビクリ、と肩が跳ねる。
カーテン越しに聞こえた声に、僕は口をとがらせた。
「……なんでわかったの」
「坊ちゃまの息づかいは、大変個性的ですので」
バッとカーテンを開けると、そこには、いつも通りの無表情――
に見えて、ほんの少しだけ口元を緩めた様に見えるレオンがいた。
「ちょっと! バカにしてるの!? もう、見つけないでって言ったじゃん!!」
「言われた覚えはありませんが」
「うっさい!」
怒鳴って、走り出す。
なんだよ、あいつ。
……なんで、ちょっとだけ顔が熱いんだよ。
それが悔しくて、また僕は走った。
けれど、どこか――悪くない気分だった。
「……もう、やんない」
クラウスは机に突っ伏したまま、ぶすっとした声を漏らした。
目の前に広がる地理の教本には、赤い訂正線が無数に走っている。
わかりやすく言えば――惨敗だった。
「あと二問だけです。ここまで来たのですから、もうひと頑張りしましょう」
隣に座るレオンが、相変わらず淡々とした口調で言う。
「いやだってば」
「さっきより正解率は上がっていますよ」
「“ゼロが一個”になっただけじゃん」
クラウスが睨むように言うと、レオンは淡々としたまま答える。
「どうせ全部覚えたって、実際に行くことなんてできないのに」
「陛下からの許可があれば、地方巡察にご同行いただける可能性はあります」
「でも、今じゃないでしょ?」
「“今じゃない”ことを積み重ねると、“一生できない”になります」
その言葉に、クラウスは眉をひそめる。
「……それ、ヘルマンの受け売りでしょ」
レオンは一瞬だけ沈黙し、静かに認めた。
「ええ。父は、少々口うるさいので」
「レオンも、充分うるさいけどね」
そう言い返すと、レオンは少しだけ困ったように首を傾げた。
その仕草が、なんだか、ちょっとだけ――おかしかった。
やっと二問を終えると、クラウスは大きく息を吐いて、頬を机に乗せた。
窓の外には薄雲が流れ、どこか遠くから風の音が聞こえてくる。
「ねえ、レオン」
「はい」
「レオンって、感情あるの?」
「……え?」
「俺を怒るときもいつも無表情だし。笑ったり泣いたりすることとかって、あるのかなって……」
問いにレオンは少しだけ黙って、視線を窓の外に向けた。
静かな、長い間。
「……もちろん、私も人間ですから。個人的に思うことはたくさんあります。ただ、それを相手に悟られないよう教育されていますので」
「教育って……やっぱりヘルマンは厳しいの?」
「えぇ。ゲイン家に生まれた者は皆、王家の方々にその一生を捧げるよう、幼い頃から教え込まれますから」
そこでレオンは、少しだけ肩をすくめる。
「きっと、クラウス様が受けられたら、一日も持たないでしょうね」
「……いやだった? まして兄様じゃなくて、僕だし……」
吐き出すような問いに、レオンはまた、少しだけ黙った。
そして、静かに言った。
「……正直、二度とあれを受けたくはありませんね」
クラウスの胸の奥で、何かがひりつく。
――聞くんじゃなかった。そんなふうに、少しだけ後悔する。
「しかし、今はそうは思いません」
「……え?」
思わず顔を上げる。
レオンの声は、まっすぐだった。
「クラウス様にお仕えできるなら、何度だって受けますよ」
探るよりも先に、レオンがふっと目を細めた。
それは、今まで見たどんな表情よりも――ずるい笑顔だった。
「……ずるい」
「え?」
「なんでもないっ!」
クラウスは勢いよく立ち上がり、ばたばたと音を立てて部屋の扉に向かう。
背中に、レオンの小さな笑い声が追いかけてきた。
それが、どうにも悔しい。
――でも。
胸の奥がふわりと浮いたのも、たしかだった。
「クラウス様、お休みをいただいた本日、私の代わりに騎士が参りますので、よろしくお願いいたします」
「……ふーん」
返事はしたけれど、全然“よろしく”なんか思っていなかった。
三日前、レオンが初めて休暇を申請してきた。何でも彼の父ヘルマンから呼び出されたようだ。
その代わりに来たのはギルバートという騎士で、俺の言うことを何でも聞いた。ケーキを三つ食べても怒らないし、勉強時間をすっ飛ばして外に遊びに行っても何も言わない。
昔なら、それが“理想の従者”だったはずなのに、今はぜんぜん楽しくなかった。
庭のカウチに腰掛け、おやつをつまみながら、空っぽの気持ちでぼんやりとしていた。
「……レオンは、どこ行ってんの?」
とうとう我慢できなくなって訊いた。
「訓練場にて、グレイ卿と面会とのことです。本日は終日戻られないと伺っております」
「……ふーん」
また、ふーん。最近こればっかりだ。
べつに、どうでもいいと思ってたはずなのに。
「クラウス様、午後からは弓術訓練の――」
「もうやんない。疲れた」
「……左様ですか」
時間がぽっかり空いた午後。図書室へ向かうことにした。
授業のふりをして本を抱えたまま、裏庭の見える窓辺に立つ。ふと、視線の先に人影を見つけた。
そこにいたのは、レオン――だけじゃなかった。
隣には、兄様がいた。
アデル兄様。第一王子。完璧で、静かで、僕のことなんてほとんど気にかけない人。
その兄様が、レオンと剣を交えながら話していた。しかも、笑って。
レオンも笑っていた。
あんな自然な笑顔、初めて見た。僕には一度も向けられたことのない表情で。
……ずるい。
そんな関係だったの? 最初から。
家柄も近くて、年も近くて、わざわざ休暇を取って手合わせするほどの仲で。
僕なんかより、ずっと“近い”。
――だったら、どうして僕の従者なんかやってるの?
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられた。
どうしてあんな顔、僕には見せないんだ。
僕には叱ってばかりで、仕事みたいに接するのに。
兄様には、あんな優しい顔で。
「……なんだ。やっぱり、そっち側だったんだ」
吐き出すように呟いた声は、驚くほど冷たかった。
レオンがこちらを振り返った気がした。でも、すぐに本を閉じて窓から離れた。
見られたかもしれない。でも、どうでもよかった。――いや、全然よくなんかなかったけど。
どうせ、僕なんか、誰の“特別”でもない。
ちょっと優しくされたからって、勘違いしてた。馬鹿みたいだ。
その日はクラウス様にお願いして、一日だけの休暇をいただいた。
我が父――ヘルマン・グレイスから、彼の元へ訪ねるよう命じられたためである。
彼の執務室を訪ねると、そこには思いがけぬ人物がいた。
金糸のような髪を背に流し、飾り気のない笑みを湛えたその青年――
第一王子、アデル・オルディナス殿下である。
「やあ、レオン。驚かせたかな?」
「お久しぶりです、アデル様。」
「……相変わらずの無表情だね。」
「……ごほん。アデル様、本題に移りましょう。」
「はは、そうだったね。ヘルマン、本題に入ろうか。」
アデル様が姿勢を正し、視線を鋭く向けた瞬間、部屋の空気が一変する。
さながら刃を帯びた風が、背筋を撫でるかのようだった。
「レオン、僕の従者にならないかい?」
その一言に、さすがの私も瞠目する。
「……大変申し訳ありませんが、私はクラウス様に仕えております。」
「それを承知の上での話さ。グレイ家最高の逸材と名高い君だ、ぜひとも我が側に欲しい。――クラウスには、正直もったいない。」
その瞳には微笑を湛えているのに、底が見えない。
――アデル様の真意は、読めなかった。
「これは命令だ、レオン・グレイス。」
「……。重ねて申し上げます。私の主は、クラウス様ただお一人です。」
「レオン・グレイス。王子の命に背くというのか。」
「…………。」
沈黙。
だがその沈黙は、言葉より雄弁だった。
そして次の瞬間、アデル様が唐突に口を開く。
「そうだ! こういうときは――決闘だよ!」
「アデル様! そのようなご無体な……!」
父ヘルマンがたまらず声を上げる。
「なに、ヘルマン。君は僕の言葉に従えないのかい?」
「……いいえ、アデル様。ただ、万が一にも御身に何かあれば、国の一大事にございます。」
「レオンはグレイ家の“最高傑作”なのだろう? ならば試してみる価値はあるさ。」
「…………。」
「よし、決まりだ。レオン――表に出よう。」
「……御意。」
やれやれ、とでも言いたげな父の視線を背に、私は静かに剣を手に取った。
我が父ヘルマンを、ここまで堂々と扱えるのは――アデル様と国王陛下くらいのものだろう。
陽光が鋼を照らし、白砂に長い影を落としていた。
アデル様はすでに上着を脱ぎ捨て、薄手のシャツ姿で立っている。
陽を受けて輝くその肌、鍛えられた肉体は、王族とは思えぬ実戦の香りを帯びていた。
周囲に集まった騎士たちも、その尋常ならざる気配に言葉を失っている。
「手加減はいらないよ、レオン。僕がどれだけ本気か、証明してみせる。」
「……了解いたしました。」
私は剣を抜く。
鋼の刀身が太陽の光を弾き、音もなく空気を裂いた。
「――始め!」
号令と同時に、アデル様が動く。
踏み込みは俊敏で、剣の軌道には一寸の淀みもない――まさに王家の剣筋、美の体現。
しかし私は退かない。
打ち込まれた刃を真っ向から受け止め、その反動を利用して間合いを詰める。
鋭く放った一突きが、アデル様の肩先を掠めた。
「ほう……さすがだね。」
アデル様が微笑み、剣を振るう。
今度は連撃――三手、四手、五手と続く剣閃が、容赦なく襲い掛かる。
力と速さ、技と経験。
そのどれもが王子としてではなく、一人の剣士として研ぎ澄まされたものだった。
私は最小限の動きでそれらをいなす。
そして機を見て足払い――だがアデル様はそれを予測していたかのように宙を舞い、身を捻って回避する。
「やるじゃないか……! これは僕の負けかもな。」
「……まだ、終わっていません。」
互いに距離を取り、呼吸を整える。
――次で、終わる。
そう、互いに理解していた。
「――来い、レオン!」
「――失礼します。」
その瞬間、剣が閃いた。
鋼と鋼が激突し、火花が舞う。
光の幕が一瞬、二人を包んだかと思うと――
静寂の中、アデル様の喉元に私の剣が突きつけられていた。
「勝負あり! レオン・グレイの勝ち!」
審判の声が静かに響き渡る。
アデル様は一瞬目を見開いたが――次の瞬間、愉快そうに笑い出した。
「……ふふっ、覚悟は決まったかな、レオン・グレイ?」
「はい。我が身に代えても、クラウス様をお守りいたします。」
「……あはははは。――はあ、疲れた。その言葉を聞けて、よかったよ。」
そして、少しだけ寂しげに目を細める。
「よろしくね、俺の弟を。」
その言葉に、ふとクラウス様の面影が脳裏に浮かぶ。
気づけば、口元に自然と笑みがこぼれていた。
――この身に誓おう。
たとえ何があろうと、あの方を決して離さぬと
次の日、僕はレオンと一言も話さなかった。
目も合わせなかった。
何を言われても、口を閉ざした。
レオンはいつも通りで、それがまた、腹立たしかった。
「クラウス様、午後の課題はこちらを――」
「自分でやる」
「では、途中で分からないところがあれば――」
「分かんなくても聞かないから」
突き放すように言い切った。
レオンは少し俯いて、何も言わなかった。
分かってる。そんな言い方しなくてよかったって。
でも、優しくされる方がつらい。
あの時の笑顔が、ずっと頭から離れない。
それから数日、沈黙は続いた。
いつもなら「ちゃんとこちらを見てください」って言うくせに、今は何も言ってこない。
僕のことなんて、もうどうでもいいのかもしれない。
わかんない。
こんなレオン、初めてだった。
その夜、僕はそっと王宮を抜け出した。
衛兵の巡回ルートも、裏門の鍵も、全部覚えていた。
逃げるつもりじゃなかった。
ほんの少しだけ、誰かが僕を探してくれたら――そう思っただけだった。
でも、外の世界は冷たかった。
石畳の音も、夜風の音も、すべてが異質で怖かった。
まさか、その背後に、“何者か”の影が迫っていたなんて、思いもしなかった――。
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
視界は暗く、空気は湿っていた。縛られた手首がじんじんと痛む。
身体が冷えて、唇が震えた。
「……どうせ、僕がいなくたって困らないんでしょ」
誰にともなく呟いた声は、虚しく空気に溶けていく。
ふと、レオンの顔が、浮かんだ。
僕以外の人が見たら無表情に見えるだろうが僕にはわかる。
怒ったとき、諭すとき、少し呆れたように笑ったとき。
そのすべてが、自分に向けられたものだった。
なのに――。
『兄様と、仲良さそうにしてた』
『僕には、あんな顔しなかった』
そんなことで、突き放した。
自分の幼さが、今になって突き刺さってくる。
扉が軋んで開き、足音が近づく。
長いコートを引きずり、口元にいやらしい笑みを浮かべた男が、しゃがみ込んで僕を見下ろした。
「起きてんだろ、王子様」
「……何のつもりだ」
平然を装った声。けれど後ろに結ばれた両の手は震えていた。
男は、楽しげに書類の束を取り出して、ひらひらと目の前で振った。
「“王族の子息を引き渡す”って条件で、手付け金もらってんだ。あとは迎えが来るだけ」
「……人を、売るのかよ……」
「お前ら王族がどれだけの国民を貴族の“都合”で動かしてきたか、知らねぇとは言わせねぇぞ」
目が、まったく笑っていない。
「今夜中に“買い手”が来る。それまで、いい子に震えてな」
そう言い残して、男は部屋を後にした。
あと数時間で、僕は売られる。
笑い飛ばせるほどの強さは、僕にはなかった。
ただ、レオンの声が頭の中で繰り返されていた。
「クラウス様」
最初に呼ばれたときの声。
感情が感じられなくて、でもはっきりと“僕”を認識していた。
なんかムカついたけど、すごく……ちゃんと届いていた。
……それが最後の記憶でも、いいかもしれない。
そう思った瞬間――
「クラウス様!!」
耳に届いた声に、心臓が跳ねた。
でも、信じたくなかった。
「クラウス様、いらっしゃいますか! 返事を!」
――まさか。
この声は、知ってる。
どんなときでも冷静で、僕を見てくれる――
「……レオン……?」
掠れた声が、自分でも驚くほど弱かった。
「クラウス様!」
扉が蹴り開けられ、粉塵が舞う中――
剣を構えたレオンが、血まみれで立っていた。
「お怪我は!? すぐ、ここから――!」
「……なんで来たの……」
口をついて出た疑問に、レオンは目を見開いた。
「僕……ひどいこと言ったのに……あんな態度とったのに……」
「貴方様がおいでくださらなければ、私は……生きている意味がありません」
「……っ、うそつき……!」
その胸に顔を埋め、涙が止まらなかった。
体の震えも、心の叫びも、レオンの腕の中でようやく溶けていく。
誰かに、“一番”にされたことなんてなかった。
でも、今は違う。
この人は、僕を見つけてくれた。
命がけで。
「クラウス様、私の後ろへ――!」
レオンが叫ぶと同時に、扉が破られ、男たちがなだれ込んできた。
「たった一人かよ!」
「殺すな、拘束しろ!」
レオンは剣を構え、僕の前に立ちふさがる。
「援軍は近くまで来ているはずです。クラウス様、どうか動かないで」
剣が火花を散らす。
次々と襲いかかる男たちを、レオンは1人で相手にした。
血が飛び、傷が増えていく。
それでも、剣は一度も落ちなかった。
「もうやめて、俺はどうなってもいいから……!」
僕が叫ぶと、レオンは一瞬だけ振り返って言った。
「貴方様だけは、絶対に誰にも奪わせない――!」
その背中は、傷だらけで、でもすごく大きくて、強かった。
「お願い……早く、誰か……!」
その祈りに応えるように、怒号が響いた。
「王宮近衛兵だ!! 武器を捨てろ!」
男たちが怯んだ隙に、近衛兵たちが突入してきた。
レオンはその場に座り込んだ。
血まみれで、それでも、僕だけを見ていた。
「……ばか」
僕はその腕に飛び込んだ。
「死んじゃうかと思った……!」
「……死ぬわけないでしょう」
「……レオンがいないと、僕、どうしたらいいかわからないんだ」
返事は、ぎゅっと強く抱きしめてくれる腕だった。
――明け方、僕たちは王宮に戻った。
レオンはその途中で意識を失った。
僕はずっと手を握っていた。暖かさが消えたら、怖かったから。
そして日を待たずに開かれた、審問。
「王子をあのような目に遭わせるとは!」
「従者の監督不行き届き!」
「王子を守る立場にありながら、任を離れた罪は重い!」
レオンは、椅子に座ったまま、何も言わなかった。
「ヘルマン・グレイ卿。あなたは御子息の行動をどうお考えですか?」
父親は静かに言った。
「すべて、従者であるレオン・グレイの責任。そしてその監督者である私めにも罰を――」
その瞬間だった。
「待て!!」
僕の声が、大広間に響いた。
「彼を罰するなんて、絶対に違う!」
全員が、僕を見た。
いつもは僕のことなんて見ない人たちからのたくさんの視線に少し怖くなった。
しかし僕は、逃げなかった。
「命をかけて僕…、いや、俺を守ってくれた人だ。誰よりも忠義を尽くした、俺の……たったひとりの味方だ」
「それでも命令を待たずに動いたのは――」
「じゃあ、俺が命令したことにする」
レオンが口を開こうとしたけれど、僕はそれを遮った。
「王子の命令に背くか?」
しんと、静まり返った空気の中で、僕は言い切った。
「これ以上彼に責任を追及するなら、俺はすべての立場を捨ててでも、レオンを守ろう!」
その一言で、空気が変わった。
誰も、何も言えなくなった。
レオンは、小さく呟いた。
「……過ぎた忠誠です」
「違う。これが、本当の“従者と王子”でしょ」
そのとき、レオンが――ほんの少しだけ、笑った。
他の人には無表情に見えるだろう、それでいい、彼の笑顔は俺だけが見れればいいのだ。
それは、今まで見たどの笑顔よりもうれしかった。
こうして、彼は罪に問われることなく、僕の傍に残ることが許された。
それからの日々。
俺は変わった。
わがままを言わずに、自分から稽古に励んだ。
「この国を、自分で守れるようになりたい」と、本気で思った。
全部、レオンの背中を見たから。
「……クラウス様。最近、随分と優等生ですね」
「うるさい。そっちが変な影響与えるからだろ」
「そう言っていただけるなら、光栄です」
「……でもひとつだけ、変わってないから」
「はい?」
「レオンがいないと、俺は落ち着かない」
「……それは」
「ずっとそばにいてよ。命令だから」
「……従いましょう。王子様の命令ですから」
世界でいちばん強くて、
世界でいちばん、優しい僕の従者。
これからもずっと、
僕の一番でいてください。
【BL】僕が誰かの“特別”になれた日 @papipupepoppo
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