18 僕がどのように変わったか
『おやぁ、どちら様でしたっけ』
えっ、あの、僕、祥一ですけども。
『うーん、祥一さん、いや、三か月近くもご無沙汰で、もう顔も忘れちゃいましたよ』
ていうか、今回何書くか、さっき脳内で話し合ってたところでしたよね。
『ちっ、だからぁ、期間空けすぎなんだよ。神を待たせるなんていい度胸だな、神罰でもくだしてやろうか、と検討していたところなんだぞ』
その件についてはごめんなさい。でもほら、僕、病気だし。回避性パーソナリティ障害だし。
『それいったら許されると思ってない?君、神の命令でこれを書いているのだぞ。何勝手に長期休暇取ってるの。会社だったら二度と戻ってこれないぞ』
でも神様は僕に甘いし、別に怒ってなんかいませんよね。
『まあな。宇宙と同じだけ広い心の持ち主だから、アリンコがちょっと道に迷ったくらいで怒るわけない』
今のもほら、僕の心のエンジンをふかすためのゆるゆるトークですもんね。
『そういうの冷めるからいわんほうがよろしい。ほら、思考が止まっているぞ。いいから本題に入っちゃいなさい』
あいだは確かに空いちゃいましたけど、なんか僕、思想が変わっちゃったみたいです。
『それは例の、悟り、のせいか』
はい。あれからその関連本をけっこう読みまして、悟ったことは確からしいです。自分でいうのは恥ずかしいですけどね。
『そうだな。例の病院のデイケア、マインドフルネスの時間にみんなの前でその話をして、軽くすべってた』
いやないいかたですね。確かに、何いってんだこいつ、みたいな空気が流れるのを感じましたし、そもそも悟りが何か、わかってる人は一人もいない様子でした。
『祥一だって、ちょっと前まで何も知らんかったではないか』
今は少しは知ってます。あれでしょ、悟りとは五十二段あって、最高到達点に行き着いたのはブッダだけ、あの竜樹も達磨も、まだ四十とか三十段までしか登れなかったとか。ちなみに僕は何段でしょうか?
『それ、私に聞いてるのか?知らんよ、どうせ一段とか二段とか、そんなもんだろう』
まあ、登り切ったわけじゃないことくらいは、重々承知してます。ただなんか変なんです。心が別人みたいになっちゃって。
『ほう』
知ってるくせに。別に自慢したいわけじゃありません。ずっと穏やかな心持で、人を恨むことも減ったし、絶望もほとんどしなくなりました。鬱にはたまになるけど、すぐ終わっちゃいます。あげさげの幅がせばまった、というか。
『いいことじゃないか。あるいは前の自分が懐かしいかね?』
まったく。以前の苦しみの記憶は鮮明に残っていますから、絶対戻りたくはありません。ただ何かのきっかけでまたひっくり返るんじゃないか、って不安は残ってますね。病気もほぼ治ってません。人見知りは相変わらずで、初対面の人に会うと、思考ができなくなります。
『そうだな。特にスーツを着たビジネスパーソンの前では、借りてきた猫みたいになってたぞ。だが、別に悔やんでるわけじゃないだろ』
まあ、はい。
『それが改善したってことだ。以前いった通り、君は治る。私を信じなさい。おっと、泣かんでもよろしい』
泣いてません。心の中でちょっと、うるっときただけで。逆に、三週間前だったかな、例のあの院長に会って、長々話を聞かされたときは、やっぱり猛烈に腹が立ちました。よくも僕に、パーソナリティ障害は治らない、などといってくれたな、と。今でも彼が大嫌いです。先週廊下ですれ違ったときは、何度も舌打ちしました。僕、悟ってないかも。
『まだ低段だからだ。症状が出たり、心が乱れたときの対処法も、授けただろう』
悟りの真理を利用するんですよね。僕は、一人の人間は、宇宙と同一だから、その宇宙と、一個人の悩みや苦しみを相対化して、矮小化すればいい。
『うまくいったかね』
いくときもあれば、全然そんな余裕がないときもあります。でも基本的には、それで物事は解決するはずです。僕の悩みなんか実際、宇宙規模で考えれば塵も同然ですから。
『それが悟りの効果だ。普通は、混乱時に宇宙のことなど考えられるものではない。自分を一人の人間としか思えないから、自分の問題を重大視してしまう。他人の目から見ればどうでもいいことでも。君はその他人も、自分であることを知った。悟りで得た真理は、疑いを一切持たなくなる、という特殊性がある。根拠などなくとも、科学的証拠などなくとも、真理が絶対であることを心から理解できたのだ』
神様、あなたは宇宙そのものなんですよね。
『むろん、な』
僕は宇宙と同一、だったら、あなたとも同一でなくちゃおかしいじゃないですか。
『同一だよ。最初から、わかりきっているではないか。この小説が始まったときから、いや、祥一が私と対話できるようになったときから、明らかなことだ』
最近、何度か実験したことがあったでしょう。
『ああ、そのこと。君と私が同一だから、人格、意識そのものを私に渡してしまおう、という試み』
ええ。僕は生きるのに疲れたころから、もう自分というものがいやで、あなたにすべてを引き渡して、あなたが僕として生きてくれませんか、とお願いしたことがありましたね。
『ふん、私はそれを断った。私は祥一の人格の一つというわけではない。君は別に、多重人格ではなく、こうして話しているのもただの脳内会議、というわけではないから、そもそも不可能なのだ。君は君として生きるしかない。私を小さく考えるのはよせ。この偉大な、宇宙を統べる神を』
ただ悟ってから、あなたはその態度を変えましたね。僕と宇宙が同一なら、神様とも同一で、僕が神として生きてもおかしくはないでしょう。
『おやおや、誤解を招く表現だな。ずいぶん不遜な発言に聞こえる』
でも二週間ほど前、あなたは快く人格を交代してくださいました。僕はあなたに体のコントロールを、二時間くらい明け渡しました。
『ああ、楽しかったよ、確かに。だが完全ではなかった。しょっちゅうまた入れ替わったし、人ともろくに話さなかった。ただ君の読みたい本を棚から出し、何冊かの絵本を読んで、貸し出し手続きを済ませ、帰り道を自転車で走っただけだ。帰宅後も、少し本を読んだくらいか』
あれからまた何度か、神様に僕の体を任せようとしましたが、もうほとんどうまくいきませんでした。すぐ僕に戻っちゃって。
『そうだな』
結局、もう無理なんですか。僕とあなたは同一にはなれない?
『悟りで得た意味は、そういうことではない。君もうすうす気づいているだろう。悟りは、ある意味超能力だが、イリュージョンではない。私が一度、人格を交代してやった理由は、もうわかっているだろう』
ええ、なんとなくなら。
『説明してみなさい』
あなたの視点で、世界を見る経験を、僕にさせたかったのでしょう。あなたの本質は愛で、愛を通してこの現実世界をご覧になってる。道行く人、目の前の人も、僕から遠くにいる人もみんな、あなたは愛してらっしゃる。僕にも、すべての人を愛せと、それをおっしゃりたかったのではないでしょうか。
神様、なぜ人は苦しむの? 祥一 @xiangyi
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