蜘蛛助と蜘蛛子の温泉
キジトラタマ
第1話
とある温泉地にある公衆浴場の立て看板に、
そんなある日の、夕刻。
夫婦が暮らすクモの巣に、一匹の
近くにいた
「お、おい。やめろ。待ってくれ」
しかし
「待て、お願いだ。見逃してくれ」
「すまんが、それはできねえ」
「お、おい。待て。奥方殿は、具合が悪いのではねえか」
すると
「何を、言うておる」
「
「適当なことなど、言うてはおらぬ。のう、奥方殿」
しかしどこか、様子がおかしいようです。
「
「え…、ええ。実は…」
「お腹が重すぎて、8本の脚を上手く動かせないのです。パンパンに張ってしまって…」
「なんとっ!」
実は
「それ見ろ」
「そこで、提案なんじゃがのう」
動揺する
「…何だ。言ってみろ」
「まずわしの名は、
一般的には、公衆浴場と呼ばれる建物です。
「ほお」
「おぬし、あの建物が何か、知っておるか」
「いいや、知らぬ」
「お前たちがいる、この立て看板を見てみよ。ここには、『スパ・フジミ』と書かれてある」
「すぱ、ふじみ、…とな」
「そうだ。スパというのは聖なる熱泉、そしてフジミとは、死なぬ体という意味じゃ。つまりこの建物の中には、不死を実現する、聖なる熱泉があるのじゃ」
「な、なんと。不死だと。それは、本当なのか」
すぐ近くに巣を張っていた
「まあ、不死は言い過ぎじゃがの。熱泉を飲めば、寿命が延びるといわれておる。ほれ、あそこから出て来る人間どもを、見てみろ。みんな活き活きしておるじゃろ」
ちょうど、初老の男性が屋内から出て来ました。
男性は頬をほんのり赤く染め、上機嫌に鼻歌を歌っています。
とても血色がよく、活き活きしています。
手にする『TWO CUP OZAKI』と書かれたグラスを口へ運ぶと、さらにテンションが上がります。
「なんと…」
そのウッキウキな姿を見た
「おぬしも知っての通り、ジョロウグモの母は、子グモが外界へ出る前に命尽きるケースが少のうない。奥方殿は超多卵妊娠のようじゃから、ともすれば産卵後、すぐに命尽きるやも知れぬぞ」
「まあ…」
ジョロウグモの母は産卵後、糸で卵のうを作り、その上に覆いかぶさって保護を行います。しかし、子グモが外界へ出る前に命尽きる母は、実際少なくありません。
「おぬし、奥方殿のために、熱泉を取りに行きたくはないか」
「熱泉を…。それを飲めば、
「間違いない。わしを信じろ」
「しかし…。一体どうやって、そんなところまで…」
それは、無理難題な話でした。
現在いる立て看板から建物内まで移動するのは、簡単ではありません。
「わしを解放してくれたら、おぬしを背中に乗っけて、中まで運んでやるぞ」
「うむむ…」
たとえ
「
「だが、お前をひとりにするのは…」
「わたくしの事なら、心配いりません。子供たちの旅立ちを見届けられるのなら、わたくしは喜んで、
産卵までは、あと2日。
実は
「お願いします。
「…よし。わかった」
すべては愛する妻と、生まれて来る子供たちのため。
「よっしゃあ!ならば、善は急げじゃ。今すぐ、出立するぞ」
早く解放しろと言わんばかりに、羽をばたつかせます。
「さあ。とっとと、わしの背中に乗れや」
「お、おう」
急かされ、
ジョロウグモのメスは、体長20~40mmほどと大きく、外見も黒と黄色の縞模様があって派手ですが、オスは地味。
蜘蛛助も、体長6mm程度と小柄です。蛾の背中に乗るのは、難しくありません。
「では、
「はい。お待ち申し上げております」
「それじゃあ、行くぜ!」
「おう」
二匹は、飛び立ちました。
スパ・フジミの、建物へ向かいます。
「
「な、何だと。話が、違うではないか」
「入り口付近には殺虫機と呼ばれる、恐ろしい兵器が取り付けられておってのう。出るのは簡単じゃが、入るのは難しい。だからわしは、おぬしを人間の頭上に落とす」
「人間の頭上、だと」
「そうじゃ。毛髪の中に身を潜めろ。おぬしの大きさなら、バレん。ただ、頭以外へは絶対に行くなよ。やつらは熱泉の間へ入る前に、生まれたままの姿になるからな。いいな」
「わ…、わかった」
「次に、熱泉の間へ入ったあとの説明をいたす。元来、熱泉の間はユケムリと呼ばれる、聖なる白い煙で満たされておる」
「ユケムリ」
「ユケムリを感じたら、毛髪の外へ出ろ。そして辺りを見渡せ。そこから、フジサンと呼ばれる、雄大な山が見えるハズじゃ」
「フジサン」
「熱泉が湧いておるのは、そのフジサンの麓じゃ。人間どもはたいてい、肩の辺りから熱泉を体にぶっ掛ける。だからお前はその際に、飛び散った熱泉の
「なるほど。了解した」
「よし。わしは、ここで待っておる。出て来たら迎えに来てやるから、また背中に飛び乗れ」
「わかった。恩にきる」
そして
「グッドラ~ック」
見届けた
男性が屋内へ入ると、満面の笑みで、どこかへ飛び去って行きます。
まるでもう、戻って来るつもりは、ないかのように…。
◇◇◇
無事、建物内への進入に成功した、
男性の毛髪内に身を潜め、順調に熱泉の間までたどり着くことができました。
そしてユケムリと呼ばれる聖なる白い煙を感じ取り、毛髪の外へ出ます。
そこは見たこともない、不思議な場所でした。
周囲を見渡すと、泡だらけになった人間どもが、そこかしこにいます。
そして真正面に、雄大な山がそびえ立っています。
(おっ。あの山が、フジサンとやらだな)
人間たちが熱泉につかり、気持ち良さそうにしています。
(なんとまあ。人間どもの、贅沢なことよ)
聖なる熱泉に身を浸す人間たちに呆れつつも、
(この聖なる熱泉を持ち帰って、
頭に
腰をかがめると、側にあった木桶を手に取り、熱泉に沈めました。
男性はこれから、聖なる熱泉を体にぶっ掛けようとしています。
チャンスです。
ちなみに木桶には、『
スパ・フジミは、富士見旅館が経営しているようです。
(よし)
飛び散った
そして、次の瞬間でした。
バシャ――――――――――――――――――――ンッッ!!!
男性は肩からではなく、頭から熱泉をかぶりました。
それは、一瞬の出来事でした。
続けてもう一度、同じ動作を繰り返します。
そして、木桶を傍らに置きました。
「ふうううあああああああ」
男性は犬のように頭を振ると、気持ち良さそうに、室内に声を響かせます。
一息ついた男性が、立ち上がります。
その時ふと、足裏に何か違和感を覚えたようでした。
男性は足を上げ、床にある何かを、じっと見つめています。
そしてもう一度木桶を手に取ると、熱泉で、足元の何かを流しました。
◇◇◇
一方、その頃。
とある温泉地にある公衆浴場の、立て看板。
(愛しい、
遠い空へ思いを馳せながら、
完
蜘蛛助と蜘蛛子の温泉 キジトラタマ @ym-gr
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