蜘蛛助と蜘蛛子の温泉

キジトラタマ

第1話

とある温泉地にある公衆浴場の立て看板に、蜘蛛助くもすけ蜘蛛子くもこという夫婦が、糸を張って仲良く暮らしていました。

蜘蛛子くもこは妊娠中で、夫婦は産卵を楽しみにしていました。


そんなある日の、夕刻。

夫婦が暮らすクモの巣に、一匹のがかかりました。


近くにいた蜘蛛助くもすけがすぐさま、捕獲へ向かいます。


「お、おい。やめろ。待ってくれ」


は、羽をバタつかせ、命乞いをします。

しかし蜘蛛助くもすけは、聞く耳を持ちません。


「待て、お願いだ。見逃してくれ」

「すまんが、それはできねえ」


蜘蛛助くもすけは、突っぱねました。

蜘蛛子くもこも側で、頭胸部とうきょうぶを横に振っています。


は、絶体絶命でした。


「お、おい。待て。奥方殿は、具合が悪いのではねえか」


するとは、突然妙なことを口にしました。


「何を、言うておる」


蜘蛛助くもすけは呆れつつも、一応、蜘蛛子くもこを確認します。

蜘蛛子くもこは何も言わず、ただ困惑の表情を浮かべていました。


よ。適当なことを、言うでない」

「適当なことなど、言うてはおらぬ。のう、奥方殿」


は今度は直接、蜘蛛子くもこへ問い掛けます。


蜘蛛子くもこ触肢しょくしをピクリと反応させましたが、口は開きません。

しかしどこか、様子がおかしいようです。


蜘蛛子くもこ…まさか、そうなのか。お前、どこか具合でも悪いのか」


蜘蛛助くもすけは心配になり、蜘蛛子くもこに訊ねました。


「え…、ええ。実は…」


蜘蛛子くもこはようやく、重たい口を開きました。


「お腹が重すぎて、8本の脚を上手く動かせないのです。パンパンに張ってしまって…」

「なんとっ!」


蜘蛛助くもすけは、青ざめます。

の、言った通りでした。


実は蜘蛛子くもこは、超多卵妊娠をしていました。


「それ見ろ」


は得意げに、触角をピロピロ動かします。


「そこで、提案なんじゃがのう」


動揺する蜘蛛助くもすけをよそに、はしたり顔で取引を持ち掛けました。


「…何だ。言ってみろ」


蜘蛛助くもすけは、しぶしぶ応じます。


「まずわしの名は、蛾次郎がじろうと申す。わしはつい先ごろまで、あの建物の中で住んでおった」


蛾次郎がじろうは触角を使い、側にある建物を指しました。

一般的には、公衆浴場と呼ばれる建物です。


「ほお」

「おぬし、あの建物が何か、知っておるか」


「いいや、知らぬ」

「お前たちがいる、この立て看板を見てみよ。ここには、『スパ・フジミ』と書かれてある」


「すぱ、ふじみ、…とな」

「そうだ。スパというのは聖なる熱泉、そしてフジミとは、死なぬ体という意味じゃ。つまりこの建物の中には、不死を実現する、聖なる熱泉があるのじゃ」


「な、なんと。不死だと。それは、本当なのか」


すぐ近くに巣を張っていた蜘蛛助くもすけ蜘蛛子くもこにとって、寝耳に水の話でした。


「まあ、不死は言い過ぎじゃがの。熱泉を飲めば、寿命が延びるといわれておる。ほれ、あそこから出て来る人間どもを、見てみろ。みんな活き活きしておるじゃろ」


蜘蛛助くもすけ蛾次郎がじろうに言われ、建物の入り口付近へ目を向けます。


ちょうど、初老の男性が屋内から出て来ました。

男性は頬をほんのり赤く染め、上機嫌に鼻歌を歌っています。

とても血色がよく、活き活きしています。


手にする『TWO CUP OZAKI』と書かれたグラスを口へ運ぶと、さらにテンションが上がります。


「なんと…」


そのウッキウキな姿を見た蜘蛛助くもすけは、蛾次郎がじろうの話を信じました。


「おぬしも知っての通り、ジョロウグモの母は、子グモが外界へ出る前に命尽きるケースが少のうない。奥方殿は超多卵妊娠のようじゃから、ともすれば産卵後、すぐに命尽きるやも知れぬぞ」


「まあ…」


蛾次郎がじろうの言葉に、蜘蛛子くもこが身震いをします。


ジョロウグモの母は産卵後、糸で卵のうを作り、その上に覆いかぶさって保護を行います。しかし、子グモが外界へ出る前に命尽きる母は、実際少なくありません。


「おぬし、奥方殿のために、熱泉を取りに行きたくはないか」

「熱泉を…。それを飲めば、蜘蛛子くもこは子グモが出てくるまで、生きられるのか」


「間違いない。わしを信じろ」

「しかし…。一体どうやって、そんなところまで…」


それは、無理難題な話でした。

現在いる立て看板から建物内まで移動するのは、簡単ではありません。


「わしを解放してくれたら、おぬしを背中に乗っけて、中まで運んでやるぞ」


蛾次郎がじろうが、交渉を試みます。


「うむむ…」


蜘蛛助くもすけは悩みます。

たとえ蜘蛛子くもこのためとはいえ、蜘蛛子を置いて巣から離れるのは、心配でした。


蜘蛛助くもすけさん。わたくしは、子が旅立つまで、見届けとうございます」


蜘蛛子くもこが、蜘蛛助くもすけに懇願します。


「だが、お前をひとりにするのは…」

「わたくしの事なら、心配いりません。子供たちの旅立ちを見届けられるのなら、わたくしは喜んで、蜘蛛助くもすけさんの帰りをここで待ちます」


蜘蛛子くもこは脚の痛みに悶えながら、蜘蛛助くもすけを促します。


産卵までは、あと2日。

実は蜘蛛子くもこには、このままだと産卵後に命が尽きるということが、わかっていました。


「お願いします。蜘蛛助くもすけさん」

「…よし。わかった」


蜘蛛子くもこの懇願に、蜘蛛助くもすけは腹をくくります。

すべては愛する妻と、生まれて来る子供たちのため。


「よっしゃあ!ならば、善は急げじゃ。今すぐ、出立するぞ」


蛾次郎がじろうは、大喜びします。

早く解放しろと言わんばかりに、羽をばたつかせます。


蜘蛛助くもすけは早速、糸を解いてやりました。


「さあ。とっとと、わしの背中に乗れや」

「お、おう」


急かされ、蜘蛛助くもすけ蛾次郎がじろうの背中にしがみつきます。


ジョロウグモのメスは、体長20~40mmほどと大きく、外見も黒と黄色の縞模様があって派手ですが、オスは地味。

蜘蛛助も、体長6mm程度と小柄です。蛾の背中に乗るのは、難しくありません。


「では、蜘蛛子くもこよ。行ってまいる。熱泉を採取したら、すぐに戻るからな」

「はい。お待ち申し上げております」


「それじゃあ、行くぜ!」

「おう」


二匹は、飛び立ちました。

スパ・フジミの、建物へ向かいます。


蜘蛛助くもすけよ、よく聞け。わしがおぬしを連れて行けるのは、この建物の入り口付近までじゃ」

「な、何だと。話が、違うではないか」


「入り口付近には殺虫機と呼ばれる、恐ろしい兵器が取り付けられておってのう。出るのは簡単じゃが、入るのは難しい。だからわしは、おぬしを人間の頭上に落とす」

「人間の頭上、だと」


「そうじゃ。毛髪の中に身を潜めろ。おぬしの大きさなら、バレん。ただ、頭以外へは絶対に行くなよ。やつらは熱泉の間へ入る前に、生まれたままの姿になるからな。いいな」

「わ…、わかった」


蜘蛛助くもすけは、肝に銘じます。


「次に、熱泉の間へ入ったあとの説明をいたす。元来、熱泉の間はユケムリと呼ばれる、聖なる白い煙で満たされておる」

「ユケムリ」


蜘蛛助くもすけは、復唱します。


「ユケムリを感じたら、毛髪の外へ出ろ。そして辺りを見渡せ。そこから、フジサンと呼ばれる、雄大な山が見えるハズじゃ」

「フジサン」


「熱泉が湧いておるのは、そのフジサンの麓じゃ。人間どもはたいてい、肩の辺りから熱泉を体にぶっ掛ける。だからお前はその際に、飛び散った熱泉のしずくを、口で採取するのじゃ」

「なるほど。了解した」


「よし。わしは、ここで待っておる。出て来たら迎えに来てやるから、また背中に飛び乗れ」

「わかった。恩にきる」


そして蛾次郎がじろうは、毛髪が豊かな男性の頭上に、蜘蛛助くもすけを落としました。

蜘蛛助くもすけは無事着地し、すぐさま毛髪の奥まで潜って、身を隠します。


「グッドラ~ック」


見届けた蛾次郎がじろうは、健闘を祈るように鱗粉をまき散らしました。

男性が屋内へ入ると、満面の笑みで、どこかへ飛び去って行きます。


まるでもう、戻って来るつもりは、ないかのように…。




◇◇◇




無事、建物内への進入に成功した、蜘蛛助くもすけ


男性の毛髪内に身を潜め、順調に熱泉の間までたどり着くことができました。

そしてユケムリと呼ばれる聖なる白い煙を感じ取り、毛髪の外へ出ます。


そこは見たこともない、不思議な場所でした。

周囲を見渡すと、泡だらけになった人間どもが、そこかしこにいます。


そして真正面に、雄大な山がそびえ立っています。



(おっ。あの山が、フジサンとやらだな)



蛾次郎がじろうが言った通り、その山のふもとには、熱泉が湧いています。

人間たちが熱泉につかり、気持ち良さそうにしています。



(なんとまあ。人間どもの、贅沢なことよ)



聖なる熱泉に身を浸す人間たちに呆れつつも、蜘蛛助くもすけは彼らの紅顔を見て、確信しました。



(この聖なる熱泉を持ち帰って、蜘蛛子くもこに飲ませれば、蜘蛛子は寿命を延ばせるのだな)



蜘蛛助くもすけは、希望に満ち溢れました。


頭に蜘蛛助くもすけを乗せた男性がゆっくりと、熱泉へ近づきます。

腰をかがめると、側にあった木桶を手に取り、熱泉に沈めました。


男性はこれから、聖なる熱泉を体にぶっ掛けようとしています。


チャンスです。


ちなみに木桶には、『富士見ふじみ旅館』と書かれています。

スパ・フジミは、富士見旅館が経営しているようです。



(よし)



蜘蛛助くもすけは口を大きく開け、採取の準備に取り掛かります。

飛び散ったしずくをいつでも口に含める状態にし、その時を待ちました。


そして、次の瞬間でした。




バシャ――――――――――――――――――――ンッッ!!!




男性は肩からではなく、頭から熱泉をかぶりました。

それは、一瞬の出来事でした。


続けてもう一度、同じ動作を繰り返します。

そして、木桶を傍らに置きました。


「ふうううあああああああ」


男性は犬のように頭を振ると、気持ち良さそうに、室内に声を響かせます。



一息ついた男性が、立ち上がります。

その時ふと、足裏に何か違和感を覚えたようでした。

男性は足を上げ、床にある何かを、じっと見つめています。


そしてもう一度木桶を手に取ると、熱泉で、足元のを流しました。




◇◇◇




一方、その頃。


とある温泉地にある公衆浴場の、立て看板。


蜘蛛子くもこは、大きくなったお腹を抱えながら、薄暗い空を眺めていました。



(愛しい、蜘蛛助くもすけさん。聖なる熱泉の採取は、できたかしら。早く、戻って来てね。私はあなたの帰りを信じて、ここで待っているわよ。蜘蛛助さん、蜘蛛助さん…)



遠い空へ思いを馳せながら、蜘蛛子くもこ蜘蛛助くもすけの帰りを待ち続けるのでした。






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