3. 研究人材としての育成を
「卒業者一名、西堀ハルヒ。成績優秀で社交的であり、研究人材としての育成を強く推薦できる、……と。終わり」
最後の学級日誌を書き終えた私は、ついうっかり机の上でまどろみかけた。
はっと目が覚める。午後5時過ぎだった。
(早く行かなければ、「天蓋」のゲートが閉まってしまう)
タンチョウ観察で使っていた愛用のコートをひっつかんで、私は廊下に出た。夕飯のビスケットを頬張りながら、地下0メートルまでエレベーターで昇る。
「天蓋」の偽の太陽は、既に西の端に傾いている。
「小田原に行くんですか? 乗るなら早くしてください、あと数分でトロッコは出発ですよ」
疲れた顔の門番が言う。天蓋の門番は暇な仕事だ。氷点下30度の外界から攻めてくる敵なんて、すきま風ぐらいのものだ。
「乗りません。ただ外の空気を吸うだけです」
そう言って私は、門番にチョコレートの袋を渡した。数か月分の配給を貯めたものだ。そろそろ枯渇するらしいから、贈り物にはちょうどいいだろう。
「ああ……」
門番は悲痛な笑みを浮かべた。引き留めるつもりはないらしい。だいたいみんな、気持ちは一緒なのだ。
「何ですか、私が初めてじゃないんですか? 斬新な自殺方法だと思ったんですが」
「……これで二人目。賄賂を持ってきた奴は初めて。前の奴は、適当な嘘をついて出て行った」
そう言って、彼女は足元にチョコレートを置いた。壁の開錠ボタンを、両手で同時に長押しすると、重い鉄の扉がゆっくりと開く。トロッコ駅のプラットフォームに出る。
「おお、寒い。さっさと行け。じゃあね。お疲れ様」
彼女はそう言った。気持ちはみんな同じなのだ。私が「天蓋」を抜けると、ゆっくりと閉まるゲートの隙間から、いつものアナウンスが聞こえた。
「こんばんは。夕方の六時です。これより12時間、『天蓋』メインゲートを施錠します。今日も一日、お疲れ様でした……」
私は振り返らずに歩いていく。吹雪の風音で、その機械的な声はすぐに聞こえなくなった。
10年前の熱海駅がトロッコ駅に改装されているのを除けば、若い頃に研究会で訪れた時と同じ街並みだ。
もちろん、観光都市としての面影は残っていない。熱海の街路樹は全て立ち枯れになって、幾重にも
何より、もう海がない。氷河期だから、海水面はずっと後退しているのだ。
(さて、どこに向かって歩くか。……札幌、だろうな)
プラットフォームから降りて、駅から伸びる線路を、北に向かって歩いていく。どこまでいけるだろうか。この世界では、飲み水が確保できない。
(卒業したらオーロラを見に行く、か)
私は空を見上げる。ハルヒは夢みたいなことばかり言う子だった。
ずっと北に行こう。タンチョウ研究者なんだから。
氷河期の風は、ヒュウヒュウとは鳴らない。もっと冷酷に、シュウシュウと鳴る。
「ラ、ラ、ララララ、ラ、ラ」
私は鼻歌交じりに歌った。ハルヒがさっき歌っていた曲だ。そういえばこのメロディ、大学生の頃に流行った覚えがある。
(ハルヒはちゃんと、研究者になれるかな)
学問のことを考えると、つい自分に重ね合わせそうになる。大丈夫。私のような落ちこぼれではない。
(中学からも、頑張れ)
ハルヒの独特のダンスの足踏みが目に浮かぶ。私は泣きそうになった。だが、あのシェルター生活も、いずれ限界が来るのだろうか。
別にいい。この十年の生活は、最悪だった。
氷河期克服のための研究が実を結ばなければ、私たちはみんな雪になる。私は少し、それを先取りするだけ。
寒さには慣れているつもりだったが、フィールドワークの湿地よりずっと寒かった。北海道の冬の夜よりも気温が低いのだ。
「ラ、ラ、ララララ、ラ、ラ」
私は歌い続ける。最初のピアノのイントロだけ覚えている。
この先は、なんだっただろうか。鼻先が既に冷たくなって、声が通らなくなってくる。
「先生?」
道の先から、そう呼ぶ声がした。
私はライトを当てる。その人影は、印象的な足踏みをやめた。
それは防寒服を着た、西堀ハルヒだった。
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