4. なんか、体が熱い

 私がハルヒをライトで照らすと、辺りがぼんやりと明るくなる。氷の結晶が舞っているので、光が反射して輝くのだ。その光で、彼女は私の素顔を見た。

「先生……ひどい。どうして」

 寒さで顔を赤く腫らしたハルヒは、私を見るなり、ぼろぼろと泣き出した。

「泣いちゃダメ! そこから顔が凍るよ」

 私はとっさに言った。言いはしたが、説得力がない。私の目からも涙があふれ出てくる。

(じゃあ、門番が言ってた『一人目の自殺者』は。ハルヒの今晩の用事は。オーロラを見に行く夢って……)

 今日一日の記憶がフラッシュバックする。こぼれ落ちた涙は、頬の上で板状に凍った。

「なんで、死のうと思ったの」

 私は尋ねる。ハルヒは答えない。死にたい理由なんて、この世界にはいくらでもある。例えば、太陽がないから。

「熱海に戻ろう」

 ハルヒはうなずく。二人の自殺志願者は、死なせたくない人のために、もと来た道を引き返す。


 意外かもしれないが、気温が常に摂氏0度を下回っていると、雪はあまり降らない。雪になりうる水蒸気は、みな砂のような氷の結晶になって、既に地面に落ちているからだ。顔の皮膚には薄く氷が張り、徐々に昇華して水分が奪われていく。顔がちりちりと痛い。

 私たちは熱海のトロッコ駅に戻った。

「先生! いま、何時何分?」

 ハルヒが線路の脇を歩きながら問う。私は腕時計を見て、ハルヒに答えた。

「午後7時13分!」

 寒すぎて、思わず私も大声を出した。外に出てから、まだ1時間しか経っていないのに、身体の芯が冷え始めている。

「あと11時間?」

 ハルヒは怯えた声で言う。『天蓋』は朝6時まで開かないのだ。

「なんとかして、あなただけは生かすからね」

 私はかろうじて、そう口にした。寒い。眠い。目が痛い。既に疲れ果てている。


 私たちはいったん駅を出て、商店街に入っていく。

「先生、どうするの?」

「まずは風を防げるところに行く!」

 私は商店街の端にある珈琲店に入った。

 たてつけの悪くなったドアを開けるだけで、ドアノブにかけた指がきしきしと痛んだ。


 風がないだけで、少しは楽になる。目の乾きが抑えられるから。

 この店はとっくに死んでいる。奥の方まで立ち入るのは悪い気がして、厨房で目当ての物を探す。

「先生、何してるの?」

「火をつける!」

 もちろん、コンロは点火しない。ガスの供給がないからだ。

 ガスボンベは見当たらなかった。だが、もともと私はそれを探していない。氷点下30度に対応しているわけがない。劣化して、触れた瞬間に爆発する危険性がある。

「あった。マッチだ……」

 だが、それは木の軸が凍ってボロボロになっていた。かじかんで自由のきかない私の指では、持つことすらできない。


「だめだ。手をすり合わせて暖を取ろう」

 そう言って、私たちは体を寄せ合う。温かくない。ハルヒが呟く。

「なんか、体が熱い」

(はっ。矛盾脱衣むじゅんだついか)

 私はとっさに、逃げようとする彼女を捕まえる。

 北海道でフィールドワークをする者には、遭難と凍傷の知識は必須だ。凍傷で皮膚が損傷を受けると、寒さで錯乱した人間は、服を脱ぎたがる。凍死体は全裸に近い状態で発見されることがあるのだ。

「ダメ、それは体の勘違いだよ。温めないと」

 そう言いながらも、私も手足をすり合わせるのが辛い。手袋の裏面に肌が触れるだけで痛かった。


「いま、何時?」

 ハルヒは私に問う。私は腕時計を見て答える。

「午後7時13分」

「えっ?」

 ハルヒは聞き返す。寒さと眠気でぼうっとしていた私は、ようやく自分の言葉の矛盾に気づいて、愕然がくぜんと震えた。

 摂氏マイナス30度。時計は壊れていたのだ。

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