2. いつか氷河期を倒して

「6年間で学んだことだと、何が一番面白かった?」

「んー。生物の仕組み。特に、遺伝子」

 ハルヒは言う。それは中学の範囲だ。

 芸術系と英語と体育が消えて、算数と理科の授業ばかり増えたのに、教科書の厚さは10年前のままだから、高学年は暇なのだ。ハルヒなんかは頭が良いから、数年先取りで勉強が終わってしまって、私は彼女の知りたがったことを全部教えた。理数系が高校まで行きかけたところで、ようやく6年が終わる。

「先生、私ね、卒業したら、札幌にオーロラを見に行くことにした」

 ハルヒがいつも通り、適当なことを言った。

「故郷に帰るんだ。いい夢だね」

 私は苦笑することしかできない。オーロラか。タンチョウよりは現実的な目標かもしれない。


 大学の研究者だったはずの私が、なぜ小学校教師をしているか。

 熱海シェルターは、政府機能をもつ小田原シェルターとは違って、東日本の研究者が集められている。東京大学・東北大学・北海道大学。北海道大学の研究者の子供が集まるから、このクラスは「三組」だ。西日本の研究者は別府シェルター。

「世界を救うために研究者の皆さんが集まる、夢と希望の地下都市です」

 総理大臣がそう説明したとき、東京の平均気温は既に氷点下になり、札幌は物流が混乱しはじめていた。

「氷河期を倒す。最初の五年が勝負」

 それをスローガンに、研究者が集められた。私は鳥類担当。鳥と虫を中心とした陸上の生態系を維持するため。


 だが、勝負の五年は研究者には短すぎ、人民には長すぎた。

 科学者のうち、最初にになったのは、法学者と経済学者。社会が死んだから。次に、私たち生物学者。生物が死んだから。

 人口わずか千人弱のこのシェルターでは、「死んだ学問」の専門家から、清掃員や炊事係に落ちていく。

 学問の死は学者の死だ。一か月に一度ぐらい、自殺の噂を聞く。私がこの数年間、小学校教師として暮らせたのは、比較的幸せだったと言えるだろう。


 マンツーマン指導だから、休み時間は自由にとる。

「ラ、ラ、ララララ、ラ、ラ」

 ハルヒはまた立ち上がって、教壇で踊り始める。

 ずっと同じ曲だ。なんだか心にぐさりと刺さって、私はハルヒに問いかける。

「よく飽きないね」

「飽きないよ。楽しいもん」

 ハルヒは足踏みでリズムを刻む。体育の授業がないぶんを、ハルヒはダンスで補っていた。

「ねえ、先生は私が卒業したら、何をするの」

「決まってないよ」

「研究には戻らないの」

「……戻れないだろうね。もうなくなった分野だよ」

 理科だって、半分はなくなった。「太陽と地面の様子」「天気の変化」「季節と生物」……。オーロラすら教える必要はなかったかもしれない。

「幼稚園には三組に入学する子はいないの」

 ハルヒはシェルター培養だが、西堀教授が育てて私が教えているから、文化的には道産子だ。「ようちえん」は、「よ」にアクセントを置いて発音する。

「いない。シェルターで子供はほとんど生まれない。お医者さんもみんな困ってるんだって」

「ふーん。太陽が見えないからかな。学校を辞めても、私にとってはずっと先生だよ」

「ふふふ。……ありがとう」


「今日、パパが出張でいないんだ。おうちは私一人なの」

 ハルヒはどこか嬉しそうに言った。西堀征一郎教授は偉い人だから、ときどき報告会のために、小田原政府に召喚される。

「じゃあ、夕方まで教室にいる?」

「ううん。用事があるから、帰る」

「そっか。私も用事があるから、ちょうどいいね」

「先生、さよなら」

 タンタン、タタンタ、タンタン、タタンタ。

 鼻歌が終わり、ハルヒは両手をぱっと上げて、足踏みをやめた。私に向かってにっこりと笑う。

「先生、いつか氷河期を倒して、天蓋の外に出ようね」

「……そうだね。ハルヒ、卒業おめでとう」


 つくづく、私は教師失格だと思う。卒業の日まで、教え子に嘘をついてしまった。

 ハルヒが卒業したら、どうするか。

 私は死ぬつもりだった。

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