ブラック企業で働く美人デザイナーを救いたくて俺は・・・
春風秋雄
大内寛子さんは、こんなミスをする人ではなかったはずだ
久しぶりに会った大内寛子さんは、かなりやつれていた。目の下にクマが出来て、疲労のほどがうかがえる。そんな状態で仕事をすれば、ミスが出て当たり前だ。大内さんがうちの担当になって2年になるが、こんな単純なミスをする人ではなかった。こちらもクライアントと約束した納期があるので、怒り心頭で電話して呼びつけたものの、こんな姿で一生懸命頭を下げられては、何も言えなくなってしまった。
「わかりました。ミスは誰にでもあることです。もう謝るのはやめてください。それより、修正にどれくらい時間がかかりますか?」
俺の質問に大内さんはハッとした顔をして困惑の表情を浮かべた。頭の中で必死に考えているようだ。しばらくして、やっと口を開いた。
「3日後というわけにはいきませんか?」
「3日後ですか?どうしてそんなに時間がかかるのですか?確かにボリュームはありますけど、赤と青の配色を入れ替えるだけの作業ですよ?」
「申し訳ございません。こちらの事情で勝手を言っているのは重々承知です。それでも、何とか3日後にしてもらえませんでしょうか?」
クライアントと約束した納期は明後日だ。3日後では間に合わない。
「じゃあ、修正は私の方で行いますので、元のデーターをいただけますか?」
大内さんが驚いた顔をした。まさか俺がそんな提案をしてくるとは思っていなかったのだろう。
「大丈夫です。依頼料は正規金額をお支払いしますので、大内さんが社長の長谷川君から責められることはないでしょう。クライアントへの納期が明後日なので、3日も待てないのですよ」
それを聞いて大内さんは泣きそうな顔をして頭を下げ、データーは会社に戻り次第、すぐに送付すると言ってくれた。
「大内さん、相当疲れていますよね?ちゃんと寝ていますか?」
大内さんは俺の問いに苦笑いをするだけだった。
「お子さんのためにも、体は大事にしなければいけませんよ」
「ありがとうございます。今回は本当にご迷惑をおかけしました」
大内さんはそう言って事務所を出て行った。
俺の名前は廣瀬智博。48歳のバツイチだ。小さな出版社を経営している。出版社といっても、本屋に並ぶような本はほとんど扱っていない。一応取次の出版口座は持っているものの、企業のPR冊子や商品カタログ、社史の編集、また自費出版の本などをメインに扱っている。それなりに儲かっているが、デザイナーを置く余裕がないので、イラストや装丁デザインはすべて外注していた。長谷川デザイン事務所もそのひとつで、社長の長谷川は俺の大学時代の後輩だった。もともと取引をしていたデザイン会社に勤めていた長谷川が独立し、先輩後輩の仲で長谷川のところの事務所も使うようになった。うちから依頼する仕事量はそれほどでもないが、羽振りは良いようで、銀座のクラブでたまに見かける。結構派手に遊んでいるようだ。うちの担当はよく変わる。大内寛子さんは5人目の担当だった。今までの担当は会社を辞めたということだ。この世界は出入りが激しいので仕方ないことだと思っている。その中で大内さんは2年続いているので、歴代の担当の中で一番長い。仕事は丁寧で、イラストのセンスも俺は気に入っている。何よりも美人だ。5年前に旦那さんを亡くし、高校3年生の息子さんと二人暮らしだと言っていた。年齢は40歳前後だと思うが、初めて会った時はもっと若く見えた。ところが最近は年相応か、下手したら40代後半ではないかと思えるくらい疲れた顔をしている。今回の依頼はある企業のPR冊子のデザインとイラストを任せるということだった。かなりボリュームのある冊子で、イラストもかなりの量になっている。大内さんの腕のみせどころだと思っていた。クライアントからの注文で、イラストのキャラクターに社旗のロゴを服にして着せてくれということになっていた。その企業の社旗のロゴは青地に赤の文字なのだが、大内さんが作成したイラストは赤字に青の文字になっていたのだ。こんなミスをするような人ではなかったのに、どうしたのだろう。妙に疲れていたようだったので、何か家庭であったのかもしれない。
大内さんと会うのは、基本的には仕事を依頼するときの打ち合わせだけだ。あとはメールと電話でのやりとりになる。この前のミスがあったからといって、大内さんを担当から外す気はさらさらなかった。また新しい仕事を依頼するために事務所に来てもらったが、この前会ったときより、さらに顔色が悪かった。一通り仕事の説明が終わったあと、たまらず俺は大内さんに言った。
「かなり顔色が悪いですよ。ちゃんと休んでいますか?」
「このところ忙しくて、なかなか休めていませんが、大丈夫です」
「今回の仕事、難しいようでしたら他に回しましょうか?」
「いいえ、大丈夫です」
「あまりよその会社のことを色々聞くのも何ですが、今大内さんはいくつの案件を抱えているのですか?」
大内さんは力のない目で俺を見ながら、7件ですと答えた。
「7件?そんなに抱えているのですか?他の人に仕事を振ったらいいじゃないですか」
「他の人も同じくらい案件を抱えていますから」
長谷川は何を考えているのだ。完全にキャパを超えているじゃないか。このままだと社員がつぶれてしまうぞ。
翌日俺は長谷川を飲みに誘った。
「廣瀬先輩が誘ってくれるなんて、珍しいじゃないですか」
「どうだい景気は?」
「まあボチボチですよ」
「そうか?かなり羽振り良さそうだと聞いているよ」
「誰がそんなこと言っているんですか?」
「銀座のクラブでは有名だよ」
「そんなに儲かっちゃいませんよ」
「それより、うちの担当の大内さんなんだけど・・・」
「大内が何かやらかしましたか?」
「そうじゃなくて、かなり疲れているようだけど、少し休ませてあげたらどうだ?」
「有給休暇があるんですから、別に休みたければ休めばいいんですけど、一向に休むとは言ってこないんですよ」
「休みづらい雰囲気を作っているのではないのか?」
「とんでもない。労基法の問題もあるので、最低でも年に5日は休みをとってもらわなければいけないから有給休暇を取るように言っているんですよ」
確かに、働き方改革の関係で、最低でも年に5日間は有給休暇を取らせないと罰金を取られることになっている。しょせん俺は部外者なので、これ以上突っ込んだ話をすることは長谷川にも失礼なので引き下がるしかなかった。
新しい仕事の打ち合わせで大内さんが事務所に来た。前回の案件は納期までにちゃんと丁寧な仕事をしてくれていたので、体調も戻ったのだろうと思っていたのだが、事務所に入ってきた大内さんの顔を見て驚いた。まるで老婆のような老け方をしていた。あれだけの美人がこんな短期間で、どうしてこうなるのだ?
「大内さん、大丈夫ですか?」
俺は第一声で思わずそう言ってしまった。
「大丈夫です」
大内さんはか細い声でそう言い、ミーティングテーブルの椅子に座った。俺は何か言いたかったが言葉が見つからず、とりあえず仕事の打ち合わせをすることにした。説明をしている間、大内さんは聞いているのか聞いていないのか、反応がほとんどない。時々「大内さん」と声をかけると、我に返ったように返事をする。それでもちゃんと説明をしなければと説明を続けていると、大内さんの体が傾いてきた。ヤバイ!と思った俺は咄嗟に立ち上がり、向こう側に回って大内さんの体を支え、何とか床に倒れ込むのを防いだ。
「大内さん!大内さん!」
呼びかけるが、返事がない。俺は大内さんを抱きかかえ、隣の応接室のソファーに寝かせた。すぐに119番に電話をし、救急車を呼ぶ。何度も長谷川に電話するが、長谷川は電話に出ない。そうこうするうちに救急車が到着し、仕方なく俺は救急車に同乗することにした。
病院で診察してもらったところ、過労と栄養失調だということだった。今は点滴をしてベッドで休んでいる。やっと長谷川に電話がつながり事情を話すと、言葉では心配そうなことを言っているが、面倒くさいと思っているのが伝わってくる。仕方ないので俺が付きそうと言い、息子さんに連絡するため家の電話番号を教えてもらった。
夕方になり息子さんと連絡が取れた。驚いた息子さんはすぐに病院に駆けつけてきた。
「お母さんの容態はどうなんですか?」
駆けつけるなり息子さんが聞いてきた。
「過労と栄養失調ということだ。少し休んで栄養のある物を食べればすぐに良くなるよ」
俺がそう言うと息子さんは安心したようだった。
「夕飯は何か準備してあるのかい?」
俺が聞くと息子さんは首を振る。
「じゃあ、何か食べに行こうか」
俺は息子さんを誘って近くのファミレスに行くことにした。
何でも好きなものを頼めばいいよと言うと、息子さんはハンバーグとライスを選んだ。俺も同じものを注文する。
息子さんの名前は護(まもる)君といった。
「最近のお母さんの様子はどうだったの?」
「毎日夜遅くまでパソコンで仕事をしているようでした」
「食べるのはちゃんと食べていた?」
「仕事が忙しいらしくて、この半年くらいは、料理はまったくしていなくて、僕にはコンビニ弁当とか、スーパーの総菜とレンジで温める御飯といった感じで、お母さんは何を食べているのかは知りませんでした」
「休みの日も?」
「休みの日も朝から夜遅くまでパソコンで仕事をしていました」
そうか、会社は休んでも家で仕事をしていては休んだことにならない。その蓄積疲労がこの結果になったのだろう。
「護君は3年生だったら、もう進路は決めているのかい?」
「一応大学へ行くつもりですけど・・・」
「どうした?受験に自信がないのかい?」
「そうじゃないんです。狙っている大学が私立で、結構お金がかかるから、お母さんに負担かけるのではないかと思って・・・」
「お母さんは何と言っているの?」
「お金は気にしなくていいとは言ってくれています。お父さんが残してくれたお金もあるので、大丈夫だからって」
「お母さんがそう言っているのなら大丈夫なんじゃないの?」
「だったら、どうしてこんな無理して働いているのですか?」
確かにそうだ。旦那さんが残してくれたお金があるのなら、体を壊すまでハードに働かなくても良いはずだ。
食事をすまして病院へ戻ると、大内さんは目を覚ましていた。その日は念のため入院することになり、明日の昼前に退院することになった。大内さんは入院費を気にしていたが、後から長谷川から回収するので、明日の退院時は俺が立て替えて清算しておくと言って安心させた。
翌日病院へ行くと、大内さんはすでに退院できる状態で待っていた。顔色も良くなって、元気になったようだ。うっすらと化粧をした姿は、やはり綺麗だった。会計で清算をして病院を出る。
「とりあえず昼食を食べましょうか」
俺はそう言って行きつけのランチをやっている小料理屋へ連れて行った。和定食を二つ頼んでから俺は大内さんに話しかけた。
「はっきりいって、仕事を抱えすぎです。あきらかにキャパシティーを超えていますよ。社長に無理ですと言って断れないのですか?」
「私が断れば、他の社員にその仕事は回ります。他の社員もいっぱいいっぱいで仕事をしているのに、そんなことできません」
「長谷川はこの状態を知っているのですか?」
「知っているのか知らないのかはわかりません。日中はほとんど会社にいないですし」
「長谷川はデザインをやっていないのですか?」
「大きな案件だけは自分でやっていますけど、そんなの年に何件もないですから」
長谷川は前の会社に勤めていたときは、何回かうちの担当もしてもらった。なかなかセンスのあるデザインで、優秀なデザイナーだと思っていたのだが、今はほとんど仕事をしていないのか。
「大内さん、転職を考えたらどうですか?」
「でも、今の会社はそれなりにお給料も頂いているので・・・」
「護君から聞きましたけど、旦那さんが残してくれたお金もあるそうじゃないですか。無理な仕事をしなくても良いのではないですか?」
「実は、主人が亡くなったあと、生命保険とか貯金である程度のお金はあったのですが、主人は生前、お兄さんの事業の借入保証人になっていたようで、そのお兄さんは事業がうまくいかず破産したんです。それで連帯保証人に返済催促がきて、そのお金を使ってしまったのです」
そうだったのか。連帯保証人の責任も相続するので、知らずに借金を背負ってしまう相続人は多い。
「だったら、条件の良いところがあれば転職しますか?」
「今より条件の良いところがあれば転職したいのは山々ですが、私が抜けてしまったら、他の社員がどうなるのかと考えると・・・」
ブラック企業を抜け出せない社員の典型的なパターンだと思った。
「人員が減れば受託件数をコントロールするなり、それなりに長谷川が考えるでしょう」
これは、長谷川と話してみる必要があると思った。
翌日、長谷川にアポイントをとって、長谷川の事務所に出向いた。
「大内さんの件だけど、医者の診断は過労ということだった」
「過労?そんなに働かせているわけではないよ。残業はなるべくしないようにと言っているし、休日にはちゃんと休んでもらっているんだから」
「でも納期は絶対死守なんだろ?大内さんは、社長から残業はするなと言われていたので、仕事を家に持って帰って夜遅くまでやっていたそうだ。それでも納期に間に合わないので、休みの日も自宅で仕事をしていたということだ」
「そんなこと言われても会社以外の場所での行動なんか、俺にはわからないじゃないか」
「絶対的仕事量が多いんだよ。常識的に勤務時間内では消化できない数の案件を与えていたそうではないか」
「うちは薄利多売で、競合他社とやり合うには価格で勝負するしかないんだから、その分、数をこなさなければいけないんだよ」
「それを社員に押し付けている状態の会社をブラック企業というんだよ」
「いくら先輩だからといって、廣瀬社長にそこまで言われる筋合いはないですよ。うちにはうちのやり方があるので、口出ししないでください」
「わかった。その代わり、大内さんは会社を辞めるからな」
長谷川の顔色が変わった。
「大内さんはうちで雇うことにした」
大内さんに了解をとっているわけではないが、今この時点で俺はそう決めた。
「そんなの引き抜きじゃないですか!」
「職業選択の自由だ。本来なら労基署に訴えるなり、弁護士を通じて慰謝料請求をしても良いレベルなんだぞ」
俺がそこまで言うと長谷川は黙り込んだ。
「余計なおせっかいなのは承知で言うけど、今のままでは大内さんだけでなく、他の社員も辞めるぞ。人員を増やすなり、受ける案件の件数をコントロールするなりしないと、会社自体が危なくなるぞ」
俺はそこまで言ってから席を立った。会社に戻ってから長谷川に大内さんの入院費を請求するのを忘れたと思ったが、もうどうでもよかった。
翌週から大内さんは俺の会社に出勤してもらうようにした。給与は今まで長谷川のところでもらっていた額をそのままうちでも出すことにした。大内さんにうちの会社で働いてもらってわかったことは、今まで外注していた経費と大内さんへ支払う給与と、それほど差がないということだった。確かに長谷川のところは安くやってもらっていたが、他のところの相場でいうと、大内さんに月に3件もこなしてもらえば十分経費削減になる。しかもその場で打ち合わせができ、進捗状況も確認しやすい。うちとしてはメリットばかりだった。
年が明け、1月の終わりに大内さんが相談があるといってきた。
「社長、申し訳ないですが護の大学資金がどうしても足りなくて、社内融資をしてもらうわけにはいかないでしょうか?」
「日本政策金融公庫から融資を受けると言っていませんでしたか?」
「昨年生活が苦しい時に色々なところから借りて、返済が滞っていたものですから、審査が通らないのです」
「わかりました。いくら必要なのですか?」
俺は大内さんから金額を聞いて、社内融資の借用書を作成し貸し付けを行った。借用書には総額180万円を5年間で返済することとし、年利3%の金利をつけて毎月3万円ずつ返済することとした。180万円くらいボーナスとして渡そうかとも思ったが、他の社員との釣り合いもあるし、ボーナスとなると所得税や社会保険料の問題もある。そして、貸付にする以上は金利をとらないと税務署から給与課税される可能性があるので、やむを得ず堅苦しい形式をとることにした。
護君は関西の有名私立大学に合格したということだった。3月の終わりに護君の合格祝いをしてあげることにした。他の社員のお子さんが進学したときは、合格祝い金を渡す程度だったが、やはり大内さんとなると特別扱いをしてしまう自分がいた。
護君に何が食べたいか聞くと、しゃぶしゃぶを食べたいと言うので接待で使う店に連れて行った。
「護君、今日は君のお祝いだから遠慮なく食べてね」
「ありがとうございます」
「でも、どうして関西の大学に行きたかったんだ?」
「あの大学は、父が卒業した大学なんです。僕にとって父は最後まで憧れの人でした。だから、どうしても父と同じ大学へ行きたかったのです」
「そうか、護君はお父さんが大好きだったんだね」
「はい。大好きでした。僕が二十歳になったら、一緒にお酒を飲もうといつも言ってくれていました。その約束を果たせなかったのが残念です」
大内さんの旦那さんが生きていたころは幸せな家庭だったのだろうなと思わずにはいられなかった。
大内さんがレストルームに立って護君と二人きりになったとき、護君が聞いてきた。
「僕の大学進学の資金は、廣瀬さんが出してくれたのですか?」
一瞬どう答えようか考えたが、正直に話すことにした。
「会社が君のお母さんに貸し付けたんだ。だから、私が出したわけではない。お母さんからは毎月少しずつ返してもらうことになっている。でも護君への仕送りに支障がない程度の返済額だから安心して」
「ありがとうございます。ひょっとして廣瀬さんはお母さんのことが好きなのですか?」
「そうだね。私は君のお母さんのことが好きだよ。でも、お母さんは私のことをどう思っているかはわからない。それよりも、私は経営者だから、会社の利益を最優先で考えなければいけない。お母さんは優秀な社員なので、私情で社長と従業員という関係を壊すことはしたくないと思っている」
「そうですか。今年は父の七回忌です。僕はこれから4年間は家を出てしまいます。就職後もこっちに帰ってこられるのかどうかわかりません。だから母には父のことは気にせずこれから自分の幸せをつかんでほしいとは思っています。その相手が廣瀬さんだったとしても僕は反対しません。しかし、これだけは言っておきます。僕の父は亡くなった父だけです」
護君はそう言って真っすぐな目で俺を見た。
護君が関西へ行ってしまってから、大内さんは寂しいだろうなと思い、度々夕食に誘った。大内さんはその都度笑顔で応じてくれた。
旦那さんの七回忌も無事に済ませ、3か月ほど経ったとき、いつものように食事をしていた。
「早いものですね、廣瀬さんの会社に移って、もう1年が過ぎましたよ」
「色々ありましたね」
「あのー、気になっていたのですけど、お借りしたお金の返済って、いつから始まるのですか?」
「もう4月から始まっていますよ」
「え?でも手取りが変わってないのですけど」
「あれ?明細見ていないのですか?手取りが変わらないように、昇給ということで額面を増やしたのですよ」
「そうだったのですか?」
「護君への仕送りもあるのだから、3万円でも手取りが減ったら大変だと思って、そうしたのです。それにしても、もう10月ですよ。半年も経っているじゃないですか。全然気づかなかったのですか?」
「給与明細なんか見る習慣がなくて、全然気づきませんでした。廣瀬さんはそこまで考えていてくださったのですね」
「大内さん、旦那さんの七回忌も終わったことですし、そろそろ自分の幸せを追い求めてはいかがですか?」
大内さんは俺が何を言おうとしているのか察したようだった。
「うすうす気づいていると思いますが、私は大内さんに好意を持っています。これからの人生を私と歩んでいくということを考えてもらうわけにはいきませんか?もちろん旦那さんのことが忘れられないとか、私をそういう対象として見られないということであれば、はっきり言ってください。その時はキッパリ諦めて、今まで通り社長と従業員という関係で接していきます。私はふられたことを根に持つタイプではないので安心してください」
俺がそう言うと、しばらく考えたあと大内さんは口を開いた。
「廣瀬さんとそういう関係になったらいいなとは思っていました。亡くなった主人のことを今も思っていることは事実です。でも、もういない人にとらわれても仕方ないとも思っています。ただ、護は主人のことが大好きでしたので、護がどう思うかというのが心配なのです」
俺は合格祝いで食事したときに護君から言われたことを話してあげた。
「護がそんなことを言っていたのですか」
「ええ、もし寛子さんが私と結婚したとしても、私のことは父親とは認めないということですが、一応反対はしないとは言っていました」
大内さんは黙り込んでしまった。
「護君は二十歳になっていませんが、法律上は成人です。護君には護君の人生があります。お母さんの面倒をみなくて良いとなれば、護君の人生の選択肢が広がると思いませんか?」
「私はそれに甘えて良いのでしょうか?」
「良いも悪いも、寛子さんの人生です。あなたは母親であると同時に、ひとりの女性なのです」
大内さんはかすかに頷いた。
店を出たあと、俺の横を歩く大内さんに言った。
「これから、私の部屋にきませんか?」
大内さんは一瞬ビクッとなって、立ち止まった。ちょっと性急すぎたかなと思いながら振り返り大内さんを見ると、大内さんは俺の顔を見ながら言った。
「本当に私でいいのですか?私は今年43歳になったオバサンです。もっと若い人が良かったって、あとでがっかりしませんか?」
「がっかりなんかしませんよ。私は寛子さんがいいのです」
俺は寛子さんに近づき、優しく抱きしめた。
寛子さんと付き合うようになって、結婚の話が具体的になってきた。そろそろ護君に言わなければということになり、寛子さんより先に俺から話すということにした。
護君とは連絡先は交換していたが、電話をするのは初めてだった。
「廣瀬さん?めずらしいですね。母に何かありましたか?」
「いや、お母さんは元気でやっているから心配ないよ。それより、今日連絡したのは、お母さんと結婚しようと思っているのだけど、どうかな?」
一瞬沈黙が流れたあと、護君はいつものようにはっきりした口調で言った。
「僕は反対しないって言ったはずですよ」
「そうだけど、一応最後の確認ということで電話したんだ」
「大丈夫です。僕の意向は変わっていません。母のこと、よろしくお願いします」
「わかった。絶対に幸せにすると約束するよ」
またしばらく沈黙が続いた。そろそろ電話を切ろうかと思ったとき、護君がぼそりと言った。
「廣瀬さん」
「何だい?」
「来年僕は二十歳になります。僕が二十歳になったら、お酒飲みにつれて行ってもらえますか?」
その言葉に一瞬にして俺の胸が熱くなった。俺は慌てて返事をした。
「いくらでも連れて行くよ。楽しみにしているよ」
「はい。お願いします」
電話の向こうの護君は、間違いなく笑顔だった。
ブラック企業で働く美人デザイナーを救いたくて俺は・・・ 春風秋雄 @hk76617661
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