死海に雪が降るごとく

茶ヤマ

🌌

「巷に雨の降るごとく

わが心にも涙降る」


ボードレールの詩だったろうか。

それともヴェルレーヌの詩だったろうか。

訳は堀口大學だったことだけは覚えている。


そんな他愛のない事が脳裏を横切っている。

それがどうしたというのだろう。

本日も、観測地点において、なんの変化もなし。

ここでは、いつだって変化など訪れることはない。

いたって暇である……。


ここは死海。

世界で最も塩分濃度が高いこの海は、生命を拒む事で変化を拒んでいるかの如しだった。

ただ、空を映し返す鏡のように、静かに塩水を湛えているのみだ。


私こと、佐山里奈はこの死海の観測所に務めてデータを集めている。

私は、親も恋人も、親友も振り払い、この地にやってきて10年近く身を置き、「死んだ海」にわずかな変化が訪れる日を待ち続けていた。

そんな日がくることはないと、心のどこかでわかっていても。


ところが、その夜。

空に白いものが舞った。


「雪……?」


信じられなかった。

死海周辺で雪が観測された記録はあるものの、この日の気温も雪が降るには高すぎるはずだった。


しかしそれは、確かに雪だった。

ただの塩の結晶ではない。

触れれば冷たく、やがて溶けていく雪。

夜明けとともに、それは波ひとつない海面に白く降り注ぎ、周囲に少しずつ積もっていく。


北国生まれの私にとって、雪は冬の象徴そのものであり、季節が来れば降って積もるものだった。

交通の妨げになり、積もり続けると家をつぶしかねない厄介なもの。

そして、すべてを静寂と共に冷たい白で覆っていくもの。

そう、雪はすべてを覆いつくし、隠すのだ。

音も、悲しみも、争いの傷跡も。


今ここで、死という文字をいただくこの海に、その”白”が降り注いでいる。

音もなく降る純白の雪は、うっすらと積もり、ただ静かに広がっていく。

この雪は、私の故郷の雪のように深く積もるものではないだろう。

薄く積もった後は、淡く溶けていく”白”。


それがなぜか私には、この死海に、音と、何かをもたらす存在のように思われた。


この土地の争いを覆いつくす赦しか。

争いと痛みの歴史を隠し尽くす目隠しか。


私はただのこの地の観測者であり、観察者である。

なのに、柄にもなく、何か大きな存在を感じ取った気になり、雪が降った日の事をそっと手帳に書き留めた。


・・・・・・


書いた文字を読み返して思う。

言葉を紡ぐことが、どれほど儚いことか。

まるで、すぐに消えてしまう、あの雪のようではないか。



「死海に雪が降り積もる。

 それは終わりの始まりか、

 この驚きをいかにとかせん」


私は、ボードレールやヴェルレーヌ、大學のような言葉の選びかたはできないらしい。

けれども、あの雪を見て、私は心の奥底で感じたものを言葉にし、残しておきたかったのだ…。








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