かぎろひと狐の影
一十 にのまえつなし
第1話
ヨーロッパのある国の王子、アレン王子は12歳の少年だった。
純粋で夢見がちな性格の彼は、東洋の神秘の国の公式訪問に同行していたが、大人たちの堅苦しい仕事にすっかり疲れ果てていた。
迎賓館の小さな部屋で膝を抱え、「もう逃げたい」と呟くのが、日課となっていた。
ある夕暮れ時、アレンが窓辺でぼんやりしていると、そっと庭に続く扉が開いた。そこに現れたのは、白髪の穏やかな老人だった。
飾りのない上質な服に身を包み、どこか不思議な雰囲気を漂わせていた。老人は優しく微笑んだ。
「おや、小さな王子様がしょげていますね」
日本にきてからも、いや母国でも、そう声をかけられたことは少なくアレンは驚いた。
「仕事が多くて疲れちゃって…」
しかし、出た言葉は本音だった。
「なら、少し外の風に当たりましょう」
「でも…」
躊躇する間もなく、老人は小さな手を握り、庭へと連れ出した。
迎賓館の庭園では、桜の花びらが散り、夕暮れの薄闇が辺りを包んでいた。
老人は池のほとりに腰を下ろし、「ここで一息ついてごらん」とアレンを座らせた。
すると、いつの間にか小さな折り畳み机が現れ、温かいお茶と桜餅が置かれていた。
「これ、誰が用意したの?」
アレンが不思議そうに尋ね。
「疲れた子には甘いものが一番さ」
そう言って笑った。その気づかいに、アレンの心は少しずつ温かくなった。
二人はお茶を飲みながら、桜のことや日本の春を語り合った。やがて、老人は静かにこう切り出した。
「昔の歌人に、柿本人麻呂という人がいてね。私が好きな歌があるんだ」
そして、穏やかな声で詠んだ。
「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ」
アレンは目を丸くした。日本語はわかるが知らない言葉も多い。
「かぎろひって何?」
老人は優しく答えた。
「朝焼けの光だよ。東で新しい日が始まり、西では月が消えていく。終わりと始まりが一緒にいる瞬間さ」
「魔法みたい」
アレンはぽつりと本音を漏らした。
「僕、仕事が嫌で逃げたいって思ってた。でも、おじいちゃんの話を聞いてたら、もう少し頑張ってみようかなって…」
老人はアレンの頭をそっと撫でた。
「無理はしなくていい。でも、君ならきっとできるよ」
その言葉には、どこか不思議な力が宿っている気がした。
日が落ちる頃、アレンは「明日からまた頑張るよ」と笑顔で約束した。
「元気かでたようだね。では、そろそろ」
「あの、あなたは?」
「この国には狐というものがいるんだ。こうして困っていると助けてくれるものがね」
老人は穏やかな風のように姿を消した。
来る前に読んだ東洋の島国の不思議な物語が思い出された。そこには故郷にはいない様々な物語があった。その中に化けるという存在がいたのを思い出す。
時にはいたずらもするが、学があり、神としても祀られる存在。
「いまのが狐かもしれない…」
老人とはなしている間、誰も姿を見なかったのだから。
「王子」
遠くから声が聞こえた。側近であった。
アレンが側近にいまの出来事を話すと、皆が驚いた顔でこう告げた。
「王子、あのお方は上皇陛下ですよ」
アレンは目を丸くした。
帰国の前に会いたいと希望したが、それはその日の夜に行われた饗宴の儀で叶えられた。
「おじいちゃんが上皇様だったなんて!」
上皇陛下はあの穏やかな笑みを浮かべて言った。「狐のことを話しましたね。時には私も、そんな気分で君に会ってみたくなってね。あの歌を伝えられて良かったよ」
おそらく上皇陛下は自分の夢見がちな性質をお知りになった上で、このような事をされたのだろう。
アレンはそのユーモアに笑いながら、心の中で思った。
『上皇様だけど、やっぱり少し狐っぽいかも…』
でも、その優しさと「かぎろひ」の歌が、彼に勇気を与えてくれたのは確かだった。
帰国したアレンは公務に励みつつ、心に小さな神秘を宿した少年として、少しずつ成長していった。
そして、いつかまたあの「狐かもしれない上皇陛下」と桜の下で会いたいと願っていた。
かぎろひと狐の影 一十 にのまえつなし @tikutaku
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