諦念
百鳥
諦念
声が聞こえる。
聞きたくもない声。けれど、嫌でも聞こえてくる声。
母の金切り声。父を、父にまつわる全てを糾弾する叫び。
それはリビングを通り抜け、階段を駆け上がり、しっかりと鍵を閉めたはずの部屋にまで入り込んでくる。
「死んでくれ!!」
階下からガラスの割れる音が聞こえてきた。
耳障りな響きは一瞬だけ私の胸を突き刺し、しかしすぐにぐずぐずと溶けていってしまう。後に残るのは小さなかすり傷ひとつだけだ。
初めはのたうちまわりそうなほど苦しかったのに、いつの間にか痛みは小さくなっていた。母が「死ね」などというのはいつものことなのだ。特にここ最近は「おはよう」よりも、「おやすみ」よりもよく聞いている気がする。
いつからこんな家になったのかはよく覚えていない。
いろんなものが積み重なった結果なのか、それとも最初からそうなる様になっていたのか……。楽しいことも、仲の良かった時もあったはずなのに、思い出そうとする度に深い霧が私を包む。
きっと考えるだけ無駄なのだ。考えたところで何も変わらないことを聡い自分が知っている。母のヒステリーも父の酒癖も、祖母が父に向ける異常な愛情も、隣の家の車が違法駐車を繰り返すことも、全部、全部……。
「……だったらおまえが死ね!」
今日はめずらしく父が反論しているようだ。いつもは何も言い返せず黙り込んでいる癖に、きっと外で飲んできたのだろう。アルコールが入った時だけ、父は母に反論することが出来る。
デュエットになった「死ね」の下で、食器が床にダイブしていく音が聞こえた。
……ああ、もったいないな。こんな時でも育ち盛りの腹は減ってしまう。父が帰ってくる前にリビングから掠めとった食パン一つ、どうやら今日はこれが私の夕食らしい。
空腹にあらがうことなく、ジャムも何もついていないパンを口に入れる。賞味期限ぎりぎりのパサパサとした物体に味はない。ただ腹を満たすために、それだけのために私は食べる。一口、また一口と……。
まとわりつく叫び声と諸々の感情とともに、パンが私の中へと消えていく。私の胃に、腸に、汚泥の様に積み上がっていく。
そうして私の血や肉となり、いずれは私自身になっていくのだろう。
パンを涙で塩辛くさせることも出来ない私に、体ごと作りかえていくのだ。
諦念 百鳥 @momotori100
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